三九郎の疾風(かぜ)!!

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夏の終わりに

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 駿府に戻った家康の元へ、京都所司代である板倉勝重が、大坂に不穏な動きありと報告したのは、明けて、三月十二日の事であった。

 曰く、大坂の浪人衆による乱暴狼藉、京の都への放火と襲撃計画の露見とあり、これを遺憾に思った幕府は、秀頼に対して、浪人衆の解雇と、伊勢及び、大和国などへの国替えを要求する。大坂では、この幕府からの無理難題に対応する為に、再び使節として、大野治長を派遣する等の対応を取るのだが、すでに家康の肚は決まっていた。家康は、駿府を四月四日に進発している。

「その儀においては、是非なき候」
 これは、大野修理が国替え案を拒否し、浪人衆の解雇を受け入れるが、その時が欲しいと回答した時に発した家康の言葉である。

 最早、事態は衝突が避けられない事を示唆していた。将軍秀忠は、四月十日に江戸より軍を発すると、十九日には、諸大名に対して、再び大坂へ進軍を命じている。再びサイは振られてしまった。

 これに対して、大坂城では、秀頼の御前において、軍議が開かれていた。
「討って出るしかない!」
 これが大坂方の基本方針である事は、軍議が始まる前から、すでに決まっている事であった。

 当然である。堀は埋めたてられ、二の丸、三の丸共に破却されて、城は丸裸も同然であったからだ。従って、この軍議内で決められる事は、どこに?誰が?どの程度の戦力で?どうやって戦うのか?であった。

「上様御自ら御出馬頂き、以って、乾坤一擲の勝負に如かず」
「その通りじゃ!」
 信繁が得々と秀頼の出陣と、幕府との決戦を主張し、これに皆が賛同する。

「それでは、余りにも賭けが多き過ぎる。他に良策は無きや?」
「城に居られぬ以上、出て戦うしかないのであれば、他に策などござるまい」
 治長は、秀頼出馬に消極的である。

 しかし、又兵衛の説得もあり、周囲に異議を唱える者も無い為、現時点で取れる唯一の方策が決まろうとしていた。
「右大臣家の御出馬など、もっての外じゃ」

 淀の方と大蔵卿局など、奥の院の者達が軍議に乗り込んできたのであった。
「上様あっての大坂城です。他に策を御座れ」
「しかし、それでは…」
「ここには、歴戦の勇士が数多(あまた)居るというに、一つの策も無きや?」

 女たちの言葉に、諸将らは、憤りを感じていた。結局の所、この大坂城は、太閤殿下秀吉の威光を笠に着た女たちの城であるという事を、まざまざと見せつけられた心地であった。

「まず一軍を以って、周囲を蹴散らし、満を持して予が出陣致そう」
 静まり返った場内の中で、涼やかな秀頼の声だけが、不思議と通り抜ける。

「良策也!」
 始めにそう叫んだのは、木村長門守であった。そして、次々とこの秀頼の考えに賛同する声が上がり始めた。
「それでは、御一同、上様御出馬までに我らが露払い致す。御異同あるまいな?」
「おおっ」

 諸将らは、一斉に立ち上がると、意気を上げて士気を高める。場内は熱気の渦の中にいた。淀君ら女衆がまだ何か言いたそうであったが、誰一人聞く耳を持つものはいなかった。

 大坂方は、大野治房を主将とした部隊を派遣し、四月二十六日に筒井定慶の大和郡山城を陥落させると、幕府軍の補給基地となっていた堺を攻略している。

 一方、幕府軍の動きと言えば、家康は軍を二手に分けて、河内方面と大和方面より、軍を進めている。目指すはもちろん大坂城である。

 これより他に、紀州の浅野長晟にも軍を進ませ、着々と大坂包囲網を完成させつつあった。家康は、河内星田に本陣を置くと、すぐに軍議を行っている。幕府軍総勢約十五万五千人。この中に、滝川三九郎も再び家康の使番として、参軍していた。

「兵糧は三日でよい」
 と家康が命じたと言われている。いくらなんでも少な過ぎるが、野戦で短期決戦になる事を内外に示したと思われる。

「わしのやり方を悪辣と思うか?」
 家康は、輿に乗って進む。その横を三九郎は、馬上で付き従っていた。
「はい」
「相変わらず、正直な奴じゃ。どの辺りがそちの機嫌を損なうか?」
 家康は、やけに機嫌がいい。戦に赴く時、この老人は、十歳は若返って見えると三九郎は思っていた。

「堀を埋め、城を丸裸にし、袋叩きにしようとしておりまする」
「確かに。しかし、この策を講じたはわしではない。誰と思うか?」
「本多佐渡殿で?」
「違う、違う」
「本多上野介殿?」
「いやいや、何を隠そう太閤殿下よ。わしに話した事があってな。自分が建てた城が自分の策で落ちるのじゃ。さぞ本望であろうよ」
 そう言って家康は笑う。

 三九郎は、悪知恵を働かせて策を巡らす家康は好きになれない。しかし、為政者としての家康と、全軍を指揮する泰然自若とした姿の家康は、心から尊敬していたし、我が主君に足るとも思っていた。

 こう書くと、どうも主君を侮っているようにも見えるが、戦国時代は、主君と家臣との間にも自由な関係性があった。仕える自由と使う自由である。武士は二君に仕えずとは、江戸時代も中頃から、儒学が武家社会に浸透してからの哲学であり、この江戸初期頃は、まだまだ気分的には、戦国の気風が色濃く残っている。

 徳川家康と言う人を振り返って見れば、少年時代は、人質として過ごし、独立した青年期は、織田家と名ばかりの同盟者で実際には、信長の家臣同然の扱いであった。その中で、信長に見限られないように必死に尽くした事で、家康は律義者という評価を得た。この時代の家康像からは、後の古狸の印象は無い。

 では、いつから策略を巡らす人物となったかと言えば、やはり関ヶ原合戦以降であろう。家康には、先生と呼べる先達者が居た。武田信玄、織田信長、そして、豊臣秀吉である。信玄には、三方原戦いで敗れて以来、崇拝していたとも云われ、後に一家の軍法を甲州流に改めている。そして、信長には外交戦略と商業都市の重要性を学び、秀吉には、主にその人たらしの方法と、敵を心理的に追い詰めて、戦わずして勝つ方法とを吸収したと言えた。

 つまりは、今回の戦も過去の先達者から学びえた方法を、自分なりに昇華してみせる最後の舞台であったのかもしれない。

 大和郡山城を攻略し、堺の街を支配下に置いて、勢いにのる大坂方であったが、紀州より浅野長晟の軍勢が出撃すると、樫井の地にて両軍が最初に激突する。しかし、先鋒の塙団右衛門が戦死するなど、豊臣勢は、一敗地にまみれている。

 豊臣軍の総数は、七万八千人と言われており、冬の陣と比べると格段に減っている。城が丸裸にされた事や、幕府と和議を一時結んだことにより、見限った離脱者が数多くいたためであった。

 五月六日未明、大坂城を進発した後藤又兵衛率いる先鋒約二千八百名が道明寺付近を行軍していた。対するは、幕府軍大和方面の先鋒水野勝成を先頭として、本多忠政、松平忠明、この方面軍の総大将は、家康の六男である松平忠輝が務め、その後見役として、忠輝の岳父である伊達政宗が一軍を率いていた。

 当初の大坂方の作戦であれば、大和路から来る敵が河内平野に侵入して来る時に、必ず通る隘路付近にて叩く事であった。

 そして、後藤隊の役割は、敵とまず一戦し、隘路付近に敵を引き込む事である。この辺りには、古墳が多数あり、それが敵の大軍の行軍を阻む役目を果たしてくれる。そして、その古墳の一つをこの戦の為に、要塞化していたのである。この隘路な地形にある古墳要塞に敵を引きこんで、各個撃破する作戦であった。

