1 / 7
1章
消失の旋律
しおりを挟む
雨が、灰色のキャンバスに無数の銀糸を織り込むように、静かに降り続いていた。神藤葉羽は、書斎のロッキングチェアに深く腰掛け、古びた洋書のページを繰っていた。窓の外の景色は、雨に濡れた木々が物憂げに揺れるばかりで、単調なモノクロ映画の一場面のようだ。しかし、葉羽の脳内は、活字の奔流が激しく渦巻き、色彩豊かな想像の世界が広がっていた。
「……なるほど、犯人は死体の消失トリックに、鏡を用いたというわけか」
愛読する探偵小説の終盤、難解な謎が解き明かされる場面に、葉羽は知的な興奮を覚えていた。紙媒体特有のインクの匂いと、使い込まれた紙の質感が、彼の読書体験をより豊かなものにする。もっとも、電子書籍の利便性も捨てがたい。どちらの形態であっても、優れたミステリーは、葉羽にとって至福のひとときをもたらすのだ。
「葉羽くん、お茶が入ったわよ」
穏やかな声が、思考の迷宮に没頭していた葉羽を現実に引き戻した。扉の向こうから顔を覗かせたのは、幼馴染の望月彩由美だった。彼女は湯気の立つティーカップを載せたトレーを手に、柔らかな微笑みを浮かべている。
「ああ、彩由美。ありがとう」
葉羽は椅子から立ち上がり、彩由美からティーカップを受け取った。温かい紅茶の香りが、雨で冷え込んだ室内にふわりと広がっていく。彩由美は部屋の中を見渡し、壁一面に並べられた書棚に目を留めた。
「相変わらず凄い本の量ね。葉羽くんの部屋って、図書館みたい」
「まあね。知識は探偵の武器だから」
葉羽は自嘲気味に笑いながら、窓際のテーブルにティーカップを置いた。彩由美は、ロッキングチェアに置かれた探偵小説の表紙をちらりと見て、首を傾げる。
「また、難しい本読んでるの? 私には全然わからないけど、葉羽くんは本当に推理小説が好きなのね」
「好き、というより……ライフワークかな。日常に潜む謎を解き明かすことが、僕の生きがいなんだ」
葉羽は窓の外の雨景色に視線を向けた。彼の瞳には、単なる雨粒ではなく、何か不可解な暗号が隠されているかのように映っている。
「でも、この街って平和よね。大きな事件なんて、めったに起こらないし」
彩由美は、少し退屈そうに呟いた。確かに、この穏やかな住宅街では、刺激的な事件とは無縁だ。しかし、葉羽にとって、謎は日常の至る所に潜んでいる。新聞記事の見出し、行き交う人々の会話、ふとした風景の中に隠された違和感……それらを見つけ出し、論理的に解き明かすことが、彼の喜びだった。
「そうかな。僕はそうは思わないけど。世界は謎に満ちている。それに気づけるかどうかの問題だ」
その時、玄関のチャイムが鳴った。彩由美が応対に出ると、郵便配達員が分厚い封筒を届けに来た。封筒には、私立探偵事務所の名が印刷されている。
「葉羽くんに、速達だって」
彩由美から封筒を受け取り、葉羽は訝しげに眉をひそめた。私立探偵と、自分との間に接点はないはずだ。封筒を開けると、中には数枚の写真と、簡単な報告書が入っていた。写真には、古びた洋館の外観と、地下室らしき場所の写真が収められている。報告書には、簡潔な文章で、ある事件の概要が記されていた。
「……音響研究所の地下実験室で、所長の阿座河燐太郎博士が消失した。警察は超常現象として処理しようとしているが、不審な点が多く、事件性を疑っている、か」
葉羽の脳裏に、報告書の内容が鮮明に焼き付けられる。音響研究所、地下実験室、消失……断片的な情報が、彼の探究心を刺激する。阿座河燐太郎という名前にも聞き覚えがあった。確か、音響学と精神医学の権威で、奇矯な言動で知られる人物だ。
「どうしたの、葉羽くん? 何かあったの?」
彩由美が不安げな表情で葉羽を見つめている。葉羽は、報告書を彩由美に手渡した。
