5 / 8
ばんごう
しおりを挟む
◇◇◇
「そういえば、うちのクラスに市田っているじゃん?」
部活の練習が休憩に入るなり、蒸し風呂のような体育館から転げ出したおれたちは、風通りのいい日陰に座り込んで休んでいた。
「え? あ、ああ。いるよな。その市田がなに?」
本当は市田って名前を聞いた瞬間食いつきたかったのをぐっと抑えて、さりげなさを装いつつタクヤに訊いた。
「あいつ俺と同じマンションなんだけどさ、引っ越すみたいだぜ。今朝、家を出る時、引越し屋のトラックが来てた」
「なんだって!?」
「え?」
「間違いないのか? あの市田さん? 同じクラスの市田ゆか?」
「な、なんだよ急に立ち上がるなよ、驚くだろ。そうだよ、おまえもよく話してた、あの市田だよ。他に市田なんていないだろ?」
「そうだけど。でも、間違いないのか? なんで引っ越し屋のトラックが来てて、それが市田んちだってわかるんだよ?」
「市田んとこの母ちゃんが業者と話してんの見たんだよ。なんか、うちの母親が聞いてきた話だと、市田の両親、離婚したらしいぜ。父親はもう四月には家を出て行ってて、ふたり暮らしには今のマンションは広いからって、市田と母親も引き払うとかって……」
こっちにはいないって、そういうことだったのか!
おれは終業式の日の、市田との会話を思い出す。
てっきり長期の旅行にでも行くんだろうなと思ってた。
まさか引っ越すなんて。
「おまえんち、確か文具ハシダの向かいのマンションだよな?」
「え? ああ、そうだけど」
「悪い、おれ早退する!」
「あ、おい!」
おれはタクヤの声を振り切って駆け出した。
引っ越すなんて聞いてない。
連絡先だって、知らない。
このまま市田さんが引っ越してしまったら、もう二度と会えないかもしれない。
市田さんの引っ越し先を聞いているクラスメイトがいるとは思えないし、担任は個人情報を一生徒に容易く教えてくれたりはしないだろう。
市田さんがいなくなってしまう前に、会わないと!
文具ハシダはそんなに遠くない。
まだいてくれよ。
そう祈りながら走る。
マンションが見えた。
よかった、トラックはまだいる。
その傍に、眼鏡をかけた小さな人影が見えた。
「市田さん!」
おれが呼ぶと、市田さんが眼鏡の奥の目を丸くしてこちらを見た。
市田さんの私服姿を見るのは初めてだけれど、髪は学校にいる時と同じように、ぼさっとしている。
けれど濃紺の冬服か、白い夏服しか見たことがなかったから、水色のふわりとしたワンピースがとても似合っている市田さんにどきりとしてしまう。
「……向坂くん?」
「あ! あの、引っ越すって、聞いた、から……」
走り通しだったからなかなか息が整わない。
それでもしゃべらないと、と気が急く。
「うん。お母さんの、実家に行くの」
「それ、どこ……?」
「Y市」
「Y市って、隣の?」
「そう。隣の」
行き先が思ったよりも近くで、ほっとする。
少しずつ、息も落ち着いてくる。
「でも、学校は転校するんだろ?」
「うん」
「市田さん、ずっと悩んでたみたいだったのに、おれなにも知らなくて、ごめん」
「え?」
市田さんがずれた眼鏡のレンズの向こうで、ぱちぱちと瞬きをする。
「いつも、なにか考えてる風だったから」
「気づいてたの?」
「いつも見っ……。いや、ほら、隣の席だったから」
いつも見てたから、なんて言ったら引かれるかもしれないと、慌てて誤魔化す。
「そう……。うん。わたしが考えても、どうにもならないってわかってたけど。それでもどうしても考えちゃって。でも、もう、だいぶん吹っ切れたんだ。向坂くんのおかげかも。いつも、話しかけてくれてありがとう。嬉しかった」
「携帯!」
「え?」
「市田さんの携帯の番号、教えてよ。よければメアドも。おれ、もし迷惑じゃなかったら、時々電話するよ。おれのくだらない話でよかったら、聞いてよ、これからも。それに、なにか悩んでるんなら、おれに話してみなよ。おれ頭よくないしあんま役に立たないかもしんないけど、話を聞くくらいならできるからさ!」
一気に思ってることを伝える。
どうしても、このままさよならしてしまうのは嫌だった。
必死だった。
市田さんは驚いていたけれど、少しの間をおいてふわりと笑った。
「ありがとう。もし迷惑じゃなかったら、わたしの番号、登録してください」
よし!
