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2章
囁きと幻影
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静まり返った廊下を進むにつれ、空気はさらに重苦しくなった。古びた絨毯を踏みしめるたびに、微かな埃の匂いが鼻をつく。壁には所々に剥げた跡があり、その下から覗く石膏の白さが、薄暗い廊下に不気味な陰影を落としていた。神藤葉羽は、時折立ち止まり、耳を澄ませた。廊下の奥からは、かすかな物音が聞こえてくるような気がした。それは、何かが引きずられるような音、あるいは誰かがすすり泣くような音にも聞こえた。
「葉羽君……なんだか、怖い」
望月彩由美が不安そうに呟いた。彼女の小さな手は、葉羽の腕にしっかりと掴まっていた。葉羽は彩由美の肩に手を置き、優しく微笑みかけた。
「大丈夫だ。何も心配することはない」
そう言ったものの、葉羽自身も内心では不安を感じていた。この館には、何か得体の知れないものが潜んでいるような気がしてならない。
しばらく進むと、廊下の突き当たりに扉が現れた。葉羽は慎重に扉を開けると、そこは共同の談話室だった。数人の患者たちがソファに座ったり、床に寝転がったりしていた。皆、うつろな表情で天井を見つめたり、何かを呟いたりしている。その様子は、まるで生気を失った人形のようだった。
葉羽と彩由美が入ってくると、患者たちの一部が視線を向けた。しかし、すぐに興味を失ったかのように、再びうつろな表情に戻った。葉羽は患者たちに近づき、話しかけてみた。
「こんにちは。少しお話を聞かせて頂けますか?」
葉羽の言葉に反応したのは、若い女性だった。彼女は怯えたように身を縮こませ、震える声で話し始めた。
「……来る……あいつが来る……」
「あいつ、とは誰のことですか?」
葉羽が優しく尋ねると、女性はさらに怯えた様子になった。
「……ピエロ……怖い……笑ってる……」
女性はそれだけ言うと、再び黙り込んでしまった。葉羽は他の患者たちにも話しかけてみたが、返ってくる言葉はどれも支離滅裂で、具体的な情報は得られなかった。「ピエロ」「怖い」「来る」……断片的な言葉だけが、葉羽の耳に焼き付いた。
その時、葉羽は談話室の隅で、一人のお婆さんが壁に向かって何かを呟いているのに気づいた。お婆さんは、まるで誰かと話しているかのように、一人で言葉を繰り返していた。
「……赤い鼻……白い顔……笑ってる……消えない……」
お婆さんの言葉は、他の患者たちよりも具体的だった。葉羽はお婆さんに近づき、静かに話しかけた。
「お婆さん、何か見ているんですか?」
葉羽の問いかけにお婆さんはゆっくりと振り返った。濁った瞳は焦点が定まっておらず、どこか遠くを見ているようだった。
「……ピエロ……あそこに……笑ってる……」
お婆さんは震える指で、壁の一点を指差した。しかし、そこには何もない。ただの白い壁があるだけだ。
葉羽は壁に近づき、注意深く観察してみた。しかし、何も異常は見当たらない。ただの、何の変哲もない壁だ。
「……見えない……?」
お婆さんが呟いた。その声は小さく、弱々しかった。
「いいえ、見えますよ。白い壁ですね」
葉羽は優しく答えた。お婆さんは首を横に振り、再び壁に向かって呟き始めた。
「……嘘……あそこにいる……笑ってる……消えない……」
葉羽はお婆さんの言葉に、ゾッとするような寒気を感じた。見えない何かが、この部屋の中にいる。そして、それは患者たちを恐怖に陥れている。
その時、談話室の窓の外で、何かが動くのが見えた。葉羽は窓に近づき、外の様子を窺った。しかし、そこには何もない。ただ、木々が風に揺れているだけだ。
「……気のせい、かな」
葉羽は呟いた。しかし、その直後、談話室の奥から、かすかな笑い声が聞こえてきた。それは、人間の笑い声とはどこか違う、不気味な響きだった。
「……聞こえた……?」
彩由美が怯えた声で尋ねた。葉羽は頷いた。確かに、笑い声が聞こえた。それは、まるでピエロの笑い声のようだった。
「……どこから……?」
彩由美は不安そうに周囲を見渡した。患者たちは相変わらずうつろな表情で、何も気づいていない様子だ。笑い声は、どこからともなく聞こえてきて、すぐに消えてしまった。
葉羽は、この談話室に何か仕掛けがあるのではないかと考え始めた。音響装置、あるいは幻覚を誘発するガスのようなもの……。患者たちの証言、お婆さんの言葉、そして今聞こえた笑い声。全てが、「ピエロ」の存在を暗示している。
その時、葉羽は患者たちが共通して特定の音や光に反応していることに気づいた。天井の蛍光灯のちらつき、空調の送風音、そして廊下の奥から聞こえてくるかすかな物音。それらに反応して、患者たちは怯えたり、呟いたりしているのだ。
「もしかして……」
葉羽は呟いた。そして、ある仮説を立て始めた。もし、この診療所が何者かによって操作され、患者たちに「ピエロの幻覚」を見させているとしたら……?
