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面影を訪ねて
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一
古い話しである。小津藩初代藩主加戸泰光には、貞泰という双子の弟がいた。二人は、幼少の頃から、仲の良い兄弟であった。
そして、二人が長じて、泰光が加戸家の家督を継いで間もなくの頃、政権が交代する大戦があった。その戦で、泰光は将軍側に付いて、小津藩の初代藩主へと出世を果たしたが、弟の貞泰は、義理により、敵方についていた為、囚われの身となった。
泰光は、弟を助ける為に奔走し、助命嘆願を願い出るが、将軍が出した答えは、死罪であった。
他国で、親兄弟に別れて戦った者達で、その後、命を助けられた者も数多くいるのに、何故弟は死なねばならないのか?
将軍は言った。
「双子であれば、顔は同じであろう?二人が入れ替わって、余の命を狙ったとて、誰が分かるものか」
それは、あまりにも非情な命令であった。泰光は、血の涙を流して、自らの半身である弟に手をかけた。それから、加戸家では、双子は禁忌となったのだ。
幸いにも、それから、加戸家に双子の男児が誕生する事はなかった。時代を経て、余一郎光泰と、富之助泰武が産まれるその時まで。今の藩主で、双子の父親である加戸泰英は、決断を迫られた。どちらかを殺し、どちらかを残す。究極の選択だ。しかし、双子の母は、我が子らの危機に、ある事を夫に乞うた。
「我が命と引き換えに、二人の命をお助け下さい」
母は産後、数日して自害し果てた。そして、妻の壮烈なる遺言を守り、泰英は二人とも命を助ける事を決定する。初代の轍を踏まない為に、兄である余一郎を寺に預け、弟の富之助を嫡子としたのだった。
「これが、加戸家に伝わるお話しで御座る」
吾郎佐爺が、あんずに、いつもの、したり顔で語っている。あんずは、余一郎にそのような過去があった事を始めて聞いた。
そして、産まれて間もなく、母を亡くした悲しさも、自分と一緒であった事を嬉しく感じていた。世間の評判が悪い、余り侍が、何で自分の世話を焼いてくれるのかを分かったような気がしていたからだった。
あの事件以来、あんずは、姫の屋敷にて匿われていた。姫は、この珍客を最高の礼をもってもてなそうとしてくれて、それがかえって、あんずは、居心地が悪かった。こんな事は、産まれて初めての経験だったからだ。
最初こそ、大人しく、珍客として扱われていたが、その内に堪らなくなって、目に付いた所から、勝手に掃除などを始めてみたのだが、これには、女中頭から、嫌な顔をされてしまった。
まるで、私共が掃除を怠っているみたいじゃございませんか。吾郎佐爺に、女中らがそう訴えられると、あんずは、再び手持ちぶさたになってしまった。
余一郎はというと、たまに屋敷に顔を出して、泊まる事もあるのだが、余りここにはいない。ふらっと出かけてしまって、何日も帰らない事がままあった。
心配するだけ損ですよと、姫に諭されるが、余一郎の世話をあれこれ焼いていた、長屋暮らしが、遠い日々であったかのように思えていた。
話していると、屋敷の門の方から、大きな笑い声が聞こえてきた。余一郎であるに違いない。あんずは、嬉しくなり、気付いたら、声の方へ走り出していた。
「井上勘一郎と申します」
姫と藩の老臣である吾郎佐の前で、ぎごちなく挨拶する。
「勘一郎は、俺がこの屋敷に、押しこみを働く気かと言うてな」
勘一郎は、余一郎のような男が、こんな広い屋敷に用があるのは、よからぬ企てをしているに違いない。食い扶持に困って、とうとう強盗を働く気か?
そう言い、本気で余一郎を捕まえようとしたのだ。それであんなに大きな声で笑っていたのだと、聞いただけで、その時の二人のやりとりが目に浮かび、あんずは、笑い転げる。
「そんな話をする為に、拙者を連れてきたのではなかろう?」
少し赤面した顔を咳払いで誤魔化す、勘一郎は可愛げがある。
「こないだ晋太郎の奴に加担した、腰元の女の素性が分かり申した」
勘一郎のその言葉で、その場の空気が一瞬で固まるのを、あんずは肌で感じた。
「どうやら、新野藩の廻し者らしく…」
新野藩とは、小津藩の分藩の事である。一万五千石を有し、大名であったが、一国一城制から、城を持つ事は出来ず、代々の藩主は、この屋敷の数倍はある大きな屋敷に住み、お館様と称されていた。
「なるほど。確かに、後で調べた所、新野出身の者がおりましたな。それがあの女かと」
爺が告げると、姫は大きく頷いた。
小津藩と新野藩は、元々は一つであった。両藩を足しても十万国にしかならないが、名君と謳われた小津藩二代藩主の加戸泰興公が、嫡男には小津藩を継がせ、次男を分家して、新野藩を興させたのが、始まりであった。それ以来、今まで、小津藩に何かあった時の為に、新野藩は、陰日向となって、これを守り続けてきた。
しかし、小津藩からは、新野藩へ、養子入りして、藩主を継いだ者は数名いたが、その逆は一人としてなかった。
「新野藩の現お館様である池之端泰文(いけのはたやすふみ)様は、色々と噂のある御仁のようですな」
爺の言葉に、余一郎の眼が光り出す。面白くなってきやがった。その眼には、そう書いてある。
「おい、香戸晋太郎の狙いは何だ?」
勘一郎の疑問もそこにあった。勘一郎も余一郎と共に、晋太郎と道場で、研鑽を深めた仲であった。
「奴は、そもそもが、新野藩の家老の家柄。それが父親の代で没落して、今日まで、浪人暮らしの筈だ。恐らく、家名の存続、奴の狙いはそれだろう」
余一郎が珍しく、もっともな事を言うと、あんずは思ったが、口には出さない。
新野藩を追われた晋太郎を援ける新野藩出身の恐らく、忍びの女。新野では、葦(あし)の者といって、忍を組織化しているという噂であった。だがそれは、藩設立当初の昔話で、泰平の世となった、今も存続しているなどとは、思いもよらない事であった。
「新野に行かなきゃ、いけねえみてえだな」
余一郎は、右手を天高く突き上げると、先程よりも、更に大きな声で笑うのだった。それは、まるで、これから起こる事件を予期して、それに立ち向かう為の儀式のようでもあった。
二
新野へは、小津平野の横を流れる肱川沿いの街道を徒歩で進む事となる。朝早く、小津城下を出立すれば、男の脚で正午には着く。この日の朝も、肱川上流から発生する霧が、盆地の底にある小津平野へと注がれていた。
「今朝も大霧ですね」
余一郎に、にっこりと微笑む姫を、苦虫を噛んだかのような顔で、無言の抗議をする。
「もう諦めろ。姫様を護るだけじゃ」
井上勘一郎が、陣笠より顔を覗かせる。余一郎は、無言で手をひらひらさせる。それが、承諾の合図だった。
この一行には、余一郎と勘一郎、東姫とあんずの四名がいた。
「姫様、そこに水溜りが」
あんずと姫が連れだって歩く姿を後ろから眺めて、どうしてこうなってしまったのかと、珍しく後悔しながら、余一郎は歩いた。
昨日の事である。新野藩への偵察は、最初、余一郎と勘一郎の二人で行く筈であった。しかし、勘一郎には、御勤めがある。それを疎かにする訳にはいかない。そこで、吾郎佐の伝手を頼り、一蔵殺しの下手人探しの為に、新野藩へ御勤めとして行く事の許可を得たのだった。
いざ、新野へと思っていた所だったが、
「私の警護は、どうされるのですか?」
姫に笑顔で言われ、余一郎は、返答に窮した。
「拙者が一人で参りましょう。元々は、俺の仕事だ」
勘一郎は、胸を張ったが、支藩だと言っても、行った事が無い場所での探索など、難しいだろう。
「私、知っている人がいます。農村で清兵衛という人が、新野のお武家様に奉公していた事があるって」
あんずの思いがけない申し出だったが、一筋の光明となるかもしれない。ずっと屋敷に居るのも、息が詰まる。とは、本音を言えないが。
「ならば、私も行けば、一郎殿も一緒に行けるでしょう?」
姫様、何をおっしゃっているのですか?姫様には、これから、輿入れする為に、覚えて頂かないといけない事が山ほどあるのです。第一に、そのような危険な所に、姫様を行かせる事など…
吾郎佐が顔を真っ赤にして、姫を説得するが、どこ吹く風だ。男装するし、ここに居ても危険は一緒です。ならば、一番腕の立つ、一郎殿と共に居るのが、一番安全です。
それに、
「あんずちゃんまで、身の危険を顧みず、働こうとしているのですよ」
そう言いながら、爺を見る姫の眼は、真っ直ぐに、ただ頑として、己を曲げない事を雄弁と語っていた。姫の性格を知る吾郎佐は、渋々折れる形となったのだ。
「私は、小津へ来る前に、新野を通りましたから」
道中で、あんずに聞かせるように、姫は話し続ける。姫の産まれた郷は、小津より、新野を抜けた、もっと山間に位置していた。
「そこは、緑も川も豊かで、住み人々も親切なの。ねえ一郎?」
振り向く姫に、苦笑いで頷く。姫と呼ばれる身分となっても、そのそもの勝気な性格は変わってないらしい。