思わずガッツポーズをしてしまったおれを見て、市田さんがぷっと吹き出す。
おれもつられて笑った。
笑いながら、市田さんとまだつながっていられることに心からほっとしていた。
市田さんの笑顔は、今日もやっぱり可愛いかった。
うん。
市田さんにはやっぱり笑顔が似合う。
おれは改めてそう思った。
このあと部活に戻ったおれは顧問と先輩にこてんぱんに叱られるわけだけれど、この時の幸せなおれは、そんなこと知る由もなかった。
「そういえば、うちのクラスに市田っているじゃん?」
部活の練習が休憩に入るなり、蒸し風呂のような体育館から転げ出したおれたちは、風通りのいい日陰に座り込んで休んでいた。
「え? あ、ああ。いるよな。その市田がなに?」
本当は市田って名前を聞いた瞬間食いつきたかったのをぐっと抑えて、さりげなさを装いつつタクヤに訊いた。
「あいつ俺と同じマンションなんだけどさ、引っ越すみたいだぜ。今朝、家を出る時、引越し屋のトラックが来てた」
「なんだって!?」
「え?」
「間違いないのか? あの市田さん? 同じクラスの市田ゆか?」
「な、なんだよ急に立ち上がるなよ、驚くだろ。そうだよ、おまえもよく話してた、あの市田だよ。他に市田なんていないだろ?」
「そうだけど。でも、間違いないのか? なんで引っ越し屋のトラックが来てて、それが市田んちだってわかるんだよ?」
「市田んとこの母ちゃんが業者と話してんの見たんだよ。なんか、うちの母親が聞いてきた話だと、市田の両親、離婚したらしいぜ。父親はもう四月には家を出て行ってて、ふたり暮らしには今のマンションは広いからって、市田と母親も引き払うとかって……」
こっちにはいないって、そういうことだったのか!
おれは終業式の日の、市田との会話を思い出す。
てっきり長期の旅行にでも行くんだろうなと思ってた。
まさか引っ越すなんて。
「おまえんち、確か文具ハシダの向かいのマンションだよな?」
「え? ああ、そうだけど」
「悪い、おれ早退する!」
「あ、おい!」
おれはタクヤの声を振り切って駆け出した。
引っ越すなんて聞いてない。
連絡先だって、知らない。
このまま市田さんが引っ越してしまったら、もう二度と会えないかもしれない。
市田さんの引っ越し先を聞いているクラスメイトがいるとは思えないし、担任は個人情報を一生徒に容易く教えてくれたりはしないだろう。
市田さんがいなくなってしまう前に、会わないと!
文具ハシダはそんなに遠くない。
まだいてくれよ。
そう祈りながら走る。
マンションが見えた。
よかった、トラックはまだいる。
その傍に、眼鏡をかけた小さな人影が見えた。
「市田さん!」
おれが呼ぶと、市田さんが眼鏡の奥の目を丸くしてこちらを見た。
市田さんの私服姿を見るのは初めてだけれど、髪は学校にいる時と同じように、ぼさっとしている。
けれど濃紺の冬服か、白い夏服しか見たことがなかったから、水色のふわりとしたワンピースがとても似合っている市田さんにどきりとしてしまう。
「……向坂くん?」
「あ! あの、引っ越すって、聞いた、から……」
走り通しだったからなかなか息が整わない。
それでもしゃべらないと、と気が急く。
「うん。お母さんの、実家に行くの」
「それ、どこ……?」
「Y市」
「Y市って、隣の?」
「そう。隣の」
行き先が思ったよりも近くで、ほっとする。
少しずつ、息も落ち着いてくる。
「でも、学校は転校するんだろ?」
「うん」
「市田さん、ずっと悩んでたみたいだったのに、おれなにも知らなくて、ごめん」
「え?」
市田さんがずれた眼鏡のレンズの向こうで、ぱちぱちと瞬きをする。
「いつも、なにか考えてる風だったから」
「気づいてたの?」
「いつも見っ……。いや、ほら、隣の席だったから」
いつも見てたから、なんて言ったら引かれるかもしれないと、慌てて誤魔化す。
「そう……。うん。わたしが考えても、どうにもならないってわかってたけど。それでもどうしても考えちゃって。でも、もう、だいぶん吹っ切れたんだ。向坂くんのおかげかも。いつも、話しかけてくれてありがとう。嬉しかった」
「携帯!」
「え?」
「市田さんの携帯の番号、教えてよ。よければメアドも。おれ、もし迷惑じゃなかったら、時々電話するよ。おれのくだらない話でよかったら、聞いてよ、これからも。それに、なにか悩んでるんなら、おれに話してみなよ。おれ頭よくないしあんま役に立たないかもしんないけど、話を聞くくらいならできるからさ!」
一気に思ってることを伝える。
どうしても、このままさよならしてしまうのは嫌だった。
必死だった。
市田さんは驚いていたけれど、少しの間をおいてふわりと笑った。
「ありがとう。もし迷惑じゃなかったら、わたしの番号、登録してください」
よし!