 しかし、ここに誤算が生じる。この日は、辺り一面を濃霧が広がり、視界を悪くしていたという。その為に、又兵衛ら先鋒に続く筈の後続部隊の到着が遅れていた。薄田兼相、明石全澄、毛利勝永、そして、真田信繁の部隊であった。そして、又兵衛が所定の道明寺付近に達した時には、すでに幕府軍が先に兵の展開を終えており、逆に後藤隊だけが、その場所で、孤立無援の状態となっていたのだった。

 仕方なく、後藤隊は川を渡って、小松山に布陣した。しかし、この事はすぐに幕府軍の知る処となり、小松山は包囲されてしまう。午前四時頃、後方部隊の救援を待っていた又兵衛であったが、山を下る事を決意する。又兵衛を中心とした後藤隊の突撃は凄まじかった。まず、松倉重政と奥田忠次の部隊に突撃し、見事奥田忠次を討ち取る武功を挙げる。

 しかし、数回の突撃の後に衆寡敵せず、最後の突撃を敢行した時には、もう正午頃になっていた。結局、又兵衛は、伊達政宗軍の放った一弾が腹部と胸部に被弾し、馬より落馬し、自身で何とか座り直すが、その場に座して動けなくなった。もう大声を上げる事も出来ない。腰より脇差を抜き取ると、近くに居た家臣に手渡す。

(これで首を討て…)
 の意であった。

 それは、秀頼より拝領された行光の脇差であった。又兵衛を介錯したのは、金万平右衛門という者であったと伝わる。平右衛門は、又兵衛の戦死を秀頼に報告し、行光と又兵衛の旗を秀頼に託したとされる。

「又兵衛が…」
 秀頼は、その死を悲しんだ筈である。
 又兵衛は、大坂城に入城した浪人衆の中で、最も秀頼からの信頼が厚かったとされる。誰よりも先駆けて大坂城に入城し、秀頼が見守る中で行われた兵の謁兵式では、旗頭を務めるなど、大坂城での武功派の模範でもあった。その男が死んだ。

 一説には、家康からの調略の策を大野修理等に疑われた為に、先駆けして、自らの身の潔白を証明する為に、無理な突撃を繰り返したともある。どちらにせよ、又兵衛の死は、豊臣家にとって、損失であった事は確かであろう。

 午後になってから、ようやく遅れて、残りの後続部隊が到着しつつあった。しかし、時すでに遅しで、主将を失った後藤隊は、壊滅状態となっていた。遅れて到着した部隊の内、薄田兼相は、幕府軍相手に奮戦した後に戦死した。

 明石全澄や他の部隊も幕府軍に阻まれて、後退を余儀なくされていた。そして、更に遅れてやってきたのが毛利勝永の部隊で、それよりも一番遅くに到着したのが真田信繁隊であった。

 信繁は、又兵衛戦死の報を聞くと、
「我も突撃し、又兵衛の御霊に報いる」
 と主張したのだが、横に居た勝永より、
「同じ死ぬならば、秀頼公の御前にて」
 と強く説得され、兵を立て直す事を優先するのだった。

 信繁らは、誉田村付近の平野に陣を布いた。これを見た伊達勢の先鋒大将である片倉重長は、馬上槍を自ら奮って、豊臣軍に戦いを挑んできた。重長は、部隊を二手に分けると、伊達勢が誇る馬上筒と言われる騎馬鉄砲隊を組織し、左右より展開して、真田隊を包囲殲滅する作戦に出た。

 これに対して、真田隊も鉄砲隊で応戦し、片倉勢に距離を縮ませない。両軍膠着状態かと思われたその時であった。あらかじめ伏せてあった真田大助が率いる一軍が、片倉勢目掛けて、急襲したのであった。この部隊には、馬を駆る佐助の姿もあった。

「上月佐助様のお通りじゃ」
 佐助は馬上にて、敵と対峙しながら、興奮の局地にいた。忍びの裏世界で生きてきた自分が、大戦の表舞台で、堂々と馬を駆って、敵を倒しているのである。男として生まれて、これ以上の喜びがあるだろうか?と本気で思える程、悦に浸っていた。

 この挟撃が功を奏し、伊達勢は後退を余儀なくされた。大将である片倉重長は、自ら槍を屠り、敵を倒す奮戦を見せたが、未明から戦い続けた部隊は、疲労を余儀なくされ、撤退したのであった。これより幕府軍は、道明寺付近で再び結集し、陣を立て直すと、両軍が睨みあう膠着状態となった。

 そんな状況の中、午後二時半頃、信繁らの元に、八尾・若江方面で戦っている木村重成の戦死と、長宗我部盛親隊壊滅の報が届くにあたり、豊臣軍は、真田隊を殿(しんがり)として、午後四時頃、撤退を開始するのだった。この時、幕府軍も疲労の極致にあり、追撃するのが上策ではあったが、敵の退くに任せている。
 
 敵が追って来ないと見た信繁は、馬上一騎にて、幕府軍の眼前に進み出た。そして、幕府軍に聞こえるように、大声でこう口上したのである。

「関東軍百万と候らえども、武士は一人もおり申さず候」

 信繁は、追って来ない敵をそう揶揄したという。去って行く、真田の赤い背中を幕府軍は、只々見ているしかなかったのであった。

 これまでの事が家康の本陣まで、報告されたのは、信繁らが無事に大坂城へ引き上げた後の事であった。

「何とも大胆不敵な奴がおるな。その赤備えは何者ぞ?」
「真田左衛門佐にて候」
「また、真田か…」

 報告を聞いた家康は、それ以上感想めいた事を口にしなかった。ただ一点を睨みつけては、しきりに指の爪を噛んでは吐き捨てていた。

(一人もおり申さず候か…)
 三九郎は、家康の側で、この報告を複雑な気持ちで耳にしていた。

 信繁の言上を聞いた瞬間、三九郎の目の色が変わった。そして、自身の胸中に去来する熱い滾りを抑えようと必死に耐えていたのだった。

 後藤又兵衛、木村重成、薄田兼相らの主力武将を相次いで失った大坂方は、一時城に帰還を果たしていた。その足取りは重い。特に後藤又兵衛という大坂城の武の象徴のような存在を失った事は、全軍の性格を変えてしまった。城に戻り生き残った者達は、ある共通思考を抱いていたと言っていい。

 それは、どう戦い、どう死ぬのかという事であった。彼ら豊臣の諸将諸氏に至るまで、又兵衛らの死を深く悲しんだが、その死を通して、自らの死という事を間近に捉えたと言えた。無論彼らは、戦国時代を生き抜いてきた武士であって、死を隣人として戦い抜いてきた事は言うまでもない事であったが、心の中で、より一層の覚悟が定まったと言った方が近いかもしれない。

(後藤又兵衛ですら死ぬのだ…)
 それが、彼らの共通認識とした場合に、これは悲壮感ではなく、もう少し乾いた覚悟や決意である筈であった。

 つまりは、どう戦い、どう死ぬのかをより突き詰めて、
(どうせ死ぬのなら、いっその事…)
 という思考にまで昇華した物となっていたのである。

 このいっその事という概念その物が、彼ら大坂方の今後の唯一の基本方針となっていた為に、今開かれている軍議が、幕府との戦が始まってから開かれた軍議の内で、ここまで、ごく自然に議場が運んだのは、始めての事であった。

「家康の首を獲る!」
 これが、その軍議内で決められた唯一の目的であった。この軍議に参加した者の中で、これに異論を挟む者など居ない。おもしろい事に、その目的を誰が言い出した分けでもなく、自然な流れですぐに決していた。

