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1章
消失の旋律
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雨が、灰色のキャンバスに無数の銀糸を織り込むように、静かに降り続いていた。神藤葉羽は、書斎のロッキングチェアに深く腰掛け、古びた洋書のページを繰っていた。窓の外の景色は、雨に濡れた木々が物憂げに揺れるばかりで、単調なモノクロ映画の一場面のようだ。しかし、葉羽の脳内は、活字の奔流が激しく渦巻き、色彩豊かな想像の世界が広がっていた。
「……なるほど、犯人は死体の消失トリックに、鏡を用いたというわけか」
愛読する探偵小説の終盤、難解な謎が解き明かされる場面に、葉羽は知的な興奮を覚えていた。紙媒体特有のインクの匂いと、使い込まれた紙の質感が、彼の読書体験をより豊かなものにする。もっとも、電子書籍の利便性も捨てがたい。どちらの形態であっても、優れたミステリーは、葉羽にとって至福のひとときをもたらすのだ。
「葉羽くん、お茶が入ったわよ」
穏やかな声が、思考の迷宮に没頭していた葉羽を現実に引き戻した。扉の向こうから顔を覗かせたのは、幼馴染の望月彩由美だった。彼女は湯気の立つティーカップを載せたトレーを手に、柔らかな微笑みを浮かべている。
「ああ、彩由美。ありがとう」
葉羽は椅子から立ち上がり、彩由美からティーカップを受け取った。温かい紅茶の香りが、雨で冷え込んだ室内にふわりと広がっていく。彩由美は部屋の中を見渡し、壁一面に並べられた書棚に目を留めた。
「相変わらず凄い本の量ね。葉羽くんの部屋って、図書館みたい」
「まあね。知識は探偵の武器だから」
葉羽は自嘲気味に笑いながら、窓際のテーブルにティーカップを置いた。彩由美は、ロッキングチェアに置かれた探偵小説の表紙をちらりと見て、首を傾げる。
「また、難しい本読んでるの? 私には全然わからないけど、葉羽くんは本当に推理小説が好きなのね」
「好き、というより……ライフワークかな。日常に潜む謎を解き明かすことが、僕の生きがいなんだ」
葉羽は窓の外の雨景色に視線を向けた。彼の瞳には、単なる雨粒ではなく、何か不可解な暗号が隠されているかのように映っている。
「でも、この街って平和よね。大きな事件なんて、めったに起こらないし」
彩由美は、少し退屈そうに呟いた。確かに、この穏やかな住宅街では、刺激的な事件とは無縁だ。しかし、葉羽にとって、謎は日常の至る所に潜んでいる。新聞記事の見出し、行き交う人々の会話、ふとした風景の中に隠された違和感……それらを見つけ出し、論理的に解き明かすことが、彼の喜びだった。
「そうかな。僕はそうは思わないけど。世界は謎に満ちている。それに気づけるかどうかの問題だ」
その時、玄関のチャイムが鳴った。彩由美が応対に出ると、郵便配達員が分厚い封筒を届けに来た。封筒には、私立探偵事務所の名が印刷されている。
「葉羽くんに、速達だって」
彩由美から封筒を受け取り、葉羽は訝しげに眉をひそめた。私立探偵と、自分との間に接点はないはずだ。封筒を開けると、中には数枚の写真と、簡単な報告書が入っていた。写真には、古びた洋館の外観と、地下室らしき場所の写真が収められている。報告書には、簡潔な文章で、ある事件の概要が記されていた。
「……音響研究所の地下実験室で、所長の阿座河燐太郎博士が消失した。警察は超常現象として処理しようとしているが、不審な点が多く、事件性を疑っている、か」
葉羽の脳裏に、報告書の内容が鮮明に焼き付けられる。音響研究所、地下実験室、消失……断片的な情報が、彼の探究心を刺激する。阿座河燐太郎という名前にも聞き覚えがあった。確か、音響学と精神医学の権威で、奇矯な言動で知られる人物だ。
「どうしたの、葉羽くん? 何かあったの?」
彩由美が不安げな表情で葉羽を見つめている。葉羽は、報告書を彩由美に手渡した。