思わずガッツポーズをしてしまったおれを見て、市田さんがぷっと吹き出す。
おれもつられて笑った。
笑いながら、市田さんとまだつながっていられることに心からほっとしていた。
市田さんの笑顔は、今日もやっぱり可愛いかった。
うん。
市田さんにはやっぱり笑顔が似合う。
おれは改めてそう思った。
このあと部活に戻ったおれは顧問と先輩にこてんぱんに叱られるわけだけれど、この時の幸せなおれは、そんなこと知る由もなかった。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。
松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。
そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。
しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。
愛することをやめたら、怒る必要もなくなりました。今さら私を愛する振りなんて、していただかなくても大丈夫です。
石河 翠
恋愛
貴族令嬢でありながら、家族に虐げられて育ったアイビー。彼女は社交界でも人気者の恋多き侯爵エリックに望まれて、彼の妻となった。
ひとなみに愛される生活を夢見たものの、彼が欲していたのは、夫に従順で、家の中を取り仕切る女主人のみ。先妻の子どもと仲良くできない彼女をエリックは疎み、なじる。
それでもエリックを愛し、結婚生活にしがみついていたアイビーだが、彼の子どもに言われたたった一言で心が折れてしまう。ところが、愛することを止めてしまえばその生活は以前よりも穏やかで心地いいものになっていて……。
愛することをやめた途端に愛を囁くようになったヒーローと、その愛をやんわりと拒むヒロインのお話。
この作品は他サイトにも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品(写真ID 179331)をお借りしております。
あなたには、この程度のこと、だったのかもしれませんが。
ふまさ
恋愛
楽しみにしていた、パーティー。けれどその場は、信じられないほどに凍り付いていた。
でも。
愉快そうに声を上げて笑う者が、一人、いた。
王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました
さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。
王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ
頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。
ゆるい設定です
【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。
五月ふう
恋愛
リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。
「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」
今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。
「そう……。」
マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。
明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。
リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。
「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」
ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。
「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」
「ちっ……」
ポールは顔をしかめて舌打ちをした。
「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」
ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。
だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。
二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。
「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」
フツメンのくせに生意気だ!
スズキアカネ
恋愛
小5からの付き合いの腐れ縁の彼女は誰もが振り向く美人さん。そして私は目立たないその他大勢。私が好きになった人はみんな彼女に惹かれていく。
──君もそうなの? フツメンの逸見君。
【全8話】
◆◇◆
無断転載転用禁止。Do not repost.
「君の為の時間は取れない」と告げた旦那様の意図を私はちゃんと理解しています。
あおくん
恋愛
憧れの人であった旦那様は初夜が終わったあと私にこう告げた。
「君の為の時間は取れない」と。
それでも私は幸せだった。だから、旦那様を支えられるような妻になりたいと願った。
そして騎士団長でもある旦那様は次の日から家を空け、旦那様と入れ違いにやって来たのは旦那様の母親と見知らぬ女性。
旦那様の告げた「君の為の時間は取れない」という言葉はお二人には別の意味で伝わったようだ。
あなたは愛されていない。愛してもらうためには必要なことだと過度な労働を強いた結果、過労で倒れた私は記憶喪失になる。
そして帰ってきた旦那様は、全てを忘れていた私に困惑する。
※35〜37話くらいで終わります。
私があなたを好きだったころ
豆狸
恋愛
「……エヴァンジェリン。僕には好きな女性がいる。初恋の人なんだ。学園の三年間だけでいいから、聖花祭は彼女と過ごさせてくれ」
※1/10タグの『婚約解消』を『婚約→白紙撤回』に訂正しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる