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1巻
1-2
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◇
『明日の金曜日の夜、時間を取れるかな? レストランを予約したんだ。どうしても君に会いたい』
婚約者の鈴木浩介から連絡が来たのは、二月下旬のこと。
この時、美弦は十日間の長期出張を終えて東京に戻る新幹線の中にいた。
(浩介には会いたいけど、どうしよう)
明日のスケジュールはこれでもかというほどぎっしり詰まっている。
出張の報告書も仕上げなければならないし、会社を空けていた期間に溜まった事務仕事もしたい。優雅にディナーを楽しんでいる余裕などないのが実情だ。
フランチャイズ部門の営業職として東京を拠点に日々全国を飛び回っている美弦は、月の三分の一は地方で過ごしていると言っても過言ではなく、自宅には寝に帰るような生活を送っていた。
主な仕事は、地方ホテルのオーナーに御影ホテルへのフランチャイズ加盟を提案、契約することだ。御影ホテルはビジネスホテルの運営を主としており、その数は国内で八百、北米に五十と国内外に幅広く展開している。
それ以外にもマンションやリゾートの都市開発や不動産など、事業内容は多岐にわたり、親会社である御影ホールディングスを筆頭に、国内外に数十の関連会社を持つ大企業である。
国内には個人経営のホテルが数多存在するが、経営に苦しむオーナーは少なくない。その原因は、立地を活かせていなかったり、集客方法に悩んでいたり……とホテルによって様々だ。美弦はそうしたホテルのオーナーに、「御影ホテルとフランチャイズ契約することで、それらを改善しませんか」と提案している。
契約することで御影ホテルは自社の名前やブランド力、運営マニュアルをオーナーに提供する。対してオーナーはそれらを利用して集客アップを目指し、決まったロイヤリティを御影ホテルに支払うのだ。
そして美弦の仕事は「契約して終わり」ではなく、契約したホテルの開業に一から立ち合うこともある。
営業部に配属されるまでの二年間は、ホテルで接客業にあたっていた。
その時の経験や御影ホテルで学んだ運営のノウハウをもとに、フランチャイズ先のホテルの事業がうまくいくようサポートしている。
難しい仕事ではあるが、頑張った結果がそのまま給与に反映されるので、やりがいはあった。
なぜなら、自分には稼がなければならない理由がある。弟の亮太の学費のためだ。
美弦に父親はいない。小学生の頃、他に女を作って出て行ったのだ。
その結果、両親は離婚し、看護師の母が美弦と十歳年下の亮太を女手一つで育ててくれた。
亮太は現在高校三年生で、これから進学などでお金がかかってくる年齢である。
母もまだまだ現役で働いているけれど、若い頃に苦労した分、これからは自分の生活を大切にしてほしい。それもあり、美弦は給料の大半を実家に仕送りしていた。
自炊で節約しているのもそのためだ。全ては女手一つで美弦を大学まで行かせてくれた母への感謝の気持ちと弟の学費のため。
仕送り分以外の給与は家賃や生活費、美容代、そして月に一度の飲み代でほぼ消える。おかげで貯蓄に回す余裕はほとんどないものの、お金は弟の卒業後に貯め始めればいい。
そんな切り詰めた生活の中でも、美容にお金を使うのは仕事のためでもある。
辛くて泣きそうになった時、鏡に映った自分の姿が美しいと「もう少し頑張ろう」と思える。ふとした瞬間に整ったネイルが視界に入ると気分が上がる。
前向きな気持ちになればもっと頑張ろうと思えるし、巡り巡って結局は自分のためになる。
美弦は家族や自分のために仕事を頑張り、綺麗でいようとする自分が好きだ。
しかし世の中にはそんな美弦を面白く思わない人がいるらしい。
背中まで伸ばした黒髪をふんわりと巻いて、下品にならない程度に体の線が綺麗に出る服を着る。ヒールは最低でも七センチ以上。
それが本社に出勤する時の美弦の基本スタイルだ。
けれど、社内の人間――特に女性社員の目には、「お高く止まっている」と見えるようで、陰口を叩かれることも少なくない。百六十七センチの身長や、どちらかというときつい顔立ちが余計にそう見せているのかもしれない。
でも美弦は構わなかった。好かれるに越したことはないけれど、会社にはお友達を作りに行っているわけではない。美弦を信頼して仕事を任せてくれる上司もいるし、親しい同僚もいる。
何より浩介の存在が大きかった。
最近は美弦が多忙だったこともあり、この半年は月に一度会えればいいくらい。
それでも浩介は怒るどころか文句一つ言わず、「仕事を頑張る美弦が好きなんだ」と、応援して、プロポーズまでしてくれた。
――そんな浩介が「会いたい」と言っている。
もしかしたら口に出さなかっただけで、寂しい思いをしていたのかもしれない。
(もう一ヶ月以上会っていないし、そろそろ両家の顔合わせの相談もしないと。浩介の話もそのことかな?)
恋人から婚約者になって嬉しかったことは大きく二つある。
一つは、将来を共にする存在ができたこと。
もう一つは、母に結婚の報告ができたことだ。
母は、父と離婚したことを後ろめたく思っている節がある。
美弦はそんなこと全く思っていないし、不倫する父親なんて必要ないと本気で思っているけれど、母はそうではなかったらしい。
だからこそ美弦が「結婚を考えている人がいる」と話した時、母はとても喜んでくれた。
『母さんは結婚に失敗しちゃったけど、美弦は幸せになってね』
そう言って電話口で泣きながら祝福してくれた。
そんな母に、少しだけ親孝行ができた気がして嬉しかったのだ。
(それも浩介のおかげよね)
悩んだ末、美弦は婚約者の誘いを受け入れた。休日出勤になるのは間違いないけれど、それでも浩介に会いたい気持ちの方が大きかったから。
――なのに、当日待ち合わせしたレストランに行くと、浩介の隣には見知らぬ女がいた。
年齢は多分二十歳くらい。焦茶色の髪をふんわりと巻いた素朴な顔立ちの女の子だ。まだあどけなさの残るその顔は、どう見ても美弦よりずっと年下だ。
(大学生? それとも浩介の後輩とか……?)