「面白い事件が舞い込んできたみたいだ。音響研究所の所長が、密室状態の実験室から忽然と消えたらしい」
「えっ、消失? どういうこと?」
彩由美は報告書の内容を読み、驚きの声を上げた。
「さあ、そこが面白いところだ。警察は超常現象として捜査を打ち切ろうとしているようだけど、僕はそうは思わない。必ず、論理的なトリックが隠されているはずだ」
葉羽の瞳に、探求心が燃え上がった。この退屈な日常を打ち破る、刺激的な謎が現れたのだ。彼は、カップに残った紅茶を一気に飲み干し、立ち上がった。
「彩由美、悪いけど、今日はこれで帰ってくれないか。すぐに準備して、現場に行ってみるつもりだ」
「えっ、もう行くの? でも、危ないかもしれないわよ」
彩由美は心配そうに葉羽を見つめた。
「大丈夫だよ。僕はただ、真実を知りたいだけだから。それに、この事件には、僕を惹きつける何かがある」
葉羽は、彩由美の言葉を遮るように言った。彼の脳内では、既に事件の謎を解き明かすための推理が始まっている。実験室は密室だった。外部からの侵入は不可能。にもかかわらず、博士は忽然と消えた。一体、どのようなトリックが使われたのか。
「……わかったわ。でも、無理はしないでね。何かあったら、すぐに連絡して」
彩由美は、葉羽の決意を察し、それ以上は何も言わなかった。
彩由美を送り出した後、葉羽は着替えを済ませ、愛車のスポーツカーに乗り込んだ。目的地は、街外れにある音響研究所だ。灰色の雨雲が垂れ込める中、車は重厚なエンジン音を響かせながら、滑るように走り出した。
ワイパーが規則的に動き、フロントガラスに付着した雨粒を払っていく。しかし、葉羽の心に湧き上がる疑問は、雨粒のように容易に拭い去ることができない。報告書に添付されていた写真が、脳裏に焼き付いている。古びた洋館、地下へと続く薄暗い階段、そして、奇妙な装置が置かれた実験室。これらの断片的な情報から、どのような真実が導き出されるのか。
車は幹線道路を離れ、鬱蒼とした森の中へと入っていく。道路は舗装されておらず、雨でぬかるんだ路面が車の振動を大きくする。木々の間を縫うように進むと、やがて古びた洋館が姿を現した。
洋館は、蔦に覆われ、長い年月の風雨に晒されたかのように、ひどく古びている。窓ガラスは割れ、屋根の一部は崩れ落ちている。一見すると廃墟のようだが、玄関の脇に掲げられた「阿座河音響研究所」と書かれた看板が、ここがまだ人の営みがある場所であることを示している。
車を降り、葉羽は傘を差しながら洋館の玄関へと向かった。重厚な木製の扉は固く閉ざされ、ノッカーを叩いても反応はない。葉羽は扉の隙間から中を覗き込んだが、暗くて中の様子はよく見えない。
「……やはり、無人か」
葉羽は呟き、周囲を見回した。洋館の周囲は深い森に囲まれ、人の気配はない。雨音が、静寂をより一層際立たせている。このまま帰ることも考えたが、葉羽の探究心はそれを許さなかった。彼は、建物の周囲を調べてみることにした。
洋館の裏手に回ると、地下室へと続く外階段を見つけた。階段は苔むしており、長い間使われていないようだ。階段を下り、重い鉄製の扉を開けると、湿った空気が顔にまとわりついた。
地下室は、地上とは比べ物にならないほど暗く、冷え込んでいた。壁に取り付けられた裸電球が、微弱な光を放っている。部屋の中央には、報告書にあった奇妙な装置が置かれていた。それは、無数の金属製のパイプと、複雑に配線された電子機器が組み合わされた、異様な形状をしている。装置の周囲には、幾何学的な模様が刻まれたパネルが壁一面に設置されている。まるで、異世界の神殿に迷い込んだかのような、不気味な光景だった。
「これが、四次元残響現象を引き起こす装置、か……」
