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序章
悪夢の始まり
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風が止んだ。
神藤葉羽(しんどう はね)は、庭に面した大きな窓から空を見上げた。つい先ほどまで、木々を揺らし庭のバラを散らしていた強風が、まるで何かに切り取られたように静まり返っている。不自然な静寂が、葉羽の胸に小さな波紋を広げた。
「どうしたの、葉羽君?」
向かいのソファで紅茶を飲んでいた幼馴染みの望月彩由美(もちづき あゆみ)が、不思議そうに首を傾げる。彼女の傍らには、彼女が持ってきた手作りのフルーツタルトが、ガラスのケーキスタンドに乗せられていた。普段なら真っ先に飛びつく甘い誘惑も、今日の葉羽の心には響かない。
「いや……何でもない。ただ、急に風が止んだから、少し気になっただけだ」
葉羽は曖昧に笑って誤魔化した。窓の外に広がる庭は、初夏の陽光に照らされ、穏やかで平和そのものだ。だが、葉羽の心に湧き上がった小さな違和感は、消えることなく留まり続けた。
「そう? それより葉羽君、ちゃんと聞いてる? 私、叔母さんの話をしてるんだけど」
彩由美が少し拗ねたように言う。彼女の叔母、望月静香(もちづき しずか)は、最近「クロウ・ハウス」という精神科診療所に入院したばかりだった。彩由美は、その診療所で起こっている奇妙な出来事について話していたのだ。
「ああ、聞いてるよ。静香さんが入院している診療所で、患者たちが『ピエロを見た』と怯えているっていう話だろ?」
葉羽は紅茶を一口飲み、平静を装って言った。彩由美の話は、非現実的で荒唐無稽に聞こえた。ピエロ? 精神科の患者たちが作り出した集団幻覚か、あるいは何かの比喩表現だろうと、葉羽は考えていた。
「そうなんだけど……なんだか、ただの幻覚じゃないような気がして。叔母さんの様子も変だし、電話の声も震えてたし……」
彩由美は不安そうに呟く。彼女の不安げな表情を見て、葉羽は少し考え込んだ。彩由美は決して大袈裟なことを言う性格ではない。彼女がそこまで心配するということは、何か尋常ではないことが起きているのかもしれない。
「具体的に、どんな風に『ピエロを見た』って言ってるんだ?」
葉羽は出来るだけ冷静に、客観的な情報を引き出そうと試みた。
「それが……はっきりとは言わないの。ただ、『来る』とか『笑ってる』とか、『こっちを見ている』とか……」
彩由美は言葉を探しながら、断片的な情報を語る。その言葉から、葉羽は具体的なイメージを掴むことができなかった。だが、彩由美の言葉に込められた不安と恐怖は、確かに葉羽の心に伝わってきた。
「診療所の名前は……クロウ・ハウス、だったか。烏の館、か……」
葉羽は窓の外に視線を戻した。青空には雲一つなく、どこまでも穏やかだ。だが、その穏やかさの裏に、何か不穏なものが潜んでいるような気がしてならない。
「ねえ、葉羽君……お願いがあるんだけど」
彩由美が不安げな瞳で葉羽を見つめる。
「僕に、どうして欲しいんだ?」
葉羽は彩由美の言葉を促した。
「一緒に行ってくれないかな、クロウ・ハウス……叔母さんを見舞いがてら、診療所の様子を見てきて欲しいの。葉羽君なら、何か分かるかもしれないし……」
彩由美は、すがるような眼差しで葉羽を見つめた。その瞳に映る自分の姿を見て、葉羽は断れないことを悟った。
「分かった。行ってみよう、そのクロウ・ハウスに」
葉羽は静かに答えた。好奇心と、かすかな不安が胸の中で交錯する。だが、それ以上に、彩由美の不安を取り除きたいという思いが強かった。
「本当? ありがとう、葉羽君!」
彩由美の顔に、ぱっと花が咲いたような笑顔が広がった。その笑顔を見て、葉羽も自然と微笑んだ。
その日の午後、葉羽と彩由美はクロウ・ハウスへと向かった。車が街を離れ、山道を進むにつれて、周囲の景色は徐々に寂しくなっていく。鬱蒼とした木々に囲まれた細い道を進むと、やがて古びた洋館が姿を現した。それが、目的の精神科診療所「クロウ・ハウス」だった。
高い塀に囲まれた敷地、蔦の絡まる石造りの外壁、そして屋根に止まった数羽の烏。その全てが、これから訪れる場所に不吉な影を落としているように感じられた。
車を降り、重厚な鉄門をくぐると、冷たい空気が肌を撫でた。高くそびえる洋館は、まるで巨大な墓標のように、葉羽と彩由美を見下ろしている。
「……ここが、クロウ・ハウス」
彩由美が不安げに呟いた。その言葉に、葉羽は静かに頷く。
この時、葉羽はまだ知らなかった。この閉ざされた館で、想像を絶する悪夢が待ち受けていることを。そして、その悪夢が、彼らの人生を大きく変えることになることを。
