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14. 母の帰還
しおりを挟む「⋯⋯左様でございますか」
あまりに突飛な私とマルクスの婚約解消宣言にも、そこまでの衝撃はなかった。
私をあえて"お祝い"とやらに参加させた時点で、何事かをやらかすつもりだろうことは察しがついていたし、マルクスのような婚約者がほしいと、メリルが彼に執着していることも分かっていた。
──それにしても、当の本人がこれを聞いたら一体どんな反応をするだろう。
と、そんな呑気なことを思った。
父の発言時に一瞬勝ち誇ったような笑みを浮かべたメリルは、あまりに薄い私の反応が予想外だったらしく、今は訝しげな顔をしている。
「⋯⋯それだけか?」
父にも私の反応は予想外だったらしい。拍子抜けしたような顔をしている。
おそらく、いつもの如くあれこれと言い返すと思っていたのだろう。
やがて、父は深々とため息をついた。
「婚約解消の言葉にも動揺一つせぬとは、マルクス殿が哀れでならない。やはりこのような冷血な娘を嫁がせるよりは、メリルを嫁がせた方がマルクス殿のためになるだろう」
「そのことですが、」
また後から色々と言われるのは嫌なので、念のため注意しておく。
「私の婚約解消はともかくとして、メリルさんとマルクス様を婚約させるというお話は、お父様が、マルクス様とそのお父君と、よくお話しされてくださいね」
「⋯⋯どういうことだ?」
父は怪訝な顔をする。
当たり前のことを言ったと思うのだが、その反応に私が首を傾げたいくらいだ。
「家が関わる婚約の話を、あちらのお家抜きに進められはしないでしょう。そのお話は責任をもって、お父様がなさってくださいね」
もう一度、主語を強調しながら言う。
この場で宣言したからといって、すべてが父とメリルの望むようになる訳がない。むしろ大変なのはこれからなのだ。
何せ──
「そもそも、私とマルクス様の婚約をたいへんなご苦労の末に取り付けたのは、お母様です。それを白紙にするとおっしゃるならば、今度はそのご苦労をお父様がなさってください」
「何故だ?またあやつが話をした方が早いだろう」
父は当然のようにそう言う。
本当に考えたのだろうか。本気で言っているのだろうか。
何故って、そう思うのが何故だと問いたい。
「これはお父様がお一人でお決めになったことで、お母様はご存知ありませんのでしょう?それなのに、お母様がご助力なさるはずがないではありませんか。それをご期待なさっているのであれば、まずはお母様にお話しされるのが筋でしょう」
おそらく、父はあえて母のいぬ間に今の話をしたのだろう。母がいれば確実に反対するだろうことを分かっているからだ。
そのくせ、面倒なことはまた母がすべてやってくれると思っているのならば──我が父ながら、あまりにもおめでたい。
「そ、それもそうか。しかし、あやつは今ここにはおらぬしな。では⋯⋯この話はまた今度にすることとしよう」
私の話を聞いてすぐ、父は気勢を削がれたようだった。怖気づいたようにも見える。
その様子に業を煮やしたのはメリルだ。
「今度っていつになるんですか⁉︎ お義父さま、すぐにお義母さまに使いを出しましょう!」
「いや、しかし⋯⋯」
対する父の態度は煮え切らない。
当然だろう。父は事あるごとに当主という肩書を出して母より優位に立とうとするが、それはつまり、そんなものを振りかざさねば母より上に立てぬことを分かっているからだ。
母は、王太子妃候補に選ばれるまでの才媛であったのだから。そもそも、いつまでもお坊ちゃん気分が抜け切らない父がまともに渡り合える相手ではない。
──そして、今回の婚約解消云々の話は、まず間違いなく、母の逆鱗に触れると分かっているのだ。
「──旦那様、よろしいでしょうか?」
メリルがせっつく父に、家令が声をかけた。
「なんだ、フィリップ。今は取り込み中だ。分からぬか」
父はうるさそうな顔をしたが、その実その横槍に安堵しているであろうことはすぐに分かった。
「急ぎお耳に入れたいことがございます」
「だから今は取り込み中だと言っているだろう!そんなに危急なことか?」
「いえ⋯⋯何と申しますか⋯⋯」
「もういい!お前の随意にしろ!」
珍しくも煮え切らない態度の家令に、父は苛立たしげに叫んだ。
そのくせ家令に対応を丸投げする辺り、相変わらずのお坊っちゃまぶりである。
家令は、かしこまりましたと頭を下げ──その間際に、微かに笑んだのが、確かに見えた。悪い笑みである。
「さて、予想外に長話になったな。折角の食事が冷めてしまう。いただこうか」
「ちょっと待ってくださいお義父さま!お話は終わっていません!」
上手い具合に話を逸らせたと父は思ったのだろうが、当然メリルもそこまで愚かではない。
急な話題転換にすぐさま噛み付いた。
「落ち着きなさい、メリル。食べてからでも遅くはないだろう」
「嫌です!お義姉さまのことだわ、きっとまた何か嫌がらせをしてきます!今すぐにお義母さまにお願いしましょう!」
父は困った奴だとばかりにメリルを宥めようとするが、彼女は止まらなかった。
「お義父さまにもお話ししたでしょう?お義姉さまは最初のダンスが終わったら、放っておかれるような相手なの!昨夜だって、マルクスさまはほとんどわたしと一緒にいたのだから!そんなマルクスさまを早くお義姉さまから解放して差し上げないと!」
必死なメリルの話を何の気なしに聞いていたが、その内容に目を剥きそうになった。
ほとんど一緒にいたというのは、もしかしなくても仕事関係の挨拶回りのときか。
婚約者でさえ連れて行くのを遠慮したところに、いろんな意味での勘違い女が付きまとった──とんでもないご迷惑だ。恥さらしとはまさにこのことだろう。
人格者で滅多に怒らぬマルクスの父が、青筋を立てている姿が目に浮かんだ。
「お義父さま!早くお手紙を書いてください!
っ、あなたたちも!何をボサッとしているの⁉︎早く紙とペンを持って来なさい!」
「──その必要はございません」
父や使用人たちに向けてヒステリックに叫ぶメリルの声に、静かだが凛と張りのある声が続いた。
その場の全員が振り返った先、食堂の扉が開かれ、深々と頭を下げる家令を従えた女性が立っていた。
「長らく留守にしておりまして、申し訳ございませんでした。ただ今戻りましたわ、旦那様」
そう言って、シンシア・フィングレイ侯爵夫人は、たおやかさの下に凄みを秘めて微笑んだ。
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