葉羽は装置に近づき、観察を始めた。装置の表面には、いくつものダイヤルやスイッチ、そして意味不明な記号が刻まれている。葉羽は、装置の構造を理解しようと試みたが、彼の知識では解読できない。装置の傍らには、ノートパソコンが置かれており、電源が入ったままになっている。葉羽は恐る恐るパソコンの画面を見てみた。
画面には、複雑な数式とグラフが表示されている。葉羽は数学にも精通しているが、この数式は見たことがない。未知の理論に基づいて設計された装置であることは間違いない。その時、葉羽は画面の端に小さく表示された日付に気づいた。それは、阿座河博士が失踪した日と同じ日付だった。
「この装置は、博士が失踪した日に使われていたのか……」
葉羽は呟き、思考を巡らせた。博士は、この装置を使って何らかの実験を行っていたのだろうか。そして、その実験が、博士の失踪に関係しているのだろうか。
その時、葉羽は地下室の奥に、別の部屋があることに気づいた。部屋の扉は少し開いており、中からかすかな光が漏れている。葉羽は慎重に扉を開け、中を覗き込んだ。
そこは、小さな書斎のような部屋だった。壁一面に書棚が設置され、数多くの書籍が並んでいる。部屋の中央には、机と椅子が置かれ、机の上には開かれたままの本と、万年筆が置かれている。まるで、博士が今にも戻ってくるかのような、生々しい光景だった。
葉羽は部屋に入り、机の上の本を手に取った。それは、四次元空間に関する専門書だった。ページには、複雑な数式や図形がびっしりと書き込まれている。葉羽は、博士が四次元空間に強い興味を持っていたことを改めて認識した。
書棚の本を眺めていると、一冊のノートが目にとまった。それは、博士の日記だった。葉羽は日記を開き、読み始めた。
日記には、博士の研究の進捗状況や、四次元空間への探求心、そして、実験に対する不安や恐怖が赤裸々に綴られていた。
「…私はついに、四次元空間への扉を開く方法を発見したかもしれない。しかし、同時に、計り知れない恐怖を感じている。もし、私の仮説が正しければ、この実験は非常に危険なものになるだろう。しかし、私はもう後戻りできない。人類にとって未知の領域へと踏み出す、最初の一歩を……」
日記の最後のページには、そう書かれていた。日付は、博士が失踪した日の前日だった。葉羽は日記を閉じ、深く息を吸った。博士は、四次元空間への扉を開こうとしていた。そして、その実験が、彼の失踪に繋がった可能性が高い。
「四次元空間…か」
葉羽は呟き、天井を見上げた。四次元空間とは、我々が認識している三次元空間に、もう一つの次元軸が加わった空間のことだ。それは、人間の想像力を超えた、未知の領域である。博士は、音響振動を利用して、その未知の領域へと踏み込もうとしていたのだ。
その時、葉羽は地下室の奥から、かすかな物音を聞いた。それは、何かが床を擦るような、不気味な音だった。葉羽は身構え、音のする方へとゆっくりと近づいていった。
音は、先ほどの書斎の奥にある、小さな扉の向こうから聞こえてくるようだ。葉羽は扉に手をかけ、ゆっくりと開けた。
扉の向こうには、何もなかった。そこは、壁に囲まれた、ただの狭い空間だった。しかし、葉羽は、その空間に、何か異様な気配を感じた。それは、まるで、空気が震えているかのような、不思議な感覚だった。
葉羽は、空間の中に手を伸ばしてみた。すると、彼の指先は、まるで水の中を進むかのように、何の抵抗もなく空間を貫通した。
「これは……」
葉羽は驚き、空間をもう一度触ってみた。やはり、彼の指先は、空間をすり抜ける。まるで、そこに何も存在しないかのように。
その時、葉羽は、この空間が、四次元空間への入り口なのではないか、という考えに思い至った。博士は、この装置を使って、四次元空間への扉を開き、自らその中へと入って行ったのだ。
葉羽は、四次元空間へと続く入り口に、強い好奇心を覚えた。彼は、この未知の領域へと踏み込み、博士の失踪の謎を解き明かしたいという衝動に駆られた。
しかし、同時に、強い恐怖も感じていた。四次元空間は、人間の理解を超えた、未知の領域だ。そこには、何が待ち受けているのか、想像もつかない。もし、自分が四次元空間に入ってしまったら、二度と戻って来られないかもしれない。
「…どうする、葉羽」
葉羽は自問自答した。好奇心と恐怖が、彼の心の中でせめぎ合っている。彼は、深呼吸をし、心を落ち着かせようとした。
その時、地下室の入り口から、人の声が聞こえた。
「葉羽くん、いるの?」
それは、彩由美の声だった。葉羽は驚き、振り返った。彩由美は、地下室の入り口に立っており、心配そうにこちらを見つめている。
「彩由美、どうしてここに?」
葉羽は尋ねた。
「心配だったから、後を追ってきたのよ。連絡がないから、何かあったんじゃないかって」
彩由美は答えた。
「心配かけてすまない。でも、今は大丈夫だ」
葉羽は言った。
「でも、こんなところで何をしているの? この装置は何?」
彩由美は、部屋の中央にある奇妙な装置を指差して尋ねた。
「これは、阿座河博士が失踪した事件に関係している装置だ。おそらく、博士はこの装置を使って、四次元空間へと入って行ったのだろう」
葉羽は説明した。
「四次元空間? そんなものが本当にあるの?」
彩由美は驚きの声を上げた。
「さあ、それはまだわからない。だが、この事件を解明するためには、四次元空間という可能性も考慮に入れる必要がある」
葉羽は言った。
「でも、四次元空間なんて、私には想像もつかないわ」
彩由美は首を横に振った。
「僕もだ。だが、我々の想像を超えた世界が存在する可能性もある。この事件は、それを証明する絶好の機会かもしれない」
葉羽は、再び好奇心に駆られたように、四次元空間への入り口を見つめた。
「…葉羽くん、危ないわ。そんなところに近づかないで」
彩由美は、葉羽を心配そうに止めた。
「大丈夫だ。僕はただ、真実を知りたいだけだ」
葉羽は言った。彼は、彩由美の制止を振り切り、四次元空間へと続く入り口に足を踏み入れた。
彼の身体は、まるで水に溶けるように、空間の中に吸い込まれていった。彩由美は、恐怖のあまり、声を出すことすらできなかった。彼女は、葉羽が四次元空間へと消えていく姿を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
葉羽は、四次元空間の中へと落ちていった。彼の視界は、歪み、色が変化し、現実世界とは全く異なる景色が広がっていった。彼は、自分が未知の領域へと足を踏み入れたことを、改めて実感した。
「……なるほど、犯人は死体の消失トリックに、鏡を用いたというわけか」
愛読する探偵小説の終盤、難解な謎が解き明かされる場面に、葉羽は知的な興奮を覚えていた。紙媒体特有のインクの匂いと、使い込まれた紙の質感が、彼の読書体験をより豊かなものにする。もっとも、電子書籍の利便性も捨てがたい。どちらの形態であっても、優れたミステリーは、葉羽にとって至福のひとときをもたらすのだ。
「葉羽くん、お茶が入ったわよ」
穏やかな声が、思考の迷宮に没頭していた葉羽を現実に引き戻した。扉の向こうから顔を覗かせたのは、幼馴染の望月彩由美だった。彼女は湯気の立つティーカップを載せたトレーを手に、柔らかな微笑みを浮かべている。
「ああ、彩由美。ありがとう」
葉羽は椅子から立ち上がり、彩由美からティーカップを受け取った。温かい紅茶の香りが、雨で冷え込んだ室内にふわりと広がっていく。彩由美は部屋の中を見渡し、壁一面に並べられた書棚に目を留めた。
