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エリアーシュが乗ってきた馬車は、家の紋章が入っていないもので、装飾もまったくと言っていいほどないものだった。平民にとってはどちらかと言うと上等な部類に入るが、市井でも一般的に使われている型らしい。
それでも中は多少改造がしてあるようで、座席のクッション性はよく、そこまで乗り心地は悪くない。

貴族街と平民街を隔てる門が見えてきた。
その先はまさしく未知の世界だ。

「貴族街から出るのは初めてなんですよね?」
「はい。エリアーシュ様から機会をいただかなければ、この先も一生なかったと思います」

声をかけられて振り向けば、エリアーシュは穏やかに微笑んでいた。
それで、馬車の窓にかぶりつくようにして景色を眺めていた自身の姿に気づき、きまり悪さからセシリアは居住まいを正した。

「ああ、そうだ。馬車を降りて街に出てからは、私も貴女も貴族の子女ではなく、一平民として振る舞います。言葉遣いには気をつけてください」
「言葉遣い、ですか?」
「はい。貴女のように美しい喋り方をする平民はいませんから」

美しいという言葉は容姿に向けられたわけではなかったが、出発前のやりとりを思い出してセシリアは居心地が悪くなった。

「それと、名前ですね。平民の名前は貴族と比べて短いものが多いのです。私のことは"エル"とお呼びください」

エリアーシュの愛称──そう思ったときに、彼の従妹いとこである少女の姿が過ぎった。
それに胸が微かに痛んだが、振り切る。

「エル様とお呼びしてもよろしいのですか?」
「"様"はいりません。それと、話し方ももっと砕けたものにしましょう。⋯⋯着く前に練習しましょうか」

そんなことを突然言われても。そう思うが、彼はどこか楽しそうだ。
思いもしなかった話にセシリアは動揺し通しだというのに。

「エ⋯⋯エル?」
「はい」

それでも、愛称を呼んだエリアーシュが花開くように笑うものだから、まぁいいかと思ってしまった。


やがて、馬車は大通りから一本外れた道で止まった。
エリアーシュに声をかけられ、先に降りた彼に続いてエスコートを受けて降りる。
門を越えて平民街に入ってからそんなに経っていないから、貴族街寄りの地域なのだろう。街並みを見ても、貴族街にはもちろん劣るものの、整然と建物が並んでいる。

「馬車はここで待たせます。この後は歩きになるのですが⋯⋯」
「大丈夫です。歩きやすいブーツにいたしました」
「それはよかったです。あまり歩かなくてもいいように考えてはいるのですが」

言ってから、エリアーシュは苦笑する。

「それと、言葉遣いはもっと砕けさせてください」
「⋯⋯でも、エルはそのままよ」
「私はいいんです。お嬢様の付き添いというていにしますので」

どうやらエリアーシュの中に台本というか、設定のようなものがあるらしい。
しかし、セシリアにはどうにも不満だった。

「そんな体いらないわ。エルも気安い感じにしてちょうだい。騎士団の同僚の方に接するように。⋯⋯そうじゃないと私も楽しめないわ」

一瞬、エリアーシュの口元に笑みが浮かんだように見えた。しかしそれは本当にごく一瞬のもので、気づけば迷うような表情に取って代わっていたので、幻だったのだろうとセシリアは思う。
ややあって、ため息をつくと苦笑し、降参とばかりに諸手を挙げた。

「わかった。それなら、セシリアって呼ばせてもらうけど」
「⋯⋯ええ、もちろん」

突然呼び捨てで呼ばれた名に心臓が跳ねたが、その動揺をひた隠してセシリアは頷いた。

「じゃあ行こうか。セシリアはお茶が好きだよね?」
「ええ」
「前に贈った茶葉を憶えてる?あれを買った店なんだけど」
「まぁ、本当?」

エリアーシュについて歩き始める。
以前にもらった舶来の茶葉のことだろう。博識な執事も初めて見たという珍しいもので、入手経路が気になっていたところだ。

やがて着いたのは、小洒落た外観のお店だった。しかし、紅茶の店という雰囲気ではない。

「王城にも品物を卸していたような行商人夫婦が、引退後に趣味で始めた店らしい。茶葉以外にも雑多な物を置いているけど、昔のツテを活かしているからどれもいい品質なんだ」
「そうなの?楽しみだわ⋯⋯」