「面白い事件が舞い込んできたみたいだ。音響研究所の所長が、密室状態の実験室から忽然と消えたらしい」
「えっ、消失? どういうこと?」
彩由美は報告書の内容を読み、驚きの声を上げた。
「さあ、そこが面白いところだ。警察は超常現象として捜査を打ち切ろうとしているようだけど、僕はそうは思わない。必ず、論理的なトリックが隠されているはずだ」
葉羽の瞳に、探求心が燃え上がった。この退屈な日常を打ち破る、刺激的な謎が現れたのだ。彼は、カップに残った紅茶を一気に飲み干し、立ち上がった。
「彩由美、悪いけど、今日はこれで帰ってくれないか。すぐに準備して、現場に行ってみるつもりだ」
「えっ、もう行くの? でも、危ないかもしれないわよ」
彩由美は心配そうに葉羽を見つめた。
「大丈夫だよ。僕はただ、真実を知りたいだけだから。それに、この事件には、僕を惹きつける何かがある」
葉羽は、彩由美の言葉を遮るように言った。彼の脳内では、既に事件の謎を解き明かすための推理が始まっている。実験室は密室だった。外部からの侵入は不可能。にもかかわらず、博士は忽然と消えた。一体、どのようなトリックが使われたのか。
「……わかったわ。でも、無理はしないでね。何かあったら、すぐに連絡して」
彩由美は、葉羽の決意を察し、それ以上は何も言わなかった。
彩由美を送り出した後、葉羽は着替えを済ませ、愛車のスポーツカーに乗り込んだ。目的地は、街外れにある音響研究所だ。灰色の雨雲が垂れ込める中、車は重厚なエンジン音を響かせながら、滑るように走り出した。
ワイパーが規則的に動き、フロントガラスに付着した雨粒を払っていく。しかし、葉羽の心に湧き上がる疑問は、雨粒のように容易に拭い去ることができない。報告書に添付されていた写真が、脳裏に焼き付いている。古びた洋館、地下へと続く薄暗い階段、そして、奇妙な装置が置かれた実験室。これらの断片的な情報から、どのような真実が導き出されるのか。
車は幹線道路を離れ、鬱蒼とした森の中へと入っていく。道路は舗装されておらず、雨でぬかるんだ路面が車の振動を大きくする。木々の間を縫うように進むと、やがて古びた洋館が姿を現した。
洋館は、蔦に覆われ、長い年月の風雨に晒されたかのように、ひどく古びている。窓ガラスは割れ、屋根の一部は崩れ落ちている。一見すると廃墟のようだが、玄関の脇に掲げられた「阿座河音響研究所」と書かれた看板が、ここがまだ人の営みがある場所であることを示している。
車を降り、葉羽は傘を差しながら洋館の玄関へと向かった。重厚な木製の扉は固く閉ざされ、ノッカーを叩いても反応はない。葉羽は扉の隙間から中を覗き込んだが、暗くて中の様子はよく見えない。
「……やはり、無人か」
葉羽は呟き、周囲を見回した。洋館の周囲は深い森に囲まれ、人の気配はない。雨音が、静寂をより一層際立たせている。このまま帰ることも考えたが、葉羽の探究心はそれを許さなかった。彼は、建物の周囲を調べてみることにした。
洋館の裏手に回ると、地下室へと続く外階段を見つけた。階段は苔むしており、長い間使われていないようだ。階段を下り、重い鉄製の扉を開けると、湿った空気が顔にまとわりついた。
地下室は、地上とは比べ物にならないほど暗く、冷え込んでいた。壁に取り付けられた裸電球が、微弱な光を放っている。部屋の中央には、報告書にあった奇妙な装置が置かれていた。それは、無数の金属製のパイプと、複雑に配線された電子機器が組み合わされた、異様な形状をしている。装置の周囲には、幾何学的な模様が刻まれたパネルが壁一面に設置されている。まるで、異世界の神殿に迷い込んだかのような、不気味な光景だった。
「これが、四次元残響現象を引き起こす装置、か……」
葉羽は装置に近づき、観察を始めた。装置の表面には、いくつものダイヤルやスイッチ、そして意味不明な記号が刻まれている。葉羽は、装置の構造を理解しようと試みたが、彼の知識では解読できない。装置の傍らには、ノートパソコンが置かれており、電源が入ったままになっている。葉羽は恐る恐るパソコンの画面を見てみた。
画面には、複雑な数式とグラフが表示されている。葉羽は数学にも精通しているが、この数式は見たことがない。未知の理論に基づいて設計された装置であることは間違いない。その時、葉羽は画面の端に小さく表示された日付に気づいた。それは、阿座河博士が失踪した日と同じ日付だった。
「この装置は、博士が失踪した日に使われていたのか……」
葉羽は呟き、思考を巡らせた。博士は、この装置を使って何らかの実験を行っていたのだろうか。そして、その実験が、博士の失踪に関係しているのだろうか。
その時、葉羽は地下室の奥に、別の部屋があることに気づいた。部屋の扉は少し開いており、中からかすかな光が漏れている。葉羽は慎重に扉を開け、中を覗き込んだ。
そこは、小さな書斎のような部屋だった。壁一面に書棚が設置され、数多くの書籍が並んでいる。部屋の中央には、机と椅子が置かれ、机の上には開かれたままの本と、万年筆が置かれている。まるで、博士が今にも戻ってくるかのような、生々しい光景だった。
葉羽は部屋に入り、机の上の本を手に取った。それは、四次元空間に関する専門書だった。ページには、複雑な数式や図形がびっしりと書き込まれている。葉羽は、博士が四次元空間に強い興味を持っていたことを改めて認識した。
書棚の本を眺めていると、一冊のノートが目にとまった。それは、博士の日記だった。葉羽は日記を開き、読み始めた。
日記には、博士の研究の進捗状況や、四次元空間への探求心、そして、実験に対する不安や恐怖が赤裸々に綴られていた。
「…私はついに、四次元空間への扉を開く方法を発見したかもしれない。しかし、同時に、計り知れない恐怖を感じている。もし、私の仮説が正しければ、この実験は非常に危険なものになるだろう。しかし、私はもう後戻りできない。人類にとって未知の領域へと踏み出す、最初の一歩を……」
日記の最後のページには、そう書かれていた。日付は、博士が失踪した日の前日だった。葉羽は日記を閉じ、深く息を吸った。博士は、四次元空間への扉を開こうとしていた。そして、その実験が、彼の失踪に繋がった可能性が高い。
「四次元空間…か」
葉羽は呟き、天井を見上げた。四次元空間とは、我々が認識している三次元空間に、もう一つの次元軸が加わった空間のことだ。それは、人間の想像力を超えた、未知の領域である。博士は、音響振動を利用して、その未知の領域へと踏み込もうとしていたのだ。
その時、葉羽は地下室の奥から、かすかな物音を聞いた。それは、何かが床を擦るような、不気味な音だった。葉羽は身構え、音のする方へとゆっくりと近づいていった。
音は、先ほどの書斎の奥にある、小さな扉の向こうから聞こえてくるようだ。葉羽は扉に手をかけ、ゆっくりと開けた。
扉の向こうには、何もなかった。そこは、壁に囲まれた、ただの狭い空間だった。しかし、葉羽は、その空間に、何か異様な気配を感じた。それは、まるで、空気が震えているかのような、不思議な感覚だった。
葉羽は、空間の中に手を伸ばしてみた。すると、彼の指先は、まるで水の中を進むかのように、何の抵抗もなく空間を貫通した。
「これは……」
葉羽は驚き、空間をもう一度触ってみた。やはり、彼の指先は、空間をすり抜ける。まるで、そこに何も存在しないかのように。
その時、葉羽は、この空間が、四次元空間への入り口なのではないか、という考えに思い至った。博士は、この装置を使って、四次元空間への扉を開き、自らその中へと入って行ったのだ。
葉羽は、四次元空間へと続く入り口に、強い好奇心を覚えた。彼は、この未知の領域へと踏み込み、博士の失踪の謎を解き明かしたいという衝動に駆られた。
しかし、同時に、強い恐怖も感じていた。四次元空間は、人間の理解を超えた、未知の領域だ。そこには、何が待ち受けているのか、想像もつかない。もし、自分が四次元空間に入ってしまったら、二度と戻って来られないかもしれない。
「…どうする、葉羽」
葉羽は自問自答した。好奇心と恐怖が、彼の心の中でせめぎ合っている。彼は、深呼吸をし、心を落ち着かせようとした。
その時、地下室の入り口から、人の声が聞こえた。
「葉羽くん、いるの?」
それは、彩由美の声だった。葉羽は驚き、振り返った。彩由美は、地下室の入り口に立っており、心配そうにこちらを見つめている。
「彩由美、どうしてここに?」
葉羽は尋ねた。
「心配だったから、後を追ってきたのよ。連絡がないから、何かあったんじゃないかって」
彩由美は答えた。
「心配かけてすまない。でも、今は大丈夫だ」
葉羽は言った。
「でも、こんなところで何をしているの? この装置は何?」
彩由美は、部屋の中央にある奇妙な装置を指差して尋ねた。
「これは、阿座河博士が失踪した事件に関係している装置だ。おそらく、博士はこの装置を使って、四次元空間へと入って行ったのだろう」
葉羽は説明した。
「四次元空間? そんなものが本当にあるの?」
彩由美は驚きの声を上げた。
「さあ、それはまだわからない。だが、この事件を解明するためには、四次元空間という可能性も考慮に入れる必要がある」
葉羽は言った。
「でも、四次元空間なんて、私には想像もつかないわ」
彩由美は首を横に振った。
「僕もだ。だが、我々の想像を超えた世界が存在する可能性もある。この事件は、それを証明する絶好の機会かもしれない」
葉羽は、再び好奇心に駆られたように、四次元空間への入り口を見つめた。
「…葉羽くん、危ないわ。そんなところに近づかないで」
彩由美は、葉羽を心配そうに止めた。
「大丈夫だ。僕はただ、真実を知りたいだけだ」
葉羽は言った。彼は、彩由美の制止を振り切り、四次元空間へと続く入り口に足を踏み入れた。
彼の身体は、まるで水に溶けるように、空間の中に吸い込まれていった。彩由美は、恐怖のあまり、声を出すことすらできなかった。彼女は、葉羽が四次元空間へと消えていく姿を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
葉羽は、四次元空間の中へと落ちていった。彼の視界は、歪み、色が変化し、現実世界とは全く異なる景色が広がっていった。彼は、自分が未知の領域へと足を踏み入れたことを、改めて実感した。
「……なるほど、犯人は死体の消失トリックに、鏡を用いたというわけか」
愛読する探偵小説の終盤、難解な謎が解き明かされる場面に、葉羽は知的な興奮を覚えていた。紙媒体特有のインクの匂いと、使い込まれた紙の質感が、彼の読書体験をより豊かなものにする。もっとも、電子書籍の利便性も捨てがたい。どちらの形態であっても、優れたミステリーは、葉羽にとって至福のひとときをもたらすのだ。
「葉羽くん、お茶が入ったわよ」
穏やかな声が、思考の迷宮に没頭していた葉羽を現実に引き戻した。扉の向こうから顔を覗かせたのは、幼馴染の望月彩由美だった。彼女は湯気の立つティーカップを載せたトレーを手に、柔らかな微笑みを浮かべている。
「ああ、彩由美。ありがとう」
葉羽は椅子から立ち上がり、彩由美からティーカップを受け取った。温かい紅茶の香りが、雨で冷え込んだ室内にふわりと広がっていく。彩由美は部屋の中を見渡し、壁一面に並べられた書棚に目を留めた。
「相変わらず凄い本の量ね。葉羽くんの部屋って、図書館みたい」
「まあね。知識は探偵の武器だから」
葉羽は自嘲気味に笑いながら、窓際のテーブルにティーカップを置いた。彩由美は、ロッキングチェアに置かれた探偵小説の表紙をちらりと見て、首を傾げる。
「また、難しい本読んでるの? 私には全然わからないけど、葉羽くんは本当に推理小説が好きなのね」
「好き、というより……ライフワークかな。日常に潜む謎を解き明かすことが、僕の生きがいなんだ」
葉羽は窓の外の雨景色に視線を向けた。彼の瞳には、単なる雨粒ではなく、何か不可解な暗号が隠されているかのように映っている。