「相変わらず凄い本の量ね。葉羽くんの部屋って、図書館みたい」
「まあね。知識は探偵の武器だから」
葉羽は自嘲気味に笑いながら、窓際のテーブルにティーカップを置いた。彩由美は、ロッキングチェアに置かれた探偵小説の表紙をちらりと見て、首を傾げる。
「また、難しい本読んでるの? 私には全然わからないけど、葉羽くんは本当に推理小説が好きなのね」
「好き、というより……ライフワークかな。日常に潜む謎を解き明かすことが、僕の生きがいなんだ」
葉羽は窓の外の雨景色に視線を向けた。彼の瞳には、単なる雨粒ではなく、何か不可解な暗号が隠されているかのように映っている。
「でも、この街って平和よね。大きな事件なんて、めったに起こらないし」
彩由美は、少し退屈そうに呟いた。確かに、この穏やかな住宅街では、刺激的な事件とは無縁だ。しかし、葉羽にとって、謎は日常の至る所に潜んでいる。新聞記事の見出し、行き交う人々の会話、ふとした風景の中に隠された違和感……それらを見つけ出し、論理的に解き明かすことが、彼の喜びだった。
「そうかな。僕はそうは思わないけど。世界は謎に満ちている。それに気づけるかどうかの問題だ」
その時、玄関のチャイムが鳴った。彩由美が応対に出ると、郵便配達員が分厚い封筒を届けに来た。封筒には、私立探偵事務所の名が印刷されている。
「葉羽くんに、速達だって」
彩由美から封筒を受け取り、葉羽は訝しげに眉をひそめた。私立探偵と、自分との間に接点はないはずだ。封筒を開けると、中には数枚の写真と、簡単な報告書が入っていた。写真には、古びた洋館の外観と、地下室らしき場所の写真が収められている。報告書には、簡潔な文章で、ある事件の概要が記されていた。
「……音響研究所の地下実験室で、所長の阿座河燐太郎博士が消失した。警察は超常現象として処理しようとしているが、不審な点が多く、事件性を疑っている、か」
葉羽の脳裏に、報告書の内容が鮮明に焼き付けられる。音響研究所、地下実験室、消失……断片的な情報が、彼の探究心を刺激する。阿座河燐太郎という名前にも聞き覚えがあった。確か、音響学と精神医学の権威で、奇矯な言動で知られる人物だ。
「どうしたの、葉羽くん? 何かあったの?」
彩由美が不安げな表情で葉羽を見つめている。葉羽は、報告書を彩由美に手渡した。
「面白い事件が舞い込んできたみたいだ。音響研究所の所長が、密室状態の実験室から忽然と消えたらしい」
「えっ、消失? どういうこと?」
彩由美は報告書の内容を読み、驚きの声を上げた。
「さあ、そこが面白いところだ。警察は超常現象として捜査を打ち切ろうとしているようだけど、僕はそうは思わない。必ず、論理的なトリックが隠されているはずだ」
葉羽の瞳に、探求心が燃え上がった。この退屈な日常を打ち破る、刺激的な謎が現れたのだ。彼は、カップに残った紅茶を一気に飲み干し、立ち上がった。
「彩由美、悪いけど、今日はこれで帰ってくれないか。すぐに準備して、現場に行ってみるつもりだ」
「えっ、もう行くの? でも、危ないかもしれないわよ」
彩由美は心配そうに葉羽を見つめた。
「大丈夫だよ。僕はただ、真実を知りたいだけだから。それに、この事件には、僕を惹きつける何かがある」
葉羽は、彩由美の言葉を遮るように言った。彼の脳内では、既に事件の謎を解き明かすための推理が始まっている。実験室は密室だった。外部からの侵入は不可能。にもかかわらず、博士は忽然と消えた。一体、どのようなトリックが使われたのか。
「……わかったわ。でも、無理はしないでね。何かあったら、すぐに連絡して」
彩由美は、葉羽の決意を察し、それ以上は何も言わなかった。
