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兄弟喧嘩
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一
陣屋燃ゆ、この大事件は、すぐに、近隣の諸藩へと広まった。そして、新野藩主池之端泰文の重篤が併せて伝えられると、状況の怪奇さも手伝って、より一層、人々の疑念を膨らませるには、十分であった。
「おはようございます」
声をかけられる前から、いつもの鼻歌と、いつもの味噌汁の匂いがしていたので、とっくに目は覚めていた。ただ、この当たり前の日常を当たり前として享受出来る歓びを少しの間だけでも、味わっていたかったのかもしれない。
「はい、おかわりありますよ」
あんずは、麦飯を茶碗一杯に注ぐと、余一郎に勢いよく渡した。陣屋から戻ってから、余一郎は元の余り侍に、富之助は殿様として城へ戻った。
新野藩では、未だに混乱が続いているが、富之助が小津藩主として、積極的に介入する意志を示した事で、表面上は、平穏な日々が訪れていた。
「あんず、傷の具合はどうじゃ?」
たくわんを頬張りながら、余一郎は素っ気なく聞く。内心は、おそるおそるであった。陣屋から、救出されてから、あんずは、三日間目を覚めさず、身体中に擦り傷があった。もっとも、その傷は、折檻などによる物ではなく、自分で逃げ出そうと、もがいた際についた物であった。
「もう大丈夫」
まだ瘡蓋が痛々しいおでこの傷を掻きながら、あんずは一番の笑顔を見せる。それは、強がりなどではなかった。あんずはとにかく嬉しかったのだ。また小津に戻ってこられて。この長屋で暮らせて。そして、余一郎が戻ってきてくれた事が。
「おう、俺にも一つ貰えるかい?」
勢いよく長屋の粗末な戸を開け放って、中へ入ってきたのは、井上勘一郎だった。
「何でぇ、独り者は、朝餉を用意してくれる女も居ねぇってか?」
「抜かせ、独り者の余り者はお主だろうが?」
いつもの調子で、いつもの朝が始まる。こんな日がずっと続けばいいと、あんずは、心から願った。
「余一郎、殿様とはあれっきりか?」
「ふん」
勘一郎の問いに、余一郎の返答は、本当に素っ気ない。兄弟は、あの夜の事件以来、一言も口を開いていない。入れ替わったお互いの立場を戻す事も、話し合って決めた事ではなく、事態の収拾の為に、富之助が身分を明かにし、その後、余一郎が城を出た際に撒いた、近習の者達が、陣屋の騒ぎを聞き駆けつけた所で、富之助を殿様と認めた為、そのまま成行きで元に戻ったのであった。
「あの二人の足取りは?」
余一郎が問うた二人とは、勿論、香渡晋太郎と葦の女の事であった。自らの主を殺害した後、晋太郎は何処かへ姿を消したままだ。そして、それは葦の女も一緒であった。
「分からぬ。もっか捜索中だが、何せ新野藩は混乱の極みだ」
事件の後処理の為、富之助は、数日を新野で過ごしている。富之助は、殺された泰文を火事による重篤と偽装した。泰文は間違いなく殺されているのだが、新野藩の本家である小津藩主として、領民や家臣達からの疑念を徹底的に黙殺したのだった。
「殺った(やった)者勝ちとはこの事だ」
余一郎は、そう言って笑う。この事件について、余一郎は晋太郎を責める気にはなれなかった。
自分が奴の立場だったら、きっと同じ事を考えた筈だ。まして、殺された泰文は、あんずを傷つけた、何人もの罪もない子供達を傷つけた張本人なのだから。
しかし、余一郎の考えとは別で、あんずは複雑な心境であった。今回、自分や囚われた子供達を助ける為に、香戸晋太郎が手を貸してくれた事は、後々に聞いて知っていた。だが、彼はあんずの義父一蔵を殺した仇である事に変わりはないのだ。
「このまま済むとは思えんがな…」
勘一郎の懸念は、晋太郎の事ではなく、葦の女の事であった。あの女にとって、泰文は主であった筈だ。それを結果として裏切り、晋太郎の敵討ちに手を貸したのは、如何な思惑からなのだろうか?
「それは、野暮の言う事だ」
余一郎は、にやにやしながら、勘一郎の懸念を笑い飛ばす。確かに、余一郎が言うように、晋太郎と葦の女が男女の仲であっても、何の不思議もない。そう考えれば、一応の筋は通る。主よりも、男を取ったまでの事と言われたら、これ以上の答えは無いかもしれない。
しかし、事はそんな単純な話しなのだろうか?