「予も此度は、最初から出よう」
 秀頼は、いつになく熱っぽい態度で、この軍議に臨んでいた。

「いや、剣呑、剣呑」
 そう切り出したのは、大野修理ではなく、左衛門佐信繁であった。

 秀頼公には、乾坤一擲の一撃を家康に見舞った後に、前線より出馬を乞うと。考えてみれば、家康を倒しても幕府には、秀忠が居る。二人同時に倒さぬ限りは、秀頼の天下は望めない。対して、豊臣には秀頼しかいないのだ。策は決し軍議は終えた。

 明けて五月七日、豊臣軍は、最後の決戦の為に軍を発した。冬の陣の際に家康が陣を張った茶臼山に、今度は真田の軍勢が陣を張っていた。

「佐助、わしが合図したら、お主は家康目掛けて突っ込め」
「御意に御座る」
 信繁の目には、最早家康の首しか映っていなかった。

 信繁には、作戦があった。ここ茶臼山と大野治房隊五千が駐屯する岡山との間には、過去に使われていた運河後があり、それを繋いで天然の空堀とし、ここを最終防衛ラインとして、敵を食い止めるのである。

 そして、茶臼山と岡山も要塞化して敵を阻む。この二つの中間に位置する天王寺方面には、毛利勝永が後藤隊と木村隊の残兵を集約して、六千五百の兵で展開していた。全軍の後詰として、大野修理率いる一万余の軍勢がいる。

 明石全澄は精鋭三百人をもって、遊撃隊として配置していた。全澄は最後に家康、もしくは、将軍秀忠に止めを刺す役目を担っていた。

 対する幕府軍は、茶臼山方面に、約三万五千の軍勢である。先鋒を本多忠朝が務め、榊原康勝、本多忠政、松平忠明、伊達政宗、松平忠輝。そして、紀州路より、浅野長晟の軍勢約五千も参陣している。これらの後方に家康の軍勢一万五千が控えていた。

 そして、将軍秀忠は、岡山口方面軍の後方に控えていた。幕府軍総勢約十五万対豊臣軍約五万であった。


 この戦いの最初の砲火は、正午過ぎの事である。ただその一発目は、半ば事故のようにして、放たれた物であった。本多忠朝の部隊が物見に出ていた所を、毛利勝永の寄騎が発見し、その中の一人が、命令が下ったと勘違いし発砲した弾が、本多隊の一人に命中してしまったのだ。これを物見部隊の者達が撃ち返した事により、なし崩し的に戦闘がそのまま開始されてしまい、ほぼ無秩序に近い形で、拡大していくのだった。

「こりゃ、いかんな…」
 馬上にて戦局を見ていた毛利勝永は、憮然として呟いた。当初の作戦では、数的不利をカバーする為に、隘路になっている地形にまで、敵先鋒部隊を誘い込んで、そこを叩く手筈であったのが、このように偶発的に戦が始まっては、作戦も何もあったものではないであろう。しかし、勝永が意図するよりも、別の形となって幸運は訪れようとしていたのだった。

「かかれーっ突撃じゃ!」
 この日の先鋒を家康より託された本多忠朝が、果敢に突撃を敢行してきたのであった。忠朝は、徳川四天王としても名高い本多忠勝の次男である。彼は、前日の戦の折りに、酒を喰らい不覚をとった事で、父の勇名を汚す者と家康より叱責されていたのだ。

 本日は、その名誉回復の為に、先鋒を願い出て許された事で、彼の中に期する物があったのであろう。その突撃は、勇敢というよりも猪突であり、蛮勇であっただろう。そして、忠朝は、奮戦も虚しく、勝永の部隊に討ち取られてしまったのだった。
 
 これをきっかけとして、先鋒部隊が崩壊した幕府軍に対して、勝永は、勝利を重ねていく。次に小笠原秀政父子を討ち取ると、次々に敵部隊を圧倒していったのであった。この毛利隊の快進撃を、間近で見ていた幕府方の黒田長政と加藤嘉明が馬上にて、

「あの部隊の将は誰か知っているか?」
「毛利豊前守であろう。壱岐守が嫡男也!」
「そうか、あの小童めが、遂に見事な大将となったか…」
 長政は、そう嘆息して、かつての同僚の息子の戦振りを賞賛したという。毛利隊の快進撃は、まだまだ続き、遂には家康の本陣にも迫る勢いを見せ始めていた。

(せめて、敵を我が隊に引きつけねば…)
 当初の作戦通りとは行かなかったが、勝永は何とか自らの役目を果たそうとしていた。そして、この毛利隊の快進撃を待っていた武将が一人居た。信繁である。

「今が家康の首を獲る好機也!」
 戦況を聞いた信繁は、すぐに進軍の下知を下し、茶臼山の本陣を後にする。狙うは、毛利隊の進撃に混乱する幕府方を側面から急襲する事だ。毛利隊が敵を引きつけておき、敵本陣が手薄になった所を、一挙に狙う作戦であったのだ。

 しかし、その真田隊との間に割り込む形で、正面に立ち塞がる部隊があった。松平忠直の軍勢一万五千である。対する真田隊は、三千五百名である。信繁は、部隊を三隊に分けて突撃を敢行する。この戦いは激しさを極め、両者譲らず多くの死傷者を出す結果となった。信繁の嫡男大助も手柄首を挙げたが、手傷を負ってしまっていた。

「大助、そちは城に立ち返り、右府様の御出馬を願いあげよ」
「父上、使者には他の者を私は父上と供に…」
 信繁は、負傷した我が子を労わったのか、大助を城に還す事に決めたのだった。

「わしが行けぬから、お主に託すのだ。これは、重要な任務ぞ」
「嫌に御座りまする。嫌で御座りまする」

「ならぬ。お主でなければ、上様は出陣下されぬ。行け!」
「父上…」
「涙を見せるな。家臣に気づかれるぞ」
「はい」

 大助は、涙を腕で急いで拭くと、振り返りもせずに馬を駆って、その場を去って行くのであった。
「あやつ、馬が上手くなりおったのう…」
 信繁は、その去り行く息子の後ろ姿を、暫くの間、目に焼き付けているのだった。

 信繁は馬上より、家臣一人一人の顔を良く見渡した。
「よし今じゃ。敵中央を突破するぞ!」
 
 信繁の号令により、真田隊は一丸となると、松平隊の中央突破を図り、これを成功させる。その様は、まるで鮮やかな赤い昇龍となって、野を行くが如しであった。しかし、そんな真田隊を敵の大軍が放っておく筈は無かった。次に真田隊に近づいてきたのは、浅野長晟の部隊であった。

「佐助、やれーっ」
「承知っ!」
 すぐ後ろを駆ける佐助に大声で下知を下すと、佐助は配下の忍びを使って、流言飛語の策を始めた。

「浅野が寝返ったぞ。浅野寝返り!」 
 これは、全くの虚報であったが、効果は絶大であった。
浅野の寝返りを信じたというよりも疑った他の幕府軍が、浅野隊を警戒して、連携した軍の動きを取らなかった為に、浅野隊は、前線で孤立を余儀なくされ、あっさりと真田隊に突破されてしまったのだ。これ以降も、真田隊は、敵が現れては突破を繰り返し、いつの間にか、残すは家康本陣だけとなっていた。

 最早、信繁の眼前には、陣で着座する家康の姿が、遠目で識別出来る程近くなっていた。信繁は、手を上げると、最後の下知を下す準備を始めていた。

 隊から一人離脱した真田大助は、少しして、無事に大坂城まで戻っていた。
「上様御出馬為さるべし、と父左衛門佐が申しておりまする」
「相分かった。者ども出陣ぞ!」

 秀頼は立ち上がると、父秀吉が遺した太刀を手に取る。そのまま進んで、上段の間を降り、大助に近づいて見ると、左腕が血で黒ずんでいるのが見えた。

「大助、怪我をしておるのか。早う手当て致せ」
「ありがたきお言葉なれど、父より、上様のお側を離れぬように仰せつかっておりまする」
「ならば、医者をここに呼べばよかろう」