「でも、この街って平和よね。大きな事件なんて、めったに起こらないし」
彩由美は、少し退屈そうに呟いた。確かに、この穏やかな住宅街では、刺激的な事件とは無縁だ。しかし、葉羽にとって、謎は日常の至る所に潜んでいる。新聞記事の見出し、行き交う人々の会話、ふとした風景の中に隠された違和感……それらを見つけ出し、論理的に解き明かすことが、彼の喜びだった。
「そうかな。僕はそうは思わないけど。世界は謎に満ちている。それに気づけるかどうかの問題だ」
その時、玄関のチャイムが鳴った。彩由美が応対に出ると、郵便配達員が分厚い封筒を届けに来た。封筒には、私立探偵事務所の名が印刷されている。
「葉羽くんに、速達だって」
彩由美から封筒を受け取り、葉羽は訝しげに眉をひそめた。私立探偵と、自分との間に接点はないはずだ。封筒を開けると、中には数枚の写真と、簡単な報告書が入っていた。写真には、古びた洋館の外観と、地下室らしき場所の写真が収められている。報告書には、簡潔な文章で、ある事件の概要が記されていた。
「……音響研究所の地下実験室で、所長の阿座河燐太郎博士が消失した。警察は超常現象として処理しようとしているが、不審な点が多く、事件性を疑っている、か」
葉羽の脳裏に、報告書の内容が鮮明に焼き付けられる。音響研究所、地下実験室、消失……断片的な情報が、彼の探究心を刺激する。阿座河燐太郎という名前にも聞き覚えがあった。確か、音響学と精神医学の権威で、奇矯な言動で知られる人物だ。
「どうしたの、葉羽くん? 何かあったの?」
彩由美が不安げな表情で葉羽を見つめている。葉羽は、報告書を彩由美に手渡した。
「面白い事件が舞い込んできたみたいだ。音響研究所の所長が、密室状態の実験室から忽然と消えたらしい」
「えっ、消失? どういうこと?」
彩由美は報告書の内容を読み、驚きの声を上げた。
「さあ、そこが面白いところだ。警察は超常現象として捜査を打ち切ろうとしているようだけど、僕はそうは思わない。必ず、論理的なトリックが隠されているはずだ」
葉羽の瞳に、探求心が燃え上がった。この退屈な日常を打ち破る、刺激的な謎が現れたのだ。彼は、カップに残った紅茶を一気に飲み干し、立ち上がった。
「彩由美、悪いけど、今日はこれで帰ってくれないか。すぐに準備して、現場に行ってみるつもりだ」
「えっ、もう行くの? でも、危ないかもしれないわよ」
彩由美は心配そうに葉羽を見つめた。
「大丈夫だよ。僕はただ、真実を知りたいだけだから。それに、この事件には、僕を惹きつける何かがある」
葉羽は、彩由美の言葉を遮るように言った。彼の脳内では、既に事件の謎を解き明かすための推理が始まっている。実験室は密室だった。外部からの侵入は不可能。にもかかわらず、博士は忽然と消えた。一体、どのようなトリックが使われたのか。
「……わかったわ。でも、無理はしないでね。何かあったら、すぐに連絡して」
彩由美は、葉羽の決意を察し、それ以上は何も言わなかった。
彩由美を送り出した後、葉羽は着替えを済ませ、愛車のスポーツカーに乗り込んだ。目的地は、街外れにある音響研究所だ。灰色の雨雲が垂れ込める中、車は重厚なエンジン音を響かせながら、滑るように走り出した。
ワイパーが規則的に動き、フロントガラスに付着した雨粒を払っていく。しかし、葉羽の心に湧き上がる疑問は、雨粒のように容易に拭い去ることができない。報告書に添付されていた写真が、脳裏に焼き付いている。古びた洋館、地下へと続く薄暗い階段、そして、奇妙な装置が置かれた実験室。これらの断片的な情報から、どのような真実が導き出されるのか。
車は幹線道路を離れ、鬱蒼とした森の中へと入っていく。道路は舗装されておらず、雨でぬかるんだ路面が車の振動を大きくする。木々の間を縫うように進むと、やがて古びた洋館が姿を現した。