「何か言いまして?」
「いえ、姫様、滅相もございません」
わざとらしく、御辞儀する余一郎を見て、あんずと勘一郎は笑う。行きの道中は、ただただ楽しい旅の始まりだった。
今日は、新野藩に行くのだが、そこを通り過ぎて、先に内之子村へと行く。そこは、余一郎と姫が幼少の頃、共に過ごした場所であった。そして、そこには、あんずの知り合いという清兵衛という男がいる筈だ。
「祭りの縁日で知り合ったの」
あんずの養父である一蔵は、かんざし職人として、藩内で祭りがあると、縁日で出店をしていた。そこで、農村よりの手伝い衆の中に、その男が居たのだと言う。
「余り期待は出来んが…」
「里帰り出来るだけでも、嬉しい事じゃないですか?」
姫が男装してまで、随行に拘った理由が分かった。
婚儀の為に姫は、江戸藩邸にいる若殿の元へ、近々、行かねばならない。そうなれば、大名の妻子は、江戸の将軍の元で、人質として一生を過ごす事になる。
恐らく、もう小津藩へは戻ってはこられない。ましてや、里帰りなど、出来よう筈もないではないか。
「ほら、あそこに」
姫が指さす先には、内之子村の入口となる神南山が見えていた。
大きな屋敷が見える。余一郎の育った伊賀崎の屋敷だ。伊賀崎の家は、この村の大地主で、村長を代々務めている。亡くなった余一郎の母は、元々は、京の貴族の出だが、縁あって、この地で育った。まだ領主となる前の若き泰英が、遠乗りで訪れた際に、母を見初めて側室としたのだ。
だから、弟の富之助が、母の縁戚に当る東姫を正室に迎えたいと、望んだのも頷ける事であった。
屋敷に入ると、突然の来訪にも関わらず、現当主の惣太郎が出迎えてくれた。惣太郎は、寺の生活に馴染めず、抜け出して、また戻されてを繰り返す、余一郎を心配した正貫和尚が、母方の縁戚となる伊賀崎家へ預けた際に、世話を焼いてくれた人であった。
「惣兄、御無沙汰しております」
日本中探しても、余一郎が素直に頭を下げる人物は、この惣太郎だけであった。そこに居た誰もが、余一郎のその姿に驚いていた。ただ東姫だけを除いて。
「惣太郎さん、お久しぶりです。私です」
男装した姫を訝しがっていた惣太郎も、それが、あのお転婆であった娘だと分かると、何とご立派に、いや、美しくなられた。なんとまあと、しきりに連発して、驚きを隠せない様子だ。
「とにかく、部屋を用意させる。上がって寛いで下さい」
嬉しそうに、家中の者たちに指示し始める惣太郎。村長の大役を務めるこの男は、まだ四十代に入ったばかりだと思うが、髪には白い物が混ざり、年より老いた印象を受ける。
縁者とはいっても、実際には、血の繋がらない余り者の余一郎を、年の離れた実の弟のように接してくれる。子供時代の自分を人だと認めてくれた、数少ない内の一人であった。
「ここで、余侍様と東姫様は、遊んでいたの?」
大きな一室に通された姫とあんずは、荷解きを終えると、ようやく一息ついていた。隣室には、余一郎と勘一郎がいる部屋がある筈だ。
「そうよ。私と一郎と、あと晋太と。毎日、魚を取ったり、虫を捕まえたり、屋敷の人達にいたずらしたり。本当に毎日、毎日…」
姫は思い出していた。三人の青春時代を。そして、思い返していた。晋太郎が、どうして、悪党に成り下がってしまったのかを。
その晩は、屋敷にて小宴が行われた。皆呑んで、食べて、束の間の休息を楽しむのだった。
朝目覚めて、見慣れぬ天井に少し戸惑いながら、目を覚ました。見慣れないと思いつつ、どこか懐かしいと感じた所で、ここがどこなのかようやく思い出して、余一郎は夢から覚めたのだった。
昨日は、屋敷にて歓待を受けて、呑み過ぎてしまった。少し頭が痛い。しかし、気分が悪いのは、昨晩の酒が原因ではない。夢を見ていたのだ。幼い頃の夢、自分とあずと晋太郎が遊んだあの日々の事を。
「晋太郎の奴は…」
呟きながら、布団より起きる。まだ夢と現実(うつつ)の境界線がはっきりとしていないせいだろう。考えるよりも、先に言葉が出ていた。勘一郎の姿は見えないので、誰にも聞かれてはいないのが幸いだな。
余一郎は、再び布団に寝転がる。腕を組んで、天井を見上げるが、少しして、身体を右に傾けた。義侠心があり、少し乱暴だが、そこには優しさがあった。身分や立場を反す事なく、人に接する男だった。俺たちは出会って、すぐに友となった。
余一郎は、いつの間にか、また眠ってしまった。また夢の続きを見られるだろうか?
お味噌汁が美味しい。山で採れた山菜を入れたほっとする味だ。昨日は、宴の楽しさの余りに、産まれて初めての酒を呑んで、実は朝から、頭が痛かったのだ。その事を言うと、姫も、実は私もと言って、可愛らしい舌を出して笑ってくれた。二日酔いだという物を始めて知った。二日酔いには、朝餉の味噌汁がいいらしい。
余一郎は、まだ寝ているらしく、姿が無い。勘一郎は、日課にしている剣術の稽古をしている。昨晩、余一郎と張り合って、あれだけ呑んでいたのに、元気そのものだ。
「あれは?」
ふと、部屋の柱にある刀傷が目に入った。傷の様子から、昨日今日の傷ではない事が見てとれた。
「ふふっあれはね…」
姫が、その刀傷が少年時代の余一郎が悪戯をしている際に、傷つけたものだと教えてくれた。
余一郎とあの晋太郎が剣術の稽古と称して、遊んでいる時であった。二人のチャンバラはどんどんと熱を帯びてきて、ついには、屋敷の蔵にあった真剣を取り出しての大立ち回りにまで、発展したのだ。
「それで、一郎があの柱にね」
嬉しそうに話す姫だが、あんずには、その時の様子が、目に浮かんで、少し頭の中が修羅場と化した。すぐに頭を振って、それを追い出す。
「あれは、あの野郎が真剣でやらねば、納得がいかぬと言い出したからだぞ」
いつの間にか、起きて来た余一郎が、鴨居に手をかけならが、少し不貞腐れた様子で話す。余一郎の様子に、二人はクスクスと笑う。どこか、罰が悪そうに、顔を掻いて誤魔化す。
「味噌汁の旨そうな匂いが、庭まで届いており申した」
朝稽古を終えた勘一郎が、堪らぬ様子で、部屋へ飛び込んでくる。その様を見て、場に笑いが起った。
三人に何故笑われるのか、分からない勘一郎は、とにかく、泣き止まぬ腹の虫を抑える為に、味噌汁を腹に、注ぎ込むのだった。
朝餉を終えた後、四人は、あんずの知人だという男の家へ赴く事にした。清兵衛ならば、村はずれの家に居りますよ。奉公していたお武家が無くなり、家に戻ったが、元々、天涯孤独な男でと、屋敷の者がそう教えてくれた。
清兵衛は、あんずの事を覚えてくれていた。三十代の大柄な身体をしているが、腰の低い男であった。目が丸々としていて、よく笑う。そのせいか、年よりも若く見える。身よりも無く、妻帯もしていない。土地持ち百姓であるので、嫁の成り手はあっただろうに、頑なにそうしない。
どうやら、奉公先に良い女がいたらしい。村々で噂になるが、当の清兵衛は、それを静かに笑い流すだけで、答えようとはしないのだ。そして、何と清兵衛が奉公していたのは、御取り潰しになった香戸家だと言うではないか。
「香戸の旦那様には、良くして頂きました。若様の事も、勿論覚えておりますよ」
奉公先の香戸家の話しになると、清兵衛の舌は饒舌になった。亡くなった旦那様は、オラのような使用人にも、気さく声をかけて下さる。気に優しい方でした。
「家が御取り潰しになってからは、晋太郎に会った事はあるか?」
勘一郎が質問すると、それまでの饒舌が嘘のように、清兵衛は、黙ってしまった。再度、どうなのだ?と今度は余一郎が問うと、
「一度だけ、オラを訪ねて参りました」
何だが、間の悪そうな表情で、清兵衛は語り始めるのだった。
香戸家は、そもそもが加戸家の縁戚に連なる小津では、名門の家柄であった。その祖を辿れば、小津藩初代藩主の泰光が、女中に産ませた男子が祖であるという。
双子の弟を殺した事を悔いてかは分からないが、産まれた子を新野藩の家老に取り立てたのは、泰光なりの我が子を守りたい一心であったのだろう。
かくして、香戸家は、新野藩の家老職を代々全うしてきた。しかし、それが途絶えたのは、晋太郎の父である直之が起こした十三年前の事件によってであった。
「十三年前というと、あんずの父が死んだ例の事件と一緒の時期だな」
勘一郎が腕組みしながら言う。皆考える事は一緒だ。ひょっとすると、あんずの父親が死なねばならなかった事と、何か関係があるのではないかと。
「私はその事は、余り知らないのです。まだ幼かったですし。その後、慎太が村に来て、三人で遊ぶようになって…」
姫の言葉に、余一郎が頷く。御取り潰しの後、晋太郎は村へやってきた。匿われていたのか、厄介払いされたのか、だが当の本人が、自分の家について、話した事はなかった。
「清兵衛、一体何があったというのだ?」
「へい、あの時の事は、オラは昨日の事のように、覚えております」
十三年前のある日、城勤めを終えた直之が屋敷に帰って来ると、いつもとは違う、怖い表情をしていた。何かあったな。オラはすぐに分かった。旦那様は、いつでも帰って来る時は、笑顔だったから。