 秀頼の言葉に、近習の者が、広間より医者を呼ぶ為に出て行く。大助は、治療を受けながらも、秀頼の側を離れようとはしなかった。

 秀頼の具足の準備と、大助の治療も終えて準備は整った。その時であった。
「これは、何の騒ぎぞえ?」
 淀の方を始めとした、奥の女たちが大広間へとやってきたのであった。

「母上、予は出陣致します。武運をお祈り下され」
 秀頼のその言葉を聞いた、母の表情は一変した。
「何を言いやる?秀頼殿、出陣なぞ以ての外ぞ」
 淀の方は、秀頼の両手を自分の両手で優しく包みこみながら、諭すような、文字通り子供をあやすように語って聞かせる。

「後藤又兵衛も、木村長門も死んでしまった。外は危ない」
「母上、大将たる予が出ねば、全軍の士気に関わりまする」
 秀頼はそう言うと、母親の両手を払いのけて、構わずに部屋を出ようとした。

「これ、右大臣をお止めせよ」
 事態を見ていた大蔵卿局が騒ぐように命令すると、奥女中や近習たちがこぞって、秀頼を制止するのだった。

「上様御止め下さりませ」
「殿、危ないですぞ」
「ええい、離せ、離せ」
 長身の秀頼が暴れると、面白いように身体に縋りついていた者達を吹き飛ばす。

「淀の御方様、真田左衛門佐が一子、大助で御座る。上様御出馬無くば、今までに死んだ者達は、無駄死に御座りまする。父左衛門佐も毛利豊前守様も、大野修理様も上様の御出馬を待ち望んでおりまする」

 大助は平伏しながら、淀君の着物の裾を縋るように、引っ張り続けた。
「無礼な。秀頼殿によからぬ事を吹き込んだはお主か。誰かこの不埒者を斬れ」
 大坂城内において、淀君の命令は絶対である。大助は、淀君より引き離されると、近習数名に取り囲まれてしまった。

「母上、いい加減になされませ。出陣は豊臣家の棟梁である秀頼が決めた事。よし、皆の者参るぞ」
 秀頼は、苛立ちを抑えながら、足早にここを去って、外の世界に飛び出そうとしていた。

「どうしても行くと言うのなら、この母を斬ってから行きなされ」
 再び淀は秀頼の前に立ち塞がり、両手を広げて、その動きを制止する。

「退け!」
「斬れ!」

 秀頼は、腰の太刀を本当に抜くと、その白刃を母の首元に近づけた。しかし、母はピクリとも動かずに、真っ直ぐに秀頼の顔を見据えているのだった。

「上様どうか、どうか」
 秀頼の足元で大蔵卿局が、秀頼と淀君の間に入り、両者を宥めていた。それを見習うように、その場に居た者達は、次々と秀頼の足元に座り込み、涙を流して、秀頼に嘆願を続ける。そんな状況の中、心優しき秀頼は、母や彼らを切り捨てにしてまで、出陣に踏み切る事が出来ず、決断一つ出来ない自分に苛立ちながらも、その場に座り込むしかなかったのであった。

 そんな広間での出来事を他の者とは違う意味の涙を流す、大助一人が見つめていた。

(父上、申し訳ございませぬ。申し訳ございませぬ…)
 心に血の涙を流しながら、大助はここに居ない人達に、秀頼にかわって、謝罪し続けていた。

 ここは、家康の本陣である。幕府軍の総大将である家康は、とても苛立っていた。無理もない。敵に三倍する大軍を有していながら、先鋒大将である本多忠朝は戦死し、毛利勝永隊の奮闘により、前線は大きく崩れていたからだ。

「戦況はどうなっておるか!」
 怒気を含んだ家康の声が前線まで聞こえる筈もなく、業を煮やした家康は、本陣を前進させる事を決めた。元来、家康という人は短気な性格であり、こと戦に関しては、特にそうであった。ましてや、海道一の弓取りと謳われた野戦上手な武将としての矜持があれば、尚更退く分けには、いかないだろう。

「浅野勢が裏切りのご様子」
 その報せが家康本陣に届いたのは、陣を前進した直後の事であった。
「馬鹿な、敵の策に乗せられるなと諸将に伝えよ」

 家康は、落ち着いた態度で使者を帰した。このような時に大将が慌てふためいていては、全軍が浮足立ってしまう。百戦錬磨の古強者である家康は、その事を十分理解していた。

 この本陣において、旗本衆の一人として、家康を警護する滝川三九郎は、思わぬ幕府軍の苦戦に、抑えきれない自分を感じていたのだった。

「ご注進!赤備えの軍がこちらに向かって来ておりまする」
 それは、間隙を突いて、家康本陣と前線との隙間を縫うように、突撃してきた真田隊であった。

「真田じゃ、真田が来るぞ」
(義兄上がここに来る…)
 この本陣には、五百名以上の旗本が詰めていたのだが、真田来るの報に、一瞬にして、浮足立ってしまう。彼らの多くは、譜代家臣の子弟たちで、年若く経験が浅い者が大半であった為である。

「大御所様、ここはお退き下され」
「何を言うか!誰も退いてはならぬ」

 家康は頑なに退却を固辞したが、その時、多数の鬨の声と共に、敵が大挙して来るのをその陣に居た誰もが理解した。
「家康、その首貰い受けに来たぞーっ」
 信繁の大声と共に、赤い塊が連なって、本陣へ迫っていた。本陣は、たちまち大混乱と化していた。

「退けーっ退け!」
 家康の命令を待たずして、本陣に居た旗本たちは、我先に逃げ出し始めた。しかし、そんな状況でも、家康はテコでも動こうとはしない。その時、家康の前に立ちはだかる武者が一人いた。三九郎である。

「大御所、ここは拙者が。一旦お退きあって、軍を立て直し下され」
 三九郎は、座して動かぬ家康の腕を掴むと、無理やりに立たせ、周りの者に目配りをする。そうすると、近習の者たちが、家康を放り投げるように馬上へと追いやるのだった。

「三九郎、三九郎ーっ」
 馬で走り去る家康を見送りながら、三九郎は一人、本陣に留まる事を決意した。三九郎は、祖父より伝わりし、皆朱の槍を地面に叩き付けると、大声で口上を述べ始めた。

「我こそは、家康公が旗本、滝川三九郎一積也。敵の御大将、真田左衛門佐と勝負を所望す」

 その声は、突進する真田隊の者たちにも良く聞こえる程、澄み渡る声であった。

「三九郎!」
「義兄上!」
 一見するれば、義兄弟の再会ではあるが、ここは戦場で、二人は今や敵同士である。信繁は馬上にあり、槍を携えて三九郎を睨みつけていた。

「退け三九郎。邪魔すれば斬るぞ!」
 信繁の言葉に、三九郎は槍をもったままで、両手を広げて答えた。ここは、死んでも通さない。三九郎の目がそう語っていた。

「佐助ーっ、今ぞ。家康を討て!」
 しかし、信繁の命令にさっきまで横で馬を駆けていた筈の佐助の姿は、どこにもなかった。

(致し方なし…)
 信繁は、気を取り直すと、三九郎に一人対峙する。義兄弟同士の戦いが始まりを告げた。

 先に仕掛けたのは、意外にも三九郎の方であった。三九郎は、槍を両手で強く握り、鋭くて速い一撃を馬上の信繁を狙って、繰り出した。しかし、間一髪で信繁はそれを避ける。

 そして、今度は信繁が槍の一撃を三九郎にお見舞いする。これは、三九郎が槍で弾く。鈍い金属音が鳴り響く。そして、一合、二合、三合と、二人は槍を合わせて行くのだった。

 それから、十合も合わせた頃に、信繁が放った一撃が三九郎の兜を直撃し、三九郎は尻餅をついて野に転がった。弾みで兜が取れると、額より血が顔を伝って、ポタポタと落ち始めたのだった。

「もう終いか?」
 信繁は、三九郎の傷を見てそう問う。槍同士の戦いであっても、馬上の方が有利である以上、勝敗は明らかであると言いたかったに違いない。

「まだまだっ!」
 転ばされた三九郎は、素早く起きあがると、右手の槍の柄部分で、信繁の乗る馬の横面を思いきり殴りつけたのだった。馬は情けない悲鳴を上げると、その場で踊り出してしまった。信繁が馬を宥めようと、手綱を捌いている隙に、三九郎はすかさず、信繁の後ろに周り込み、馬のお尻に軽く槍を刺したのだった。

 すると、馬は狂ったように暴れ出し、信繁を乗せたままで、家康が逃げた方向とは、反対方向へと、駆け出し始めたのだった。

「これは、してやられたわ!」 
 そう口にしながら、信繁は後ろ背に三九郎の顔を見た。両者の目が確かにそこで、一瞬だが合わさった。信繁は楽しそうに笑っていた。爽やかな、とても戦人と思えぬ、いや真の戦人にしか出来ない、そんな笑顔だった。

「一時退くぞ!」
 信繁は、暴れ馬で駆けながら、全軍に撤退命令を出していた。去る義兄の後ろ姿を眺めながら、三九郎は、あの信繁の笑顔は、一生忘れられないだろうと感じていたのだった。

 信繁が去った直後の本陣を見渡すと、物が散乱して、見る影もない有様であったが、泥だらけになっている家康の金扇の馬印を発見する。三九郎は、急いでそれを拾い上げると、泥を払い、その馬印を少し小高い丘の上まで持って行き、そこの頂上に突き刺してこう叫んだ。

「大御所様ご健在!敵は逃げたぞ。今こそ追撃ぞ!」

 この三九郎の機転により、散り散りであった兵たちが、その馬印の元へ集まり始めた。逃げた家康は、敵の猛追を受ける途中で、二度切腹を口走ったというが、その都度、懸命に周りの者が止め、ようやく無事に逃げ切る事が出来ていた。三九郎の身を挺した働きにより、大御所家康の命は、救われたのだった。

 一方、もう一つの主戦場となっていた岡山であるが、こちらも幕府方は思わぬ苦戦の中にあった。先鋒部隊の前田利常の軍勢が、大坂方の大野治房の軍勢に打ち崩されると、その穴埋めの為に、次に控えていた幕府方の井伊直孝と、藤堂高虎の隊が応援に駆け付ける。

 しかし、一度決壊しかけた堤防という物は、そう易々とは元には戻らない物であり、将軍直属の旗本である土井利勝の隊が突き崩されると、将軍秀忠の陣は、大混乱に陥ったのであった。

「何たる不甲斐なさか!」
 秀忠は、自ら槍を持って、最前線へと乗り出そうとしていた。
「上様、今少しの御辛抱を」
「戦の大局は勝っております。一陣の勝敗になど、こだわりあるな」
 側に控える柳生但馬守宗矩と、本多佐渡守正信が秀忠を宥める役を担っていた。

 そんな状況の中で、茂みに潜んで、密かに本陣の様子を伺っている者がいた。佐助である。佐助は、岡山口の戦況を知ると、隊から一人離れて、隠密行動を取っていたのだ。

(今日が絶好の機会かもしれぬ…)
 より実質的に言えば、佐助は家族の仇を将軍秀忠であると、狙いを定めていた節がある。こちらには、柳生宗矩も居るのだ。家康の事は、信繁に任せて、ここは一つ、大きな賭けに出て上手くすれば、幕府は今日をもって滅びるかもしれないのだ。

(幕府を滅ぼす事こそ、本当の仇討!)
 佐助は、心の中に期する思いで、その機会が訪れるのを辛抱強く待っていた。そして、その機会は思わぬほど早くに訪れようとしていた。秀忠の本陣に、大野隊の一部の兵が雪崩れ込んだのだ。

(今しかない…)
 佐助は、跳躍した。驚くべき飛距離を叩きだしながら、秀忠の本陣へとあっという間に迫る。さすがに稀代の忍びというべき動きであった。

「お主らなどに、上様を害させるものか」
 本陣へ殺到した兵は、殺気に満ちながら、秀忠へ迫ろうとしていたのだが、それを柳生宗矩が遮る。宗矩は、抜刀すると、襲い掛かる兵を立て続けに、七名切り捨てる離れ業を披露して見せた。

「但馬守見事也!」 
 秀忠がその妙技に興奮して、席を立ったその時であった。

「今じゃ!」
 佐助は、秀忠目掛けて襲い掛かった。跳びながら、失った右腕を秀忠に向ける。そこには、何と仕込み銃が隠されているのだった。この日の為に、佐助が自ら考案した必殺の武器であった。

「将軍、お命頂戴仕る!」
 ドーンッという銃声が二度陣内に響き渡る。宗矩は、咄嗟の事に対応出来なかったが、すぐに体勢を整えると、返す刀で、佐助の残された右腕ごと、その銃を斬り落としてみせた。

「グゥッ、さすが柳生宗矩。しかし、これで幕府も終いぞ」
 佐助の放った銃弾二発は、見事に秀忠の腹部に命中していた。血を流しながら、倒れる秀忠を、近習の者たちや、土井利勝などの旗本衆が駆け寄り、懸命に起こそうと駆け寄る。

「クッハッッハッハッ」
 大量に流れる血を、無事な左手で抑えながらも、佐助は笑っていた。佐助は、見事に使命を果たしたかに思われた。
しかし、

「大事ない。傷は浅いぞ」
 佐助の喜びは、一瞬にして潰えてしまった。支え起こされた秀忠は、傷は負っているものの、それは致命傷とはならない程度であったのだ。

(火薬の量が少なかったのか…)
 自らの腕に仕込む為に、銃に入れる火薬を調整したのが、裏目に出てしまったのだ。

「貴様生きておったか。裏切り者めが、ここで成敗してやる」
 秀忠の無事に安堵した宗矩は、その憤怒の矛先を佐助へと向ける。しかし、宗矩の剣が佐助に届くよりも先に、佐助は後方へと跳んでいた。

(ここは、逃げるしかない…)
 無念ではあったが、忍びとしての冷静な判断力が、佐助を後退させたのだった。もし、腕に仕込まれていたのが、いつもの棒手裏剣であり、それに毒がたっぷりと塗られていたならば、秀忠は死んでいたかもしれない。幕府に対して、一矢報いる事は出来た。

 しかし、悲願成就はならなかった。佐助は涙を流しながら、本陣を後にする。それは、宗矩に斬られた傷が痛むせいなのか、それとも心の傷が痛んだのだろうか。どちらにしろ、佐助がここから向かう先は、一つしかない事は確かな事であった。

 大坂夏の陣と言われるこの戦いの決着がついたのは、その日の十五時頃の事であった。大御所家康と、将軍秀忠の首を獲る事に唯一の勝機を見出していた大坂方の将兵は、決死の突撃を敢行する事で、両大将に肉薄する事が出来た。

 しかし、二人を取り逃がしてしまうと、次第に戦列を整えた幕府方に、その圧倒的な火力と、人数とで押され始める。特に悲惨だったのは、無理な突撃を重ねた真田隊であった。戦線が伸びきってしまった所を各個撃破の対象とされてしまい、多くの将兵が討ち取られてしまった。当初は、戦線を有利に展開していた岡山口の大野治房の軍勢も、次第に幕府方が勢いを盛り返し始め、戦線を維持出来なくなってしまっていた。

 最初から戦闘に参加して、最後まで戦力を維持出来たのは、先鋒の毛利勝永の部隊ぐらいであった。勝永は、真田隊が壊滅し、大野隊も壊滅しつつある事を知ると、自軍が孤立する事を危惧して、退却の下知を下した。勝永は、自ら殿(しんがり)を務めると、反撃に出た藤堂高虎の隊を逆に打ち破り、迫る細川忠興と、井伊直孝の部隊を躱しながら、とうとう撤退を完了させたのだった。

 これにより、大坂方の敗北は決定した。戦闘があったのは、正午からのたった三時間程度であったという。このたった三時間の内に失われた命は、両軍合わせて、三万とも五万とも言われる正に死闘であった。

 無事に退却を遂げた勝永を大坂城外で待っていたのは、総大将の秀頼と、大野修理らであった。秀頼は、母親らの説得に時を費やして、出陣出来た時には、勝負がついており、とうとう戦に間に合わなかったのである。

「豊前守大儀…」
 秀頼が馬上で勝永を労う。見れば、勝永自身もそうであるが、戻って来た将兵の誰しもが、手傷を負っている状態であった。

「左衛門佐は?」
 秀頼の問いに勝永は、頭を左右に振るだけであった。そのやり取りを秀頼の後方で見ていた真田大助は、声も上げずに、静かに大粒の涙を流していた。戦の終わりを、頬を伝う夏の爽やかな疾風(かぜ)だけが、密かに告げているようであった。それから程なくして、秀頼は、大坂城内への全軍撤退を決めた。

 壊滅した真田隊であったが、信繁はまだ生きていた。将兵らといつの間にかに離れて、一人彷徨い、今は天王寺付近の茶臼山の麓にある安居天神にて、傷ついた身体に暫しの癒しを与えている所であった。

「残念であった…」
 家康を討ち漏らした事は、本当に残念であった。しかし、無念とは思わない。自分は、父昌幸から譲り受けた軍略の総てを使って、強大な幕府と戦ったのだから。

「殿、左衛門佐様では御座りませぬか?」
 ガサガサと草むらを掻き分ける音と共に、信繁の前に急に現れたのは佐助であった。

「佐助か?よくも無事で。傷は痛むのか?」
「大丈夫に御座います。一人山野に潜みて将軍を狙いました…」
「して首尾は?」
「手傷は負わせましたが…」
 佐助は、そう言うと頭を振る事で答えとした。

「そうか、致し方なし。こっちも家康の首を取り逃がしたわ」
 信繁は嬉しそうに、まるで大魚を逃した漁師のような調子でしゃべり続けた。
「そこで我が前に立ち塞がったのは、義弟の滝川三九郎よ」
「わしも柳生但馬に阻まれました」
「何と?新陰流とは、厄介な物よ」

 そう言って、信繁は大笑いする。佐助も釣られて笑うが、その度に腕の傷が痛んだ。しかし、何故か心地良い痛みであった。佐助は、この主が好きであった。

 真田左衛門佐信繁という大将は、人の頓着が無い。誰も彼も一緒なのである。それが忍びであろうが、将軍であろうが、町娘であろうが、農村の老人であろうが、いつも変わらぬ調子と変わらぬ口調と態度とで、接するのである。そういう人の上に立つ、武将としての天性の物を信繁は備えていたのかもしれない。

「佐助、最後の頼みがある。我が家族の事じゃ」
 一頻り笑い合った後、信繁は急に真面目な顔になり、その事を口にした。
「そなただからこその頼みぞ」
「御意…」

 佐助は、それだけで総てを理解した。佐助は傷ついた身体で立ち上がると、信繁に一礼をして、その場を去って行く。
「三九郎に助力願え!」
 背中で信繁の最後の言葉を聞きながら、佐助は大坂城へと急ぐ。涙は無い。これ以上の言葉とて無い。だがそれでいい。これが、この主従の永久の別れであった。

 真田左衛門佐信繁が死んだ正確な時刻は分かっていない。松平忠直の家臣で鉄砲組頭である西尾宗次という者に討ち取られたと伝わる。この西尾宗次が余りにも小役人であった為に、真田ほどの大将が討ち取られる筈がないと思った将軍秀忠は、

「お主ごときが…」
 と口走ったとされる。もうすでに死んでいたのを拾い首しただけと思っての発言である。口走ったのは家康という説もあり、真田家に対して遺恨がある徳川からすれば、納得のいかない最期であったのかもしれない。信繁は、享年四十六歳であった。

 今や大坂城は、阿鼻叫喚の渦中にあった。堀も総て埋めたてられ、二の丸、三の丸も無く、本丸だけで敵を防ぎようのない城では、籠城するのも無意味であった。ここに一番乗りを果たしたのは、真田隊を打ち破った松平忠直の部隊であった。

 城に入った兵たちは、乱暴狼藉の限りを尽くし、金品や武具、食糧など取れる物はすべて取った。女と見れば、手当り次第に犯して廻った。市中の民であっても、逃げ遅れれば容赦なく、殺すか犯されていった。

 そんな正に地獄絵図の中で、とうとう本丸にも、裏切り者により火の手が上がると、その炎は大火となって夜空を朱に染めた。遠く京の都からもこの炎は見えたという。

 そんな落城寸前の城中に佐助は戻っていた。主との約束を果たす為にである。
「奥方、お子様たちもお逃げ下され」
「夫は?左衛門佐様は?」
「先に逃げよとの仰せに御座いまする」
 咄嗟に佐助は嘘を付いた。信繁の家族を逃がすには、必要な嘘であった。

「母上、大八が居りませぬ?」
「兄上(大助)の所やもしれませぬ。私が行きます」
「これお梅、待ちなされ」

 姉である三女お梅が立ち上がると、止める間もなく、部屋を出て行った。佐助は、仕方なく、信繁の正室お徳の方(竹林院)と四女あぐり姫とを伴い、城を落ち延びる事にしたのだった。

 一人弟を城内にて探すお梅は、煙と火の手に往く手を遮られながらも、無事に弟を発見していた。
「大八、行きますよ」
「はい姉上、ですが兄様は?」
「良いのです」
 城外脱出を試みる二人であったが、そこはすでに幕府方の兵が殺到していた。

「おう、ここにも女が居るぞ」
「乱暴は許しませぬ」
「どう許さねんだ?」
 腰の短刀を握り締め、必死で弟を守ろうとするお梅であったが、風前の灯火であった。

「貴様ら、何をしておるか!」
 その時、見事な出立ちをした武将が現れ、お梅と大八に襲い掛かりそうであった兵たちを一喝したのである。

「娘、豊臣の女か?」
「我が名を聞くなら、お手前から名乗られよ」

 その武者は、少し苦笑するが、すぐに、失礼した。我が名は、伊達家家老片倉小十郎であると名乗った。伊達政宗の知恵袋と謳われた、片倉小十郎景綱の嫡男であり、伊達家の柱石である男の名前であった。

「私は真田左衛門佐が娘、梅と申す」
「そっちの童は弟か?」
「こ、これは我が近習じゃ」

 お梅は咄嗟に嘘を付いた。もし左衛門佐の男児である事が分かれば、殺される可能性が高いからであった。それは、お梅とて一緒であったが、乱暴狼藉を許さぬこの武将の清廉さに賭けてみようと思ったのだろう。

「姉上?」
「姉上ではない。姫様と呼べ」
 パシンっと頬っぺたを叩く音と共に、大八は姉に何故叩かれるのかを理解出来ないでいた。しかし、初めて見る姉の苦悶する表情に、大八は、何か気づいた様子であった。

「はい、姫様」
「それでよい」
 お梅は、そっと大八を抱きしめた。姉の身体が小刻みに震えているのを、大八は姉の腕の中で、気づいていた。

 この兄弟の様子を、鬼の小十郎と敵味方に恐れられた武将は、じっと見ていたのだが、その眼は総てを悟っているようであった。

 しかし、小十郎は何も言わない。それどころか、この兄弟を、特に意気の良い姉を気に入った様子であった。小十郎は、二人を保護するように家臣に命じると、自分は再び戦場へと戻って行くのであった。