彩由美を送り出した後、葉羽は着替えを済ませ、愛車のスポーツカーに乗り込んだ。目的地は、街外れにある音響研究所だ。灰色の雨雲が垂れ込める中、車は重厚なエンジン音を響かせながら、滑るように走り出した。
ワイパーが規則的に動き、フロントガラスに付着した雨粒を払っていく。しかし、葉羽の心に湧き上がる疑問は、雨粒のように容易に拭い去ることができない。報告書に添付されていた写真が、脳裏に焼き付いている。古びた洋館、地下へと続く薄暗い階段、そして、奇妙な装置が置かれた実験室。これらの断片的な情報から、どのような真実が導き出されるのか。
車は幹線道路を離れ、鬱蒼とした森の中へと入っていく。道路は舗装されておらず、雨でぬかるんだ路面が車の振動を大きくする。木々の間を縫うように進むと、やがて古びた洋館が姿を現した。
洋館は、蔦に覆われ、長い年月の風雨に晒されたかのように、ひどく古びている。窓ガラスは割れ、屋根の一部は崩れ落ちている。一見すると廃墟のようだが、玄関の脇に掲げられた「阿座河音響研究所」と書かれた看板が、ここがまだ人の営みがある場所であることを示している。
車を降り、葉羽は傘を差しながら洋館の玄関へと向かった。重厚な木製の扉は固く閉ざされ、ノッカーを叩いても反応はない。葉羽は扉の隙間から中を覗き込んだが、暗くて中の様子はよく見えない。
「……やはり、無人か」
葉羽は呟き、周囲を見回した。洋館の周囲は深い森に囲まれ、人の気配はない。雨音が、静寂をより一層際立たせている。このまま帰ることも考えたが、葉羽の探究心はそれを許さなかった。彼は、建物の周囲を調べてみることにした。
洋館の裏手に回ると、地下室へと続く外階段を見つけた。階段は苔むしており、長い間使われていないようだ。階段を下り、重い鉄製の扉を開けると、湿った空気が顔にまとわりついた。
地下室は、地上とは比べ物にならないほど暗く、冷え込んでいた。壁に取り付けられた裸電球が、微弱な光を放っている。部屋の中央には、報告書にあった奇妙な装置が置かれていた。それは、無数の金属製のパイプと、複雑に配線された電子機器が組み合わされた、異様な形状をしている。装置の周囲には、幾何学的な模様が刻まれたパネルが壁一面に設置されている。まるで、異世界の神殿に迷い込んだかのような、不気味な光景だった。
「これが、四次元残響現象を引き起こす装置、か……」
葉羽は装置に近づき、観察を始めた。装置の表面には、いくつものダイヤルやスイッチ、そして意味不明な記号が刻まれている。葉羽は、装置の構造を理解しようと試みたが、彼の知識では解読できない。装置の傍らには、ノートパソコンが置かれており、電源が入ったままになっている。葉羽は恐る恐るパソコンの画面を見てみた。
画面には、複雑な数式とグラフが表示されている。葉羽は数学にも精通しているが、この数式は見たことがない。未知の理論に基づいて設計された装置であることは間違いない。その時、葉羽は画面の端に小さく表示された日付に気づいた。それは、阿座河博士が失踪した日と同じ日付だった。
「この装置は、博士が失踪した日に使われていたのか……」
葉羽は呟き、思考を巡らせた。博士は、この装置を使って何らかの実験を行っていたのだろうか。そして、その実験が、博士の失踪に関係しているのだろうか。
その時、葉羽は地下室の奥に、別の部屋があることに気づいた。部屋の扉は少し開いており、中からかすかな光が漏れている。葉羽は慎重に扉を開け、中を覗き込んだ。
そこは、小さな書斎のような部屋だった。壁一面に書棚が設置され、数多くの書籍が並んでいる。部屋の中央には、机と椅子が置かれ、机の上には開かれたままの本と、万年筆が置かれている。まるで、博士が今にも戻ってくるかのような、生々しい光景だった。