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車を降り、葉羽は傘を差しながら洋館の玄関へと向かった。重厚な木製の扉は固く閉ざされ、ノッカーを叩いても反応はない。葉羽は扉の隙間から中を覗き込んだが、暗くて中の様子はよく見えない。
「……やはり、無人か」
葉羽は呟き、周囲を見回した。洋館の周囲は深い森に囲まれ、人の気配はない。雨音が、静寂をより一層際立たせている。このまま帰ることも考えたが、葉羽の探究心はそれを許さなかった。彼は、建物の周囲を調べてみることにした。
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「これが、四次元残響現象を引き起こす装置、か……」
葉羽は装置に近づき、観察を始めた。装置の表面には、いくつものダイヤルやスイッチ、そして意味不明な記号が刻まれている。葉羽は、装置の構造を理解しようと試みたが、彼の知識では解読できない。装置の傍らには、ノートパソコンが置かれており、電源が入ったままになっている。葉羽は恐る恐るパソコンの画面を見てみた。
画面には、複雑な数式とグラフが表示されている。葉羽は数学にも精通しているが、この数式は見たことがない。未知の理論に基づいて設計された装置であることは間違いない。その時、葉羽は画面の端に小さく表示された日付に気づいた。それは、阿座河博士が失踪した日と同じ日付だった。
「この装置は、博士が失踪した日に使われていたのか……」
葉羽は呟き、思考を巡らせた。博士は、この装置を使って何らかの実験を行っていたのだろうか。そして、その実験が、博士の失踪に関係しているのだろうか。
その時、葉羽は地下室の奥に、別の部屋があることに気づいた。部屋の扉は少し開いており、中からかすかな光が漏れている。葉羽は慎重に扉を開け、中を覗き込んだ。
そこは、小さな書斎のような部屋だった。壁一面に書棚が設置され、数多くの書籍が並んでいる。部屋の中央には、机と椅子が置かれ、机の上には開かれたままの本と、万年筆が置かれている。まるで、博士が今にも戻ってくるかのような、生々しい光景だった。
葉羽は部屋に入り、机の上の本を手に取った。それは、四次元空間に関する専門書だった。ページには、複雑な数式や図形がびっしりと書き込まれている。葉羽は、博士が四次元空間に強い興味を持っていたことを改めて認識した。
書棚の本を眺めていると、一冊のノートが目にとまった。それは、博士の日記だった。葉羽は日記を開き、読み始めた。
日記には、博士の研究の進捗状況や、四次元空間への探求心、そして、実験に対する不安や恐怖が赤裸々に綴られていた。
「…私はついに、四次元空間への扉を開く方法を発見したかもしれない。しかし、同時に、計り知れない恐怖を感じている。もし、私の仮説が正しければ、この実験は非常に危険なものになるだろう。しかし、私はもう後戻りできない。人類にとって未知の領域へと踏み出す、最初の一歩を……」
日記の最後のページには、そう書かれていた。日付は、博士が失踪した日の前日だった。葉羽は日記を閉じ、深く息を吸った。博士は、四次元空間への扉を開こうとしていた。そして、その実験が、彼の失踪に繋がった可能性が高い。
「四次元空間…か」
葉羽は呟き、天井を見上げた。四次元空間とは、我々が認識している三次元空間に、もう一つの次元軸が加わった空間のことだ。それは、人間の想像力を超えた、未知の領域である。博士は、音響振動を利用して、その未知の領域へと踏み込もうとしていたのだ。
その時、葉羽は地下室の奥から、かすかな物音を聞いた。それは、何かが床を擦るような、不気味な音だった。葉羽は身構え、音のする方へとゆっくりと近づいていった。
音は、先ほどの書斎の奥にある、小さな扉の向こうから聞こえてくるようだ。葉羽は扉に手をかけ、ゆっくりと開けた。
扉の向こうには、何もなかった。そこは、壁に囲まれた、ただの狭い空間だった。しかし、葉羽は、その空間に、何か異様な気配を感じた。それは、まるで、空気が震えているかのような、不思議な感覚だった。
葉羽は、空間の中に手を伸ばしてみた。すると、彼の指先は、まるで水の中を進むかのように、何の抵抗もなく空間を貫通した。
「これは……」
葉羽は驚き、空間をもう一度触ってみた。やはり、彼の指先は、空間をすり抜ける。まるで、そこに何も存在しないかのように。
その時、葉羽は、この空間が、四次元空間への入り口なのではないか、という考えに思い至った。博士は、この装置を使って、四次元空間への扉を開き、自らその中へと入って行ったのだ。
葉羽は、四次元空間へと続く入り口に、強い好奇心を覚えた。彼は、この未知の領域へと踏み込み、博士の失踪の謎を解き明かしたいという衝動に駆られた。
しかし、同時に、強い恐怖も感じていた。四次元空間は、人間の理解を超えた、未知の領域だ。そこには、何が待ち受けているのか、想像もつかない。もし、自分が四次元空間に入ってしまったら、二度と戻って来られないかもしれない。
「…どうする、葉羽」
葉羽は自問自答した。好奇心と恐怖が、彼の心の中でせめぎ合っている。彼は、深呼吸をし、心を落ち着かせようとした。
その時、地下室の入り口から、人の声が聞こえた。
「葉羽くん、いるの?」
それは、彩由美の声だった。葉羽は驚き、振り返った。彩由美は、地下室の入り口に立っており、心配そうにこちらを見つめている。
「彩由美、どうしてここに?」
葉羽は尋ねた。
「心配だったから、後を追ってきたのよ。連絡がないから、何かあったんじゃないかって」
彩由美は答えた。
「心配かけてすまない。でも、今は大丈夫だ」
葉羽は言った。
「でも、こんなところで何をしているの? この装置は何?」
彩由美は、部屋の中央にある奇妙な装置を指差して尋ねた。
「これは、阿座河博士が失踪した事件に関係している装置だ。おそらく、博士はこの装置を使って、四次元空間へと入って行ったのだろう」
葉羽は説明した。
「四次元空間? そんなものが本当にあるの?」
彩由美は驚きの声を上げた。
「さあ、それはまだわからない。だが、この事件を解明するためには、四次元空間という可能性も考慮に入れる必要がある」
葉羽は言った。
「でも、四次元空間なんて、私には想像もつかないわ」
彩由美は首を横に振った。
「僕もだ。だが、我々の想像を超えた世界が存在する可能性もある。この事件は、それを証明する絶好の機会かもしれない」
葉羽は、再び好奇心に駆られたように、四次元空間への入り口を見つめた。
「…葉羽くん、危ないわ。そんなところに近づかないで」
彩由美は、葉羽を心配そうに止めた。
「大丈夫だ。僕はただ、真実を知りたいだけだ」
葉羽は言った。彼は、彩由美の制止を振り切り、四次元空間へと続く入り口に足を踏み入れた。
彼の身体は、まるで水に溶けるように、空間の中に吸い込まれていった。彩由美は、恐怖のあまり、声を出すことすらできなかった。彼女は、葉羽が四次元空間へと消えていく姿を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
葉羽は、四次元空間の中へと落ちていった。彼の視界は、歪み、色が変化し、現実世界とは全く異なる景色が広がっていった。彼は、自分が未知の領域へと足を踏み入れたことを、改めて実感した。
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ただいま諸事情で出すべきか否か微妙なので棚上げしてたのとか自サイトの方に上げるべきかどうか悩んでたのとか大昔のとかを放出中です。見直しもあまり出来ないのでいつも以上に誤字脱字等も多いです。ご了承下さい。
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この作品は、小説家になろうおよびエブリスタにも投稿しております。
扉絵は、管澤捻さまに描いていただきました。
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