「あの女は、そういうタマじゃないさ」
勘一郎の勘がそう告げていた。
二
陣屋から、小津城へ戻った富之助は、多忙を極めていた。まず何と言っても、新野藩の事である。藩主である泰文の重篤に伴い、次期藩主を誰にするのか。何の皮肉であろうか、泰文には男子の後継者が居なかった。子が無い為、あれ程年少の子供に固執したのか、それは本人しか知り得ない事であった。
富之助は、新野藩の後見役として、次期藩主を滞る事無く決定し、そして、泰文の死去を幕府に届け出なければならない。そうしなければ、新野藩は、相続人が無いと見なされ、御取り潰しとなってしまうだろう。
そして、富之助の頭を悩ませている事が、もう一つあった。
「どこまで、税を減らせば良いのだ?」
富之助は、側に控える石田俊介に問う。しかし、問われた俊介は、素知らぬ顔を決めている。
「殿がお決めになられた事です」
そう言って、埒も明かない。城に戻ってきて、重臣達から、減税令の事を最初に聞いた時には、目の前が暗くなった。
余一郎が言う様に、減税を行って、滅びた国は無いのかもしれない。しかし、しかしだ。この小津は、余りにも小さき藩である。
「民からの年貢が減れば、一体どうなる?」
余一郎は、いつ、どのように、どれだけの減税を行うのかは、自分が決めて、家臣一同の前で発表すると言っていたという。それが、一体どういう事なのかは、本人しか知らない事だ。
「どうせ、いつものハッタリで言ったに違いない」
自分に対する嫌がらせで言ったのではなかろうか?と、仲違いしてしまった兄に対する恨み節が、独り言として、次から次に出てくる。
「はっ?何かおっしゃいましたか?」
とにかく、私も重臣の方々も、殿のお下知を待っており申す。頼みまするぞ。そう念を押して、俊介は去って行った。誰も居なくなった室内で、富之助は、思い切り舌を出す。それがせめてもの抵抗であったが、はたと気づく。これでは、余り侍ではないかと。自分で可笑しくなって、笑ってしまうのだった。
そんな富之助の様子を屋根裏で、じっと見ている者がいる。葦の女であった。女は、陣屋での騒ぎの後から、姿を消したように思われていたが、実はずっと富之助を監視していたのだった。それはまるで、富之助が今後の新野藩をどう処するかを見定めているかのようであった。
葦の女は、城を慣れた様子で、そっと抜け出す。実は小津城に忍び込むのもこれが初めてではない。もう何年も前から、何度も訪れている。彼女程の手練れともなると、日中の時間にどこが、夜半の時間はどの場所が手薄で、どこから忍び込み、また抜け出せばいいかを熟知していた。
女はいつものように、城より抜け出した際に、身を隠す武家屋敷の死角を利用して、町人へと姿を変える。そして、何食わぬ顔で、その場より離れる。
「女、待て!」
まさか、背後より野太い男の声がする。ゆっくり振り返ると、そこに居たのは、田嶋吾郎左衛門であった。この爺様に付けられていたのか?女はいささか驚きを隠せない。
「この屋敷はな、今は誰も住んでは居らぬが、儂が先代様より任されている所だ」
吾郎佐衛門は、すでに刀に手をやると、いつでも抜刀出来る体勢を取っている。
この屋敷には、いずれここに相応しい方が入る。お前のような下衆な女が、うろついていいものではない。
「あら、それは失礼致しました。田嶋の御頭様」
女は嘲笑うかのように、口の端に右手の人差し指を当てて笑う。その様子が何とも妖艶で、そして不気味であった。
「お前ごとき、下賤の忍びが何を知っておる?」
「さてさて、どこまでとおっしゃられても」
井上勘一郎、山本一蔵、そして、田嶋の御頭様、他にも知っている事は少々。そう言って、女は薄ら笑っている。吾郎左は、そんな女の態度に刀を構える。この女はここで始末するしかない。
「女、貴様の正体が分かったぞ。偽物が小津に何の用だ?」
吾郎佐は、正眼の構えを取る。いつでも、斬りかかれる体勢だ。
「かつての凄腕も、年には勝てぬ筈、御老体が無理をなさるな」
女は溜息を付きながらも、袖口より小刀を出す。怪我ではすまぬぞ。その一言とともに、女の表情が変化する。そして、勢いよく吾郎佐に襲いかかった。
吾郎佐は、防戦一方となっていた。寄る年端には勝てず、歴戦の猛者も、葦の女の素早い攻撃に、身を挺するのが精いっぱいであった。そして、そんな敵の様子を見てとった女は、より速度を上げると、吾郎佐の周りを回りながら、少しずつ、少しずつ、攻撃して引いてを繰り返し、相手に手傷を負わせていくのだった。
「おほっほっほっほ、ほらほら、もっと行くわよ。いつまで耐えられるかしら?」
女は楽しんでいた。身分の高い、誇りある武士を嬲り殺しにする。その快楽の悦に浸っているかのようだ。しかし、吾郎佐もただ黙ってやられる訳ではない。じっと相手からの攻撃を耐えて、反撃の機会を狙っていたのだった。
「田嶋様―っ」
その機会は、不意に訪れた。女は声のする方を見た。間違いなく、井上勘一郎である。勘一郎は、吾郎佐を救うべく、すでに抜刀した上で、こちらに駆けつけようとしている。
女はしまったと思った。この爺を嬲る事に夢中になり、勘一郎の接近を見過ごしたのだ。女が勘一郎に気を取られたその一瞬であった。
えい!気勢の声と共に、吾郎佐は溜めに溜めた渾身の一撃を女に向かって繰り出したのだ。女の頭が跳ねるようにのけ反る。やったか!しかし、女は倒れてはいない。上体を再び起こすと、その長い髪が先程の一撃で乱れて、額より血を流していた。斬れた額からは、勢いよく血が出ており、女の右半分の顔を血染めにするのに、時はかからなかった。
上体を起こした女は、憤怒の表情を見せた。これまで見たことの無い表情であった。
「この老いぼれ!」
葦の女は、怒りの感情と共に、小刀を一突きする。そして、その一突きは、吾郎佐の左胸に深々と突き刺さるのだった。