葉羽は部屋に入り、机の上の本を手に取った。それは、四次元空間に関する専門書だった。ページには、複雑な数式や図形がびっしりと書き込まれている。葉羽は、博士が四次元空間に強い興味を持っていたことを改めて認識した。
書棚の本を眺めていると、一冊のノートが目にとまった。それは、博士の日記だった。葉羽は日記を開き、読み始めた。
日記には、博士の研究の進捗状況や、四次元空間への探求心、そして、実験に対する不安や恐怖が赤裸々に綴られていた。
「…私はついに、四次元空間への扉を開く方法を発見したかもしれない。しかし、同時に、計り知れない恐怖を感じている。もし、私の仮説が正しければ、この実験は非常に危険なものになるだろう。しかし、私はもう後戻りできない。人類にとって未知の領域へと踏み出す、最初の一歩を……」
日記の最後のページには、そう書かれていた。日付は、博士が失踪した日の前日だった。葉羽は日記を閉じ、深く息を吸った。博士は、四次元空間への扉を開こうとしていた。そして、その実験が、彼の失踪に繋がった可能性が高い。
「四次元空間…か」
葉羽は呟き、天井を見上げた。四次元空間とは、我々が認識している三次元空間に、もう一つの次元軸が加わった空間のことだ。それは、人間の想像力を超えた、未知の領域である。博士は、音響振動を利用して、その未知の領域へと踏み込もうとしていたのだ。
その時、葉羽は地下室の奥から、かすかな物音を聞いた。それは、何かが床を擦るような、不気味な音だった。葉羽は身構え、音のする方へとゆっくりと近づいていった。
音は、先ほどの書斎の奥にある、小さな扉の向こうから聞こえてくるようだ。葉羽は扉に手をかけ、ゆっくりと開けた。
扉の向こうには、何もなかった。そこは、壁に囲まれた、ただの狭い空間だった。しかし、葉羽は、その空間に、何か異様な気配を感じた。それは、まるで、空気が震えているかのような、不思議な感覚だった。
葉羽は、空間の中に手を伸ばしてみた。すると、彼の指先は、まるで水の中を進むかのように、何の抵抗もなく空間を貫通した。
「これは……」
葉羽は驚き、空間をもう一度触ってみた。やはり、彼の指先は、空間をすり抜ける。まるで、そこに何も存在しないかのように。
その時、葉羽は、この空間が、四次元空間への入り口なのではないか、という考えに思い至った。博士は、この装置を使って、四次元空間への扉を開き、自らその中へと入って行ったのだ。
葉羽は、四次元空間へと続く入り口に、強い好奇心を覚えた。彼は、この未知の領域へと踏み込み、博士の失踪の謎を解き明かしたいという衝動に駆られた。
しかし、同時に、強い恐怖も感じていた。四次元空間は、人間の理解を超えた、未知の領域だ。そこには、何が待ち受けているのか、想像もつかない。もし、自分が四次元空間に入ってしまったら、二度と戻って来られないかもしれない。
「…どうする、葉羽」
葉羽は自問自答した。好奇心と恐怖が、彼の心の中でせめぎ合っている。彼は、深呼吸をし、心を落ち着かせようとした。
その時、地下室の入り口から、人の声が聞こえた。
「葉羽くん、いるの?」
それは、彩由美の声だった。葉羽は驚き、振り返った。彩由美は、地下室の入り口に立っており、心配そうにこちらを見つめている。
「彩由美、どうしてここに?」
葉羽は尋ねた。
「心配だったから、後を追ってきたのよ。連絡がないから、何かあったんじゃないかって」
彩由美は答えた。
「心配かけてすまない。でも、今は大丈夫だ」
葉羽は言った。
「でも、こんなところで何をしているの? この装置は何?」
彩由美は、部屋の中央にある奇妙な装置を指差して尋ねた。
「これは、阿座河博士が失踪した事件に関係している装置だ。おそらく、博士はこの装置を使って、四次元空間へと入って行ったのだろう」
葉羽は説明した。
「四次元空間? そんなものが本当にあるの?」