今日はもういいので、早く休むようにと上役に言われたので、清兵衛は、そのまま屋敷の隅にある、使用人たちの為の小屋に入ったのだが、妙な胸騒ぎがして、すぐには寝つけなかった。いつもなら、すぐに寝入ってしまうのだが、その夜は、満月の夜で、月明かりに導かれるように、小屋の外へ出た。
暫く、頭上にある輝く月を愛でていたのだが、屋敷の中で、騒がしい音が聞こえてきた。どうやら、悲鳴らしき声も聞こえる。清兵衛が勝手口より、屋敷内に上がると、血だらけの晋太郎坊ちゃまが、フラフラとこちらに歩いてくるではないか。
「父上が死んだ…父上が死んだ…」
うわ言のように繰り返すばかりで埒が明かない。坊ちゃま、お気を確かに。清兵衛は、晋太郎を優しく抱きしめながら、誰かおらぬか?助けを呼び続けた。晋太郎が怪我をしていると思ったのだ。
しかし、晋太郎に怪我はなく、それは、全て父直之の血で汚れていたのだった。直之は、夜中に自室にて、自死していたのだ。微かに漏れるうめき声を、目が覚めて、厠に行っていた晋太郎が見つけたのだった。
直之は、藩の公金を横領した疑惑を掛けられていた。そして、小津藩の勘定奉行と結託して、両藩の参勤交代に使う為の費用を着服した疑いがあった。しかし、直之は、罪を認めず、その晩に自死したのだった。
「死人に口無しか…」
勘一郎が呟いた。その後、香戸家は御家取り潰しに処された。しかし、着服されたとされる公金は、見つからないままであった。直之と勘定奉行が、放蕩に使ったとされたが、
「旦那様が、そのような遊びをされていた事を見たことがございません」
きっと、旦那様は、何かの陰謀に巻き込まれたのです。そして、藩の名誉を守る為に、自死されたのです。オラはそう信じています。
清兵衛の言葉には、直之と接していた者のみが語れる真実があるように思えた。
「晋太郎が来たと言うたな?清兵衛、今の話しをしたのか?」
余一郎の問いに、清兵衛は、頷いた。晋太郎が、清兵衛を急に訪ねてきたのは、今から三年も前の話しだ。
「屋敷で女中をしていた女と、二人でした」
清兵衛の話しに、余一郎の顔色が変わる。間違いない。あの時の葦の者に違いない。晋太郎は、小津を憎んでいる。余一郎は、心で確信を得たのだった。
三
思いがけない収穫であった。藁にも縋る思いで、内之子村にやってきたのだ。何故、一蔵が殺されなければならなかったのか?そして、晋太郎が、東姫を狙う理由は何なのか?十三年前の事件に、その全ての鍵が隠されている気がするのだ。
惣太郎に別れを告げると、内之子村を後にする。またいつでも来いと惣太郎が言って、涙ぐみのを、永久の別れみたいに、大げさだと、余一郎は笑い飛ばす。
「またすぐに来ますから」
余一郎らの姿が見えなくなるまで、惣太郎ら、屋敷の者達が手を振ってくれる。時折、あんずが振り返り、まだ手を振っているよと言って、手を振りかえしていた。
「江戸に行こう」
神南山の上へ、朝陽が登って行く。余一郎は皆に宣言するように話し始める。十三年前の真相を知る人物は、江戸に居る。これから、姫を警護して、江戸へ行くのだ。
「晋太郎を止めるのは、俺しか居らぬ。喧嘩仲裁は、俺の仕事だ」
自分に向けて話す笑顔の底に、いつもと違う、決意が隠されていると、あんずは感じていたのだった。
四人は、小津へ帰る前に、もう一つの目的地である新野藩に来ていた。そこで、数日聞き込みをしていたのだが、姫は爺から固く誓わされた期日が迫っていた為、先に戻らないといけない。
「拙者が残って、調べましょう」
勘一郎が胸を張る。元々、新野藩に一蔵殺しの下手人を調べる為に、藩へ届け出を出したのであるし、自分の仕事であるという自負もあった。それに、余一郎には、姫の警護という大役もある。
「おい、一人で大丈夫か?」
余一郎がからかう様に言うが、勘一郎は、役に立つ男だ。最初から、任せるつもりであった。内之子村で、思ったよりも、時間を取りすぎた。致し方ない。
「私も井上様と一緒に残りたい」
そう思いがけない事を言いだしたのは、あんずであった。
「何を言っているの?危険よ。それに、男と女が二人だけなんて」
すぐに姫があんずを諭すが、頭を横に振るだけで、テコでも動かない様子だ。余一郎は黙って、あんずを見ている。こうなったあんずが、誰の言う事も聞かなくなるのを知っていたからだ。
「井上様の妹だという事にしたらいい。内之子にある親類の墓参りの帰りって事にするの」
あんずは、帰り道で口数が少なかった。旅の疲れが出ただけと思って、気にも留めていなかったのだが、帰路の中で、ずっとこの事を考えていたのだろう。
自分は、余一郎と姫について、江戸へは行けない事を。そして、そんな自分に、一体何が出来るのかを。
「いいか、勘一郎が変な気を起したら、奴の左脛を思いっきり蹴とばせ。こいつの弱点だ」
あんずの肩を軽く叩きながら、余一郎が言う。それが、彼なりの許す言葉だった。一方、言われた方の勘一郎が、拙者はそのような事はしない。決して、武士に二言は無い。などなど、ずっと言い続けている。それを見て、姫とあんずは、何だが可笑しくなってきて、最後には、腹を抱えて笑うのだった。
四人が二手に分かれたのは、その次の街道の分岐点であった。ここより、右に往けば、小津藩の城下町へ。ここより、左を往けば、新野藩の陣屋へと続く道である。
抜かるなよ。お前こそな。姫様、御達者で。あんずちゃんも、江戸土産を一郎殿に持たせますゆえ。四人は、銘々に別れを惜しみながら、それぞれの道を進むのだった。
姫は余一郎の後を追う様に歩く。こうしていると、まるで、子供の頃に戻ったような錯覚がした。年上の余一郎と、晋太郎を追いかけていたあの頃は、毎日が楽しかった。
「一郎殿、一郎殿…」
少し躊躇した後、意を決したように、余一郎の背中越しに声を掛けた。彼は立ち止ると、振り返る。二人の間に、少しの沈黙が訪れた。
何度も何かを言いかけては、やめてを繰り返す。自分でも、何を言いたいのかが、分からなかった。でも、何かをきっと話さなければ。
「江戸に行く前に、京の都へ行くんだな」
東姫の様子を気遣ってか、余一郎から声を掛ける。姫は、京の貴族である徳大寺家へ養子入りした後に、江戸へ輿入れする手筈だ。だから、一度、養父になる徳大寺の当主へ、挨拶をしにいくのだった。
「あのお転婆あずが貴族の姫様になるなんてな。まして…」
わざと茶化すように、余一郎は言ったが、その後の台詞を言わないまま、姫に背を向ける。
姫には聞かずとも分かっているのだ。そして、それを言いたくない一郎の気持ちも。
その後、小津までの道を二人で進む。道中をずっと姫が独り言のように、話し続け、余一郎は、たまに相槌を打つぐらいで、余りしゃべろうとしないのだった。
「あそこの道から、長浜へ行くのですね」
小津を抜けて、長浜街道を抜けると海に出る。瀬戸内海を渡り、堺より、京へ行くのだ。
「二人で行けたなら…」
姫は独り言のように、小さく呟く。一瞬、余一郎の歩みが止まる。このまま二人で、いっそ長浜を通って、船に乗り、どこかへ出奔すればいいのだ。長崎へ渡って、そのまま大陸へ渡るのもいいかもしれない。
出来る筈もない妄想が、頭の中を過っては、消えていく。
「一郎見て、夕陽が」
気が付けば、もう陽が傾いていた。それが、二人を妄想から現実へと引き戻してくれた。
「もう少しです。行きましょう」
夕陽を見ながら、姫は笑顔で言った。余一郎はそれに頷くと、歩を強く進めるのだった。
四
勘一郎は、後悔し始めていた。全くどうかしていた。どうして、あの時、無理にでも反対しなかったのだろう。腕組みをして、今にも怒鳴り散らしそうな剣幕の表情で、じっと正座するあんずを睨みつけていた。
「一体、自分のしでかした事が分かっているのか?」
これで、同じような事を言うのも、何度目かになる。自分でも分かっているのだが、繰り返せざるをえない。
「ごめんなさい…」
正座した後ろ足をもじもじさせながら、あんずは、何度も謝っていた。
余一郎らと別れた後、勘一郎とあんずは、予定通りに、新野藩の藩庁がある陣屋の近くの旅籠へ泊まる事とした。新野藩は、城が無い。江戸時代に入ると、一国一城制の為、支藩は、城を建てる事を許されていないのだ。
勘一郎は、大胆にも、陣屋近くの旅籠で、腰を据えて、情報収集しようと考えた。そうすれば、もしも、相手の耳に入れば、何等かしかの反応があるかもと期待したからだ。しかし、そんな勘一郎の願いも、期待外れであった。数日聞き込みをしても、目ぼしい情報は何も得られなかった。
「こんな事もある。今は奴らも、身を潜めておるのだろう」
あんずを慰めるように、勘一郎は言ったが、本当は、自分に言い聞かせる為の言葉だったのだろう。逸るな勘一郎、そう自分に言い聞かせているかのようであった。
