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白人種というほど白くはないが程よい肌の色と、さらりとした短めの栗色の髪。そして大きな茶系の瞳。
青年と言うには多少幼さの残る鏡の中の面差しに、青年はまじまじと見入っていた。
今ひとつ自身の顔であると認識できない。
「綺麗なお顔よ。きっとご両親も素敵なのでしょうね」
女性、いやこの辺りでは有力者だというジェーン・マクリラール夫人がほほ笑む。しかし“綺麗”という形容詞には釈然としなかった。
そして、多分…と思う。自分はそれ程この顔を好きではなかったのではないか。
感慨深く思いながら、けれど今はどうでも良いと青年はマクリラール夫人を見た。
そして促されるように夫人は事情を説明し始める。
ここはジョージア州で、出掛けた先のフロリダ州で倒れていたところを保護した、というのがそれだった。
意識があったため、連れて帰り、医療用カプセルにて診断したところ倒れていた場所も相まって、車にはねられたようだと判明した。
治療を施すために半日以上、カプセルの中にいたという。
現在、医療診察のI.T.化はかなり進化していた。診断キットなるもので自宅にいても簡単な診断ができる。
例えば毎日の血圧や脈の数値を主治医に送れば、定期的に処方箋が届くなど。
そして富裕層に行き渡っているのが、医療用カプセルだった。
診断キットをさらに高度化し、CTスキャンとほぼ同じ性能を持ち、感染源の特定なども行うことができる。そして診断と治療方法を提示し、簡単な治療であればカプセル内で行うこともできるのだ。
カプセルでの治療は、病院に入院する必要がないと診断された証でもある。ちなみにそこで扱えないものは、契約している病院にデータが送信され、病院での治療となる。
そんな治療用カプセルだが、登録していない者が使用するとその情報は市の保健局、事故だと判断されると警察。それから州のそれらへと連絡がなされる機能も有していた。なので、すでに青年の素性は医療データから検索されていたのだが、フロリダ州にヒットするものがなく、今は近隣から全米へと情報を確認中だった。
といっても青年の意識が戻れば事情を聴き、すぐに対処できるだろうと踏んでいたのだが、まさか。
記憶喪失————。
青年は自分の名を、住所を、行動を忘れてしまっていた。
しばしの沈黙が二人の間に流れたが、マクリラール夫人はすぐに次の対処に繰り出した。
そして、目の前に現れた3D映像の心療内科医を、青年はまじまじとみつめる。
「大丈夫ですよ、気を楽にして下さい。」
そう告げてくる言葉を上の空で聞き流し、夫人をちらりと視線で捉える。
夫人はどこか落ち着かない様子を見せていた。
それはそうだろう。
善意で助けた青年が記憶がないというのだ。その真意を測りかねてもおかしくない。
果たしてそれだけかと思わなくもないが、青年は小さくため息をこぼした。
そしてもう一度3D映像をみつめる。
「西暦何年かわかりますか?」
どこか柔らかな響きでの問い。さすがに機械音では味気ないのだろう。
「……2113年…」
青年は少しだけ躊躇するかのように口を開く。しかし、それに正解を唱えることはなく、
「フロリダ州のある国は?」と繰り返される。
答えることに意味があるのだろうか、と一瞬思うが、自身としても早く解決したいことではあるため、
「……アメリカ」と、まるで自分に言い聞かせるように答える。
「こちらの計算をして下さい」
するりと渡されたノック式ボールペンを簡単に扱い、紙にすらすらと解いていく。
旧式のノートパソコンを渡された時は少し躊躇したが、一応立ち上げることができた。
なのに、どうして。
「昨日、何をしていたか思い出せますか?」
「昨日……」
1日前のことだとわかる。そんなことはわかるのに、なのに、自分の行動がわからない。
「そうだわ」
その様子を心配そうにみつめていたマクリラール夫人は、ふと、治療のために外していた青年の腕時計型通信用デバイスのことを思い出し、サイドテーブルに置いたままのそれを手にして、
「こちらを確認したら、もしかしたら何かわかるかもしれないわね」と、青年に手渡す。
うっかりしていてごめんさないね、と気遣いも忘れない。
「あ、は、はい…」
