上 下
4 / 34

遡ること少し前 キャサリン視点

しおりを挟む
 きゅっ、と突然車が停まった。

 後部座席でうつらうつらと睡魔に飲み込まれようとしていた少女はその衝撃に大きく目を見開く。
 そのまま青い瞳を二度三度と瞬かせると、ふ、と何かを目にとめた。

「申し訳ございません。突然、何かが車体のそばに…」

 告げる運転手の声とほぼ同時に、殴りつけるような雨も気にせず、少女は車の窓を開ける。
 吹き込んできた雨と風にふんわりとした金髪がびゅうと乱された。

「お嬢様!」

 その突飛な行動に、隣に座る女性が慌てて窓を閉めようと手を伸ばすが、

「開けて!」

 少女の声がすべてを掻き消す。
 年の頃は11、2歳、それにしてはなかなかの迫力だ。そして、声に反応した車のドアがするりと開く。

「キャサリン様!」

 そのまま引き留める女性の声を振り切り、目にとめたそこへと駆け寄る。

「ワン」

 濡れそぼった子犬であった。
 ぐっしょりとしたまま、けれどしっかりとした声で一鳴き、小さな体を反転させて少女キャサリンを促す。

「なぁに?」

 抱き上げる気で腕を伸ばしていた少女は、交わされたその視線のまま、折れた植え込みの中に倒れている人を見つけた。強風を避けるように一度視線を反らし、もう一度確認するように目を見開く。

「!……ひとが、人がいる!」

 少女を追いかけるように車から降りてきた運転手と女性は、キャサリンの言葉に慌てて駆け寄った。

「お嬢様、近づいてはいけません。今、救急に連絡します」
「キャン」

 子犬の飼い主なのか、倒れている人のそばでしっぽを振りながらよたよたと歩き回り、

「………っ……カナン…」

 その声を聞きつけて、人が小さく言葉をこぼす。
 指先から腕、ひじが動き出すと、起き上がろうとするような姿勢を取り始め……。

「生きてるわ。ね、すぐ治療しなきゃ」

 少女の声が雨音に負けじと響く。

「今、救急を…」
「お家に連れて帰るの!すぐに車に運んで!お願いだから、運んで!」



≫≫≫≫≫


 びしょ濡れの4人と一匹を乗せたまま車は進んでいく。

 怪我人を運ぶため助手席シートをフラットに後部座席まで広くとり、そこに横たわらせる。

 白人種ほどではないが、かと言って有色人種ではない肌の色。

 少しだけ表情を歪めているのは痛みからだろう。

 髪は短めのストレート。背はそれほど高くない。かと言って低いわけでもない。
 青年というよりも少年のようでもあるので、二十歳そこそこ、と思われる。
 青年と判断したのは胸板の薄さだけだ。

「ワン」

 飼い犬が心配そうにのぞき込み、その目元をペロリとなめる。

「…ゃ………」

 子犬に小さな反応を見せたので、ゆっくりと問いかけてみる。

「……大丈夫?」
「……カ…ナン……?……」

 薄く目を開いたときに除いた茶系の瞳は、しかし焦点が定まらずすぐに閉じられる。

「……?…」

 名前だろうか、青年の口から零れる言葉にやや不思議そうに首を捻るが、

「…絶対助けるからね。もう大丈夫よ。名前は…言えるかなぁ」
 少女が青年を促す。まるで年の差がひっくり返ったようなその仕草に、女性は小さなため息をついた。


「奥様、大変申し訳ありません」

 屋敷に着く早々に女性は主へ謝罪を口にする。

「そんなことより、早くカプセルへ。事情は後程話してちょうだい。それに、早く着替えないとあなたたちもカプセル治療を受けることになるわよ」
 
 この屋敷の主ジェーン・マクリラールは、NYで活躍中の息子から病気療養としてその妻を、そして娘を冬に預かった。しかし、治療の甲斐なく春先、妻は亡くなった。つまりは、母を失ったばかりの孫娘だ。

「キャシー。あなたもシャワーを浴びて着替えてらっしゃい」

 可哀想だからと少し自由にさせ過ぎたかもしれないと、ジェーンは困ったように首を振る。

 今日も天気が崩れるとわかっていたのに、気晴らしにと遊園地へと出かけた。その帰宅途中の出来事だ。

 見ず知らずの青年を簡単に屋敷へと入れてしまう。

 これからのことを考えると少し言い聞かせなければならない。

 そして、それは息子にも言えると、ジェーンは思う。

 いくら気を紛らわせるためとはいえ、幼い一人娘を放っておいて仕事も何もないだろうに。

「さあ、キャシー」
「いいえ、おばあ様。わたし、ちゃんとこのカプセルが動くのか……、治すのか見ていないと」

 そんな祖母の思いなど、もちろん知る由もない少女は、しかし頑なに動こうとしなかった。

「キャサリン・マクリラール」
「だって!お母さまだって、カプセル治療をしていたのに死んじゃったわ。カプセルが壊れてないって言ったけど、本当にそうかわからないじゃない。だから」