あんずは、考えていた。勘一郎の言う、相手の反応という物は、こちらが起こす行動に比例するのではないだろうかと?勿論、このような事をはっきりと考えての事ではない。あんずは、ただ漠然と、だが直感的に考えたのだ。行動が足りないと。
翌日、勘一郎が聞き込みに出たのを見計らって、あんずも行動を開始した。大胆にも、陣屋に迷ったふりをして、入り込んだのだ。
自分でも、何故そのような事をしたのか、分からなかった。だが、そうすべきだ、とその時は、信じていた。見張りの死角を突いて、塀を乗り越え、例の葦の女のように、忍びになったつもりで、敷地内に入った。
敷地内に入ると、物影に隠れながら進んだ。ここに、晋太郎とあの女が潜んているはずだ。あんずは、慎重に歩を進める。誰かに見つかっては、殺されるかもしれない。
「おい、そこに居るのは誰だ?」
そう思っていた矢先に、背後より、声を掛けられた。振り返ると、見張りの者だと思われる男が立っている。あんずは、冷や汗が背中を流れるのを感じていた。
「お主もお館様に会いに来た童か?こっちじゃ」
捕まると思って、覚悟し、恐怖で目を閉じてしまったのだが、見張りの男は、笑顔で屋敷の奥の方へ案内してくれた。
そこには、数名の子供に菓子を配る一人の恰幅の良い侍が居た。あんずがきょとんとして、その光景を眺めていると、先程の見張りが、あんずの背中をそっと押し、その輪の中心に進めてくれる。
「お前も菓子を貰いにきたのか?ほれ」
差し出された菓子を受け取ると、恐る恐るその男の顔を見る。その男は、その丸々とした肌艶の良い頬に、皺を浮かべながら、にっこりと微笑んだ。
「殿様、また刀を見せて」
一人の男の童がそうせがむと、またか、分かった、分かったと、その殿様は、奥の部屋にある刀を取って来て、鞘から白刃を抜いて見せた。
「これが、かの名刀正宗よ」
殿様が威張って言うと、童達より、羨望の声が上がる。
「またやってるぞ。お館様も困ったものじゃな」
「警護するわしらの身にもなって欲しいわ」
離れた所で、先程の見張りの男と、もう一人の男が会話していたのを、あんずは聞き耳を立てて、聞いていた。それで、この風変わりな殿様が、新野藩の藩主である池之端泰文である事が分かったのだった。
そして、その日は旅籠へ帰ると、あんずが居なくなった事に気づいた勘一郎に、叱られていたのだ。勘一郎は、あんずをずっと探していてくれたらしく、あんずが戻ると、ほっとするような、怒るような、複雑な表情で出迎えてくれた。
「もしも、捕らえられたら、一体どうしていたのだ?」
勘一郎の怒りは、もっともではあったが、あんずは、別の事を考えていた。お館様の泰文は、子供好きで知られる気さくな殿様と、評判であるらしく、ああやって、決まった日時に、近所の童を呼んでは、菓子を配り、語らう時間を取るらしい事が分かったのだ。
「私が陣屋へ潜り込んで、色々と聞き出せば、何か分かるかもしれない」
あんずの考えはそれであった。これには、最初、勘一郎は猛反対していた。当然だ。そんな危ない事を、あんず一人にやらせる訳にはいかないだろう。
「でも井上様、他に何か考えはあるの?」
そう真っ直ぐに、曇りない眼で言われてしまうと、勘一郎も折れるしかなかった。
翌日より、あんずは、陣屋近辺へ出かけては、館の者や、近所の子供達と、顔なじみになれるよう、積極的に動く事にした。
「あんず、よいな。一人で無茶をせずに、何かあれば、拙者を頼るのだぞ」
あんずを見送る勘一郎は、まるで、吾郎佐の爺様のようだと、内心あんずは思えて、可笑しかった。何より、自分がここに来て、始めて役に立てるかもしれないと思い、嬉しくて仕方なかったのだ。
「おう、あんずよ。来たのか」
あんずの顔を見た門番が、親しげに声を掛ける。あんずも、今日も御勤め大変ですねと言葉を交わす。
あんずは、数日の間で、警戒されずに館へ出入り出来るようになっていた。これは、人に好かれやすい天性の才能だと、勘一郎は誉めてくれた。存在するだけで、人に警戒心を植え付ける、どこかの仲裁屋とは、訳が違うと笑っていたものだ。
「そうすると、十三年前に、そなたの実の父が死んだのか?」
頂いた菓子を頬りながら、泰文と会話する度に、少しずつ、自分の身の上話しを聞かせる。自分が産まれる前に死んでしまった実父の事、殺された養父の事、それらを怪しまれないように、慎重に重ねていく。思ったよりも、根気のいる作業である。
「その下手人が、新野に居るかもしれないって」
あんずは、殊更、無邪気に話す事を心掛ける。これは、一種の賭けだ。これに喰いつかなければ、自分の見込み違いなのだろう。
「お主の一緒に来ている兄というのは、名は何と言ったのかのう?」
泰文の問いに、笑顔で答えながら、選択が間違っていない事を祈っていた。
勘一郎は、あんずを待っていた。ここ数日、陣屋近くの茶屋で、時間を潰しながら、陣屋へ出入りする人間を観察しながら、屋敷内に異変が無いかを確認していたのだ。最初、勘一郎も自分なりに動いていたのだが、伝手も当ても無い状態では、如何ともし難く、慣れない地での情報収集の難しさを実感していたのだった。
その日の晩は、いつの間にか、大雨が降っていた。雨脚が酷くなるのを感じて、勘一郎は、物憂げに目を覚ました。仕切りを隔てた横で、あんずがまだぐっすりと眠っている。起さないように、足音を立てず、厠へ向かおうとして、自分の枕元に何かがあるのが分かった。あんずを起こすかもしれないが、灯りを燈すと、それに近づけてみる。
すると、そこには、今自分が眠っていたすぐ横に、何やら、刃物のような物が、畳に深く刺さっているのが分かった。引き抜こうと、それを持つが、かなり深く刺さっている様子で、片手では容易に抜けない。仕方なく、灯りを置いて、両手でようやく抜くと、それは、かんざしであった。しかし、先端が尖って出来ていて、それで急所を刺されれば、一溜りも無いだろう事は、容易に察しがついた。
これは、警告だ。勘一郎は、直感していた。これこそが、自分が求めていた、敵の反応ではないか?勘一郎は、大小を素早く手に取ると、そのまま部屋を出て、旅籠を飛び出した。この雨だ。警告を届けた何者かの足跡が、きっとまだ残っている筈だ。それが、雨で消えてしまわない内に、見つけねばならない。
勘一郎は、駆けた。雨脚は、更に強くなってくる。こうなっては、傘は意味をなさないが、その雨に濡れるのも、お構いなしで、勘一郎は、足跡を追う。提灯の灯りが消えないように、慎重に、しかし、早く追い付かねばならない。
「くそ、これでは、追い付けぬではないか」
苛立つ。雨が酷く、足跡の判別が難しくなってき始めていた。足跡は、一つだけだ。予想では、陣屋の館へ向かうと思っていたが、どうやら、足跡は、その反対の町はずれへ向かっていた。
致しかたなしか…勘一郎は半ば、諦めかけていた、その時であった。
「人の忠告は、素直に聞くものだ。井上勘一郎」
いつの間にか、背後に人が立っている。勘一郎は、背中に悪寒が走るのを感じた。素早く振り返ると同時に、刀の柄に両手をやる。足元に落ちた提灯が、油で勢いよく、燃え始め、その火の勢いは、勘一郎と対峙する相手の顔を照らし出すのに、十分だった。
「やはりお前か?忍びの女」
そこには、一見普通の町娘にしか見えない女が立っていた。女にしては、背が高く、美人のようだが、何だか特徴の無い、次に会ったら、顔をよく思い出せない。そういう印象の女が立っている。
だが、間違いなく、晋太郎に従っていた葦の者である筈だ。
「どうして俺の名を?」
「知らない筈は無い。伊賀崎余一郎、東姫、田嶋吾郎佐衛門、一蔵の娘あんず、そして、貴様だ」
女は、嘲笑うように、一人一人仲間の名を口にする。そして、自分の名を言い終ると、一つ舌なめずりする。それが、この上なく、不気味であると同時に、妖艶であった。
「貴様など、すぐに仕留める事が出来るが、そうせぬのは、興を削ぐからじゃ」
女は言った。貴様らは、全て晋太郎様と私の手のひらの上だと。そう言って高笑いをする。その様子を勘一郎は、身を屈めて、じっと静かに聞いている。
そして、勘一郎がもう一つ、その身を屈めた直後であった。何が起こったのか、女には分からなかった。気が付けば、勘一郎が抜刀していて、自分の首元へ、その刃が迫っていたのだ。
「何を勘違いしている?いつでも殺せるのは、こちらの方だぞ」
道場で学んでいた頃、居合いに関しては、晋太郎よりも、自分の方が速かったという、自負が勘一郎にはあった。まして、その遣いの女如きに、遅れを取るものか。勘一郎の刃が女を制する。
先程まで、勝ち誇っていた女の顔が、見る見る強張っていくのが分かる。
「その顔の方が、美人に見えるぞ」
今度は、こちらが勝ち誇る番であった。勘一郎は、聞いた。貴様らの目的は何だ?東姫を攫う事かと。
「あんな田舎娘など、晋太郎様も、本心で想っている筈もないわ」
女は口惜しい様子を見せる。その態度が、姫を狙う他の理由がある事を示唆していた。ならば、その目的は何だ?一蔵を何故殺した?十三年前の事件と関わりがあるのか?