初めはそう思ったが、近くで見てすぐにその可能性は消えた。
彼女の身につけているもの全てがハイブランド品だったのだ。
後輩というより、むしろ取引先の社長令嬢と言われた方がよほどしっくりくる。
いずれにせよ、久しぶりのデートに見知らぬ他人を同席させるなんて……しかも隣に座らせるなんて感心しない。
「浩介」
美弦は戸惑いながら恋人のもとに向かい、対面の席に腰を下ろした。
「はじめまして、一条美弦さん。私は園田桜子と言います」
真っ先に口を開いたのは桜子と名乗った見知らぬ女。いきなりそうくるとは思わず面食らう美弦に、彼女は続けて言い放つ。
「突然のことで驚かれるとは思いますが、浩介さんと別れてくださいませんか? 彼は今、私とお付き合いしているんです」
「……どういうこと?」
突然すぎる申し出に唖然とする美弦に、桜子はにこりと笑う。
「そのままの意味です。何も難しいことは言ってませんが、もしかして日本語が不自由とか? そうとは知らずに失礼しました」
完全にこちらを小馬鹿にした言い方に、美弦は無言で眉を寄せる。
(勘弁してよ)
頭が痛い。話を聞かなくとも面倒なことになりそうな予感がひしひしとする。美弦は対面で俯いている恋人に視線を向けた。
「……浩介。どういうことなのか説明してくれる?」
「ですから、今私がお話ししたように――」
「桜子さんと言ったわね。私は今、浩介と話しているの。あなたには聞いていないわ」
桜子が口を挟もうとするのをぴしゃりと遮る。
冷たく厳しい物言いに桜子は反論しようと口を開きかけたが、美弦はそれを視線で黙らせた。幼い頃から『目力が強い』と言われる美弦の眼力に、桜子は怯えたように肩をすくませると「怖い」と浩介の肩に身を寄せる。
「っ……!」
――浩介から離れて。
言いかけた言葉を呑み込んだのは、今ここで明らかに年下の桜子相手に怒鳴ったら、周囲の目に自分がどう映るか予想がついたから。
事実はどうあれ、長身の美弦と小柄で華奢な桜子とでは、どうしたって美弦が弱い者いじめをしているように見えるに違いない。
(浩介もどうして振り払わないの)
鼓動が一気に速くなって心臓が痛い。けれどそんな内心に気づかれないよう、美弦は深呼吸して無理矢理気持ちを落ち着かせると、今一度恋人に問いかけた。
「浩介。黙っていたらわからないわ」
先ほどより語気を強めて呼ぶと、浩介は俯いたままか細い声で答えた。
「ごめん、美弦。僕と桜子さんは先月から付き合ってる。……結婚を前提に」
「は……?」
(結婚?)
――意味がわからなかった。
頭から冷水をかけられたような感覚に陥る。怒りよりも悲しみよりも、浩介の言ったことが理解できず、混乱して思考が止まる。
「……何を言ってるの。だって、私たち婚約してるのよ。クリスマスイブにプロポーズしてくれたわよね? お互いの親と顔合わせをしようって話もしたじゃない」
「それは……ごめん。なかったことにしてほしい」
「突然そんなこと言われて『はいそうですか』なんて言えるわけないでしょ⁉ どういうことなのかちゃんと説明して!」
「ですから、浩介さんがお話した通りです! 私たち、結婚するんです。もうお互いの両親には紹介済みですし、式場のリストアップも始めています。ちなみに私の父は、浩介さんの勤め先であるA銀行の頭取です。私とあなた、どちらと結婚すれば彼の未来が明るいのか、言わなくてもわかりますよね」
先ほど黙らされたのが悔しかったのか、またも桜子が口を挟む。けれど今度は、美弦はそれを止めなかった。衝撃が強すぎたのだ。
美弦が黙ったのを好機と捉えたのか、桜子は自分と浩介の出会いを饒舌に語り始めた。
二人が出会ったのは、年が明けてすぐ。つまり、浩介が美弦にプロポーズして間もない頃だ。
当時大学四年生の桜子は、初めて参加した合コンで浩介と出会い、その人柄に惹かれた。初めは「恋人がいるから」と振られたけれど、どうしても浩介のことを諦めきれずに想いを伝え続けた結果、結ばれた――
「初めは浩介さんとの結婚を反対していた父も、『浩介さん以外の男の人とは一生結婚するつもりはない』と言ったら認めてくれました。それくらい、私は彼のことを愛しているんです」
自分がいかに浩介を想っているのか、聞いてもいないのに桜子は揚々と語る。
それを聞けば聞くほど、美弦の心は冷えていった。
(……合コンって、何よ)
自分という婚約者がいながら、なぜそんな場に行くのか。
突っ込みどころがあまりに多すぎて言葉が出ない。
「浩介さんは、あなたと一緒にいると息が詰まるんですって。『美弦といると劣等感を感じてしまう』と話していました。初めは意味がわからなかったけど、今日あなたに会ってその意味がわかりました。一条美弦さん。あなた、完璧すぎるんです」
「……完璧?」
だってそうでしょ、と桜子は吐き捨てる。
「美人で、モデルみたいにスタイルがよくて、髪もサラサラ、ネイルもバッチリ。勤め先は一流企業の御影ホテルなんて、絵に描いたようなキャリアウーマンだわ。収入だって同世代の男性よりも多いですよね? ここまで揃うと一緒にいる男の人はどうしたって自分と比較します。あなたという存在がいるだけで浩介さんを苦しめているんです。実際、あなたたち、もうずっとセックスしていないそうじゃないですか」
「――っ!」
「でも、私は違う。……意味は、言わなくてもわかりますよね?」
