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26. 母と娘 〜母の思い
しおりを挟むメリルまでのことを話したところで、ちょうどフィリップが茶を給仕してくれた。
どちらともなく、淹れたてのお茶を味わう。
これから話す話の方が、母の精神的に辛い話になるだろう。
先程の様子からそれが分かったからこそ、絶妙なタイミングでの茶の差し入れに、有能な元家令に感謝した。
「──サイラスのことですが⋯⋯」
母がカップを置いたタイミングを見計らって、そっと告げる。
母は伏せていた目を上げ、真っ直ぐに私を見た。
「⋯⋯結論から申し上げますと、彼奴を公爵暗殺未遂とその他の殺人の罪に問うのは、難しそうです」
母の柳眉が、顰められる方に微かに動く。
その姿からは、疑念や落胆というよりは、嫌な予想が当たったと、そういう気持ちが察せられた。
「ラザル卿も随分とご尽力くださったそうですが、罪を立証しきれず、面目ないとおっしゃっていました」
メリルはともかくとして、サイラスによるラザル子爵家の次男殺害とプライセル公爵暗殺未遂は、極端に言ってしまえば、単なるお家騒動の跡目争いである。しかも狙われた公爵は、現在も健勝であるのだ。
その他の殺人の嫌疑についても、馬の世話係も公爵家の下働きも、あの男の関与が疑われる殺人被害者は、ほとんど平民と変わらないような身分の者だ。残念ながらこちらも重くは見られない。
何より、確たる証拠が何も存在しないことが、どうしようもなく痛い。
それよりは、騎士団の財務管理の杜撰さが露呈した横領事件の方がよっぽど衝撃が大きいし、関係者の身分も高く、聴取する人数も膨大になる。
しかも、騎士団自体の沽券にも関わる重大問題である。関与した者を徹底的に洗い出し、片っ端から処罰せねば、信頼回復はならないだろう。
だから、どこまで騎士団が本腰を入れて暗殺未遂の嫌疑を検めてくれるか──尻尾を掴ませないサイラスをこちらの罪で捕らえるにあたり、それが気がかりだったのだが、見事に悪い予想通りになってしまったらしい。
「⋯⋯結局、あの男は相変わらず小狡く逃れていくのね」
実の兄であるサイラスに向け、母が憎々しげに呟く。
だけど、悪い話ばかりでもないのだ。
「暗殺未遂の罪は問えないかもしれませんが、横領は20年の長きに渡り国民の血税で賄う騎士団の予算を搾取していたことを、陛下が重く見てくださいました。そのため、その件の首謀者である彼奴には、そちらの方で重い刑に処されるようです」
まだすべての裏付けは済んでいないが、約20年間で掠め取った総額は、なんと国家予算の1年分に相当するかもしれないらしい。
あの男と共に甘い汁を吸っていた者たちは、一生をかけて、それこそ命がけで弁済するために、最低限の衣食住の保証の元、危険だが高収入の仕事に従事し、得られる収入をすべて国庫に返し続けるということだ。──これは、奴隷制度の存在しないこの国でできる、最も過酷な犯罪者の扱いだ。
その仕事には、一般的には鉱山での労働などが挙げられるが、サイラスに言い渡されたものは違う。
「サイラスは、辺境の地で騎士として永久に従事することとなりました」
ここで言う辺境とは、隣国との国境となっている魔の森と接する地域のことだ。
建国以来、この森を越えて他国が侵略してきたことはないが、常に魔物の脅威に晒されている地である。
辺境伯が屈強な軍を擁しているものの、慢性的な人手不足を抱えている。
そのため、その他の地域で騎士となった、貴族だが嫡子でない者や平民出身の者は、どこかの時点で最低2年は辺境に派遣されることがある。
わざわざ嫡子でないとつくのは何故かと言えば、どの地域よりも圧倒的に死傷者数が多いからである。
特に、最も軟弱と言われる王都近郊出身の騎士は、派遣された者の2割弱は任期中に死亡するか職務遂行不能の傷害を負うらしい。
そして今のサイラスには、次期騎士団長と目された剣技の冴えもなく、あるのは動きを妨げる脂肪の鎧と、自意識過剰と言うしかない自負である。
そんな男の、辺境での騎士としての永久就職 ──実質上の死刑宣告だった。
むしろ、一息に息の根を止められるよりも、死ぬまで魔物との戦いに駆り立てられる方が、残酷かもしれない。
「平行して尋問を続けながら、捕縛時の怪我がある程度癒え次第、辺境へと送られるそうです」
「⋯⋯そう」
小さく頷き、母は深々と息を吐いた。
「これで──とうとう、あの男も終わりね」
万巻の思いがこもった言葉、そこにこめられた思いに心を馳せ、二人揃ってしばらく黙した。
「あとは⋯⋯お母様、その⋯⋯」
母が伏せていた目を上げたタイミングを見計らい、口を開く。
だが、なんと話し出すべきか迷っていると、母が小さく笑った。
「大丈夫よ。トリスタンのことね」
「⋯⋯はい」
騎士の業務を妨害して捕らえられた愚弟のことだ。
その言動が段々と目に余るようになり、彼に対しても苦言を呈し続けた母だが、それでも胎を痛めて産んだ我が子だ。心を痛めているだろうことは、察するに余りある。
「トリスタンは騎士の職務妨害で詰所に連行され、メリルと同じように取調べを受けたそうです」
彼がサイラスに心酔していることは明らかだった。故に、横領や暗殺未遂への関与を疑われたのだ。
あの場でメリルを庇わなかったとしても、聴取のために出頭の要請が来ていたことだろう。
しかし、取調べの中で弟はそれらすべての嫌疑を否定したし、関与を裏付ける証拠も見つからなかった。
捕まってからは横領に関与した者すべて巻き込もうと、共犯者の情報をペラペラ喋ったサイラスすら、その名を挙げなかった。
よって、一通りの取調べが済むとひとまず解放となったが、見習いとはいえ騎士の身でありながら罪人の捕縛を阻んだ責は問われた。
「騎士として犯罪者を庇うなど、絶対にあってはならない行為だと。⋯⋯今しばらくは停職ということで自邸での謹慎を申し付けられていますが、最終的な処分は免職になるようです」
「そう⋯⋯でしょうね」
険しい顔をしていた母も、小さく頷く。
「ですが、免職は免職でも、自ら辞めるという扱いにしていただけるようです」
「それは、どういうこと?」
「強制的な免職ではなく、謹慎の末の自発的な辞職で処理されるということです。ラザル卿が、立ち塞がっただけで剣を抜かなかったことと、自ら非を認めて捕縛されたこと、その後深く反省している様子であることから、配慮してくださったようです」
本当にラザル卿は優しい、と思う。
本来は、騎士にあるまじき行為により辞めさせられたとなるべきところだ。しかし、不名誉な責をあの愚弟が負うことがないよう、彼はわざわざ取り計らってくれをたのだ。
──だが。
「⋯⋯トリスタンは、免職から逃れる代わりに⋯⋯──辺境への派遣を志願したそうです」
母の目が、ゆっくりと見開かれた。
「──辺境?そんな⋯⋯それなら、素直に辞職すれば⋯⋯」
呆然と呟いてから、先程まで聞いていた話を思い出したらしい。
「ッ、まさか、あの子──!」
「それは分かりません!⋯⋯分かりませんが、騎士を辞めるくらいならと、自ら願い出たことは間違いないようです」
その選択に、まだトリスタンは辺境送りとなったあの男に囚われているのではないか、もしくは自棄になっているのではないかと心配したラザル卿は、彼との直接の話し合いの席を設けてくれたようだ。しかし、辺境上がりであるラザル卿の話を聞いても、あの弟は感謝はすれども引かず、理由も語らなかったらしい。
それで結局その話は騎士団上層部に上がり、そこで認められ、辺境伯の許しも得て、彼の辺境派遣が決まった。
横領や公爵暗殺未遂など、証拠がないだけで容疑が完全に否定されたわけではない。咎による免職を免れて騎士を辞めたとしても、そちらの方の疑惑はずっと付きまとっただろう。
未来のフィングレイ家当主には、そのような後ろ暗さが永遠について回るところだったのだ。
それでも、彼が辺境行きを希望したことで、もしかしたらその辺りも曖昧になるかもしれない──都から離れることで、少なくとも彼に纏わりつく悪評は下火になるだろうから。
とはいえ、辺境行きを自ら希望した者は、余程の功績を挙げぬ限りは死地とも呼ばれる彼の地から離れられないと言われている。諸刃の剣の選択であることは間違いない。
嫡男のこの暴挙とも呼べる行動に、元父は何をしていたのかと思う。
さすがに元父にもこの話はいっているだろうし、まだ成人前で、しかも本来は有り得ない嫡男の辺境行きになるため、その家の当主の許諾はさすがに必要だろう。
まさか、何も分からずに書類にサインしたなどとは思いたくはないが。
ちなみに、この1ヶ月の間にティルダから婚約破棄の決意を固めたという旨の手紙が届いていた。
当然の報いではあるのだが、彼女に見捨てられてしまえば、トリスタンが辺境行きを希望せずに残ったところで、社交界に蔓延しつつある悪評から彼のもとに嫁ごうなどという令嬢も、嫁に出す家もないだろう。
つまり、フィングレイ家は未来の跡取りを失ったことになるのだ。
財政も傾き、奪爵さえ噂される家だ。どうしようもなくなった未来、養子に来てやろうという気概のある者、もしくは物好きは現れるかどうか。
跡取りがいないとなれば、当然、爵位の返上は免れない──これまた、元父の手腕が試される絶体絶命の窮地だった。
そんなことを私が考えている間に、母の顔色はさらに悪くなっていた。ハンカチで口元を押さえている。
静かに控えていたフィリップが駆け寄り、その傍に膝をついた。
「シンシア様。⋯⋯顔色が悪うございます。侍医をお呼びいたしましょうか?」
「いえ⋯⋯大丈夫よ、ありがとう」
震える声で言ったその目には、涙が浮かんでいた。
痛ましげに見守ることしかできない私たちの前で、母はゆるく頭を振る。
「⋯⋯私に悲しむ権利なんてないわね。あの子をここまで追い込んだのは、私たちだわ」
自嘲げな笑みを浮かべながらそんなことを言う。
「お母様、」
「セシリア、貴女はトリスタンが嫌いだった?」
突然の問いかけに、寸の間固まった。
「⋯⋯そう改めて問われると、分かりません。理不尽な態度に怒りを覚えることはありましたが、嫌っていたかと言われると⋯⋯」
それに──何故そのように邪険に扱われるかも、約1ヶ月前のあの日に分かった。
「おそらく、サイラスが私にしたように、幼かったあの子にも悪意ある情報を吹き込んだのだと察しがつきましたから」
「⋯⋯そうね。あの子はきっと、あの男の言葉を鵜呑みにしたのね」
それが腑に落ちたから、弟に感じていたもどかしさは気づけば霧散していた。
と言っても、彼の現状を聞いても胸が痛まない程度に怒りは残っているのだが。
「ねぇ、セシリア。どうしてあの子は、貴女が気にも留めなかったサイラスの言葉を、鵜呑みにしたと思う?」
悲しげな瞳をした母の問いかけに、私は答えに窮した。
何故かとは、考えていなかった。
ただ単純に──あの男が上手で、弟が愚かだったと、改めて考えてもその程度にしか思わない。
「あの子が、誰よりもプライセル公爵家とフィングレイ侯爵家が生んだ禍根の餌食になっていたからよ」
その言葉にはっとして、私は母の顔を見返した。
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