「そこまで聞くなら、教えてあげる。だから、この刀を退いて」
急に女は、乞うように、甘えた声を出す。瞬間、不意を突かれた勘一郎の剣先が鈍る。女はそれを見逃さなかった。勘一郎の隙を突いて、その刃が届かぬ所まで、跳んだのだ。
「我らは、全て十三年前の復讐の為に動く。貴様もそれを忘れるな」
女はそう言うと、すぐに雨の暗闇の中に消えた。勘一郎は、すぐにそれを追うが、女の気配は、更に強くなる雨の勢いと共に、消えるのだった。
古い話しである。小津藩初代藩主加戸泰光には、貞泰という双子の弟がいた。二人は、幼少の頃から、仲の良い兄弟であった。
そして、二人が長じて、泰光が加戸家の家督を継いで間もなくの頃、政権が交代する大戦があった。その戦で、泰光は将軍側に付いて、小津藩の初代藩主へと出世を果たしたが、弟の貞泰は、義理により、敵方についていた為、囚われの身となった。
泰光は、弟を助ける為に奔走し、助命嘆願を願い出るが、将軍が出した答えは、死罪であった。
他国で、親兄弟に別れて戦った者達で、その後、命を助けられた者も数多くいるのに、何故弟は死なねばならないのか?
将軍は言った。
「双子であれば、顔は同じであろう?二人が入れ替わって、余の命を狙ったとて、誰が分かるものか」
それは、あまりにも非情な命令であった。泰光は、血の涙を流して、自らの半身である弟に手をかけた。それから、加戸家では、双子は禁忌となったのだ。
幸いにも、それから、加戸家に双子の男児が誕生する事はなかった。時代を経て、余一郎光泰と、富之助泰武が産まれるその時まで。今の藩主で、双子の父親である加戸泰英は、決断を迫られた。どちらかを殺し、どちらかを残す。究極の選択だ。しかし、双子の母は、我が子らの危機に、ある事を夫に乞うた。
「我が命と引き換えに、二人の命をお助け下さい」
母は産後、数日して自害し果てた。そして、妻の壮烈なる遺言を守り、泰英は二人とも命を助ける事を決定する。初代の轍を踏まない為に、兄である余一郎を寺に預け、弟の富之助を嫡子としたのだった。
「これが、加戸家に伝わるお話しで御座る」
吾郎佐爺が、あんずに、いつもの、したり顔で語っている。あんずは、余一郎にそのような過去があった事を始めて聞いた。
そして、産まれて間もなく、母を亡くした悲しさも、自分と一緒であった事を嬉しく感じていた。世間の評判が悪い、余り侍が、何で自分の世話を焼いてくれるのかを分かったような気がしていたからだった。
あの事件以来、あんずは、姫の屋敷にて匿われていた。姫は、この珍客を最高の礼をもってもてなそうとしてくれて、それがかえって、あんずは、居心地が悪かった。こんな事は、産まれて初めての経験だったからだ。
最初こそ、大人しく、珍客として扱われていたが、その内に堪らなくなって、目に付いた所から、勝手に掃除などを始めてみたのだが、これには、女中頭から、嫌な顔をされてしまった。
まるで、私共が掃除を怠っているみたいじゃございませんか。吾郎佐爺に、女中らがそう訴えられると、あんずは、再び手持ちぶさたになってしまった。
余一郎はというと、たまに屋敷に顔を出して、泊まる事もあるのだが、余りここにはいない。ふらっと出かけてしまって、何日も帰らない事がままあった。
心配するだけ損ですよと、姫に諭されるが、余一郎の世話をあれこれ焼いていた、長屋暮らしが、遠い日々であったかのように思えていた。
話していると、屋敷の門の方から、大きな笑い声が聞こえてきた。余一郎であるに違いない。あんずは、嬉しくなり、気付いたら、声の方へ走り出していた。
「井上勘一郎と申します」
姫と藩の老臣である吾郎佐の前で、ぎごちなく挨拶する。
「勘一郎は、俺がこの屋敷に、押しこみを働く気かと言うてな」
勘一郎は、余一郎のような男が、こんな広い屋敷に用があるのは、よからぬ企てをしているに違いない。食い扶持に困って、とうとう強盗を働く気か?
そう言い、本気で余一郎を捕まえようとしたのだ。それであんなに大きな声で笑っていたのだと、聞いただけで、その時の二人のやりとりが目に浮かび、あんずは、笑い転げる。
「そんな話をする為に、拙者を連れてきたのではなかろう?」
少し赤面した顔を咳払いで誤魔化す、勘一郎は可愛げがある。
「こないだ晋太郎の奴に加担した、腰元の女の素性が分かり申した」
勘一郎のその言葉で、その場の空気が一瞬で固まるのを、あんずは肌で感じた。
「どうやら、新野藩の廻し者らしく…」
新野藩とは、小津藩の分藩の事である。一万五千石を有し、大名であったが、一国一城制から、城を持つ事は出来ず、代々の藩主は、この屋敷の数倍はある大きな屋敷に住み、お館様と称されていた。
「なるほど。確かに、後で調べた所、新野出身の者がおりましたな。それがあの女かと」
爺が告げると、姫は大きく頷いた。
小津藩と新野藩は、元々は一つであった。両藩を足しても十万国にしかならないが、名君と謳われた小津藩二代藩主の加戸泰興公が、嫡男には小津藩を継がせ、次男を分家して、新野藩を興させたのが、始まりであった。それ以来、今まで、小津藩に何かあった時の為に、新野藩は、陰日向となって、これを守り続けてきた。
しかし、小津藩からは、新野藩へ、養子入りして、藩主を継いだ者は数名いたが、その逆は一人としてなかった。
「新野藩の現お館様である池之端泰文(いけのはたやすふみ)様は、色々と噂のある御仁のようですな」
爺の言葉に、余一郎の眼が光り出す。面白くなってきやがった。その眼には、そう書いてある。
「おい、香戸晋太郎の狙いは何だ?」
勘一郎の疑問もそこにあった。勘一郎も余一郎と共に、晋太郎と道場で、研鑽を深めた仲であった。
「奴は、そもそもが、新野藩の家老の家柄。それが父親の代で没落して、今日まで、浪人暮らしの筈だ。恐らく、家名の存続、奴の狙いはそれだろう」
余一郎が珍しく、もっともな事を言うと、あんずは思ったが、口には出さない。
新野藩を追われた晋太郎を援ける新野藩出身の恐らく、忍びの女。新野では、葦(あし)の者といって、忍を組織化しているという噂であった。だがそれは、藩設立当初の昔話で、泰平の世となった、今も存続しているなどとは、思いもよらない事であった。
「新野に行かなきゃ、いけねえみてえだな」
余一郎は、右手を天高く突き上げると、先程よりも、更に大きな声で笑うのだった。それは、まるで、これから起こる事件を予期して、それに立ち向かう為の儀式のようでもあった。
二
新野へは、小津平野の横を流れる肱川沿いの街道を徒歩で進む事となる。朝早く、小津城下を出立すれば、男の脚で正午には着く。この日の朝も、肱川上流から発生する霧が、盆地の底にある小津平野へと注がれていた。
「今朝も大霧ですね」
余一郎に、にっこりと微笑む姫を、苦虫を噛んだかのような顔で、無言の抗議をする。
「もう諦めろ。姫様を護るだけじゃ」
井上勘一郎が、陣笠より顔を覗かせる。余一郎は、無言で手をひらひらさせる。それが、承諾の合図だった。
この一行には、余一郎と勘一郎、東姫とあんずの四名がいた。
「姫様、そこに水溜りが」
あんずと姫が連れだって歩く姿を後ろから眺めて、どうしてこうなってしまったのかと、珍しく後悔しながら、余一郎は歩いた。
昨日の事である。新野藩への偵察は、最初、余一郎と勘一郎の二人で行く筈であった。しかし、勘一郎には、御勤めがある。それを疎かにする訳にはいかない。そこで、吾郎佐の伝手を頼り、一蔵殺しの下手人探しの為に、新野藩へ御勤めとして行く事の許可を得たのだった。
いざ、新野へと思っていた所だったが、
「私の警護は、どうされるのですか?」
姫に笑顔で言われ、余一郎は、返答に窮した。
「拙者が一人で参りましょう。元々は、俺の仕事だ」
勘一郎は、胸を張ったが、支藩だと言っても、行った事が無い場所での探索など、難しいだろう。
「私、知っている人がいます。農村で清兵衛という人が、新野のお武家様に奉公していた事があるって」
あんずの思いがけない申し出だったが、一筋の光明となるかもしれない。ずっと屋敷に居るのも、息が詰まる。とは、本音を言えないが。
「ならば、私も行けば、一郎殿も一緒に行けるでしょう?」
姫様、何をおっしゃっているのですか?姫様には、これから、輿入れする為に、覚えて頂かないといけない事が山ほどあるのです。第一に、そのような危険な所に、姫様を行かせる事など…
吾郎佐が顔を真っ赤にして、姫を説得するが、どこ吹く風だ。男装するし、ここに居ても危険は一緒です。ならば、一番腕の立つ、一郎殿と共に居るのが、一番安全です。
それに、
「あんずちゃんまで、身の危険を顧みず、働こうとしているのですよ」
そう言いながら、爺を見る姫の眼は、真っ直ぐに、ただ頑として、己を曲げない事を雄弁と語っていた。姫の性格を知る吾郎佐は、渋々折れる形となったのだ。
「私は、小津へ来る前に、新野を通りましたから」
道中で、あんずに聞かせるように、姫は話し続ける。姫の産まれた郷は、小津より、新野を抜けた、もっと山間に位置していた。
「そこは、緑も川も豊かで、住み人々も親切なの。ねえ一郎?」
振り向く姫に、苦笑いで頷く。姫と呼ばれる身分となっても、そのそもの勝気な性格は変わってないらしい。