(聞きたくない)
もう黙って、静かにして。
――今すぐ耳を塞いで、この場から逃げ出したい。
浩介とセックスレス状態が続いていたのは、事実だった。
だがどうしてそれを赤の他人に指摘されなければならないのか。
無神経な桜子と、そんなことを第三者に話した浩介への怒りで指先が震える。
「浩介」
美弦は声を荒らげそうになる自分をなんとか抑えると、俯いたままの恋人を今一度見据えた。
「今の話は本当なの?」
「ごめん」
「謝罪じゃなくて説明をして。今日私に話したかったことって、別れ話?」
「……本当にごめん、美弦」
そう言ったきり、また彼は黙り込んだ。その姿に美弦の怒りは極限に達した。
「――いい加減、顔を上げたらどうなの」
自分でも信じられないくらい冷たい声だった。それに驚いたのか、浩介は弾かれたように顔を上げる。今日初めて正面から見たその顔はひどく青ざめていて、どちらが被害者だかわからない。
(どうしてあなたがそんな顔をするの)
彼がこちらを見たのは一瞬で、すぐにまた下を向く。それがいっそう美弦を苛立たせた。
「自分よりずっと年下の女の子に全て言わせて、自分は黙り込んでるなんて情けない。三十歳の男の行動とは、とても思えないわ」
冷ややかに言い捨てる。これに浩介は悲しそうな顔をするが、やはり何も言い返さない。その姿に改めて心の底から情けなく思った。
『美弦以外に好きな人ができた。だから別れよう』
本人の口からはっきり言われたのなら、怒ることも悲しむこともできる。でもこんな風に浮気相手に――しかも自分よりずっと年下の、愛されている自信に満ち溢れた女に言われては、皮肉を返すくらいしかできない。
本当にこれで全てを終わらせるつもりなのか。自分は殻に閉じこもって、他人に全てを語らせて。
浩介にとって、美弦と過ごした四年間はそんなにも簡単なものだったのか。
(せめて私の顔を見なさいよっ……!)
たまらず拳を強く握って浩介を睨む。けれどこれに反応したのは桜子だった。
「ですから! あなたのそういう性格が浩介さんを追い詰めたんじゃないんですか⁉」
彼女は自分が責められたとばかりに眉を吊り上げ、怒りを露わにする。こちらを責める姿はまるで毛を逆立てた猫のようだ。
他人の性事情をあけすけに話したり、非難したり、かと思えば怒鳴り散らすなんて、どこまで非常識な子だろう。
こんなに失礼な人間には会ったことがない。
けれど、桜子の純粋なほどまっすぐな怒りに美弦は悟った。
――この子は、本当に浩介のことが好きなんだ。
大手銀行の頭取の娘。ならば桜子は正真正銘のお嬢様だ。ハイブランドばかり身につけているのも納得がいく。一会社員である浩介との立場の差はあるが、それを父親に認めさせるほど浩介を愛していると言い切った桜子。
(じゃあ、私は?)
恋人を奪われた屈辱や怒りはある。けれど今ここで、「浩介の恋人は私だ」「彼は渡さない」なんて言い返すほどの強い気持ちは……既に美弦にはなかった。
ここにきてもなお、俯いて黙ったままの浩介の姿を見ればなおさらだ。
(……なんだ。もうとっくに私たちは終わっていたんだ)
そうわかっても、やはり四年間付き合った恋人に裏切られたのは……辛くて悲しい。本当は大声を上げて泣きたい。私の四年間を返してと浩介を責めて、詰りたい。
でもそんなことはしない。少なくとも桜子の前でそんな惨めな姿なんて絶対に見せたくなかった。
「――もういいわ」
だから、美弦は笑った。
「最後まで女性の陰に隠れて何も言えないような意気地のない男、私の方から願い下げよ。お望み通り婚約破棄してあげる。慰謝料はいらないわ。そのかわり金輪際、私に連絡してこないで」
『美弦の笑った顔、好きだな。自信に満ちていてすごく綺麗だ』
かつて浩介がそう褒めてくれた時と同じように、口角を上げる。そして自分が最も美しく見える笑みを湛えて二人を正面から見据えた。
「腑抜け男と略奪女。あなたたち、とってもお似合いよ」
どうぞお幸せに。
そう言って立ち上がり背を向けた時だった。
「美弦っ……!」
背中に届いたのは、まるで引き止めるみたいな浩介の声。
耳に馴染んだ元恋人の声に胸を掴まれるような気がしたけれど、美弦は振り返らなかった。今はただ、一秒でも早く二人の前から立ち去りたい。
――絶対に、涙なんか見せたくなかったから。
◇
「それから今日まではもう散々。私を面白く思っていない子たちには、あることないこと陰口を言われたり、男性社員にもやけにじろじろ見られるし」
婚約破棄直後で凹んでいる時、営業事務の女の子に「どうしたんですか?」と聞かれ、つい婚約破棄されたことを話してしまった。それがいけなかった。
次の日には社内中に噂が駆け巡り、一ヶ月経った今では話したこともない社員から同情や好奇の視線を向けられる始末だ。しかも、噂の種類は多岐にわたる。
怒った美弦が婚約者をボコボコに殴ったというものがあれば、「別れたくない」と泣いてすがったというものもある。『婚約破棄された惨めなアラサー女』と悪意を持って陰口を叩く人がいるのも耳に入ってきている。
「針の筵って、こういうことを言うのね」
「それはどうだろう。針の筵って言うより、期待の表れじゃないか? 男連中はきっと、フリーになった君を狙っているはずだ。いつも以上に見られている気がするのは、そのせいだと思うけど」
「……そんなことないわ。私を好きになってくれる人なんて、いるはずない」
今の美弦はかつてなく自信を喪失している。
自分と真逆のタイプの、ずっと年下の女の子に婚約者を奪われて、自信なんか持てるはずがない。けれど返ってきたのは、またも意外な言葉だった。
「君は十分すぎるくらい魅力的だ」
ストレートな褒め言葉、そして真摯にこちらを見据える瞳に心を貫かれる。
「っ……あ、ありがとう」
不覚にも胸が高鳴った。酔いとは違う意味で鼓動が速まる。
「魅力的」と言った時の声の響きがとても真剣だったからだ。
今の今まで元婚約者を想って凹んでいたのに、別の男性相手にときめくなんて。けれどこれは不可抗力だと思う。目の前の男ほどの美丈夫かつ美声の持ち主からこんな風に自身を肯定され、褒められて、心が揺れないはずがないのだ。
でもこれは、浩介に対して抱いていた感情とは全くの別物だ。
憧れていた芸能人に遭遇してドキドキしているのと変わらない。
――もしかしたら自分は、死ぬまで独身かもしれない。
本気でそんなことを考える。
「……私のことを好きじゃなくてもいいから、誰か結婚してくれないかしら」
自虐まじりにそうこぼす。
「相手を問わないくらい結婚に憧れているのか?」
「そういうわけじゃないけど……ただ、母を悲しませたくないの」
母の離婚理由は夫の不倫。それに傷つき、「娘には幸せになってほしい」と願う彼女に「自分も同じ理由で婚約破棄になった」なんて口が裂けても言えない。
正直に話したら母は美弦を慰め、励ましてくれるだろう。
でも態度には出さなくとも、ガッカリさせてしまうのは間違いない。
不幸中の幸いは、「結婚を考えている人がいる」と伝えただけであること。名前を伝えたり、実際に会わせていたりしたら、母の落胆は増していただろうから。
「ちなみに、今の君が結婚相手に求める条件は?」
「……私を裏切らないこと」
意外だったのか恭平が目を見開く。その気持ちはわかるけれど、これが本音だ。
二股された挙句に振られるなんて経験は、もう二度としたくない。
「仕事やプライベートに干渉されるのも困るわ」
これではただの同居人だ。しかし浩介は違った。彼となら一緒に歩んでいけると思ったのに。
「……何がいけなかったのかな」
そう小さくこぼした美弦は残ったビールを飲む。
「節約していること? 仕事に熱中しすぎたこと? それとも派手に着飾ったり、美容にお金をかけていること?」
仕方ないじゃない、と美弦は囁くように口にする。
「全部含めて、私なんだから」
恭平に話し始める前は「私は悪くない!」と息巻いていた。けれど、改めて振られた事実を言葉にすると、惨めでたまらなくなる。
(……話すんじゃなかった)
恭平の優しさについ甘えてしまったけれど、酔っ払い女の失恋話なんて面白いはずがない。
(きっとこの人も呆れてるに決まってる)
そう思うと彼の反応が怖くて顔を上げられない。
仕事モードで気を張っている時は我慢できる。でも心が緩んでいる今、同情や好奇の目で見られたら、今度こそ泣いてしまう気がした。
「頑張ったな」
そんな美弦に返ってきたのは、薄っぺらい慰めや励ましではない、自分を肯定する言葉。驚いた美弦は弾かれたように恭平を見て、驚いた。
穏やかな茶色の瞳にあるのは同情ではなく、見守るような優しさだったのだ。
「頑張ったって……私が?」
違う。そんなことない。
だって自分は、勝ち誇る桜子に対して虚勢を張ることしかできなかった惨めな負け犬だ。けれど恭平は、そんな美弦の考えを根本から吹き飛ばす。
「一生懸命働いて、実家に仕送りをして、綺麗でいようと努力する。君はこれ以上ないほど頑張ってるよ。それに倹約家なんて素敵じゃないか。無駄遣いするよりずっといい。使うべきところに使って締めるところは締める。お金の使い方が上手な証拠だ」
桜子が欠点と指摘したことを、恭平は全て美点だと言ってくれた。
まさかこんな言葉をかけてもらえるとは思わず、不意に涙が溢れる。
「っ……やだ、ごめんなさい」
酔って絡んだ挙句に泣くなんて、迷惑この上ない。すぐに泣きやまなければと思うのに、高ぶった感情はそう簡単に治まらなかった。
――だって、嬉しかったのだ。
自分に「頑張った」なんて言ってくれたのは、恭平だけだったから。
婚約破棄以降、美弦はずっと気を張り詰めていた。
浩介のことを思い出さないよう仕事に打ち込んだ。けれど完全に忘れるなんてもちろん無理で、ミスをしたり、あることないこと噂されたりした。
そんな心身共に限界だった美弦にとって、恭平の言葉はまるで乾いた砂漠に不意に降った慈雨のように優しく染み渡る。
「我慢しなくていい。自分の気持ちを無理に抑え込まなくていいんだ。恋人に裏切られて何も思わない人間なんていない。悔しい、辛い、悲しい……そう思うのは当然の感情だ」
「あ……」
目尻から溢れる涙を恭平の指が優しく拭う。
「だから今は思う存分泣いて、怒ればいい。美味しいものをたくさん食べて、たくさん眠って。そうすればいつか彼のことを忘れられる日がきっとくる。その時の君は、今以上に素敵な女性になっているはずだ」
そう言って微笑む彼はとろけるように優しい顔をしていて、不意に美弦は思った。
「……あなたみたいな人と結婚する女性は、きっと幸せね」
出会ったばかりの、下の名前しか知らない他人。それでもわかる。
恭平は優しい人だ。見目麗しくて、誠実で、優しい。
彼のような男性はどんな女性を愛するのだろう。
素直で、可愛くて、可憐な子だろうか。少なくとも、酒の力を借りないと涙も流せない意地っ張りな自分のような女性ではないはずだ。
「じゃあ、俺とする?」
「するって、何を?」
目を見張る美弦の耳元に恭平が顔を寄せる。
「――結婚」
背筋が震えるほどの色気を纏った声で、恭平は囁いた。
熱い吐息が耳にかかり、美弦は反射的に立ち上がる。だが酔った体がそれについていけず、足がもつれて視界がぐらりと揺らぐ。けれど倒れる前に、さっと恭平の腕が腰に回り、美弦を椅子に座らせてくれた。
「あのっ……!」
『明日の金曜日の夜、時間を取れるかな? レストランを予約したんだ。どうしても君に会いたい』
婚約者の鈴木浩介から連絡が来たのは、二月下旬のこと。
この時、美弦は十日間の長期出張を終えて東京に戻る新幹線の中にいた。
(浩介には会いたいけど、どうしよう)
明日のスケジュールはこれでもかというほどぎっしり詰まっている。
出張の報告書も仕上げなければならないし、会社を空けていた期間に溜まった事務仕事もしたい。優雅にディナーを楽しんでいる余裕などないのが実情だ。
フランチャイズ部門の営業職として東京を拠点に日々全国を飛び回っている美弦は、月の三分の一は地方で過ごしていると言っても過言ではなく、自宅には寝に帰るような生活を送っていた。
主な仕事は、地方ホテルのオーナーに御影ホテルへのフランチャイズ加盟を提案、契約することだ。御影ホテルはビジネスホテルの運営を主としており、その数は国内で八百、北米に五十と国内外に幅広く展開している。
それ以外にもマンションやリゾートの都市開発や不動産など、事業内容は多岐にわたり、親会社である御影ホールディングスを筆頭に、国内外に数十の関連会社を持つ大企業である。
国内には個人経営のホテルが数多存在するが、経営に苦しむオーナーは少なくない。その原因は、立地を活かせていなかったり、集客方法に悩んでいたり……とホテルによって様々だ。美弦はそうしたホテルのオーナーに、「御影ホテルとフランチャイズ契約することで、それらを改善しませんか」と提案している。
契約することで御影ホテルは自社の名前やブランド力、運営マニュアルをオーナーに提供する。対してオーナーはそれらを利用して集客アップを目指し、決まったロイヤリティを御影ホテルに支払うのだ。
そして美弦の仕事は「契約して終わり」ではなく、契約したホテルの開業に一から立ち合うこともある。
営業部に配属されるまでの二年間は、ホテルで接客業にあたっていた。
その時の経験や御影ホテルで学んだ運営のノウハウをもとに、フランチャイズ先のホテルの事業がうまくいくようサポートしている。
難しい仕事ではあるが、頑張った結果がそのまま給与に反映されるので、やりがいはあった。
なぜなら、自分には稼がなければならない理由がある。弟の亮太の学費のためだ。
美弦に父親はいない。小学生の頃、他に女を作って出て行ったのだ。
その結果、両親は離婚し、看護師の母が美弦と十歳年下の亮太を女手一つで育ててくれた。
亮太は現在高校三年生で、これから進学などでお金がかかってくる年齢である。
母もまだまだ現役で働いているけれど、若い頃に苦労した分、これからは自分の生活を大切にしてほしい。それもあり、美弦は給料の大半を実家に仕送りしていた。
自炊で節約しているのもそのためだ。全ては女手一つで美弦を大学まで行かせてくれた母への感謝の気持ちと弟の学費のため。
仕送り分以外の給与は家賃や生活費、美容代、そして月に一度の飲み代でほぼ消える。おかげで貯蓄に回す余裕はほとんどないものの、お金は弟の卒業後に貯め始めればいい。
そんな切り詰めた生活の中でも、美容にお金を使うのは仕事のためでもある。
辛くて泣きそうになった時、鏡に映った自分の姿が美しいと「もう少し頑張ろう」と思える。ふとした瞬間に整ったネイルが視界に入ると気分が上がる。
前向きな気持ちになればもっと頑張ろうと思えるし、巡り巡って結局は自分のためになる。
美弦は家族や自分のために仕事を頑張り、綺麗でいようとする自分が好きだ。
しかし世の中にはそんな美弦を面白く思わない人がいるらしい。
背中まで伸ばした黒髪をふんわりと巻いて、下品にならない程度に体の線が綺麗に出る服を着る。ヒールは最低でも七センチ以上。
それが本社に出勤する時の美弦の基本スタイルだ。
けれど、社内の人間――特に女性社員の目には、「お高く止まっている」と見えるようで、陰口を叩かれることも少なくない。百六十七センチの身長や、どちらかというときつい顔立ちが余計にそう見せているのかもしれない。
でも美弦は構わなかった。好かれるに越したことはないけれど、会社にはお友達を作りに行っているわけではない。美弦を信頼して仕事を任せてくれる上司もいるし、親しい同僚もいる。
何より浩介の存在が大きかった。
最近は美弦が多忙だったこともあり、この半年は月に一度会えればいいくらい。
それでも浩介は怒るどころか文句一つ言わず、「仕事を頑張る美弦が好きなんだ」と、応援して、プロポーズまでしてくれた。
――そんな浩介が「会いたい」と言っている。
もしかしたら口に出さなかっただけで、寂しい思いをしていたのかもしれない。
(もう一ヶ月以上会っていないし、そろそろ両家の顔合わせの相談もしないと。浩介の話もそのことかな?)
恋人から婚約者になって嬉しかったことは大きく二つある。
一つは、将来を共にする存在ができたこと。
もう一つは、母に結婚の報告ができたことだ。
母は、父と離婚したことを後ろめたく思っている節がある。
美弦はそんなこと全く思っていないし、不倫する父親なんて必要ないと本気で思っているけれど、母はそうではなかったらしい。
だからこそ美弦が「結婚を考えている人がいる」と話した時、母はとても喜んでくれた。
『母さんは結婚に失敗しちゃったけど、美弦は幸せになってね』
そう言って電話口で泣きながら祝福してくれた。
そんな母に、少しだけ親孝行ができた気がして嬉しかったのだ。
(それも浩介のおかげよね)
悩んだ末、美弦は婚約者の誘いを受け入れた。休日出勤になるのは間違いないけれど、それでも浩介に会いたい気持ちの方が大きかったから。
――なのに、当日待ち合わせしたレストランに行くと、浩介の隣には見知らぬ女がいた。
年齢は多分二十歳くらい。焦茶色の髪をふんわりと巻いた素朴な顔立ちの女の子だ。まだあどけなさの残るその顔は、どう見ても美弦よりずっと年下だ。
(大学生? それとも浩介の後輩とか……?)
初めはそう思ったが、近くで見てすぐにその可能性は消えた。
彼女の身につけているもの全てがハイブランド品だったのだ。
後輩というより、むしろ取引先の社長令嬢と言われた方がよほどしっくりくる。
いずれにせよ、久しぶりのデートに見知らぬ他人を同席させるなんて……しかも隣に座らせるなんて感心しない。
「浩介」
美弦は戸惑いながら恋人のもとに向かい、対面の席に腰を下ろした。
「はじめまして、一条美弦さん。私は園田桜子と言います」
真っ先に口を開いたのは桜子と名乗った見知らぬ女。いきなりそうくるとは思わず面食らう美弦に、彼女は続けて言い放つ。
「突然のことで驚かれるとは思いますが、浩介さんと別れてくださいませんか? 彼は今、私とお付き合いしているんです」
「……どういうこと?」
突然すぎる申し出に唖然とする美弦に、桜子はにこりと笑う。
「そのままの意味です。何も難しいことは言ってませんが、もしかして日本語が不自由とか? そうとは知らずに失礼しました」
完全にこちらを小馬鹿にした言い方に、美弦は無言で眉を寄せる。
(勘弁してよ)
頭が痛い。話を聞かなくとも面倒なことになりそうな予感がひしひしとする。美弦は対面で俯いている恋人に視線を向けた。
「……浩介。どういうことなのか説明してくれる?」
「ですから、今私がお話ししたように――」
「桜子さんと言ったわね。私は今、浩介と話しているの。あなたには聞いていないわ」
桜子が口を挟もうとするのをぴしゃりと遮る。
冷たく厳しい物言いに桜子は反論しようと口を開きかけたが、美弦はそれを視線で黙らせた。幼い頃から『目力が強い』と言われる美弦の眼力に、桜子は怯えたように肩をすくませると「怖い」と浩介の肩に身を寄せる。
「っ……!」
――浩介から離れて。
言いかけた言葉を呑み込んだのは、今ここで明らかに年下の桜子相手に怒鳴ったら、周囲の目に自分がどう映るか予想がついたから。
事実はどうあれ、長身の美弦と小柄で華奢な桜子とでは、どうしたって美弦が弱い者いじめをしているように見えるに違いない。
(浩介もどうして振り払わないの)
鼓動が一気に速くなって心臓が痛い。けれどそんな内心に気づかれないよう、美弦は深呼吸して無理矢理気持ちを落ち着かせると、今一度恋人に問いかけた。
「浩介。黙っていたらわからないわ」
先ほどより語気を強めて呼ぶと、浩介は俯いたままか細い声で答えた。
「ごめん、美弦。僕と桜子さんは先月から付き合ってる。……結婚を前提に」
「は……?」
(結婚?)
――意味がわからなかった。
頭から冷水をかけられたような感覚に陥る。怒りよりも悲しみよりも、浩介の言ったことが理解できず、混乱して思考が止まる。
「……何を言ってるの。だって、私たち婚約してるのよ。クリスマスイブにプロポーズしてくれたわよね? お互いの親と顔合わせをしようって話もしたじゃない」
「それは……ごめん。なかったことにしてほしい」
「突然そんなこと言われて『はいそうですか』なんて言えるわけないでしょ⁉ どういうことなのかちゃんと説明して!」
「ですから、浩介さんがお話した通りです! 私たち、結婚するんです。もうお互いの両親には紹介済みですし、式場のリストアップも始めています。ちなみに私の父は、浩介さんの勤め先であるA銀行の頭取です。私とあなた、どちらと結婚すれば彼の未来が明るいのか、言わなくてもわかりますよね」
先ほど黙らされたのが悔しかったのか、またも桜子が口を挟む。けれど今度は、美弦はそれを止めなかった。衝撃が強すぎたのだ。
美弦が黙ったのを好機と捉えたのか、桜子は自分と浩介の出会いを饒舌に語り始めた。
二人が出会ったのは、年が明けてすぐ。つまり、浩介が美弦にプロポーズして間もない頃だ。
当時大学四年生の桜子は、初めて参加した合コンで浩介と出会い、その人柄に惹かれた。初めは「恋人がいるから」と振られたけれど、どうしても浩介のことを諦めきれずに想いを伝え続けた結果、結ばれた――
「初めは浩介さんとの結婚を反対していた父も、『浩介さん以外の男の人とは一生結婚するつもりはない』と言ったら認めてくれました。それくらい、私は彼のことを愛しているんです」
自分がいかに浩介を想っているのか、聞いてもいないのに桜子は揚々と語る。
それを聞けば聞くほど、美弦の心は冷えていった。
(……合コンって、何よ)
自分という婚約者がいながら、なぜそんな場に行くのか。
突っ込みどころがあまりに多すぎて言葉が出ない。
「浩介さんは、あなたと一緒にいると息が詰まるんですって。『美弦といると劣等感を感じてしまう』と話していました。初めは意味がわからなかったけど、今日あなたに会ってその意味がわかりました。一条美弦さん。あなた、完璧すぎるんです」
「……完璧?」
だってそうでしょ、と桜子は吐き捨てる。
「美人で、モデルみたいにスタイルがよくて、髪もサラサラ、ネイルもバッチリ。勤め先は一流企業の御影ホテルなんて、絵に描いたようなキャリアウーマンだわ。収入だって同世代の男性よりも多いですよね? ここまで揃うと一緒にいる男の人はどうしたって自分と比較します。あなたという存在がいるだけで浩介さんを苦しめているんです。実際、あなたたち、もうずっとセックスしていないそうじゃないですか」
「――っ!」
「でも、私は違う。……意味は、言わなくてもわかりますよね?」
(聞きたくない)
もう黙って、静かにして。
――今すぐ耳を塞いで、この場から逃げ出したい。
浩介とセックスレス状態が続いていたのは、事実だった。
だがどうしてそれを赤の他人に指摘されなければならないのか。
無神経な桜子と、そんなことを第三者に話した浩介への怒りで指先が震える。
「浩介」
美弦は声を荒らげそうになる自分をなんとか抑えると、俯いたままの恋人を今一度見据えた。
「今の話は本当なの?」
「ごめん」
「謝罪じゃなくて説明をして。今日私に話したかったことって、別れ話?」
「……本当にごめん、美弦」
そう言ったきり、また彼は黙り込んだ。その姿に美弦の怒りは極限に達した。
「――いい加減、顔を上げたらどうなの」
自分でも信じられないくらい冷たい声だった。それに驚いたのか、浩介は弾かれたように顔を上げる。今日初めて正面から見たその顔はひどく青ざめていて、どちらが被害者だかわからない。
(どうしてあなたがそんな顔をするの)
彼がこちらを見たのは一瞬で、すぐにまた下を向く。それがいっそう美弦を苛立たせた。
「自分よりずっと年下の女の子に全て言わせて、自分は黙り込んでるなんて情けない。三十歳の男の行動とは、とても思えないわ」
冷ややかに言い捨てる。これに浩介は悲しそうな顔をするが、やはり何も言い返さない。その姿に改めて心の底から情けなく思った。
『美弦以外に好きな人ができた。だから別れよう』
本人の口からはっきり言われたのなら、怒ることも悲しむこともできる。でもこんな風に浮気相手に――しかも自分よりずっと年下の、愛されている自信に満ち溢れた女に言われては、皮肉を返すくらいしかできない。
本当にこれで全てを終わらせるつもりなのか。自分は殻に閉じこもって、他人に全てを語らせて。
浩介にとって、美弦と過ごした四年間はそんなにも簡単なものだったのか。
(せめて私の顔を見なさいよっ……!)
たまらず拳を強く握って浩介を睨む。けれどこれに反応したのは桜子だった。
「ですから! あなたのそういう性格が浩介さんを追い詰めたんじゃないんですか⁉」
彼女は自分が責められたとばかりに眉を吊り上げ、怒りを露わにする。こちらを責める姿はまるで毛を逆立てた猫のようだ。
他人の性事情をあけすけに話したり、非難したり、かと思えば怒鳴り散らすなんて、どこまで非常識な子だろう。
こんなに失礼な人間には会ったことがない。
けれど、桜子の純粋なほどまっすぐな怒りに美弦は悟った。
――この子は、本当に浩介のことが好きなんだ。
大手銀行の頭取の娘。ならば桜子は正真正銘のお嬢様だ。ハイブランドばかり身につけているのも納得がいく。一会社員である浩介との立場の差はあるが、それを父親に認めさせるほど浩介を愛していると言い切った桜子。
(じゃあ、私は?)
恋人を奪われた屈辱や怒りはある。けれど今ここで、「浩介の恋人は私だ」「彼は渡さない」なんて言い返すほどの強い気持ちは……既に美弦にはなかった。
ここにきてもなお、俯いて黙ったままの浩介の姿を見ればなおさらだ。
(……なんだ。もうとっくに私たちは終わっていたんだ)
そうわかっても、やはり四年間付き合った恋人に裏切られたのは……辛くて悲しい。本当は大声を上げて泣きたい。私の四年間を返してと浩介を責めて、詰りたい。
でもそんなことはしない。少なくとも桜子の前でそんな惨めな姿なんて絶対に見せたくなかった。
「――もういいわ」
だから、美弦は笑った。
「最後まで女性の陰に隠れて何も言えないような意気地のない男、私の方から願い下げよ。お望み通り婚約破棄してあげる。慰謝料はいらないわ。そのかわり金輪際、私に連絡してこないで」
『美弦の笑った顔、好きだな。自信に満ちていてすごく綺麗だ』
かつて浩介がそう褒めてくれた時と同じように、口角を上げる。そして自分が最も美しく見える笑みを湛えて二人を正面から見据えた。
「腑抜け男と略奪女。あなたたち、とってもお似合いよ」
どうぞお幸せに。
そう言って立ち上がり背を向けた時だった。
「美弦っ……!」
背中に届いたのは、まるで引き止めるみたいな浩介の声。
耳に馴染んだ元恋人の声に胸を掴まれるような気がしたけれど、美弦は振り返らなかった。今はただ、一秒でも早く二人の前から立ち去りたい。
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◇
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「……そんなことないわ。私を好きになってくれる人なんて、いるはずない」
今の美弦はかつてなく自信を喪失している。
自分と真逆のタイプの、ずっと年下の女の子に婚約者を奪われて、自信なんか持てるはずがない。けれど返ってきたのは、またも意外な言葉だった。
「君は十分すぎるくらい魅力的だ」
ストレートな褒め言葉、そして真摯にこちらを見据える瞳に心を貫かれる。
「っ……あ、ありがとう」
不覚にも胸が高鳴った。酔いとは違う意味で鼓動が速まる。
「魅力的」と言った時の声の響きがとても真剣だったからだ。
今の今まで元婚約者を想って凹んでいたのに、別の男性相手にときめくなんて。けれどこれは不可抗力だと思う。目の前の男ほどの美丈夫かつ美声の持ち主からこんな風に自身を肯定され、褒められて、心が揺れないはずがないのだ。
でもこれは、浩介に対して抱いていた感情とは全くの別物だ。
憧れていた芸能人に遭遇してドキドキしているのと変わらない。
――もしかしたら自分は、死ぬまで独身かもしれない。
本気でそんなことを考える。
「……私のことを好きじゃなくてもいいから、誰か結婚してくれないかしら」
自虐まじりにそうこぼす。
「相手を問わないくらい結婚に憧れているのか?」
「そういうわけじゃないけど……ただ、母を悲しませたくないの」
母の離婚理由は夫の不倫。それに傷つき、「娘には幸せになってほしい」と願う彼女に「自分も同じ理由で婚約破棄になった」なんて口が裂けても言えない。
正直に話したら母は美弦を慰め、励ましてくれるだろう。
でも態度には出さなくとも、ガッカリさせてしまうのは間違いない。
不幸中の幸いは、「結婚を考えている人がいる」と伝えただけであること。名前を伝えたり、実際に会わせていたりしたら、母の落胆は増していただろうから。
「ちなみに、今の君が結婚相手に求める条件は?」
「……私を裏切らないこと」
意外だったのか恭平が目を見開く。その気持ちはわかるけれど、これが本音だ。
二股された挙句に振られるなんて経験は、もう二度としたくない。
「仕事やプライベートに干渉されるのも困るわ」
これではただの同居人だ。しかし浩介は違った。彼となら一緒に歩んでいけると思ったのに。
「……何がいけなかったのかな」
そう小さくこぼした美弦は残ったビールを飲む。
「節約していること? 仕事に熱中しすぎたこと? それとも派手に着飾ったり、美容にお金をかけていること?」
仕方ないじゃない、と美弦は囁くように口にする。
「全部含めて、私なんだから」
恭平に話し始める前は「私は悪くない!」と息巻いていた。けれど、改めて振られた事実を言葉にすると、惨めでたまらなくなる。
(……話すんじゃなかった)
恭平の優しさについ甘えてしまったけれど、酔っ払い女の失恋話なんて面白いはずがない。
(きっとこの人も呆れてるに決まってる)
そう思うと彼の反応が怖くて顔を上げられない。
仕事モードで気を張っている時は我慢できる。でも心が緩んでいる今、同情や好奇の目で見られたら、今度こそ泣いてしまう気がした。
「頑張ったな」
そんな美弦に返ってきたのは、薄っぺらい慰めや励ましではない、自分を肯定する言葉。驚いた美弦は弾かれたように恭平を見て、驚いた。
穏やかな茶色の瞳にあるのは同情ではなく、見守るような優しさだったのだ。
「頑張ったって……私が?」
違う。そんなことない。
だって自分は、勝ち誇る桜子に対して虚勢を張ることしかできなかった惨めな負け犬だ。けれど恭平は、そんな美弦の考えを根本から吹き飛ばす。
「一生懸命働いて、実家に仕送りをして、綺麗でいようと努力する。君はこれ以上ないほど頑張ってるよ。それに倹約家なんて素敵じゃないか。無駄遣いするよりずっといい。使うべきところに使って締めるところは締める。お金の使い方が上手な証拠だ」
桜子が欠点と指摘したことを、恭平は全て美点だと言ってくれた。
まさかこんな言葉をかけてもらえるとは思わず、不意に涙が溢れる。
「っ……やだ、ごめんなさい」
酔って絡んだ挙句に泣くなんて、迷惑この上ない。すぐに泣きやまなければと思うのに、高ぶった感情はそう簡単に治まらなかった。
――だって、嬉しかったのだ。
自分に「頑張った」なんて言ってくれたのは、恭平だけだったから。
婚約破棄以降、美弦はずっと気を張り詰めていた。
浩介のことを思い出さないよう仕事に打ち込んだ。けれど完全に忘れるなんてもちろん無理で、ミスをしたり、あることないこと噂されたりした。
そんな心身共に限界だった美弦にとって、恭平の言葉はまるで乾いた砂漠に不意に降った慈雨のように優しく染み渡る。
「我慢しなくていい。自分の気持ちを無理に抑え込まなくていいんだ。恋人に裏切られて何も思わない人間なんていない。悔しい、辛い、悲しい……そう思うのは当然の感情だ」
「あ……」
目尻から溢れる涙を恭平の指が優しく拭う。
「だから今は思う存分泣いて、怒ればいい。美味しいものをたくさん食べて、たくさん眠って。そうすればいつか彼のことを忘れられる日がきっとくる。その時の君は、今以上に素敵な女性になっているはずだ」
そう言って微笑む彼はとろけるように優しい顔をしていて、不意に美弦は思った。
「……あなたみたいな人と結婚する女性は、きっと幸せね」
出会ったばかりの、下の名前しか知らない他人。それでもわかる。
恭平は優しい人だ。見目麗しくて、誠実で、優しい。
彼のような男性はどんな女性を愛するのだろう。
素直で、可愛くて、可憐な子だろうか。少なくとも、酒の力を借りないと涙も流せない意地っ張りな自分のような女性ではないはずだ。
「じゃあ、俺とする?」
「するって、何を?」
目を見張る美弦の耳元に恭平が顔を寄せる。
「――結婚」
背筋が震えるほどの色気を纏った声で、恭平は囁いた。
熱い吐息が耳にかかり、美弦は反射的に立ち上がる。だが酔った体がそれについていけず、足がもつれて視界がぐらりと揺らぐ。けれど倒れる前に、さっと恭平の腕が腰に回り、美弦を椅子に座らせてくれた。
「あのっ……!」
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