「御頭!」
勘一郎は、刀を持たぬ左手を懸命に伸ばした。崩れいく吾郎佐に、届かぬ事を知りながら、そうするしかなかったのだ。
「女の顔に傷をつけるからだ」
葦の女は、仰向けに崩れ落ちた吾郎佐に向かって、唾と悪態を吐いた。
「貴様!許さぬぞ」
吾郎佐を抱きかかえながら、勘一郎が吠えた。今すぐ女を斬り伏せたいが、今はそれどころではなかった。
「勘一郎…」
吾郎佐は、空中に左手を伸ばす。その手を勘一郎は、しっかりと受け止めた。いますぐ医者に連れていきます。お気を確かに。握った手に力がこもった。
「聞け…あの女は偽物ぞ」
吾郎佐は、息も絶え絶えに、勘一郎の耳元で、その小さくなった声で話し続けた。勘一郎が止めるも聞かず、器官に血が入って吐血しても、お構いなしだ。
「一蔵は、お主と一緒だ…余一郎様を頼む…」
それが、田嶋吾郎佐衛門の最期の言葉となった。勘一郎の腕の中で、力が抜けてゆく。
逝ってしまう。どうか!勘一郎は、腕に力を込めるが、それは虚しい作業となった。
ガチンッと鈍い金属音が鳴る。勘一郎を狙って、葦の女が不意の一撃を繰り出したのだ。そうは行くか。勘一郎には、葦の女がそう来る事が分かっていた
「貴様に報いをくれてやる」
丁寧に吾郎佐の亡骸を地面に置いて、勘一郎は立ち上がった。
「貴様が本物の葦の者で無い事は、始めから分かっていた。貴様と相対したあの雨の日よりな…」
御頭様が命を賭して、確信に変えてくれたのだ。勘一郎は、抜いた刀を再び鞘に収める。そして、身を少し屈み、右手をそっと刀の鞘に置く。いつでも、必殺の抜刀術を繰り出せる体勢を取った。
「ほう…私たち葦の者が一体何だと言うのだ?」
勘一郎の抜刀の腕前を知る女は、警戒して、後ろ足で少しずつ間合いを取ろうとする。葦の者とて、忍びである事に代わりはなかろう。
「葦の者とは、忍ぶだけに非ず。小津藩と新野藩とを結ぶ、その和の名こそ、葦じゃ」
勘一郎は、壮絶な一撃を女に向けて繰り出す。しかし、抜刀したとほぼ同時に、女は後方へと飛んでいたのだった。
「名乗れぬお前に、言われる筋合いは無いわ」
女は最後まで、勘一郎を嘲りながら、去って行く。その女の後ろ姿を憤怒の表情で、勘一郎は、声に為らない慟哭と共に、いつまでも睨み続けていた。
三
「お前、何の冗談を言っている?」
吾郎佐の爺の死を知らされた余一郎は、勘一郎の想像通りの反応を示した。
「お前が居ながら、爺をみすみす死なせたか!」
余一郎は、両手で勘一郎の胸倉を掴む。いつもなら、勘一郎もやり返すのだが、項垂れたまま、抵抗出来ずにいた。余一郎は、振り上げた拳の下ろし場所の迷子となり、勘一郎を突き飛ばすかのように、その両手を放した。
床に尻餅をつく恰好で倒れた勘一郎をあんずが気遣って手を差し伸べる。
「井上様のせいじゃない」
言い訳をしない勘一郎の代わりに、あんずが珍しく、余一郎にくってかかる。勘一郎は、いつも、いつでも、皆の事を助けてきたじゃないか。自らの危険を顧みず、働いてきたじゃないか。
あんずは、涙ながらに余一郎に訴える。余一郎はバツの悪くなった顔を背けた。あんずが言う事は、自分が一番分かっているのだ。
勘一郎は、あんずに礼だけ言うと、自力で立ち上がった。
「分かっている。決着はつける。あの女は俺が斬る」
鯉口を切って、素早く鞘に収めた。それが、武士にとって何を意味するのか、余一郎には、勘一郎の決意の固さを理解した。
吾郎佐の死から数日後、小津城下にある噂が広がりつつあった。
「新しい殿様が出された、年貢を減らすのを取りやめるそうじゃ」
「聞いたところによると、やめるどころか、税を上げるそうな」
「今度の殿様は、聡明な心優しき御方じゃ、聞いとったんじゃが」
一体、わしらの暮らしはどうなるのかと、民が口ぐちに噂し合っている。そんな不穏な噂を余一郎は、たまたま街中で再会した坂本屋の権兵衛から聞いたのだった。
「若い殿様が、決めた減税を、重臣や御一族が総反対されたと、専らの噂ですよ」
権兵衛は、耳よりから聞いた情報だと胸を張っていた。聞いていた余一郎は、何とも複雑な心境であった。違うんだ権兵衛、それを決めたのは俺なんだ。喉まで出かかる。しかし、例え真実を話した所で、一体誰が信じるだろうか。余一郎は溜息を付くよりなかった。
「城に行こうと思う」
長屋へ戻った余一郎が、いつになく真剣な声と表情で話す。勘一郎が差し入れで持ってきたお団子を頬張る所だったあんずは、団子を落としそうになるのだった。
このままでは埒が明かない。そう余一郎は言った。街での噂が、本当かどうかを確かめる術が無い。或いは、吾郎佐が生きていれば、教えてくれただろうが。
「しかしだな。一体どうやって殿様に会うんだ?」
団子を口いっぱいに入れた勘一郎が問う。その通りだ。余一郎が、富之助の双子の兄弟と知る小津藩士はほとんど居ない。知っていたのは、ごく一部の者だけだ。
「行ってみれば、どうにかなるさ」
余一郎は、そう言うが先か、すぐに長屋を後にするのだった。
「おい、一体どうするのだ?」
城の正門が眼前に広がっている。本当にここに来てしまった。小津城は、後ろを肱川とする小高い丘の上に建てられた、当時でも珍しい、四層建ての連立式の山城であった。
「俺は藩主の兄だ。そう言って罷り通るさ」
余一郎が笑って言ったので、二人はそれが冗談だと思っていた。しかしだ、
「俺は伊賀崎余一郎と申す。御藩主殿に目通り願いたい」
門番に堂々と口上を述べる余一郎の後ろで、勘一郎とあんずは、固まっていた。
余一郎の口上が、余りに堂々としていたので、二人の門番は、呆気に取られた様子で、それぞれ顔を見合している。
「どうか、取次願いたい」
どこに藩主に急に会わせろと言う素浪人が居るだろうか?