彩由美は驚きの声を上げた。
「さあ、それはまだわからない。だが、この事件を解明するためには、四次元空間という可能性も考慮に入れる必要がある」
葉羽は言った。
「でも、四次元空間なんて、私には想像もつかないわ」
彩由美は首を横に振った。
「僕もだ。だが、我々の想像を超えた世界が存在する可能性もある。この事件は、それを証明する絶好の機会かもしれない」
葉羽は、再び好奇心に駆られたように、四次元空間への入り口を見つめた。
「…葉羽くん、危ないわ。そんなところに近づかないで」
彩由美は、葉羽を心配そうに止めた。
「大丈夫だ。僕はただ、真実を知りたいだけだ」
葉羽は言った。彼は、彩由美の制止を振り切り、四次元空間へと続く入り口に足を踏み入れた。
彼の身体は、まるで水に溶けるように、空間の中に吸い込まれていった。彩由美は、恐怖のあまり、声を出すことすらできなかった。彼女は、葉羽が四次元空間へと消えていく姿を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
葉羽は、四次元空間の中へと落ちていった。彼の視界は、歪み、色が変化し、現実世界とは全く異なる景色が広がっていった。彼は、自分が未知の領域へと足を踏み入れたことを、改めて実感した。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
時の呪縛
葉羽
ミステリー
山間の孤立した村にある古びた時計塔。かつてこの村は繁栄していたが、失踪事件が連続して発生したことで、村人たちは恐れを抱き、時計塔は放置されたままとなった。17歳の天才高校生・神藤葉羽は、友人に誘われてこの村を訪れることになる。そこで彼は、幼馴染の望月彩由美と共に、村の秘密に迫ることになる。
葉羽と彩由美は、失踪事件に関する不気味な噂を耳にし、時計塔に隠された真実を解明しようとする。しかし、時計塔の内部には、過去の記憶を呼び起こす仕掛けが待ち受けていた。彼らは、時間が歪み、過去の失踪者たちの幻影に直面する中で、次第に自らの心の奥底に潜む恐怖と向き合わせることになる。
果たして、彼らは村の呪いを解き明かし、失踪事件の真相に辿り着けるのか?そして、彼らの友情と恋心は試される。緊迫感あふれる謎解きと心理的恐怖が交錯する本格推理小説。
影の多重奏:神藤葉羽と消えた記憶の螺旋
葉羽
ミステリー
天才高校生・神藤葉羽は、幼馴染の望月彩由美と共に平穏な日常を送っていた。しかし、ある日を境に、葉羽の周囲で不可解な出来事が起こり始める。それは、まるで悪夢のような、現実と虚構の境界が曖昧になる恐怖の連鎖だった。記憶の断片、多重人格、そして暗示。葉羽は、消えた記憶の螺旋を辿り、幼馴染と共に惨劇の真相へと迫る。だが、その先には、想像を絶する真実が待ち受けていた。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
我らおっさん・サークル「異世界召喚予備軍」
虚仮橋陣屋(こけばしじんや)
青春
おっさんの、おっさんによる、おっさんのためのほろ苦い青春ストーリー
サラリーマン・寺崎正・四〇歳。彼は何処にでもいるごく普通のおっさんだ。家族のために黙々と働き、家に帰って夕食を食べ、風呂に入って寝る。そんな真面目一辺倒の毎日を過ごす、無趣味な『つまらない人間』がある時見かけた奇妙なポスターにはこう書かれていた――サークル「異世界召喚予備軍」、メンバー募集!と。そこから始まるちょっと笑えて、ちょっと勇気を貰えて、ちょっと泣ける、おっさんたちのほろ苦い青春ストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる