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トレイシー・リスキー

つまりはバイト

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scene.3

「触れても……いいかな」

 ティマシーの少し冷ややかな手の甲がショーティの頬を撫で、それから手のひらが包み込むように触れた。ショーティは真っ直ぐにその彼を見上げ、それから一度瞬き、目を開く。

「緊張…しているのかしら」

 ふわりと口元に笑みを乗せ、優しく柔らかい口調で告げたのはショーティ・アナザー改めトレイシー・リスキーだ。

 触れた手の甲と手の平の、ほんの数秒の温度差を感じ取って告げた言葉に、ティマシーは軽く肩を竦めた。

「化ける……において化粧もそうだが、子供もそうだと思わないか?」
「簡単に染めることができるということ?」

 笑みを崩さずトレイシーは問い返した。ティマシーの手の平はまだ頬に触れたまま、ゆっくりと髪を梳く。

「ああ。それを簡単に脱ぎ捨てることができる。今しかできないことだ」
「そうかしら?全ての殻を巻きつけるのは自分自身よ。脱ぎ捨てることができないのは、しないから。したくないから。その方が楽だから、じゃないの?私には……まだ何もわからないことばかりだけれど」

 またも覗かせるティマシーのその自嘲じみた笑みにトレイシーは小さく目を伏せて、

「あまり触れていると溶けてなくなってしまうわ」

 優しく告げる。

「その方がいいのかもしれないが…」

 ティマシーはゆっくりとつぶやき、そしてまっすぐにトレイシーをみつめた。

「さぁ行こうか」


~~~~

「って、なんでここまで来る必要があるのさ!」

 さらさらの栗色ロングヘアーは軽くアップでまとめ、肌の色を良く考えた色のドレスに華やかなアクセサリーをあしらい見るからに可憐な少女となったショーティ・アナザーは手にした女性物のバッグをぎゅっときつく握りしめた。瞬間、

「トレイシー」と、柔らかい響きで呼ばれ、はたと我に返る。
「……えっと……ティム」

 少し気まずい様子でこほんと咳払いを一つ。

「説明していただけるのかしら?」

 にこりと笑みを見せるが、

「自然に、ね」

 一節注意。

 さらりと差し出された手に乗せるシルクの手袋がどこか馴染めず、二度程指先をすぼめた。そして覚悟を決める。

 目の前で行われているのはちょっとしたパーティだった。

 アメリカではなく、欧州の一角だ。そこは年末の煩わしさが嘘のようにゆったりとした優雅な時間が流れていた。
 どの人物も堅苦しくない程度の盛装で、室内を照らし出す明かりもまた穏やかなまでの心地よさ。

≪趣味は…よさそう≫

 差し出された腕に手を添えて今では履き慣れたヒールで歩き出す。

 同じ時間なのに、殺伐としたビル郡がまるで遠い過去のような気さえする。

≪歴史がある……って言うのかなぁ≫

 大仰に見上げることのできないトレイシーに成り代わり、ショーティは小さく視線を周囲に向けた。暖かな調度品。清楚な音楽。訪れている人々の柔らかな物腰。優雅な微笑。

≪………これはこれで、つらいかも……≫

 こぼすのは苦笑。まるで異邦人だった。
 この慣れない状況に違和感を覚える。自分だけを置いて世界が回るような奇妙な感覚……。けれど。

「トレイシー」

 呼ばれた名に軽く身じろぎ、視線を戻した。

 ティマシーの優しそうな笑みが先を促す。

 自然に、けれど見慣れた笑み。

「一曲、踊っていただけるかな?」

 柔らかく促す言葉に、ショーティはきゅっと口元を引き締め、軽い笑みを浮かべた。そしてショーティ改めトレイシーは軽く首を傾げるように頷く。

「あまり上手くはないの。でも……喜んで」

 シルクの腕を差し出す。軽く触れるだけの指先。そして腰を抱き寄せられる。

 音楽に合わせて足が自然すべり出す。

 特訓の成果が生きていることは嬉しいが、やはりショーティとしては心地よくはなかった。

 終わり間際に足を踏んだのは故意か偶然か。

「ごめんなさい」

 少しだけ慌てた素振りをみせて笑みとともに告げる。

「何か、飲もうか」

 ティマシーの苦笑は楽しんでいることの現れだと思うことにして、そっとダンスの輪から抜け出し歩きながらも、ふと、視界の端で気配を捉え、足が止まった。

「トレイシー?」

 軽く振り返る視線の先に、仮面が剥がれる。

 真っ直ぐにみつめた人物に、奇妙な喉の渇きを覚え、知らず手が口元を覆う。

「ショーティ」
「!」

 不意に耳元近くで小さく呼ばれた名に、大げさに反応してしまったことを悔やんだ。

 ティマシーが自分の視線を読み、

「知り合いなのか?」

 その人物を捕らえてしまったからだ。

「………見知っている顔なんだけどなぁ」
「こらこら」

 とびきり美少女の蓮っ葉な言葉使いにティマシーは思わず苦笑を浮かべた。しかしそんなことを気にもかけずショーティはくるりと背を向ける。

「……どこへ?」

 一瞬、名を呼びそこなったティマシーの問いかけにショーティは柔らかく振り返る。

「少し、風にあたってきますわ」

 そしてゆっくりと微笑んだ。



 パーティが行われている部屋の窓に設けられたバルコニーはさほど広くなく、可憐な少女が一人佇んでいる所へは気を使ってか誰も寄らなかった。先ほど温かなショールを持って来たティマシーもなにやら気配を察知したのか、飲み物を手渡した後、一人にしてくれた。

 ショーティはゆっくりと空を見上げた。穏やかな室内に比べ、随分と重く厚い闇が辺りを包んでいる。時折見える星の瞬きに、月は見えないのか、と小さくつぶやいた。

 そして思い出す。

 先ほど捉えた人物。

 室内の穏やかさを壊さず、優雅さを身に付け、その人物は微笑んでいた。

 とてもよく似合う、意識レベルの自然な笑み。

 ————————アーネスト・レドモン。

 彼も母国であるイギリスに帰ったと聞いていた。とはいえ貴族。こういう席にいてもおかしくはない。さすがにこんな場所に女装した級友がいるとは気づいていないようだが。ただ、その彼の表情。

 会わなかったここ数日で彼のことばかり考えていたからなのか、その表情になんだか無性に腹が立った。月の学園でも見知っている平常運転のいつもの微笑。

 そう、見知っているのだからそれは彼を表すものなのだが、自分の手を取り、覗かせた笑み。誘うような艶やかな笑み。その奥に小さく本当に小さく覗く鋭い視線。

 それを見たいと切に思う。それこそがアーネストではないか、と。

 いや——————違う。

 ショーティは軽く頭を振った。そして、真っ黒な闇からついと視線を戻す。

 ガラスの向こうの穏やかな室内。その向こうに在る優雅な笑み。穏やかな室内灯を受けて流れる金茶の髪。いくらも距離があるのに、すぐに見つけてしまう自分に感心しながら、これが自分たちの立ち位置だと自分に言い聞かせる。いつだって余裕を見せつけるその存在に、

「近づいてみせるよ。そのうち。必ず」

 瞳が自然狩猟の目つきになるが、もちろんそんなことは意識的ではない。

「すぐだよ…」

 窓ガラスにそっと手を伸ばす。

 瞬間、

「くっしゅっ!」

 小さなくしゃみが一つ口元からこぼれた。そして足元から身震いが上がってくる。

 足元は床暖房となっていたが、空調管理されていない地球の冬の大気が足元をうっすらと冷やしていた。

「いくら暖かいとは言ってもこんな薄いもの、ムリ。女の子って大変……あ」

 そこでようやくショーティは思い出していた。今現在の自分の立場を。

「バイト、バイト。笑顔。……自然な笑み」

 軽い暗示にも似た独り言を繰り返し、窓ガラス越しの自分をみつめる。

 そしてもう一度口中で繰り返し、ゆっくりと目を閉じ……。開いた瞬間に口元をきゅっと上げてガラス戸を押した。


~~~~

「合格点とは言いがたいかな?」

 帰りの車の中でティマシーが小さく問い掛けるように口を開いた。

「なぜ?あれから誰の足も踏まなかったわ」
「あれはわざとじゃなかったのかい?」
「まさか。慣れない人混みで少し緊張したの」

 にっこりと笑顔を覗かせながら、小さく息を吐いてみる。

 先ほどまでの華やかさが嘘のような静寂の車内は、モノトーンの影を落とし、ティマシーの姿をうっすらとかもし出す。

 彼は何かを考えているようだった。

 そしておもむろに、

「明日、曾祖母のところへいこうと思う」と告げる。
「……うまく……騙せそう?」

 ややしばらく置いて、ティマシーの心境を読むかのようにショーティは問い掛けた。

「それは、君に掛かっているよ」

 しかし、さらりと言い退けられる。
 訪れた静寂。音もなく静かに車が走り抜け、年末のイルミネーションが時折、窓の向こうを通り過ぎる。

「……で、どういう関係?」

 ショーティは単刀直入に訊ねていた。

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