ようやく我に返った門番たちは、自分の職責を全うしようとする。つまりは、余一郎たちを足止めしたのだ。それは正しい事であった筈である。
「俺は藩主の兄だ。そなた等では話しにならぬわ」
とうとう門番たちと押し問答となってしまった。通さぬ!通せ!と不毛な押し問答が続く。
「何をやっているのか?」
騒ぎを聞きつけた者達が城の中より門へ出てくるのが見える。
「石田俊介か?」
余一郎は、その一群の中に居た見知った顔の男の名を呼んだ。
「殿?」
俊介の言葉に、その場にいた者達が反応する。確かに今の余一郎の姿は、いつもの余り侍であったが、富之助と瓜二つの顔を誤魔化す為の付け髭もしていない。二人を知った人間が見れば、間違えても仕方なかっただろう。
「久しいな俊介」
だが俺は富之助ではない。兄の伊賀崎余一郎だ。
いつしか、騒いでいた門番達も、余一郎らに殺到していた城の藩士たちも、誰もが黙ってしまっていた。俊介は、藩士達より、一歩進み出ると、余一郎らをまじまじと見つめる。
「こちらに」
何かを察した俊介が、その場を収めて三人を城内に通したくれた。城の長い廊下を歩きながら、あんずは緊張した様子で、何度か、余一郎の背中に鼻をぶつけてしまっていたのだった。
東姫の広い屋敷にも、慣れるのに随分と時間が掛かったのだ。それが、いつも見上げるだけの御城の中を歩いているのだから、まるで夢のようであった。
隣を歩く勘一郎は、先程から黙ったままであった。勘一郎も、自分と同じように緊張しているのだろうか?そう考えると、少し気持ちが楽になるのだった。
「ここで暫しお待ちを」
俊介に通された一室は、藩主の私室の一つである事を余一郎は知っていた。調度品も少なく、簡素だがしっかりとした造りの、藩主が寝泊まりするには、いささか小さ過ぎる部屋であった。
「大丈夫か?」
勘一郎が不安の声を上げた。勘一郎の考えている事は、余一郎にも理解出来た。このように小さな部屋へ急に押しこまれて、このまま始末する気ではないのか?という不安である。
勿論、富之助がそこまでするとは思いたくはない。しかし、富之助の預かり知らぬ所で、藩主の兄弟を語る不届き者を抹殺しようとする過激な藩士が居ないとも限らないだろう。
「案ずるな。そう簡単に俺がやられるものか」
横で不安な表情を見せるあんずに、精いっぱいの言葉を掛ける。
「うん、余り侍が居れば、怖い物無しだね」
それにあんずも精いっぱいの笑顔で答えた。
「殿のお越しに御座る」
一刻程待たされて、富之助は現れた。勘一郎は、頭を下げる。釣られて、あんずも頭を下げた。しかし、余一郎は、堂々と座ったまま正面を見据えている。俺は兄だ。弟には頭を下げない。俺は主無しの男だと、静かに主張しているようであった。
「お久しぶりです。御一同」
上座に座った富之助は、いつもの柔らかい口調をしている。しかし、その表情は、前を見ており、余一郎とも、顔を上げた二人とも目線が合う事は無い。殿様であるのだから、主君然として構えるのは、当然の事であったが、あんずには、どこか悲しい事のように映っていた。
「爺が殺されたぞ」
「存じております」
余一郎の言葉に、間髪入れずに答える富之助。余一郎は、下手人はまだ捕まらないのかと暗に非難したのだ。
「田嶋様は急な病にて、亡くなり申した」
富之助の側に控える俊介が答える。他の家臣は、先程人払いをしていたので、ここには、五人しか居ない事になる。余一郎は、その俊介の言葉に反応する。どういう事だ?語気を荒げる。
俊介、客人に茶菓子をお出ししろ。余一郎の言葉には、或いは挑発には乗らない気なのか、富之助は、反応を示さない。代わりに、三人の元には、美味しそうな茶菓子が置かれる。あんずは、前に座る余一郎の様子を見る。余一郎が置かれた茶に手を伸ばしたのを確認し、自らも茶菓子に手を伸ばした。
「爺の死さえも、誤魔化すつもりだな」
一口茶で喉を潤した余一郎は、溜息交じりに言葉を続ける。そんな事までして、体裁が大事なのかと。その体裁とやらの為に、民を苦しめ続けるのか。
「税を減らすのを取りやめるのは、本当なんだな?」
余一郎の正面からの言葉に、富之助は、すぐには答えない。その態度こそが、答えであるかのようだった。
「何故だ?貴様であれば、分かる筈だ」
片膝をつき、右手を大きく回しながら、感情のままに余一郎は、大声を張り上げる。それは、魂からの叫びであった。自分は間違った事はしていないという自負の現れでもあっただろう。
「税を減らせば、この小藩は滅びます。減らすどころか…」
絞り出すように、ようやく言葉にする富之助であったが、相変わらず目線を余一郎と合わそうとはしなかった。
「人々を苦しめてまで、何が殿様じゃ。こんな腐れ藩、滅んでしまえ!」
怒気を大きく含んだ言葉の数々を浴びせると、まだ中身が入った湯呑みを富之助に向かって投げつけた。それは、殿様に当る事はなかったが、壁に当って、大きな音を立てて割れた。
「無礼者!」
俊介の悲鳴に近い大声と共に、近習の者達が、室内に雪崩れ込んで、三人を取り囲んだ。すでに立ち上がっていた余一郎は、ドスの利いた声で、退けと一言だけ言うと、自分の正面に立ちはだかる一人の男を、今にも斬捨てるのではないかと思わせる程、殺気を込めて睨みつけた。
「よい」
そんな騒然とした室内の様子に、城の主は、変わらぬ落ち着いた様子で、いつもの柔らかい口調で、一つだけ、だが良く通る声で発したのだった。
囲みを解かれると同時に、行くぞと言うが早いか、余一郎は室内を出る。後ろに座る弟を見る事もなく。障子が閉められる瞬間、あんずが室内に目をやると、先程まで、毅然と座っていた筈の富之助が、顔を覆うように、右手を当てて項垂れる様子が、一瞬だけ視界に入るのだった。城から出て、帰路を歩きながら、最後に見た富之助の様子が、暫く忘れられそうにないと、何故だが感じていた。
その晩、余一郎は夢を見ていた。子供の自分と富之助が居る。そして、二人を微笑みながら、優しい眼差しで見守る吾郎佐の爺の姿がある。爺を中心に、兄弟は追いかけたり、追いかけられたりを夢中になって繰り返している。ふと止まり、爺を見ると、何か言いたそうな様子だが、何も言わず、ただただ黙って兄弟を見守っている。時折、少し憂いた表情を見せる。そこで目が覚めた。
いつの間にか、朝を迎えていたようだ。余一郎の側で、あんずがまだ寝息を立てている。余一郎は泣いていた。寝ながら涙を流していた。自分でも、それが何故かは分からなかった。
嬉しそうに、いつまでも走り廻る兄と弟、そして、二人の姿を優しく見守る爺の姿。それが、ただの夢だったのか、いつかあった子供の頃の忘れた記憶なのかは、判然としない。
数日後、新野藩主池之端泰文の病死が、正式に発表される。それと同じくして、新野藩は、小津藩主加戸富之助泰武の預かり地となる事も、幕府より、発表されたのだった。
陣屋燃ゆ、この大事件は、すぐに、近隣の諸藩へと広まった。そして、新野藩主池之端泰文の重篤が併せて伝えられると、状況の怪奇さも手伝って、より一層、人々の疑念を膨らませるには、十分であった。
「おはようございます」
声をかけられる前から、いつもの鼻歌と、いつもの味噌汁の匂いがしていたので、とっくに目は覚めていた。ただ、この当たり前の日常を当たり前として享受出来る歓びを少しの間だけでも、味わっていたかったのかもしれない。
「はい、おかわりありますよ」
あんずは、麦飯を茶碗一杯に注ぐと、余一郎に勢いよく渡した。陣屋から戻ってから、余一郎は元の余り侍に、富之助は殿様として城へ戻った。
新野藩では、未だに混乱が続いているが、富之助が小津藩主として、積極的に介入する意志を示した事で、表面上は、平穏な日々が訪れていた。
「あんず、傷の具合はどうじゃ?」
たくわんを頬張りながら、余一郎は素っ気なく聞く。内心は、おそるおそるであった。陣屋から、救出されてから、あんずは、三日間目を覚めさず、身体中に擦り傷があった。もっとも、その傷は、折檻などによる物ではなく、自分で逃げ出そうと、もがいた際についた物であった。
「もう大丈夫」
まだ瘡蓋が痛々しいおでこの傷を掻きながら、あんずは一番の笑顔を見せる。それは、強がりなどではなかった。あんずはとにかく嬉しかったのだ。また小津に戻ってこられて。この長屋で暮らせて。そして、余一郎が戻ってきてくれた事が。
「おう、俺にも一つ貰えるかい?」
勢いよく長屋の粗末な戸を開け放って、中へ入ってきたのは、井上勘一郎だった。
「何でぇ、独り者は、朝餉を用意してくれる女も居ねぇってか?」
「抜かせ、独り者の余り者はお主だろうが?」
いつもの調子で、いつもの朝が始まる。こんな日がずっと続けばいいと、あんずは、心から願った。
「余一郎、殿様とはあれっきりか?」
「ふん」
勘一郎の問いに、余一郎の返答は、本当に素っ気ない。兄弟は、あの夜の事件以来、一言も口を開いていない。入れ替わったお互いの立場を戻す事も、話し合って決めた事ではなく、事態の収拾の為に、富之助が身分を明かにし、その後、余一郎が城を出た際に撒いた、近習の者達が、陣屋の騒ぎを聞き駆けつけた所で、富之助を殿様と認めた為、そのまま成行きで元に戻ったのであった。
「あの二人の足取りは?」
余一郎が問うた二人とは、勿論、香渡晋太郎と葦の女の事であった。自らの主を殺害した後、晋太郎は何処かへ姿を消したままだ。そして、それは葦の女も一緒であった。
「分からぬ。もっか捜索中だが、何せ新野藩は混乱の極みだ」
事件の後処理の為、富之助は、数日を新野で過ごしている。富之助は、殺された泰文を火事による重篤と偽装した。泰文は間違いなく殺されているのだが、新野藩の本家である小津藩主として、領民や家臣達からの疑念を徹底的に黙殺したのだった。
「殺った(やった)者勝ちとはこの事だ」
余一郎は、そう言って笑う。この事件について、余一郎は晋太郎を責める気にはなれなかった。
自分が奴の立場だったら、きっと同じ事を考えた筈だ。まして、殺された泰文は、あんずを傷つけた、何人もの罪もない子供達を傷つけた張本人なのだから。
しかし、余一郎の考えとは別で、あんずは複雑な心境であった。今回、自分や囚われた子供達を助ける為に、香戸晋太郎が手を貸してくれた事は、後々に聞いて知っていた。だが、彼はあんずの義父一蔵を殺した仇である事に変わりはないのだ。
「このまま済むとは思えんがな…」
勘一郎の懸念は、晋太郎の事ではなく、葦の女の事であった。あの女にとって、泰文は主であった筈だ。それを結果として裏切り、晋太郎の敵討ちに手を貸したのは、如何な思惑からなのだろうか?
「それは、野暮の言う事だ」
余一郎は、にやにやしながら、勘一郎の懸念を笑い飛ばす。確かに、余一郎が言うように、晋太郎と葦の女が男女の仲であっても、何の不思議もない。そう考えれば、一応の筋は通る。主よりも、男を取ったまでの事と言われたら、これ以上の答えは無いかもしれない。
しかし、事はそんな単純な話しなのだろうか?
「あの女は、そういうタマじゃないさ」
勘一郎の勘がそう告げていた。
二
陣屋から、小津城へ戻った富之助は、多忙を極めていた。まず何と言っても、新野藩の事である。藩主である泰文の重篤に伴い、次期藩主を誰にするのか。何の皮肉であろうか、泰文には男子の後継者が居なかった。子が無い為、あれ程年少の子供に固執したのか、それは本人しか知り得ない事であった。
富之助は、新野藩の後見役として、次期藩主を滞る事無く決定し、そして、泰文の死去を幕府に届け出なければならない。そうしなければ、新野藩は、相続人が無いと見なされ、御取り潰しとなってしまうだろう。
そして、富之助の頭を悩ませている事が、もう一つあった。
「どこまで、税を減らせば良いのだ?」
富之助は、側に控える石田俊介に問う。しかし、問われた俊介は、素知らぬ顔を決めている。
「殿がお決めになられた事です」
そう言って、埒も明かない。城に戻ってきて、重臣達から、減税令の事を最初に聞いた時には、目の前が暗くなった。
余一郎が言う様に、減税を行って、滅びた国は無いのかもしれない。しかし、しかしだ。この小津は、余りにも小さき藩である。
「民からの年貢が減れば、一体どうなる?」
余一郎は、いつ、どのように、どれだけの減税を行うのかは、自分が決めて、家臣一同の前で発表すると言っていたという。それが、一体どういう事なのかは、本人しか知らない事だ。
「どうせ、いつものハッタリで言ったに違いない」
自分に対する嫌がらせで言ったのではなかろうか?と、仲違いしてしまった兄に対する恨み節が、独り言として、次から次に出てくる。
「はっ?何かおっしゃいましたか?」
とにかく、私も重臣の方々も、殿のお下知を待っており申す。頼みまするぞ。そう念を押して、俊介は去って行った。誰も居なくなった室内で、富之助は、思い切り舌を出す。それがせめてもの抵抗であったが、はたと気づく。これでは、余り侍ではないかと。自分で可笑しくなって、笑ってしまうのだった。
そんな富之助の様子を屋根裏で、じっと見ている者がいる。葦の女であった。女は、陣屋での騒ぎの後から、姿を消したように思われていたが、実はずっと富之助を監視していたのだった。それはまるで、富之助が今後の新野藩をどう処するかを見定めているかのようであった。
葦の女は、城を慣れた様子で、そっと抜け出す。実は小津城に忍び込むのもこれが初めてではない。もう何年も前から、何度も訪れている。彼女程の手練れともなると、日中の時間にどこが、夜半の時間はどの場所が手薄で、どこから忍び込み、また抜け出せばいいかを熟知していた。
女はいつものように、城より抜け出した際に、身を隠す武家屋敷の死角を利用して、町人へと姿を変える。そして、何食わぬ顔で、その場より離れる。
「女、待て!」
まさか、背後より野太い男の声がする。ゆっくり振り返ると、そこに居たのは、田嶋吾郎左衛門であった。この爺様に付けられていたのか?女はいささか驚きを隠せない。
「この屋敷はな、今は誰も住んでは居らぬが、儂が先代様より任されている所だ」
吾郎佐衛門は、すでに刀に手をやると、いつでも抜刀出来る体勢を取っている。
この屋敷には、いずれここに相応しい方が入る。お前のような下衆な女が、うろついていいものではない。
「あら、それは失礼致しました。田嶋の御頭様」
女は嘲笑うかのように、口の端に右手の人差し指を当てて笑う。その様子が何とも妖艶で、そして不気味であった。
「お前ごとき、下賤の忍びが何を知っておる?」
「さてさて、どこまでとおっしゃられても」
井上勘一郎、山本一蔵、そして、田嶋の御頭様、他にも知っている事は少々。そう言って、女は薄ら笑っている。吾郎左は、そんな女の態度に刀を構える。この女はここで始末するしかない。
「女、貴様の正体が分かったぞ。偽物が小津に何の用だ?」
吾郎佐は、正眼の構えを取る。いつでも、斬りかかれる体勢だ。
「かつての凄腕も、年には勝てぬ筈、御老体が無理をなさるな」
女は溜息を付きながらも、袖口より小刀を出す。怪我ではすまぬぞ。その一言とともに、女の表情が変化する。そして、勢いよく吾郎佐に襲いかかった。
吾郎佐は、防戦一方となっていた。寄る年端には勝てず、歴戦の猛者も、葦の女の素早い攻撃に、身を挺するのが精いっぱいであった。そして、そんな敵の様子を見てとった女は、より速度を上げると、吾郎佐の周りを回りながら、少しずつ、少しずつ、攻撃して引いてを繰り返し、相手に手傷を負わせていくのだった。
「おほっほっほっほ、ほらほら、もっと行くわよ。いつまで耐えられるかしら?」
女は楽しんでいた。身分の高い、誇りある武士を嬲り殺しにする。その快楽の悦に浸っているかのようだ。しかし、吾郎佐もただ黙ってやられる訳ではない。じっと相手からの攻撃を耐えて、反撃の機会を狙っていたのだった。
「田嶋様―っ」
その機会は、不意に訪れた。女は声のする方を見た。間違いなく、井上勘一郎である。勘一郎は、吾郎佐を救うべく、すでに抜刀した上で、こちらに駆けつけようとしている。
女はしまったと思った。この爺を嬲る事に夢中になり、勘一郎の接近を見過ごしたのだ。女が勘一郎に気を取られたその一瞬であった。
えい!気勢の声と共に、吾郎佐は溜めに溜めた渾身の一撃を女に向かって繰り出したのだ。女の頭が跳ねるようにのけ反る。やったか!しかし、女は倒れてはいない。上体を再び起こすと、その長い髪が先程の一撃で乱れて、額より血を流していた。斬れた額からは、勢いよく血が出ており、女の右半分の顔を血染めにするのに、時はかからなかった。
上体を起こした女は、憤怒の表情を見せた。これまで見たことの無い表情であった。
「この老いぼれ!」
葦の女は、怒りの感情と共に、小刀を一突きする。そして、その一突きは、吾郎佐の左胸に深々と突き刺さるのだった。
「御頭!」
勘一郎は、刀を持たぬ左手を懸命に伸ばした。崩れいく吾郎佐に、届かぬ事を知りながら、そうするしかなかったのだ。
「女の顔に傷をつけるからだ」
葦の女は、仰向けに崩れ落ちた吾郎佐に向かって、唾と悪態を吐いた。
「貴様!許さぬぞ」
吾郎佐を抱きかかえながら、勘一郎が吠えた。今すぐ女を斬り伏せたいが、今はそれどころではなかった。
「勘一郎…」
吾郎佐は、空中に左手を伸ばす。その手を勘一郎は、しっかりと受け止めた。いますぐ医者に連れていきます。お気を確かに。握った手に力がこもった。
「聞け…あの女は偽物ぞ」
吾郎佐は、息も絶え絶えに、勘一郎の耳元で、その小さくなった声で話し続けた。勘一郎が止めるも聞かず、器官に血が入って吐血しても、お構いなしだ。
「一蔵は、お主と一緒だ…余一郎様を頼む…」
それが、田嶋吾郎佐衛門の最期の言葉となった。勘一郎の腕の中で、力が抜けてゆく。
逝ってしまう。どうか!勘一郎は、腕に力を込めるが、それは虚しい作業となった。
ガチンッと鈍い金属音が鳴る。勘一郎を狙って、葦の女が不意の一撃を繰り出したのだ。そうは行くか。勘一郎には、葦の女がそう来る事が分かっていた
「貴様に報いをくれてやる」
丁寧に吾郎佐の亡骸を地面に置いて、勘一郎は立ち上がった。
「貴様が本物の葦の者で無い事は、始めから分かっていた。貴様と相対したあの雨の日よりな…」
御頭様が命を賭して、確信に変えてくれたのだ。勘一郎は、抜いた刀を再び鞘に収める。そして、身を少し屈み、右手をそっと刀の鞘に置く。いつでも、必殺の抜刀術を繰り出せる体勢を取った。
「ほう…私たち葦の者が一体何だと言うのだ?」
勘一郎の抜刀の腕前を知る女は、警戒して、後ろ足で少しずつ間合いを取ろうとする。葦の者とて、忍びである事に代わりはなかろう。
「葦の者とは、忍ぶだけに非ず。小津藩と新野藩とを結ぶ、その和の名こそ、葦じゃ」
勘一郎は、壮絶な一撃を女に向けて繰り出す。しかし、抜刀したとほぼ同時に、女は後方へと飛んでいたのだった。
「名乗れぬお前に、言われる筋合いは無いわ」
女は最後まで、勘一郎を嘲りながら、去って行く。その女の後ろ姿を憤怒の表情で、勘一郎は、声に為らない慟哭と共に、いつまでも睨み続けていた。
三
「お前、何の冗談を言っている?」
吾郎佐の爺の死を知らされた余一郎は、勘一郎の想像通りの反応を示した。
「お前が居ながら、爺をみすみす死なせたか!」
余一郎は、両手で勘一郎の胸倉を掴む。いつもなら、勘一郎もやり返すのだが、項垂れたまま、抵抗出来ずにいた。余一郎は、振り上げた拳の下ろし場所の迷子となり、勘一郎を突き飛ばすかのように、その両手を放した。
床に尻餅をつく恰好で倒れた勘一郎をあんずが気遣って手を差し伸べる。
「井上様のせいじゃない」
言い訳をしない勘一郎の代わりに、あんずが珍しく、余一郎にくってかかる。勘一郎は、いつも、いつでも、皆の事を助けてきたじゃないか。自らの危険を顧みず、働いてきたじゃないか。
あんずは、涙ながらに余一郎に訴える。余一郎はバツの悪くなった顔を背けた。あんずが言う事は、自分が一番分かっているのだ。
勘一郎は、あんずに礼だけ言うと、自力で立ち上がった。
「分かっている。決着はつける。あの女は俺が斬る」
鯉口を切って、素早く鞘に収めた。それが、武士にとって何を意味するのか、余一郎には、勘一郎の決意の固さを理解した。
吾郎佐の死から数日後、小津城下にある噂が広がりつつあった。
「新しい殿様が出された、年貢を減らすのを取りやめるそうじゃ」
「聞いたところによると、やめるどころか、税を上げるそうな」
「今度の殿様は、聡明な心優しき御方じゃ、聞いとったんじゃが」
一体、わしらの暮らしはどうなるのかと、民が口ぐちに噂し合っている。そんな不穏な噂を余一郎は、たまたま街中で再会した坂本屋の権兵衛から聞いたのだった。
「若い殿様が、決めた減税を、重臣や御一族が総反対されたと、専らの噂ですよ」
権兵衛は、耳よりから聞いた情報だと胸を張っていた。聞いていた余一郎は、何とも複雑な心境であった。違うんだ権兵衛、それを決めたのは俺なんだ。喉まで出かかる。しかし、例え真実を話した所で、一体誰が信じるだろうか。余一郎は溜息を付くよりなかった。
「城に行こうと思う」
長屋へ戻った余一郎が、いつになく真剣な声と表情で話す。勘一郎が差し入れで持ってきたお団子を頬張る所だったあんずは、団子を落としそうになるのだった。
このままでは埒が明かない。そう余一郎は言った。街での噂が、本当かどうかを確かめる術が無い。或いは、吾郎佐が生きていれば、教えてくれただろうが。
「しかしだな。一体どうやって殿様に会うんだ?」
団子を口いっぱいに入れた勘一郎が問う。その通りだ。余一郎が、富之助の双子の兄弟と知る小津藩士はほとんど居ない。知っていたのは、ごく一部の者だけだ。
「行ってみれば、どうにかなるさ」
余一郎は、そう言うが先か、すぐに長屋を後にするのだった。
「おい、一体どうするのだ?」
城の正門が眼前に広がっている。本当にここに来てしまった。小津城は、後ろを肱川とする小高い丘の上に建てられた、当時でも珍しい、四層建ての連立式の山城であった。
「俺は藩主の兄だ。そう言って罷り通るさ」
余一郎が笑って言ったので、二人はそれが冗談だと思っていた。しかしだ、
「俺は伊賀崎余一郎と申す。御藩主殿に目通り願いたい」
門番に堂々と口上を述べる余一郎の後ろで、勘一郎とあんずは、固まっていた。
余一郎の口上が、余りに堂々としていたので、二人の門番は、呆気に取られた様子で、それぞれ顔を見合している。
「どうか、取次願いたい」
どこに藩主に急に会わせろと言う素浪人が居るだろうか?