 後年、お梅は小十郎重長の正室となり、大八は、仙台真田家の初代として、信繁の血筋を後世に伝えていくのである。


 大坂城は燃え続けていた。その巨大で優美な豊臣家の象徴であった姿は、文字通り崩れ去ろうとしている。この城の主である秀頼は、現在、山里曲輪の中で身を隠していた。将軍秀忠の娘であり、家康の孫である正室の千姫を城から逃がし、最後の助命嘆願に出向かせた上での時間稼ぎの為である。

(もう、お千は戻らぬであろう…)
 秀頼には、その自覚があった。

 しかし、例えそうであっても、妻だけでも助かるのならば、それでよかった。最早、城が焼け落ちていく以上は、主である自分だけが生き残ってもしょうがないとも思っていた。秀頼は、もう運命に逆らうつもりはなかったのであろう。

 外では、幕府方の兵によって、秀頼らを貶める言葉を大声で囃し立てているのが聞こえる。そして、籠る曲輪に先程から、銃を撃ち込む音も聞こえていた。どうやら、この場所が徳川に露見した事は明白であった。

「勝永よ、もうこの辺でよい」
 秀頼が言うと、それが何を指すのかを、その曲輪の中にいる者達すべてが理解した。

「秀頼殿…秀頼殿…」
 淀君が秀頼を抱きしめる。気が強く、誰の意見も聞かない困った母であったが、秀頼にはかけがえのない母であった。

「母上、かかる仕儀となりました事、誠に申し訳御座りませぬ」
「何を申すか。そなたは、立派に務めを果たされましたぞ」

 豊臣秀頼とは、無念の人であったのだろうか?。父太閤秀吉は、一代で天下人となった、正に戦国の世に現れた怪物のような人物であった。

 しかし、秀頼の想い出の中にある父親は、いつも笑って相手をしてくれる遊び友達のような存在であった。偉大な父の後を継いだという思いも余りなく、気がつけば、天下は徳川の物となっていた。秀頼はそれでもよかった。母や城の者たちと違い、幕府の風下に立って頭を垂れても、それで和平が保たれるのであればよかったのである。

 もしも、秀頼が貴族的な若様として育てられずに、戦国の武将としての育ち方をしていれば、一体どうなっていたのだろうか?結果は変わらなかっただろうか?それとも、大坂城を出て、小国の主として、歩む人生もあっただろうか?

 この曲輪の中には、奥女中や、秀頼の近習を含め、毛利勝永、大野修理ら二十数名が入っていた。その中には、真田大助の姿もあった。

「大助殿は、落ち延びられよ」
 勝永より、そう言われても大助は「はい」とは決して言わない。
「父に遅れをとっては、真田家の恥に御座る」
 そう言うと、まず初めに腹に刀を突き立てた。すかさず勝永が首を討って、介錯した。

「見事也!」
 それを合図として、曲輪内では、一人、また一人と自害していき、バタバタと人が倒れて行く。最後に秀頼が母親の心臓に刀を突き刺すと、腹を斬った秀頼を勝永が介錯したのだった。その後、仕掛けておいた爆薬を爆発させると、勝永は自らの首を斬った。

 これによって、豊臣家は滅亡し、戦は幕を閉じた。秀頼は享年二十三歳の若さであり、真田大助は十六歳の若さであったという。そして、この戦を最期として、戦国という一つの時代に終止符が打たれた事は、確かな事であった。

 一方、大坂城は落城し、戦は終わりを告げたが、生き残った者たちは、明日を生きねばならない。無事に城を落ち延びた佐助たちは、ある者を頼ろうとしていた。佐助は、ある場所に信繁の家族を同伴させると、ピューッと口笛を一つ吹いた。

「遅かったな?」
 すると、どこからともなく現れたのは才蔵であった。
「こちらは、左衛門佐様の御内室と姫君じゃ。頼んだ…」
 それを言うと、佐助はバタリと、その場に倒れ込んでしまった。

「おい佐助?決着をつける約束ぞ。死ぬ馬鹿がどこにある!」
 しかし、佐助はそのまま動くことはなかった。佐助は最後に残った力を振り絞って、才蔵に託したのである。佐助は忍びとして育てられ、数えきれない程、人を殺してきた。その中には、決して明るみになってはいけない事も含まれているだろう。しかし、己の死に際に人の命を助ける事で、佐助は報われたのだろうか?。

(これで良かったのだな…)
 才蔵は涙を流さない。一人の忍びが闘い、一人の人として死んだ。それだけの事であり、それが総てでもあった。


 大坂城が落城し、秀頼母子らが自害したのを見届けると、家康は二条城へと帰還していた。論功行賞の為と、兵に休息を与える為である。そして、その論功行賞で諸侯より先に呼ばれたのは、滝川三九郎であった。

「三九郎、近う、近う」
「ははっ」
「此度の働き、誠に天晴れであった。そなたが居らねば、あの時、わしの首はほれっ…」
 家康は手の動きで、自分の首が落ちる真似をした。

「他の旗本たちは、皆逃げ出しおって不甲斐ない。そちには、何か褒美を取らせようぞ。どこが良いか?上方に、一万石辺りでどうじゃ?」
 上機嫌の家康であったが、三九郎は平伏したまま何も答えない。

「二万石が良いか?石高が上がれば、僻地にはなるが…」
「はっいえ…」
「望みがあるならば、申してみよ」

 一向に真意を明かさぬ三九郎に業を煮やした家康は、急かすと、扇を広げて、バタバタと自分で扇ぎ始めた。

「大御所様にお願いの儀が御座いまする」
「おおっ何じゃ?」
 待ってましたとばかりに、家康は身を乗り出す。三九郎が何を言い出すのかを明らかに楽しんでいる様子であった。

「真田左衛門佐が御内室と娘一人、三九郎にお預け下さりますよう」
「ほう…」

 三九郎は、思い切って口上を述べて、再び平伏するが、下げた頭でも、その場の空気が変わった事を感じていた。
「左衛門佐の身内が生きておったのか?」
「女子で御座いまする。娘は我が養女と致しまする」

 三九郎は、殊更に女である事を強く言う。家康は、扇いでいた扇を置くと、顔を横に向けて、爪を噛み始めた。家康の機嫌が悪くなった証拠である。
「三九郎の武勲、総てに代えましても…」

 この嘆願により、主から不興を被る事になったとしても、三九郎は構わないと思っていた。戦は終わったのだ。男子なら致し方ないが、女子であるのだから、罪を問うて、何になろうか。三九郎は必死であった。周りの者たちも、その様子を、固唾を飲んで見守っていた。

「三九郎は、我が命の恩人である。その願いを聞き入れねば、わしの不明が問われるのう。良かろう許す」
「有難き幸せ…」

 三九郎は、ホッとしていた。賭けではあったが、家康であれば許してくれるとも信じていた。これが、将軍秀忠であれば、致しかた無しであっただろうが。

「日本一の兵(つわもの)の忘れ形見、大切に致すがよい」
「ははっ」

 三九郎は、満面の笑みで退室していった。それを見送った後に、家康は憮然とした表情でこう呟いていた。
「侍とは、かくあるべしか…」

 この話は、幕府内でも美談として語り草となっていた。滝川殿は、大名と成るよりも名誉を重んじられた。誠に武士であると。しかし、当の三九郎は、家族の為に当たり前の事をしたと思っていただけであった。


 ようやくして、三九郎は無事に、家族の元へ帰る事が出来ていた。
「お菊、今戻った。何と言うか、お土産があってな。家族が増える事になった」
 三九郎は、照れながらも、部屋にお徳とあぐりを招き入れていた。

「姉上様、お会いしとうござりました。お菊でございます」
「何だ知っておったか」
「ええっ」
 お菊は、先に戻っていた才蔵から、事の次第を聞いていたのだ。
「何分にもお頼み申しまする」
「はい」
 お徳はこの後出家して、竹林院と名乗ると夫と息子の菩提を弔い、その人生を終えた。