 母親の病はすでに手の施しようがなく、カプセル治療はただの気休めだった。

 幼い少女はそれを目の当たりにしており、この治療の在り方を疑問視しても仕方のないことだ。

 11歳という年齢は決して物を考えない年齢ではない。もしかしたら大人よりも柔軟に物事を捉えられるのかもしれない。だからと言って少女の体調まで崩させるわけにはいかない。

「……わかったわ、キャシー。あなたがシャワーで温まって戻ってくるまで私が責任持ってみていてあげるから。ね、あなたまで調子を崩したらお父様は悲しむわよ」

 祖母の柔らかな言葉に、少女キャサリンは顔を上げた。そして祖母の笑みを目にすると、

「うん!待っていてね。ちゃんとみていてね」

 ぐっと握りこぶしを作って正面から祖母を捉え、それからカプセルの中の青年を見る。

 先ほどとは比べ物にならないほどに表情は落ち着いていた。けれど見ようによっては無機質なものにも見える。

 キャサリンは急いで入浴のために駆けだした。



≫≫≫≫≫


「ほら、大丈夫だったでしょう?」

 カプセルで治療中の青年の表情は、先ほどよりも穏やかだった。

 ゆらゆらと栗色の髪が揺れて、治療中を知らせる光があちらこちらで瞬いている。
 母親の時はこんなに頻繁ではなかったな、と漠然とその様子を眺めながら、

「ねぇ、おばあ様。この人、どうしてあんなところにいたのかしら?」

 車道からしか見えない植え込みの、それも中の方で倒れていた。

「それは今確認してもらっているわ。まだ彼も起きないのだから、あなたもそろそろ休みなさい」

 ジェーンは孫の問いに、十中八九交通事故だろうと思う。しかし、それはカプセル治療がはっきりとした判断を下すまではわからない。それに今更、何であれ、彼はここにいるのだから治療を施すだけだ。

「私、ここにいたいわ」
「そばにいなくても亡くなったりしません。それははっきりと報告を受けました。キャサリン。あなたももう11歳。見ず知らずの人を簡単に車に運んではいけません。何事もなかったから良かったものの、あなたの判断で運転手や使用人の立場も危うくなるのですよ」

 遊園地に付き合ってくれた女性のことをついと思い出し、キャサリンはきゅ、と口を真一文字に閉じる。それから、

「……人助け、よ」

 おどおどと口を開くが、

「そうかもしれませんが、あの場合は救急を待つのが、あなたのやるべきことです」
 
 ピシャリと祖母が言い放つ。けれどそれは一瞬。すぐに、

「とは言っても。よく見つけてあげましたね」

 ふわりと、祖母の柔らかな手の平が少女の洗い立ての髪に触れた。
 金の髪がふわふわと頭上で揺れ、適温のクーラーが頬を冷やす。

「ワン」

 二人の足元で子犬が小さな鳴き声をあげた。

「お前も、綺麗になって気持ちいい?」

 視線を落とした少女は小さく語り掛ける。

 野ざらしの中、青年の存在を教えてくれたのは、子犬だった。
 助けようと思ったのか、ただうろついていたのかはキャサリンにはわからない。しかし、物事は良いようにとるものだ。

「良く、教えてくれました」

 雨に濡れていた体は綺麗に乾き、茶金の毛並みはそよそよとクーラーの風にあおられる。そんな姿を認めて、キャサリンは祖母の真似をするように、子犬の頭に軽く触れた。

「チビちゃんもお休みしたいわね」

 なかなか離れない孫娘から外堀を埋めるべく、ジェーンは柔らかなクッションを一つ、カプセル治療を施している脇に添えた。

 撫でられるままにいた子犬は新しいアイテムに興味をひかれたのかそちらへ歩み寄り、片足を乗せると軽く首を傾げ、そのままクッションの上に転がる。そしてクンクンと匂いを嗅ぎながら、脱力するかのように深く沈み込んだ。

「そうだよね、お家は一番落ち着くもんね。そういえば…」

 治療を受けている青年に目をやる。

「あの人も、どこかに帰りたがっていたわ」

 車の中の一連のことを思い出す。
 名前を聞こうとしても答えずに、帰る、とだけこぼしていた。

「そうね。私も聞いたわ」

 ジェーンもまた同じ単語を聞いていた。
 早く帰らなければ…と。

「大丈夫よね?」

 幼い瞳は青年を捉えたまま、ゆっくりと祖母に向けて問いかける。

「そうね、大丈夫よ。きっと」

 医療用カプセルが治療を選択したということは病院に向かうほどではないということだ。彼の素性も探してくれている。カプセルから送信されたデータを照合しているはずだ。目が覚めれば問題は解決する。

 そのはずだったのだが。

 記憶喪失————。

 ジェーンは青年の愕然とした表情を見て、問題の深さを知った。
 ニューヨークの息子へ連絡をすべきか、判断は彼女に託される。しかし。
 思ったよりはあっさりと青年の素性は、知れた。

 ショーティ・アナザー。

 それが彼の名だ。
しおりを挟む

処理中です...