ようやく我に返った門番たちは、自分の職責を全うしようとする。つまりは、余一郎たちを足止めしたのだ。それは正しい事であった筈である。
「俺は藩主の兄だ。そなた等では話しにならぬわ」
とうとう門番たちと押し問答となってしまった。通さぬ!通せ!と不毛な押し問答が続く。
「何をやっているのか?」
騒ぎを聞きつけた者達が城の中より門へ出てくるのが見える。
「石田俊介か?」
余一郎は、その一群の中に居た見知った顔の男の名を呼んだ。
「殿?」
俊介の言葉に、その場にいた者達が反応する。確かに今の余一郎の姿は、いつもの余り侍であったが、富之助と瓜二つの顔を誤魔化す為の付け髭もしていない。二人を知った人間が見れば、間違えても仕方なかっただろう。
「久しいな俊介」
だが俺は富之助ではない。兄の伊賀崎余一郎だ。
いつしか、騒いでいた門番達も、余一郎らに殺到していた城の藩士たちも、誰もが黙ってしまっていた。俊介は、藩士達より、一歩進み出ると、余一郎らをまじまじと見つめる。
「こちらに」
何かを察した俊介が、その場を収めて三人を城内に通したくれた。城の長い廊下を歩きながら、あんずは緊張した様子で、何度か、余一郎の背中に鼻をぶつけてしまっていたのだった。
東姫の広い屋敷にも、慣れるのに随分と時間が掛かったのだ。それが、いつも見上げるだけの御城の中を歩いているのだから、まるで夢のようであった。
隣を歩く勘一郎は、先程から黙ったままであった。勘一郎も、自分と同じように緊張しているのだろうか?そう考えると、少し気持ちが楽になるのだった。
「ここで暫しお待ちを」
俊介に通された一室は、藩主の私室の一つである事を余一郎は知っていた。調度品も少なく、簡素だがしっかりとした造りの、藩主が寝泊まりするには、いささか小さ過ぎる部屋であった。
「大丈夫か?」
勘一郎が不安の声を上げた。勘一郎の考えている事は、余一郎にも理解出来た。このように小さな部屋へ急に押しこまれて、このまま始末する気ではないのか?という不安である。
勿論、富之助がそこまでするとは思いたくはない。しかし、富之助の預かり知らぬ所で、藩主の兄弟を語る不届き者を抹殺しようとする過激な藩士が居ないとも限らないだろう。
「案ずるな。そう簡単に俺がやられるものか」
横で不安な表情を見せるあんずに、精いっぱいの言葉を掛ける。
「うん、余り侍が居れば、怖い物無しだね」
それにあんずも精いっぱいの笑顔で答えた。
「殿のお越しに御座る」
一刻程待たされて、富之助は現れた。勘一郎は、頭を下げる。釣られて、あんずも頭を下げた。しかし、余一郎は、堂々と座ったまま正面を見据えている。俺は兄だ。弟には頭を下げない。俺は主無しの男だと、静かに主張しているようであった。
「お久しぶりです。御一同」
上座に座った富之助は、いつもの柔らかい口調をしている。しかし、その表情は、前を見ており、余一郎とも、顔を上げた二人とも目線が合う事は無い。殿様であるのだから、主君然として構えるのは、当然の事であったが、あんずには、どこか悲しい事のように映っていた。
「爺が殺されたぞ」
「存じております」
余一郎の言葉に、間髪入れずに答える富之助。余一郎は、下手人はまだ捕まらないのかと暗に非難したのだ。
「田嶋様は急な病にて、亡くなり申した」
富之助の側に控える俊介が答える。他の家臣は、先程人払いをしていたので、ここには、五人しか居ない事になる。余一郎は、その俊介の言葉に反応する。どういう事だ?語気を荒げる。
俊介、客人に茶菓子をお出ししろ。余一郎の言葉には、或いは挑発には乗らない気なのか、富之助は、反応を示さない。代わりに、三人の元には、美味しそうな茶菓子が置かれる。あんずは、前に座る余一郎の様子を見る。余一郎が置かれた茶に手を伸ばしたのを確認し、自らも茶菓子に手を伸ばした。
「爺の死さえも、誤魔化すつもりだな」
一口茶で喉を潤した余一郎は、溜息交じりに言葉を続ける。そんな事までして、体裁が大事なのかと。その体裁とやらの為に、民を苦しめ続けるのか。
「税を減らすのを取りやめるのは、本当なんだな?」
余一郎の正面からの言葉に、富之助は、すぐには答えない。その態度こそが、答えであるかのようだった。
「何故だ?貴様であれば、分かる筈だ」
片膝をつき、右手を大きく回しながら、感情のままに余一郎は、大声を張り上げる。それは、魂からの叫びであった。自分は間違った事はしていないという自負の現れでもあっただろう。
「税を減らせば、この小藩は滅びます。減らすどころか…」
絞り出すように、ようやく言葉にする富之助であったが、相変わらず目線を余一郎と合わそうとはしなかった。
「人々を苦しめてまで、何が殿様じゃ。こんな腐れ藩、滅んでしまえ!」
怒気を大きく含んだ言葉の数々を浴びせると、まだ中身が入った湯呑みを富之助に向かって投げつけた。それは、殿様に当る事はなかったが、壁に当って、大きな音を立てて割れた。
「無礼者!」
俊介の悲鳴に近い大声と共に、近習の者達が、室内に雪崩れ込んで、三人を取り囲んだ。すでに立ち上がっていた余一郎は、ドスの利いた声で、退けと一言だけ言うと、自分の正面に立ちはだかる一人の男を、今にも斬捨てるのではないかと思わせる程、殺気を込めて睨みつけた。
「よい」
そんな騒然とした室内の様子に、城の主は、変わらぬ落ち着いた様子で、いつもの柔らかい口調で、一つだけ、だが良く通る声で発したのだった。
囲みを解かれると同時に、行くぞと言うが早いか、余一郎は室内を出る。後ろに座る弟を見る事もなく。障子が閉められる瞬間、あんずが室内に目をやると、先程まで、毅然と座っていた筈の富之助が、顔を覆うように、右手を当てて項垂れる様子が、一瞬だけ視界に入るのだった。城から出て、帰路を歩きながら、最後に見た富之助の様子が、暫く忘れられそうにないと、何故だが感じていた。
その晩、余一郎は夢を見ていた。子供の自分と富之助が居る。そして、二人を微笑みながら、優しい眼差しで見守る吾郎佐の爺の姿がある。爺を中心に、兄弟は追いかけたり、追いかけられたりを夢中になって繰り返している。ふと止まり、爺を見ると、何か言いたそうな様子だが、何も言わず、ただただ黙って兄弟を見守っている。時折、少し憂いた表情を見せる。そこで目が覚めた。
いつの間にか、朝を迎えていたようだ。余一郎の側で、あんずがまだ寝息を立てている。余一郎は泣いていた。寝ながら涙を流していた。自分でも、それが何故かは分からなかった。
嬉しそうに、いつまでも走り廻る兄と弟、そして、二人の姿を優しく見守る爺の姿。それが、ただの夢だったのか、いつかあった子供の頃の忘れた記憶なのかは、判然としない。
数日後、新野藩主池之端泰文の病死が、正式に発表される。それと同じくして、新野藩は、小津藩主加戸富之助泰武の預かり地となる事も、幕府より、発表されたのだった。
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