どこか窺うように、しかし、一瞬迷ったようにみつめ、それからぎゅっと手の平で握りこむ。すると。
《……ハロー・暗証こーどヲドウゾ》
起動音とともに響くデバイスからの高い声音が青年の心を砕いた。
自分のことも覚えていないのに、暗証コードなどわかるはずもない。
「……便利なんだか不便なんだかわかんないじゃないか」
思わずこぼすと、マクリラール夫人の表情が少しだけ和らいだ。
「逆行性健忘症ですね」
3Dの診察医が告げる。
事故のショックで一時的に忘れているだけではないでしょうか、と告げられる言葉を二人で聞いていると、
「ワン!」と、どこか心地よい響きで子犬が鳴き声をあげた。
パタパタとしっぽが動く様子に二人ともに視線を取られ、思わず空気が和らぐ。
「……事情はともかく、今はゆっくりなさって。治療ももう少し必要ですし。それにすぐにデータが貴方をみつけてくれるでしょう。動けるようになったらこの辺りを散策するのもいいと思うのよ」
「……それまでには、記憶も戻るといいな…」
マクリラール夫人に習って少しだけ表情を緩め、肩をすくめるような響きで青年も告げる。
「そうね」
柔らかな響きで同意を残して退室するマクリラール夫人の背を、視線のみで追っていた青年は、デバイスを枕元に置こうと腕を伸ばす。
身体中が痛み、治療が必要だと言っていたことがあながち嘘ではないなと思える。
そして、あながち、と思ってしまう自分に思わず苦笑した。
見ず知らずの人物を屋敷に招き入れ、治療し、マクリラール夫人の様子だとまだ面倒をみるようだ。
青年の第六感に小さな波紋が生まれる。夫人の思惑が見えない、と思ってしまう自身の暗部に気付く。
いやだな。
「“かなん”おいで」
「ワン!」
横になった青年は、子犬に視線を走らせ、その名を呼んだ。いつ名づけたのかは知らないが、2度ほどそう呼んだというマクリラール夫人の話通り、子犬は元気に一声鳴き、ジャンプ一番、枕もとに飛び乗る。
「とりあえず、真実はお前だけか」
ふわりと身を沈める羽枕は、柔らかすぎてどこか落ち着かなかった。
青年は、何か、大切なものが足りない気がして、枕もとに転がる子犬をきゅっと抱きしめるのだった。
青年と言うには多少幼さの残る鏡の中の面差しに、青年はまじまじと見入っていた。
今ひとつ自身の顔であると認識できない。
「綺麗なお顔よ。きっとご両親も素敵なのでしょうね」
女性、いやこの辺りでは有力者だというジェーン・マクリラール夫人がほほ笑む。しかし“綺麗”という形容詞には釈然としなかった。
そして、多分…と思う。自分はそれ程この顔を好きではなかったのではないか。
感慨深く思いながら、けれど今はどうでも良いと青年はマクリラール夫人を見た。
そして促されるように夫人は事情を説明し始める。
ここはジョージア州で、出掛けた先のフロリダ州で倒れていたところを保護した、というのがそれだった。
意識があったため、連れて帰り、医療用カプセルにて診断したところ倒れていた場所も相まって、車にはねられたようだと判明した。
治療を施すために半日以上、カプセルの中にいたという。
現在、医療診察のI.T.化はかなり進化していた。診断キットなるもので自宅にいても簡単な診断ができる。
例えば毎日の血圧や脈の数値を主治医に送れば、定期的に処方箋が届くなど。
そして富裕層に行き渡っているのが、医療用カプセルだった。
診断キットをさらに高度化し、CTスキャンとほぼ同じ性能を持ち、感染源の特定なども行うことができる。そして診断と治療方法を提示し、簡単な治療であればカプセル内で行うこともできるのだ。
カプセルでの治療は、病院に入院する必要がないと診断された証でもある。ちなみにそこで扱えないものは、契約している病院にデータが送信され、病院での治療となる。
そんな治療用カプセルだが、登録していない者が使用するとその情報は市の保健局、事故だと判断されると警察。それから州のそれらへと連絡がなされる機能も有していた。なので、すでに青年の素性は医療データから検索されていたのだが、フロリダ州にヒットするものがなく、今は近隣から全米へと情報を確認中だった。
といっても青年の意識が戻れば事情を聴き、すぐに対処できるだろうと踏んでいたのだが、まさか。
記憶喪失————。
青年は自分の名を、住所を、行動を忘れてしまっていた。
しばしの沈黙が二人の間に流れたが、マクリラール夫人はすぐに次の対処に繰り出した。
そして、目の前に現れた3D映像の心療内科医を、青年はまじまじとみつめる。
「大丈夫ですよ、気を楽にして下さい。」
そう告げてくる言葉を上の空で聞き流し、夫人をちらりと視線で捉える。
夫人はどこか落ち着かない様子を見せていた。
それはそうだろう。
善意で助けた青年が記憶がないというのだ。その真意を測りかねてもおかしくない。
果たしてそれだけかと思わなくもないが、青年は小さくため息をこぼした。
そしてもう一度3D映像をみつめる。
「西暦何年かわかりますか?」
どこか柔らかな響きでの問い。さすがに機械音では味気ないのだろう。
「……2113年…」
青年は少しだけ躊躇するかのように口を開く。しかし、それに正解を唱えることはなく、
「フロリダ州のある国は?」と繰り返される。
答えることに意味があるのだろうか、と一瞬思うが、自身としても早く解決したいことではあるため、
「……アメリカ」と、まるで自分に言い聞かせるように答える。
「こちらの計算をして下さい」
するりと渡されたノック式ボールペンを簡単に扱い、紙にすらすらと解いていく。
旧式のノートパソコンを渡された時は少し躊躇したが、一応立ち上げることができた。
なのに、どうして。
「昨日、何をしていたか思い出せますか?」
「昨日……」
1日前のことだとわかる。そんなことはわかるのに、なのに、自分の行動がわからない。
「そうだわ」
その様子を心配そうにみつめていたマクリラール夫人は、ふと、治療のために外していた青年の腕時計型通信用デバイスのことを思い出し、サイドテーブルに置いたままのそれを手にして、
「こちらを確認したら、もしかしたら何かわかるかもしれないわね」と、青年に手渡す。
うっかりしていてごめんさないね、と気遣いも忘れない。
「あ、は、はい…」
どこか窺うように、しかし、一瞬迷ったようにみつめ、それからぎゅっと手の平で握りこむ。すると。
《……ハロー・暗証こーどヲドウゾ》
起動音とともに響くデバイスからの高い声音が青年の心を砕いた。
自分のことも覚えていないのに、暗証コードなどわかるはずもない。
「……便利なんだか不便なんだかわかんないじゃないか」
思わずこぼすと、マクリラール夫人の表情が少しだけ和らいだ。
「逆行性健忘症ですね」
3Dの診察医が告げる。
事故のショックで一時的に忘れているだけではないでしょうか、と告げられる言葉を二人で聞いていると、
「ワン!」と、どこか心地よい響きで子犬が鳴き声をあげた。
パタパタとしっぽが動く様子に二人ともに視線を取られ、思わず空気が和らぐ。
「……事情はともかく、今はゆっくりなさって。治療ももう少し必要ですし。それにすぐにデータが貴方をみつけてくれるでしょう。動けるようになったらこの辺りを散策するのもいいと思うのよ」
「……それまでには、記憶も戻るといいな…」
マクリラール夫人に習って少しだけ表情を緩め、肩をすくめるような響きで青年も告げる。
「そうね」
柔らかな響きで同意を残して退室するマクリラール夫人の背を、視線のみで追っていた青年は、デバイスを枕元に置こうと腕を伸ばす。
身体中が痛み、治療が必要だと言っていたことがあながち嘘ではないなと思える。
そして、あながち、と思ってしまう自分に思わず苦笑した。
見ず知らずの人物を屋敷に招き入れ、治療し、マクリラール夫人の様子だとまだ面倒をみるようだ。
青年の第六感に小さな波紋が生まれる。夫人の思惑が見えない、と思ってしまう自身の暗部に気付く。
いやだな。
「“かなん”おいで」
「ワン!」
横になった青年は、子犬に視線を走らせ、その名を呼んだ。いつ名づけたのかは知らないが、2度ほどそう呼んだというマクリラール夫人の話通り、子犬は元気に一声鳴き、ジャンプ一番、枕もとに飛び乗る。
「とりあえず、真実はお前だけか」
ふわりと身を沈める羽枕は、柔らかすぎてどこか落ち着かなかった。
青年は、何か、大切なものが足りない気がして、枕もとに転がる子犬をきゅっと抱きしめるのだった。
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