「何か言いまして?」
「いえ、姫様、滅相もございません」
わざとらしく、御辞儀する余一郎を見て、あんずと勘一郎は笑う。行きの道中は、ただただ楽しい旅の始まりだった。
今日は、新野藩に行くのだが、そこを通り過ぎて、先に内之子村へと行く。そこは、余一郎と姫が幼少の頃、共に過ごした場所であった。そして、そこには、あんずの知り合いという清兵衛という男がいる筈だ。
「祭りの縁日で知り合ったの」
あんずの養父である一蔵は、かんざし職人として、藩内で祭りがあると、縁日で出店をしていた。そこで、農村よりの手伝い衆の中に、その男が居たのだと言う。
「余り期待は出来んが…」
「里帰り出来るだけでも、嬉しい事じゃないですか?」
姫が男装してまで、随行に拘った理由が分かった。
婚儀の為に姫は、江戸藩邸にいる若殿の元へ、近々、行かねばならない。そうなれば、大名の妻子は、江戸の将軍の元で、人質として一生を過ごす事になる。
恐らく、もう小津藩へは戻ってはこられない。ましてや、里帰りなど、出来よう筈もないではないか。
「ほら、あそこに」
姫が指さす先には、内之子村の入口となる神南山が見えていた。
大きな屋敷が見える。余一郎の育った伊賀崎の屋敷だ。伊賀崎の家は、この村の大地主で、村長を代々務めている。亡くなった余一郎の母は、元々は、京の貴族の出だが、縁あって、この地で育った。まだ領主となる前の若き泰英が、遠乗りで訪れた際に、母を見初めて側室としたのだ。
だから、弟の富之助が、母の縁戚に当る東姫を正室に迎えたいと、望んだのも頷ける事であった。
屋敷に入ると、突然の来訪にも関わらず、現当主の惣太郎が出迎えてくれた。惣太郎は、寺の生活に馴染めず、抜け出して、また戻されてを繰り返す、余一郎を心配した正貫和尚が、母方の縁戚となる伊賀崎家へ預けた際に、世話を焼いてくれた人であった。
「惣兄、御無沙汰しております」
日本中探しても、余一郎が素直に頭を下げる人物は、この惣太郎だけであった。そこに居た誰もが、余一郎のその姿に驚いていた。ただ東姫だけを除いて。
「惣太郎さん、お久しぶりです。私です」
男装した姫を訝しがっていた惣太郎も、それが、あのお転婆であった娘だと分かると、何とご立派に、いや、美しくなられた。なんとまあと、しきりに連発して、驚きを隠せない様子だ。
「とにかく、部屋を用意させる。上がって寛いで下さい」
嬉しそうに、家中の者たちに指示し始める惣太郎。村長の大役を務めるこの男は、まだ四十代に入ったばかりだと思うが、髪には白い物が混ざり、年より老いた印象を受ける。
縁者とはいっても、実際には、血の繋がらない余り者の余一郎を、年の離れた実の弟のように接してくれる。子供時代の自分を人だと認めてくれた、数少ない内の一人であった。
「ここで、余侍様と東姫様は、遊んでいたの?」
大きな一室に通された姫とあんずは、荷解きを終えると、ようやく一息ついていた。隣室には、余一郎と勘一郎がいる部屋がある筈だ。
「そうよ。私と一郎と、あと晋太と。毎日、魚を取ったり、虫を捕まえたり、屋敷の人達にいたずらしたり。本当に毎日、毎日…」
姫は思い出していた。三人の青春時代を。そして、思い返していた。晋太郎が、どうして、悪党に成り下がってしまったのかを。
その晩は、屋敷にて小宴が行われた。皆呑んで、食べて、束の間の休息を楽しむのだった。
朝目覚めて、見慣れぬ天井に少し戸惑いながら、目を覚ました。見慣れないと思いつつ、どこか懐かしいと感じた所で、ここがどこなのかようやく思い出して、余一郎は夢から覚めたのだった。
昨日は、屋敷にて歓待を受けて、呑み過ぎてしまった。少し頭が痛い。しかし、気分が悪いのは、昨晩の酒が原因ではない。夢を見ていたのだ。幼い頃の夢、自分とあずと晋太郎が遊んだあの日々の事を。
「晋太郎の奴は…」
呟きながら、布団より起きる。まだ夢と現実(うつつ)の境界線がはっきりとしていないせいだろう。考えるよりも、先に言葉が出ていた。勘一郎の姿は見えないので、誰にも聞かれてはいないのが幸いだな。
余一郎は、再び布団に寝転がる。腕を組んで、天井を見上げるが、少しして、身体を右に傾けた。義侠心があり、少し乱暴だが、そこには優しさがあった。身分や立場を反す事なく、人に接する男だった。俺たちは出会って、すぐに友となった。
余一郎は、いつの間にか、また眠ってしまった。また夢の続きを見られるだろうか?
お味噌汁が美味しい。山で採れた山菜を入れたほっとする味だ。昨日は、宴の楽しさの余りに、産まれて初めての酒を呑んで、実は朝から、頭が痛かったのだ。その事を言うと、姫も、実は私もと言って、可愛らしい舌を出して笑ってくれた。二日酔いだという物を始めて知った。二日酔いには、朝餉の味噌汁がいいらしい。
余一郎は、まだ寝ているらしく、姿が無い。勘一郎は、日課にしている剣術の稽古をしている。昨晩、余一郎と張り合って、あれだけ呑んでいたのに、元気そのものだ。
「あれは?」
ふと、部屋の柱にある刀傷が目に入った。傷の様子から、昨日今日の傷ではない事が見てとれた。
「ふふっあれはね…」
姫が、その刀傷が少年時代の余一郎が悪戯をしている際に、傷つけたものだと教えてくれた。
余一郎とあの晋太郎が剣術の稽古と称して、遊んでいる時であった。二人のチャンバラはどんどんと熱を帯びてきて、ついには、屋敷の蔵にあった真剣を取り出しての大立ち回りにまで、発展したのだ。
「それで、一郎があの柱にね」
嬉しそうに話す姫だが、あんずには、その時の様子が、目に浮かんで、少し頭の中が修羅場と化した。すぐに頭を振って、それを追い出す。
「あれは、あの野郎が真剣でやらねば、納得がいかぬと言い出したからだぞ」
いつの間にか、起きて来た余一郎が、鴨居に手をかけならが、少し不貞腐れた様子で話す。余一郎の様子に、二人はクスクスと笑う。どこか、罰が悪そうに、顔を掻いて誤魔化す。
「味噌汁の旨そうな匂いが、庭まで届いており申した」
朝稽古を終えた勘一郎が、堪らぬ様子で、部屋へ飛び込んでくる。その様を見て、場に笑いが起った。
三人に何故笑われるのか、分からない勘一郎は、とにかく、泣き止まぬ腹の虫を抑える為に、味噌汁を腹に、注ぎ込むのだった。
朝餉を終えた後、四人は、あんずの知人だという男の家へ赴く事にした。清兵衛ならば、村はずれの家に居りますよ。奉公していたお武家が無くなり、家に戻ったが、元々、天涯孤独な男でと、屋敷の者がそう教えてくれた。
清兵衛は、あんずの事を覚えてくれていた。三十代の大柄な身体をしているが、腰の低い男であった。目が丸々としていて、よく笑う。そのせいか、年よりも若く見える。身よりも無く、妻帯もしていない。土地持ち百姓であるので、嫁の成り手はあっただろうに、頑なにそうしない。
どうやら、奉公先に良い女がいたらしい。村々で噂になるが、当の清兵衛は、それを静かに笑い流すだけで、答えようとはしないのだ。そして、何と清兵衛が奉公していたのは、御取り潰しになった香戸家だと言うではないか。
「香戸の旦那様には、良くして頂きました。若様の事も、勿論覚えておりますよ」
奉公先の香戸家の話しになると、清兵衛の舌は饒舌になった。亡くなった旦那様は、オラのような使用人にも、気さく声をかけて下さる。気に優しい方でした。
「家が御取り潰しになってからは、晋太郎に会った事はあるか?」
勘一郎が質問すると、それまでの饒舌が嘘のように、清兵衛は、黙ってしまった。再度、どうなのだ?と今度は余一郎が問うと、
「一度だけ、オラを訪ねて参りました」
何だが、間の悪そうな表情で、清兵衛は語り始めるのだった。
香戸家は、そもそもが加戸家の縁戚に連なる小津では、名門の家柄であった。その祖を辿れば、小津藩初代藩主の泰光が、女中に産ませた男子が祖であるという。
双子の弟を殺した事を悔いてかは分からないが、産まれた子を新野藩の家老に取り立てたのは、泰光なりの我が子を守りたい一心であったのだろう。
かくして、香戸家は、新野藩の家老職を代々全うしてきた。しかし、それが途絶えたのは、晋太郎の父である直之が起こした十三年前の事件によってであった。
「十三年前というと、あんずの父が死んだ例の事件と一緒の時期だな」
勘一郎が腕組みしながら言う。皆考える事は一緒だ。ひょっとすると、あんずの父親が死なねばならなかった事と、何か関係があるのではないかと。
「私はその事は、余り知らないのです。まだ幼かったですし。その後、慎太が村に来て、三人で遊ぶようになって…」
姫の言葉に、余一郎が頷く。御取り潰しの後、晋太郎は村へやってきた。匿われていたのか、厄介払いされたのか、だが当の本人が、自分の家について、話した事はなかった。
「清兵衛、一体何があったというのだ?」
「へい、あの時の事は、オラは昨日の事のように、覚えております」
十三年前のある日、城勤めを終えた直之が屋敷に帰って来ると、いつもとは違う、怖い表情をしていた。何かあったな。オラはすぐに分かった。旦那様は、いつでも帰って来る時は、笑顔だったから。