「葉羽君……なんだか、怖い」
望月彩由美が不安そうに呟いた。彼女の小さな手は、葉羽の腕にしっかりと掴まっていた。葉羽は彩由美の肩に手を置き、優しく微笑みかけた。
「大丈夫だ。何も心配することはない」
そう言ったものの、葉羽自身も内心では不安を感じていた。この館には、何か得体の知れないものが潜んでいるような気がしてならない。
しばらく進むと、廊下の突き当たりに扉が現れた。葉羽は慎重に扉を開けると、そこは共同の談話室だった。数人の患者たちがソファに座ったり、床に寝転がったりしていた。皆、うつろな表情で天井を見つめたり、何かを呟いたりしている。その様子は、まるで生気を失った人形のようだった。
葉羽と彩由美が入ってくると、患者たちの一部が視線を向けた。しかし、すぐに興味を失ったかのように、再びうつろな表情に戻った。葉羽は患者たちに近づき、話しかけてみた。
「こんにちは。少しお話を聞かせて頂けますか?」
葉羽の言葉に反応したのは、若い女性だった。彼女は怯えたように身を縮こませ、震える声で話し始めた。
「……来る……あいつが来る……」
「あいつ、とは誰のことですか?」
葉羽が優しく尋ねると、女性はさらに怯えた様子になった。
「……ピエロ……怖い……笑ってる……」
女性はそれだけ言うと、再び黙り込んでしまった。葉羽は他の患者たちにも話しかけてみたが、返ってくる言葉はどれも支離滅裂で、具体的な情報は得られなかった。「ピエロ」「怖い」「来る」……断片的な言葉だけが、葉羽の耳に焼き付いた。
その時、葉羽は談話室の隅で、一人のお婆さんが壁に向かって何かを呟いているのに気づいた。お婆さんは、まるで誰かと話しているかのように、一人で言葉を繰り返していた。
「……赤い鼻……白い顔……笑ってる……消えない……」
お婆さんの言葉は、他の患者たちよりも具体的だった。葉羽はお婆さんに近づき、静かに話しかけた。
「お婆さん、何か見ているんですか?」
葉羽の問いかけにお婆さんはゆっくりと振り返った。濁った瞳は焦点が定まっておらず、どこか遠くを見ているようだった。
「……ピエロ……あそこに……笑ってる……」
お婆さんは震える指で、壁の一点を指差した。しかし、そこには何もない。ただの白い壁があるだけだ。
葉羽は壁に近づき、注意深く観察してみた。しかし、何も異常は見当たらない。ただの、何の変哲もない壁だ。
「……見えない……?」
お婆さんが呟いた。その声は小さく、弱々しかった。
「いいえ、見えますよ。白い壁ですね」
葉羽は優しく答えた。お婆さんは首を横に振り、再び壁に向かって呟き始めた。
「……嘘……あそこにいる……笑ってる……消えない……」
葉羽はお婆さんの言葉に、ゾッとするような寒気を感じた。見えない何かが、この部屋の中にいる。そして、それは患者たちを恐怖に陥れている。
その時、談話室の窓の外で、何かが動くのが見えた。葉羽は窓に近づき、外の様子を窺った。しかし、そこには何もない。ただ、木々が風に揺れているだけだ。
「……気のせい、かな」
葉羽は呟いた。しかし、その直後、談話室の奥から、かすかな笑い声が聞こえてきた。それは、人間の笑い声とはどこか違う、不気味な響きだった。
「……聞こえた……?」
彩由美が怯えた声で尋ねた。葉羽は頷いた。確かに、笑い声が聞こえた。それは、まるでピエロの笑い声のようだった。
「……どこから……?」
彩由美は不安そうに周囲を見渡した。患者たちは相変わらずうつろな表情で、何も気づいていない様子だ。笑い声は、どこからともなく聞こえてきて、すぐに消えてしまった。
葉羽は、この談話室に何か仕掛けがあるのではないかと考え始めた。音響装置、あるいは幻覚を誘発するガスのようなもの……。患者たちの証言、お婆さんの言葉、そして今聞こえた笑い声。全てが、「ピエロ」の存在を暗示している。
その時、葉羽は患者たちが共通して特定の音や光に反応していることに気づいた。天井の蛍光灯のちらつき、空調の送風音、そして廊下の奥から聞こえてくるかすかな物音。それらに反応して、患者たちは怯えたり、呟いたりしているのだ。
「もしかして……」
葉羽は呟いた。そして、ある仮説を立て始めた。もし、この診療所が何者かによって操作され、患者たちに「ピエロの幻覚」を見させているとしたら……?
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