エリアーシュがドアを開けてくれる。ドアチャイムが涼やかな音を立てた。
彼がドアを押さえてくれている間に、店内へと踏み入った。

「いらっしゃい。──おや、美しいお嬢さんだ」
「お邪魔します」

チャイムに気づいたのだろう、店の奥からひょこりと顔を出した老爺が相好を崩す。行商人夫妻の夫なのだろう。セシリアはちょこんと頭を下げた。
彼女の後ろから入ってきたエリアーシュも、彼を見て軽く頭を下げる。

「こんにちは」
「おや、今度は色男⋯⋯ふむ、君は前に来たね?」
「憶えてますか?俺は二度目です」
「それはありがたい」

店主である老爺は愛想良く笑う。
エリアーシュに促されて店の中程まで進んだセシリアは、店内を見回して瞳を輝かせた。

貴族街にあるような、いかにもな高級品が整然と並んだ店ではない。この店はどこまでも雑多で、大量の品物が規則性もないように狭い店内にひしめいているのだ。
だけどそれが、まるで宝箱の中に放り込まれたような気分にしてくれる。

「色々なものがありますね」
「ああ。私があちこち回っている中で気に入った物を仕入れて並べてるんだ」
「だからこんなに素敵なんですね」

店主は、もともと皺の浮いていた顔をさらにしわくちゃにした。

「うれしいことを言ってくれるお嬢さんだね。好きなだけご覧なさい」
「ありがとうございます」

セシリアは微笑みを返すと、早速近くの棚からじっくりと眺めた。
所狭しと置かれた物たち──動物の置物や綺麗な小箱、食器類に美しい刺繍の施された布、見慣れぬ言語の本に、金属でできた用途のよくわからないものまで。

セシリアはそれら一つひとつを、それこそ時間を忘れて丁寧に視線で撫でていった。


「──セシリア」

名を呼ばれ、異国の植物図鑑をめくっていた手を止めた。
振り返れば、エリアーシュが気まずそうな顔をしていた。

「ごめん。すごく集中していたようだけど⋯⋯予約があるものだから⋯⋯」
「ご、ごめんなさい」

その話は馬車の中で聞いていた。この店の次に古本屋に寄って、それから個室を押さえてあるカフェでお茶をしようと。

「思ったより長居してしまったから、悪いけれど古本屋は止めておこうか」
「ごめんなさい⋯⋯本当に⋯⋯」

予定を丸投げしておきながら、それを乱すなど最低だとセシリアは反省する。
だけど、こんなことを言っては怒られるかもしれないが──

「古本屋にはまた今度行こう」
「⋯⋯え⋯⋯」

自分のせいで行けなくなったものの、読書好きのセシリアは、掘り出し物があるという古本屋にも興味があったのだ。
だけど、やっぱり行ってみたかったなどと言えないと思っていれば、エリアーシュが微笑とともにそう言ってくれた。
セシリアはぽかんとして彼の顔を見つめれば、彼は楽しそうに彼自身の頬をつつく。

「顔に出ていた。セシリアはわかりやすいね」
「えっ⋯⋯!」

思わず頬を両手で覆う。じわじわと熱くなっていくのがその手に伝わってきた。
エリアーシュはおもしろそうにくつくつ笑う。

「⋯⋯笑わないで」
「ごめん。セシリアの反応があまりにかわいくて」
「かっ⋯⋯!」

かわいいだなんて、初めて言われた。
思わず固まってしまったセシリアの手をするりと引いて、エリアーシュは微笑んだ。

「さ、行こう」

その自然な動作に、セシリアの顔が余計に熱くなってしまったのは、言うまでもない。
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