今日はもういいので、早く休むようにと上役に言われたので、清兵衛は、そのまま屋敷の隅にある、使用人たちの為の小屋に入ったのだが、妙な胸騒ぎがして、すぐには寝つけなかった。いつもなら、すぐに寝入ってしまうのだが、その夜は、満月の夜で、月明かりに導かれるように、小屋の外へ出た。
暫く、頭上にある輝く月を愛でていたのだが、屋敷の中で、騒がしい音が聞こえてきた。どうやら、悲鳴らしき声も聞こえる。清兵衛が勝手口より、屋敷内に上がると、血だらけの晋太郎坊ちゃまが、フラフラとこちらに歩いてくるではないか。
「父上が死んだ…父上が死んだ…」
うわ言のように繰り返すばかりで埒が明かない。坊ちゃま、お気を確かに。清兵衛は、晋太郎を優しく抱きしめながら、誰かおらぬか?助けを呼び続けた。晋太郎が怪我をしていると思ったのだ。
しかし、晋太郎に怪我はなく、それは、全て父直之の血で汚れていたのだった。直之は、夜中に自室にて、自死していたのだ。微かに漏れるうめき声を、目が覚めて、厠に行っていた晋太郎が見つけたのだった。
直之は、藩の公金を横領した疑惑を掛けられていた。そして、小津藩の勘定奉行と結託して、両藩の参勤交代に使う為の費用を着服した疑いがあった。しかし、直之は、罪を認めず、その晩に自死したのだった。
「死人に口無しか…」
勘一郎が呟いた。その後、香戸家は御家取り潰しに処された。しかし、着服されたとされる公金は、見つからないままであった。直之と勘定奉行が、放蕩に使ったとされたが、
「旦那様が、そのような遊びをされていた事を見たことがございません」
きっと、旦那様は、何かの陰謀に巻き込まれたのです。そして、藩の名誉を守る為に、自死されたのです。オラはそう信じています。
清兵衛の言葉には、直之と接していた者のみが語れる真実があるように思えた。
「晋太郎が来たと言うたな?清兵衛、今の話しをしたのか?」
余一郎の問いに、清兵衛は、頷いた。晋太郎が、清兵衛を急に訪ねてきたのは、今から三年も前の話しだ。
「屋敷で女中をしていた女と、二人でした」
清兵衛の話しに、余一郎の顔色が変わる。間違いない。あの時の葦の者に違いない。晋太郎は、小津を憎んでいる。余一郎は、心で確信を得たのだった。
三
思いがけない収穫であった。藁にも縋る思いで、内之子村にやってきたのだ。何故、一蔵が殺されなければならなかったのか?そして、晋太郎が、東姫を狙う理由は何なのか?十三年前の事件に、その全ての鍵が隠されている気がするのだ。
惣太郎に別れを告げると、内之子村を後にする。またいつでも来いと惣太郎が言って、涙ぐみのを、永久の別れみたいに、大げさだと、余一郎は笑い飛ばす。
「またすぐに来ますから」
余一郎らの姿が見えなくなるまで、惣太郎ら、屋敷の者達が手を振ってくれる。時折、あんずが振り返り、まだ手を振っているよと言って、手を振りかえしていた。
「江戸に行こう」
神南山の上へ、朝陽が登って行く。余一郎は皆に宣言するように話し始める。十三年前の真相を知る人物は、江戸に居る。これから、姫を警護して、江戸へ行くのだ。
「晋太郎を止めるのは、俺しか居らぬ。喧嘩仲裁は、俺の仕事だ」
自分に向けて話す笑顔の底に、いつもと違う、決意が隠されていると、あんずは感じていたのだった。
四人は、小津へ帰る前に、もう一つの目的地である新野藩に来ていた。そこで、数日聞き込みをしていたのだが、姫は爺から固く誓わされた期日が迫っていた為、先に戻らないといけない。
「拙者が残って、調べましょう」
勘一郎が胸を張る。元々、新野藩に一蔵殺しの下手人を調べる為に、藩へ届け出を出したのであるし、自分の仕事であるという自負もあった。それに、余一郎には、姫の警護という大役もある。
「おい、一人で大丈夫か?」
余一郎がからかう様に言うが、勘一郎は、役に立つ男だ。最初から、任せるつもりであった。内之子村で、思ったよりも、時間を取りすぎた。致し方ない。
「私も井上様と一緒に残りたい」
そう思いがけない事を言いだしたのは、あんずであった。
「何を言っているの?危険よ。それに、男と女が二人だけなんて」
すぐに姫があんずを諭すが、頭を横に振るだけで、テコでも動かない様子だ。余一郎は黙って、あんずを見ている。こうなったあんずが、誰の言う事も聞かなくなるのを知っていたからだ。
「井上様の妹だという事にしたらいい。内之子にある親類の墓参りの帰りって事にするの」
あんずは、帰り道で口数が少なかった。旅の疲れが出ただけと思って、気にも留めていなかったのだが、帰路の中で、ずっとこの事を考えていたのだろう。
自分は、余一郎と姫について、江戸へは行けない事を。そして、そんな自分に、一体何が出来るのかを。
「いいか、勘一郎が変な気を起したら、奴の左脛を思いっきり蹴とばせ。こいつの弱点だ」
あんずの肩を軽く叩きながら、余一郎が言う。それが、彼なりの許す言葉だった。一方、言われた方の勘一郎が、拙者はそのような事はしない。決して、武士に二言は無い。などなど、ずっと言い続けている。それを見て、姫とあんずは、何だが可笑しくなってきて、最後には、腹を抱えて笑うのだった。
四人が二手に分かれたのは、その次の街道の分岐点であった。ここより、右に往けば、小津藩の城下町へ。ここより、左を往けば、新野藩の陣屋へと続く道である。
抜かるなよ。お前こそな。姫様、御達者で。あんずちゃんも、江戸土産を一郎殿に持たせますゆえ。四人は、銘々に別れを惜しみながら、それぞれの道を進むのだった。
姫は余一郎の後を追う様に歩く。こうしていると、まるで、子供の頃に戻ったような錯覚がした。年上の余一郎と、晋太郎を追いかけていたあの頃は、毎日が楽しかった。
「一郎殿、一郎殿…」
少し躊躇した後、意を決したように、余一郎の背中越しに声を掛けた。彼は立ち止ると、振り返る。二人の間に、少しの沈黙が訪れた。
何度も何かを言いかけては、やめてを繰り返す。自分でも、何を言いたいのかが、分からなかった。でも、何かをきっと話さなければ。
「江戸に行く前に、京の都へ行くんだな」
東姫の様子を気遣ってか、余一郎から声を掛ける。姫は、京の貴族である徳大寺家へ養子入りした後に、江戸へ輿入れする手筈だ。だから、一度、養父になる徳大寺の当主へ、挨拶をしにいくのだった。
「あのお転婆あずが貴族の姫様になるなんてな。まして…」
わざと茶化すように、余一郎は言ったが、その後の台詞を言わないまま、姫に背を向ける。
姫には聞かずとも分かっているのだ。そして、それを言いたくない一郎の気持ちも。
その後、小津までの道を二人で進む。道中をずっと姫が独り言のように、話し続け、余一郎は、たまに相槌を打つぐらいで、余りしゃべろうとしないのだった。
「あそこの道から、長浜へ行くのですね」
小津を抜けて、長浜街道を抜けると海に出る。瀬戸内海を渡り、堺より、京へ行くのだ。
「二人で行けたなら…」
姫は独り言のように、小さく呟く。一瞬、余一郎の歩みが止まる。このまま二人で、いっそ長浜を通って、船に乗り、どこかへ出奔すればいいのだ。長崎へ渡って、そのまま大陸へ渡るのもいいかもしれない。
出来る筈もない妄想が、頭の中を過っては、消えていく。
「一郎見て、夕陽が」
気が付けば、もう陽が傾いていた。それが、二人を妄想から現実へと引き戻してくれた。
「もう少しです。行きましょう」
夕陽を見ながら、姫は笑顔で言った。余一郎はそれに頷くと、歩を強く進めるのだった。
四
勘一郎は、後悔し始めていた。全くどうかしていた。どうして、あの時、無理にでも反対しなかったのだろう。腕組みをして、今にも怒鳴り散らしそうな剣幕の表情で、じっと正座するあんずを睨みつけていた。
「一体、自分のしでかした事が分かっているのか?」
これで、同じような事を言うのも、何度目かになる。自分でも分かっているのだが、繰り返せざるをえない。
「ごめんなさい…」
正座した後ろ足をもじもじさせながら、あんずは、何度も謝っていた。
余一郎らと別れた後、勘一郎とあんずは、予定通りに、新野藩の藩庁がある陣屋の近くの旅籠へ泊まる事とした。新野藩は、城が無い。江戸時代に入ると、一国一城制の為、支藩は、城を建てる事を許されていないのだ。
勘一郎は、大胆にも、陣屋近くの旅籠で、腰を据えて、情報収集しようと考えた。そうすれば、もしも、相手の耳に入れば、何等かしかの反応があるかもと期待したからだ。しかし、そんな勘一郎の願いも、期待外れであった。数日聞き込みをしても、目ぼしい情報は何も得られなかった。
「こんな事もある。今は奴らも、身を潜めておるのだろう」
あんずを慰めるように、勘一郎は言ったが、本当は、自分に言い聞かせる為の言葉だったのだろう。逸るな勘一郎、そう自分に言い聞かせているかのようであった。
あんずは、考えていた。勘一郎の言う、相手の反応という物は、こちらが起こす行動に比例するのではないだろうかと?勿論、このような事をはっきりと考えての事ではない。あんずは、ただ漠然と、だが直感的に考えたのだ。行動が足りないと。
翌日、勘一郎が聞き込みに出たのを見計らって、あんずも行動を開始した。大胆にも、陣屋に迷ったふりをして、入り込んだのだ。