風が、再び吹き始めた。だが、それは庭を吹き抜けた穏やかな風とは違い、まるで亡霊の囁きのような、不気味な音を立てていた。
神藤葉羽(しんどう はね)は、庭に面した大きな窓から空を見上げた。つい先ほどまで、木々を揺らし庭のバラを散らしていた強風が、まるで何かに切り取られたように静まり返っている。不自然な静寂が、葉羽の胸に小さな波紋を広げた。
「どうしたの、葉羽君?」
向かいのソファで紅茶を飲んでいた幼馴染みの望月彩由美(もちづき あゆみ)が、不思議そうに首を傾げる。彼女の傍らには、彼女が持ってきた手作りのフルーツタルトが、ガラスのケーキスタンドに乗せられていた。普段なら真っ先に飛びつく甘い誘惑も、今日の葉羽の心には響かない。
「いや……何でもない。ただ、急に風が止んだから、少し気になっただけだ」
葉羽は曖昧に笑って誤魔化した。窓の外に広がる庭は、初夏の陽光に照らされ、穏やかで平和そのものだ。だが、葉羽の心に湧き上がった小さな違和感は、消えることなく留まり続けた。
「そう? それより葉羽君、ちゃんと聞いてる? 私、叔母さんの話をしてるんだけど」
彩由美が少し拗ねたように言う。彼女の叔母、望月静香(もちづき しずか)は、最近「クロウ・ハウス」という精神科診療所に入院したばかりだった。彩由美は、その診療所で起こっている奇妙な出来事について話していたのだ。
「ああ、聞いてるよ。静香さんが入院している診療所で、患者たちが『ピエロを見た』と怯えているっていう話だろ?」
葉羽は紅茶を一口飲み、平静を装って言った。彩由美の話は、非現実的で荒唐無稽に聞こえた。ピエロ? 精神科の患者たちが作り出した集団幻覚か、あるいは何かの比喩表現だろうと、葉羽は考えていた。
「そうなんだけど……なんだか、ただの幻覚じゃないような気がして。叔母さんの様子も変だし、電話の声も震えてたし……」
彩由美は不安そうに呟く。彼女の不安げな表情を見て、葉羽は少し考え込んだ。彩由美は決して大袈裟なことを言う性格ではない。彼女がそこまで心配するということは、何か尋常ではないことが起きているのかもしれない。
「具体的に、どんな風に『ピエロを見た』って言ってるんだ?」
葉羽は出来るだけ冷静に、客観的な情報を引き出そうと試みた。
「それが……はっきりとは言わないの。ただ、『来る』とか『笑ってる』とか、『こっちを見ている』とか……」
彩由美は言葉を探しながら、断片的な情報を語る。その言葉から、葉羽は具体的なイメージを掴むことができなかった。だが、彩由美の言葉に込められた不安と恐怖は、確かに葉羽の心に伝わってきた。
「診療所の名前は……クロウ・ハウス、だったか。烏の館、か……」
葉羽は窓の外に視線を戻した。青空には雲一つなく、どこまでも穏やかだ。だが、その穏やかさの裏に、何か不穏なものが潜んでいるような気がしてならない。
「ねえ、葉羽君……お願いがあるんだけど」
彩由美が不安げな瞳で葉羽を見つめる。
「僕に、どうして欲しいんだ?」
葉羽は彩由美の言葉を促した。
「一緒に行ってくれないかな、クロウ・ハウス……叔母さんを見舞いがてら、診療所の様子を見てきて欲しいの。葉羽君なら、何か分かるかもしれないし……」
彩由美は、すがるような眼差しで葉羽を見つめた。その瞳に映る自分の姿を見て、葉羽は断れないことを悟った。
「分かった。行ってみよう、そのクロウ・ハウスに」
葉羽は静かに答えた。好奇心と、かすかな不安が胸の中で交錯する。だが、それ以上に、彩由美の不安を取り除きたいという思いが強かった。
「本当? ありがとう、葉羽君!」
彩由美の顔に、ぱっと花が咲いたような笑顔が広がった。その笑顔を見て、葉羽も自然と微笑んだ。
その日の午後、葉羽と彩由美はクロウ・ハウスへと向かった。車が街を離れ、山道を進むにつれて、周囲の景色は徐々に寂しくなっていく。鬱蒼とした木々に囲まれた細い道を進むと、やがて古びた洋館が姿を現した。それが、目的の精神科診療所「クロウ・ハウス」だった。
高い塀に囲まれた敷地、蔦の絡まる石造りの外壁、そして屋根に止まった数羽の烏。その全てが、これから訪れる場所に不吉な影を落としているように感じられた。
車を降り、重厚な鉄門をくぐると、冷たい空気が肌を撫でた。高くそびえる洋館は、まるで巨大な墓標のように、葉羽と彩由美を見下ろしている。
「……ここが、クロウ・ハウス」
彩由美が不安げに呟いた。その言葉に、葉羽は静かに頷く。
この時、葉羽はまだ知らなかった。この閉ざされた館で、想像を絶する悪夢が待ち受けていることを。そして、その悪夢が、彼らの人生を大きく変えることになることを。
風が、再び吹き始めた。だが、それは庭を吹き抜けた穏やかな風とは違い、まるで亡霊の囁きのような、不気味な音を立てていた。
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