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第一章
1 眼球の中を漂う精霊
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城壁に囲まれた街の中を、大きな川が流れ、遠くからでも見ることのできる巨大な水車がゆっくりと回っている。
ここエスーハは、水車で有名な都市だ。
川の流れは穏やかで、川幅が広い。
足を止めて川面をのぞきこむと、見慣れた自分の顔が映る。
伸び放題の黒髪が鬱陶しい。
鼻まで引き上げていた襟巻きがずれて、顔が露になる。
奥二重の目に藍色の瞳、高くもなく低くもない鼻と薄い唇。
特徴のない顔だとよく言われる。
面白くもない自分の顔から目を逸らし、顔を上げた。
「とりあえず宿を探さないとな」
石の敷き詰められた道を歩き始める。
左手には川が流れ、右手には煉瓦作りの家が並んでいる。
このあたりに宿屋はないようだけれど、中心部に向かえばひとつくらいは見つかるだろう。
『襟巻きを上げろ、クルス』
頭の中に響く声とともに、赤くて細長い影が視界に現れた。
「はいはい」
その影を追うことはせず、まっすぐ前を見たまま襟巻きで鼻と口を隠した。
赤い影は焦点を合わせようとすると逃げるように移動する。
追うのをやめれば、視界の中央に戻ってきたりする。
目障りだけれど、慣れればさほど気にならない。
その正体は、俺の眼球の中に棲みついている精霊だ。
名前はツァル。
視界をうろうろするその姿に目鼻口があるようには見えず、一番近い形のものを挙げろと言われたら糸くずと答えたくなる。
ただし以前それを口にして怒らせてしまったことがあるので、二度言ったことはない。
俺とツァルは契約を結んでいる。
命を救ってもらう代わりに、以後ツァルの命令に従うという契約だ。
ツァルは記憶を喰う精霊らしく、俺は助けてもらう際に、それまでの記憶を根こそぎこいつに喰われている。
その後も、こいつを怒らせて記憶を喰われたことが何度かある。
ただでさえ少ない俺の記憶を、くだらないことが原因で更に減らされたらたまらない。
『おい、気をつけろよ』
「ああ、わかってる」
この精霊、いつも偉そうで口うるさいところが少々厄介だ。
厄介だけれど、かれこれ三年も一緒にいれば、諦観の域に達したりもする。
それに、世界の中心・ペリュシェスにたどり着くまでのつきあいだ。
先はそう長くない――と思いたい。
ツァルに構わず歩き続ける。
すれ違う人々の多くは、俺と同じ様に大きな布で顔の下半分を覆っている。
鼻と口を隠すのは、流行り病に対するささやかな予防だ。
昨今、世界中で死病が流行している。
治療法はわかっていない。
予防は大事だ。
特に俺のように旅をしている者は、どこでどんな病気を拾うかわからない。
『それにしても、精霊を見かけねえな』
「人間に愛想がつきたんだろ」
『そうかもな』
ツァルが呵々と笑う声が頭の中で響く。
やれやれと襟巻きの中で嘆息して空を見上げる。
既に日は大きく傾き、雲が赤く染まり始めている。
早く宿を決めなければ、野宿になりかねない。
足を速める。
橋を渡り少し進むと広場に出た。
中央には細く長く天へと伸びる木製の塔がある。
精緻な彫刻を施された、質素だけれど美しい塔。
刻まれているのは、かつて世界のどこにでも存在していたと語られる精霊たちの姿だ。
この塔は精霊の寄る辺と呼ばれている。
エスーハは精霊の集う都市と呼ばれる五つの大都市のひとつ――いや、ひとつは既に滅びたから、現存する四つのうちのひとつで、精霊の寄る辺はそれらの都市にひとつずつある。
俺はゆっくりと塔まで近付き、足を止めた。周囲に精霊たちの姿は見当たらない。
『よし、やるか』
ツァルが言うなり、目の前にぽうっと赤い光が生じた。
「なんだ? これ」
『こいつを埋めておくと、あとで役に立つ』
その光は精霊の寄る辺の中に吸い込まれ、すぐに見えなくなる。
ただそれだけだった。
これがどんな役に立つのか、俺には見当もつかない。
『さて、あとは精霊を見つけるだけだけが、どうにも姿が見えないな。気配は感じるから、この街のどこかにはいるんだろうが』
「ああ。俺もそれは感じる」
精霊は世界から姿を消しつつある。
この世界とは別に、大精霊の世界と呼ばれる世界があり、精霊の多くはそこに帰ってしまったらしい。
ツァルもいずれ目的が果たせれば、その世界に帰るのかもしれない。
そうなれば、俺は晴れて自由の身だ。
精霊に見捨てられるような世界で自由を得たところで、それは幸せなことなのか?
今にも動き出しそうな精霊の彫刻を眺めながら自分に問いかける。
それでも、やっぱり、自分の意思で行動できる自由な身のほうがいいに決まっている。
と、何かが背中にぶつかった。
「うわっ」
精霊の寄る辺に頭から突っ込みそうになって、慌てて踏みとどまる。
首をひねって肩越しに後ろを見ると、低い場所に白金色に波打つ髪が見えた。
随分と小さいな。
子どもか?
「ごごご、ごめんなさいっ!」
がばっと勢いよく上げられた顔を見て、息をのむ。
こちらを見上げる大きな深緑色の瞳に吸い込まれそうになった。
顔を隠しておらず、目と比べて若干控えめな鼻と口が露になっている。
「いや」
たいしたことはない、と言おうとしたとき、激しい足音が近づいてきた。
「待ちやがれっ!」
怒声に女の子が振り返る。
その視線の先には、こちらに駆けてくる大柄な男がいた。
顔を真っ赤にして、拳を振り上げている。
「た、助けてっ!」
女の子が救いを求めて俺の外套を掴む。
俺はその手をそっと引き剥がして言った。
「断る」
ここエスーハは、水車で有名な都市だ。
川の流れは穏やかで、川幅が広い。
足を止めて川面をのぞきこむと、見慣れた自分の顔が映る。
伸び放題の黒髪が鬱陶しい。
鼻まで引き上げていた襟巻きがずれて、顔が露になる。
奥二重の目に藍色の瞳、高くもなく低くもない鼻と薄い唇。
特徴のない顔だとよく言われる。
面白くもない自分の顔から目を逸らし、顔を上げた。
「とりあえず宿を探さないとな」
石の敷き詰められた道を歩き始める。
左手には川が流れ、右手には煉瓦作りの家が並んでいる。
このあたりに宿屋はないようだけれど、中心部に向かえばひとつくらいは見つかるだろう。
『襟巻きを上げろ、クルス』
頭の中に響く声とともに、赤くて細長い影が視界に現れた。
「はいはい」
その影を追うことはせず、まっすぐ前を見たまま襟巻きで鼻と口を隠した。
赤い影は焦点を合わせようとすると逃げるように移動する。
追うのをやめれば、視界の中央に戻ってきたりする。
目障りだけれど、慣れればさほど気にならない。
その正体は、俺の眼球の中に棲みついている精霊だ。
名前はツァル。
視界をうろうろするその姿に目鼻口があるようには見えず、一番近い形のものを挙げろと言われたら糸くずと答えたくなる。
ただし以前それを口にして怒らせてしまったことがあるので、二度言ったことはない。
俺とツァルは契約を結んでいる。
命を救ってもらう代わりに、以後ツァルの命令に従うという契約だ。
ツァルは記憶を喰う精霊らしく、俺は助けてもらう際に、それまでの記憶を根こそぎこいつに喰われている。
その後も、こいつを怒らせて記憶を喰われたことが何度かある。
ただでさえ少ない俺の記憶を、くだらないことが原因で更に減らされたらたまらない。
『おい、気をつけろよ』
「ああ、わかってる」
この精霊、いつも偉そうで口うるさいところが少々厄介だ。
厄介だけれど、かれこれ三年も一緒にいれば、諦観の域に達したりもする。
それに、世界の中心・ペリュシェスにたどり着くまでのつきあいだ。
先はそう長くない――と思いたい。
ツァルに構わず歩き続ける。
すれ違う人々の多くは、俺と同じ様に大きな布で顔の下半分を覆っている。
鼻と口を隠すのは、流行り病に対するささやかな予防だ。
昨今、世界中で死病が流行している。
治療法はわかっていない。
予防は大事だ。
特に俺のように旅をしている者は、どこでどんな病気を拾うかわからない。
『それにしても、精霊を見かけねえな』
「人間に愛想がつきたんだろ」
『そうかもな』
ツァルが呵々と笑う声が頭の中で響く。
やれやれと襟巻きの中で嘆息して空を見上げる。
既に日は大きく傾き、雲が赤く染まり始めている。
早く宿を決めなければ、野宿になりかねない。
足を速める。
橋を渡り少し進むと広場に出た。
中央には細く長く天へと伸びる木製の塔がある。
精緻な彫刻を施された、質素だけれど美しい塔。
刻まれているのは、かつて世界のどこにでも存在していたと語られる精霊たちの姿だ。
この塔は精霊の寄る辺と呼ばれている。
エスーハは精霊の集う都市と呼ばれる五つの大都市のひとつ――いや、ひとつは既に滅びたから、現存する四つのうちのひとつで、精霊の寄る辺はそれらの都市にひとつずつある。
俺はゆっくりと塔まで近付き、足を止めた。周囲に精霊たちの姿は見当たらない。
『よし、やるか』
ツァルが言うなり、目の前にぽうっと赤い光が生じた。
「なんだ? これ」
『こいつを埋めておくと、あとで役に立つ』
その光は精霊の寄る辺の中に吸い込まれ、すぐに見えなくなる。
ただそれだけだった。
これがどんな役に立つのか、俺には見当もつかない。
『さて、あとは精霊を見つけるだけだけが、どうにも姿が見えないな。気配は感じるから、この街のどこかにはいるんだろうが』
「ああ。俺もそれは感じる」
精霊は世界から姿を消しつつある。
この世界とは別に、大精霊の世界と呼ばれる世界があり、精霊の多くはそこに帰ってしまったらしい。
ツァルもいずれ目的が果たせれば、その世界に帰るのかもしれない。
そうなれば、俺は晴れて自由の身だ。
精霊に見捨てられるような世界で自由を得たところで、それは幸せなことなのか?
今にも動き出しそうな精霊の彫刻を眺めながら自分に問いかける。
それでも、やっぱり、自分の意思で行動できる自由な身のほうがいいに決まっている。
と、何かが背中にぶつかった。
「うわっ」
精霊の寄る辺に頭から突っ込みそうになって、慌てて踏みとどまる。
首をひねって肩越しに後ろを見ると、低い場所に白金色に波打つ髪が見えた。
随分と小さいな。
子どもか?
「ごごご、ごめんなさいっ!」
がばっと勢いよく上げられた顔を見て、息をのむ。
こちらを見上げる大きな深緑色の瞳に吸い込まれそうになった。
顔を隠しておらず、目と比べて若干控えめな鼻と口が露になっている。
「いや」
たいしたことはない、と言おうとしたとき、激しい足音が近づいてきた。
「待ちやがれっ!」
怒声に女の子が振り返る。
その視線の先には、こちらに駆けてくる大柄な男がいた。
顔を真っ赤にして、拳を振り上げている。
「た、助けてっ!」
女の子が救いを求めて俺の外套を掴む。
俺はその手をそっと引き剥がして言った。
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