自分でも、何故そのような事をしたのか、分からなかった。だが、そうすべきだ、とその時は、信じていた。見張りの死角を突いて、塀を乗り越え、例の葦の女のように、忍びになったつもりで、敷地内に入った。
敷地内に入ると、物影に隠れながら進んだ。ここに、晋太郎とあの女が潜んているはずだ。あんずは、慎重に歩を進める。誰かに見つかっては、殺されるかもしれない。
「おい、そこに居るのは誰だ?」
そう思っていた矢先に、背後より、声を掛けられた。振り返ると、見張りの者だと思われる男が立っている。あんずは、冷や汗が背中を流れるのを感じていた。
「お主もお館様に会いに来た童か?こっちじゃ」
捕まると思って、覚悟し、恐怖で目を閉じてしまったのだが、見張りの男は、笑顔で屋敷の奥の方へ案内してくれた。
そこには、数名の子供に菓子を配る一人の恰幅の良い侍が居た。あんずがきょとんとして、その光景を眺めていると、先程の見張りが、あんずの背中をそっと押し、その輪の中心に進めてくれる。
「お前も菓子を貰いにきたのか?ほれ」
差し出された菓子を受け取ると、恐る恐るその男の顔を見る。その男は、その丸々とした肌艶の良い頬に、皺を浮かべながら、にっこりと微笑んだ。
「殿様、また刀を見せて」
一人の男の童がそうせがむと、またか、分かった、分かったと、その殿様は、奥の部屋にある刀を取って来て、鞘から白刃を抜いて見せた。
「これが、かの名刀正宗よ」
殿様が威張って言うと、童達より、羨望の声が上がる。
「またやってるぞ。お館様も困ったものじゃな」
「警護するわしらの身にもなって欲しいわ」
離れた所で、先程の見張りの男と、もう一人の男が会話していたのを、あんずは聞き耳を立てて、聞いていた。それで、この風変わりな殿様が、新野藩の藩主である池之端泰文である事が分かったのだった。
そして、その日は旅籠へ帰ると、あんずが居なくなった事に気づいた勘一郎に、叱られていたのだ。勘一郎は、あんずをずっと探していてくれたらしく、あんずが戻ると、ほっとするような、怒るような、複雑な表情で出迎えてくれた。
「もしも、捕らえられたら、一体どうしていたのだ?」
勘一郎の怒りは、もっともではあったが、あんずは、別の事を考えていた。お館様の泰文は、子供好きで知られる気さくな殿様と、評判であるらしく、ああやって、決まった日時に、近所の童を呼んでは、菓子を配り、語らう時間を取るらしい事が分かったのだ。
「私が陣屋へ潜り込んで、色々と聞き出せば、何か分かるかもしれない」
あんずの考えはそれであった。これには、最初、勘一郎は猛反対していた。当然だ。そんな危ない事を、あんず一人にやらせる訳にはいかないだろう。
「でも井上様、他に何か考えはあるの?」
そう真っ直ぐに、曇りない眼で言われてしまうと、勘一郎も折れるしかなかった。
翌日より、あんずは、陣屋近辺へ出かけては、館の者や、近所の子供達と、顔なじみになれるよう、積極的に動く事にした。
「あんず、よいな。一人で無茶をせずに、何かあれば、拙者を頼るのだぞ」
あんずを見送る勘一郎は、まるで、吾郎佐の爺様のようだと、内心あんずは思えて、可笑しかった。何より、自分がここに来て、始めて役に立てるかもしれないと思い、嬉しくて仕方なかったのだ。
「おう、あんずよ。来たのか」
あんずの顔を見た門番が、親しげに声を掛ける。あんずも、今日も御勤め大変ですねと言葉を交わす。
あんずは、数日の間で、警戒されずに館へ出入り出来るようになっていた。これは、人に好かれやすい天性の才能だと、勘一郎は誉めてくれた。存在するだけで、人に警戒心を植え付ける、どこかの仲裁屋とは、訳が違うと笑っていたものだ。
「そうすると、十三年前に、そなたの実の父が死んだのか?」
頂いた菓子を頬りながら、泰文と会話する度に、少しずつ、自分の身の上話しを聞かせる。自分が産まれる前に死んでしまった実父の事、殺された養父の事、それらを怪しまれないように、慎重に重ねていく。思ったよりも、根気のいる作業である。
「その下手人が、新野に居るかもしれないって」
あんずは、殊更、無邪気に話す事を心掛ける。これは、一種の賭けだ。これに喰いつかなければ、自分の見込み違いなのだろう。
「お主の一緒に来ている兄というのは、名は何と言ったのかのう?」
泰文の問いに、笑顔で答えながら、選択が間違っていない事を祈っていた。
勘一郎は、あんずを待っていた。ここ数日、陣屋近くの茶屋で、時間を潰しながら、陣屋へ出入りする人間を観察しながら、屋敷内に異変が無いかを確認していたのだ。最初、勘一郎も自分なりに動いていたのだが、伝手も当ても無い状態では、如何ともし難く、慣れない地での情報収集の難しさを実感していたのだった。
その日の晩は、いつの間にか、大雨が降っていた。雨脚が酷くなるのを感じて、勘一郎は、物憂げに目を覚ました。仕切りを隔てた横で、あんずがまだぐっすりと眠っている。起さないように、足音を立てず、厠へ向かおうとして、自分の枕元に何かがあるのが分かった。あんずを起こすかもしれないが、灯りを燈すと、それに近づけてみる。
すると、そこには、今自分が眠っていたすぐ横に、何やら、刃物のような物が、畳に深く刺さっているのが分かった。引き抜こうと、それを持つが、かなり深く刺さっている様子で、片手では容易に抜けない。仕方なく、灯りを置いて、両手でようやく抜くと、それは、かんざしであった。しかし、先端が尖って出来ていて、それで急所を刺されれば、一溜りも無いだろう事は、容易に察しがついた。
これは、警告だ。勘一郎は、直感していた。これこそが、自分が求めていた、敵の反応ではないか?勘一郎は、大小を素早く手に取ると、そのまま部屋を出て、旅籠を飛び出した。この雨だ。警告を届けた何者かの足跡が、きっとまだ残っている筈だ。それが、雨で消えてしまわない内に、見つけねばならない。
勘一郎は、駆けた。雨脚は、更に強くなってくる。こうなっては、傘は意味をなさないが、その雨に濡れるのも、お構いなしで、勘一郎は、足跡を追う。提灯の灯りが消えないように、慎重に、しかし、早く追い付かねばならない。
「くそ、これでは、追い付けぬではないか」
苛立つ。雨が酷く、足跡の判別が難しくなってき始めていた。足跡は、一つだけだ。予想では、陣屋の館へ向かうと思っていたが、どうやら、足跡は、その反対の町はずれへ向かっていた。
致しかたなしか…勘一郎は半ば、諦めかけていた、その時であった。
「人の忠告は、素直に聞くものだ。井上勘一郎」
いつの間にか、背後に人が立っている。勘一郎は、背中に悪寒が走るのを感じた。素早く振り返ると同時に、刀の柄に両手をやる。足元に落ちた提灯が、油で勢いよく、燃え始め、その火の勢いは、勘一郎と対峙する相手の顔を照らし出すのに、十分だった。
「やはりお前か?忍びの女」
そこには、一見普通の町娘にしか見えない女が立っていた。女にしては、背が高く、美人のようだが、何だか特徴の無い、次に会ったら、顔をよく思い出せない。そういう印象の女が立っている。
だが、間違いなく、晋太郎に従っていた葦の者である筈だ。
「どうして俺の名を?」
「知らない筈は無い。伊賀崎余一郎、東姫、田嶋吾郎佐衛門、一蔵の娘あんず、そして、貴様だ」
女は、嘲笑うように、一人一人仲間の名を口にする。そして、自分の名を言い終ると、一つ舌なめずりする。それが、この上なく、不気味であると同時に、妖艶であった。
「貴様など、すぐに仕留める事が出来るが、そうせぬのは、興を削ぐからじゃ」
女は言った。貴様らは、全て晋太郎様と私の手のひらの上だと。そう言って高笑いをする。その様子を勘一郎は、身を屈めて、じっと静かに聞いている。
そして、勘一郎がもう一つ、その身を屈めた直後であった。何が起こったのか、女には分からなかった。気が付けば、勘一郎が抜刀していて、自分の首元へ、その刃が迫っていたのだ。
「何を勘違いしている?いつでも殺せるのは、こちらの方だぞ」
道場で学んでいた頃、居合いに関しては、晋太郎よりも、自分の方が速かったという、自負が勘一郎にはあった。まして、その遣いの女如きに、遅れを取るものか。勘一郎の刃が女を制する。
先程まで、勝ち誇っていた女の顔が、見る見る強張っていくのが分かる。
「その顔の方が、美人に見えるぞ」
今度は、こちらが勝ち誇る番であった。勘一郎は、聞いた。貴様らの目的は何だ?東姫を攫う事かと。
「あんな田舎娘など、晋太郎様も、本心で想っている筈もないわ」
女は口惜しい様子を見せる。その態度が、姫を狙う他の理由がある事を示唆していた。ならば、その目的は何だ?一蔵を何故殺した?十三年前の事件と関わりがあるのか?
「そこまで聞くなら、教えてあげる。だから、この刀を退いて」
急に女は、乞うように、甘えた声を出す。瞬間、不意を突かれた勘一郎の剣先が鈍る。女はそれを見逃さなかった。勘一郎の隙を突いて、その刃が届かぬ所まで、跳んだのだ。
「我らは、全て十三年前の復讐の為に動く。貴様もそれを忘れるな」
女はそう言うと、すぐに雨の暗闇の中に消えた。勘一郎は、すぐにそれを追うが、女の気配は、更に強くなる雨の勢いと共に、消えるのだった。
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