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記憶喪失、アーネスト視点

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Scene.3
 

『だけど、アーネスト。僕はアーネストが望むならいつだって傍にいる。………傍に…いたいんだ』


 翌朝、アーネストはパリの夢で目が覚めた。

 ショーティに母のことを語った後だった。ショーティは、必死に真摯にそう訴えた。けれどもその時の自分はその言葉を信じることはできず、彼を無下に扱ったのだった。いや、正確には今も信じきれないというのが本音だろうか。世間での二人は『偽装結婚』の域を出ない。それはアーネストの事情がイギリス国籍からアメリカ国籍になりたかった、もしくは変わる必要があったことが影響しているのだろう。そして…アーネスト自身も……ショーティも否定しなかった。

 もちろんショーティならばいいと決断した結果結婚したのであるが…。それでも彼をイギリス国籍にはせずに自分がアメリカ国籍になったことは、本当に噂のままであった。

 ………自分のあざとさの結果が結婚と噂のようで、正直たまらなかった。

 そんな自分に現実の幸福を感じさせるのは、ショーティだった。彼との生活が、彼との一つ一つの会話が、少しずつ自分を変えていった。

 なのに。

『僕を………、知ってるの?』

 彼が、動いている。僕を見ている。

 起き上がって、いつものように人の流れをみているショーティの姿を見て安心した後だった。……その言葉に、逆に冷水を浴びせかけられたように冷静になった。世の中は、ままならない。そんなことは今までの自分の人生で身に染みてわかっていたのに、何を期待していたのだろうと思ってしまう。

 記憶がなくても、ショーティはショーティだと昨日感じた。それは間違えではない。
 それでも、……もう傍にいるとは言ってもらえないのだろうか。
 信じないと思いつつ……それがもう聞けない。
 そのことに、不思議なほどアーネストは寂寥感を感じていた。


≪≪≪≪≪


 夫人には、自分のことはショーティに伝えないでほしいと依頼していた。記憶喪失であるし、あまり情報を与えて混乱させたくなかったからだ。

 目の前には、自分を見つめるショーティ・アナザーがいる。相変わらずというかそれとも偶然なのか、彼が頼んでいたのはブレンドコーヒーのようだった。

 今は8月であるが、今日の日差しはきつかった。ショーティは眩しくないのかな。他人事のようにそう思い、アーネストは水を飲んだ。その時にショーティの視線が、動いた。

 観察が終わったのだろうと思う。

「……それで、と聞いてもいいのかな?」

 ショーティは大きな瞳を二、三度瞬きをし、くすりと笑う。しかしすぐに笑みを消した。それ所ではないと思い出したのだろう。……本当にと思う。こんなに表情に出て、よくジャーナリストをやれるものだとと呆れてしまう。

「…………何から話せばいいのか…」

 少し伏せていた視線を上げると、ショーティはアーネストを正面から見た。

「えっと、僕のこと、知ってるんだよね?ショーティ、ってのは僕の本当の名前なわけ?」
「……まずそう尋ねる謂れから聞きたいものだけれど」
「信じるかどうか……、事故にあったらしくて、その時に打ち所悪くてさ、記憶がないんだよね」

 うーんと、アーネストは唸りたくなり目を伏せた。ショーティの言葉が軽い気がするのだ。しかも普段の彼らしくあっけらかんとした口調で告げる。
 
 悩んだ自分が馬鹿らしくなるほど、彼は通常通りだった。

「僕は、誰?知ってるんだよね?」

 やや身を乗り出して、ショーティは尋ねる。

 知っていると言いたかった。君は僕のものだと……告げたことはなかったなとふと思う。それよりも何と返答すべきか。昨日ショーティの姿をみて名前を呼んだから、今更知らないということは無理があるだろう。けれどもその反面、実際今目の前にいるショーティは自分の愛したショーティの全きの存在でないことも事実だった。

 アーネストは一つため息をついた。

「例えば、僕が知っているとする。けれどそれを裏付ける確たる証拠はない。どうするのかな?」
「僕をショーティ、と呼んだよね?ひとまずは、ニューヨークの医療記録は本物だと、わかる」
「医療記録の改ざん…。僕が夫人の回し者だとは?」
「NO!キャシーの反応でそれはないと思う。それにそこまで手の込んだ事をするいわれが僕にはなさそうだ」
「なぜ、そう思うのか聞いても?」

 再度アーネストは、うーんと唸りたくなった。記憶はないのにこの会話のテンポがショーティらしくて、ポーカーフェイスをしていないと頬が緩みそうだった。

 しかし。

「貴方ほど、魅力はないから」

 思わず、むっとした。僕のショーティにどういう評価を与えるのかと。あまり自分自身は好きではないと語りながら、彼の態度は常に堂々としていた。潔く振り返らずに進む後ろ姿は、しなやかで強さすら感じる。本当に自分とは違って、己を嫌いと言いながら胸を張って生きる。そんな矛盾した魅力をもった存在なのだ。

 なのに、記憶を失っているはずなのに、こんな時にそんな過去の言葉を重ねないでほしい。

「………というのは半分冗談で」

 半分ね。

「事件が起きてないから、かな」
「……事件が起きてないと、なぜわかるんだい?」
「邸内が静かなんだ…」

 そうして彼は根拠を並べていく。自分の反論にも、果敢に更なる反論を述べていく。

 その姿に、思わず笑みがこぼれた。すごいね、ショーティ。心からそう思う。自分が記憶を失ったら、こんなに誰かと話したいなど思わないだろう。こんなにすらすらと言葉が出てくるのは、さすがとしか言いようがない。

 その、記憶がないショーティ・アナザーであろうとも変わらない彼の本質に、心から惹かれていた。

「………えっと……、名前……。教えてほしいんだ」

 ショーティは、ためらいがちにそう告げる。

 そう言われて初めて、名乗っていなかったことに気付いた。そしてその言葉に、その当たり前の問いかけに、考えていたよりも心を抉られたことも。

 名前を聞かれたのは、興味を持ったからだろうか?でもそれは、『知り合い』らしい自分から情報を得るためだろうか?

 ショーティに、名前を告げたかった。

 ………このショーティに、名前を教えたくなかった。

 そんな矛盾した二つの考えが、アーネストの中にあった。

 ショーティに思い出してもらえないことに苛立ちが募っていた。本来アーネストの中で事柄は理屈も心情も同じ方向を向いていて、感情的に苦しむことはほとんどなかった。それでも今は、理屈では仕方ないとわかっていても心情的に許せなかったのだ。自分でも子どもじみていることは承知しているし自分の狭量さに呆れもするが、どうしようもなかった。

 けれど何よりも。

 記憶がないショーティは、自由だった。アーネストのつまらない過去の清算に、ショーティがつきあう必要はないのだと思う。

 ………彼の記憶がないまま、これからの人生を生きていくこともありうるのだ。彼の結婚相手が自分だと知った時、彼は絶望するのだろうか。それとも喜ぶのだろうか。それとも……それにも混乱するのだろうか。

 選択権はショーティ・アナザーにある。
 それだけは、アーネストの中で譲れないものだった。
 だから。

「思い出してごらん。ショーティ・アナザー」

 それだけしか、言葉が出てこなかった。


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