 娘のあぐりは、宣言通りに三九郎の養女とした。形だけでなく、本当の娘として育てている。滝川家には、豊之助一人しか子供が無かった為、三九郎もお菊も、娘が出来て嬉しかったのだ。それから、片倉小十郎によって、保護されたお梅であるが、小十郎に嫁ぐ際に、三九郎の養女として、嫁いでいる。これも三九郎なりの心遣いであった。


 大坂の陣より一年後の事である。三九郎が、久方ぶりに訪れた平和を噛みしめ始めた所に、ある報せがもたらされた。大御所家康の発病である。三九郎は、すぐに駿府城に馳せ参じると、暫くして室内に招かれていた。

「滝川三九郎参りました」
「近う」
 進むと奥の部屋で、家康が横たわっていた。周りには、将軍秀忠と本多正信、正純親子に土井利勝、それに義兄真田信之も列席していた。

「仰々しくて敵わん…」
 病床の家康は、この面子が揃っている事を、そう冗談にしてみせるが、誰も笑う者などいない。

「三九郎近う」
 呼ばれた三九郎は、枕元に座る。すると、手招きされた伊豆守信之も、三九郎の向かい側に座る。家康は両手を上げると、二人はその手をしっかりと握り締めた。

「皆聞け。伊豆守は徳川の忠臣也、三九郎は命の恩人也」

 それが誰に向けられた言葉であったかは、その場に居た者ならば、誰もが理解したであろう。それが、三九郎が家康と交わした最後の言葉であった。

 天下人である徳川家康が死去したのは、元和二年(1615)四月十七日の事であった。享年七十五歳。大坂城落城より、約一年後の事であった。

 一つの時代が終わり、新しい泰平の世が訪れようとしている。それは、戦国の世を体感してきた武士にとって、生き易い世の中であっただろうか。それとも…

 家康亡き今、時代は変わった。幕藩体制が整い始め、武の時代から、治の時代へと変革が続いている。三九郎も幕府の使番として、平和ではあるが、いささか物足りない毎日を送っていた。しかし、新しい家族も増えて、順風満帆に見えた三九郎であったが、それを快く思っていない人物も居たのである。

「三九郎めは、予を蔑ろにしておる」
 将軍秀忠は、真田家に対して、忘れらない恨みを持っている。大坂の陣での信繁の活躍も、その家族を保護した三九郎も苦々しくて堪らなかった。

「奴を陥れる事は出来ぬのか!」
 近習に当り散らす秀忠であったが、例え天下の将軍であっても、滝川三九郎程の音に聞こえた大剛の武士を、気に入らないという理由だけで処断は出来ない。無礼打ちという手もあるが、躱されるか、返り討ちが関の山であるだろうし、刺客を放っても、悉く失敗を重ねた実績もあった。

 そして、この男の件に関してだけは、側近の柳生宗矩も苦言を呈して、力を貸そうとはしない。それが余計に腹立たしく、秀忠を苛立たせるのであった。


 そんな折りではあったが、ある祝い事の為に三九郎は、信之の元を訪ねていた。
「義兄上には、我が娘あぐりの婚礼が整いました事、ご報告へ参りました」
 三九郎の養女となっていたあぐりは、伊予国松山藩の家老、蒲生郷善に嫁ぐ事が決まったのである。

「そうか、良くぞやってくれた。三九郎殿、礼を申す。この通りじゃ」
「義兄上、御手を上げて下され」
 信之にしてみれば、滝川三九郎は、真田家の救い主のような存在であった。上田合戦の危急の秋に突如現れて、お菊を妻となして、弟信繁の家族を保護し、今度は娘を嫁がせるまでしてくれている。これを頭が下がると言わずして、何と言うのだろうか。

「三九郎殿、わしで出来る事があれば、何でも致すぞ」
「ならば、あぐりに恥をかかせぬ為に、婚礼の品などご用意下さるまいか」
「そのような事であれば、是非に」
 信之は、弟の忘れ形見を真田家の女として、華やかに送ってあげたい一心であった。しかし、これが間違いの元であった。

 それから暫くして、滝川三九郎は突如として、幕府使番の任を解かれ、改易処分とされてしまう。幕府が挙げた罪は、幕府の仇敵である真田左衛門佐の娘を養育し、幕府に断りなく嫁がせたる事、許し難しとなっている。誰が聞いても、首を傾げたくなるような理由であったが、この事を伝えに来た目付役人に対して、

「畏まって候」
 三九郎は、恭しくそう言い顔を上げると、後は耳を穿っては、それを目付役人の顔目掛けて、ふーっと飛ばすのである。これには、目付役人も鼻白んで、色々言ってやるのだが、その度に三九郎は、あーっとか、うーっとか言うのみであった。目付役人は、呆れてそのまま帰ってしまった。

「お菊、宮仕えはもう終いじゃ」
「どうなさるの?」
「皆で京へ行こう。滝川家は、一乗殿にすべてお返しする」
「あら、嬉しや」

 この夫婦は、いつも軽やかだ。幕府からの通達の後、三九郎らは、数日で屋敷を綺麗に掃除し、元服していた甥の一乗に後を託して、京へ出立してしまっていた。そして、京の室町辺りで、隠居暮しを始めるのだった。


 それから更に時は流れて、幕府は、秀忠が将軍職を嫡男に譲り、世は三代目家光の時代となっていた。そして、寛永九年(1632)一月二十四日、二代将軍秀忠は、この世を去る。死の数日前の事である。突如、伊豆守信之がその枕元へ呼ばれていた。

「伊豆守よく来てくれた」
「ははっ」
 秀忠が横たわる部屋は、本人のたっての希望により、二人だけとなっていた。

「伊豆守、わしは、そなたに謝らねばならぬ。真田の棟梁であるそなたに対し、わしは無下に扱うてきた。真田家伝来の上田を取り上げ、土地の痩せた松代へ移した。今から思えば、わしは愚かであった」
「滅相もない…」
「よいのだ。父家康は正しかった。そなたは、真に徳川の忠臣であった」
「勿体無き、お言葉」

 二人は、固く手を握りあった。どんなに言葉を尽くそうとも、その手の温もりだけで、総てが融解してしまえるかのようであった。信之は、今までにあった様々な事に思いを巡らし、その頬には、自然と涙が伝っていた。

「今一つ心残りがある。三九郎が事じゃ。わしの死後、恩赦をもって、三九郎を戻したいが、あの者の事だから、受けぬであろう。そうであれば、その子を取り立ててやれ」

 そう言うと、喋り疲れたのか秀忠は眠ってしまった。その数日後に秀忠は死ぬ。享年五十四歳であった。


 秀忠の死後、三九郎に復帰を促す書状が届いたが、秀忠の予見通り、三九郎はこれを請けなかった。最早、武士に未練は無かったのであろう。滝川三九郎は、この後も京の都で悠々と生き続けた。

「才蔵、お主も歳をとったな」
「殿ほどでは御座りませぬよ」
 才蔵は、京へも当然の如く三九郎に付き従い、妻帯する事もせず、生涯を主と共にあった。

「お前様、こっちですよ」
 祭り見物に来ているお菊が、孫の手を引いて、こちらに手を振る。三九郎は、京の都で、家族に囲まれた穏やかな時を過ごしていた。最早、滝川三九郎も歳をとっていた。髪には白い物が混じり、遠くを見渡せた目は、近頃霞みがちとなっていた。三九郎は、自身の衰えを自覚するようになっていた。

 その日は、気持ちの良い晴れ間が広がっていた。お菊は、三九郎が眠る部屋の襖を開け放つと、一筋の風が部屋中を旋回するかのように、吹き抜けて行った。

「気持ちの良い、疾風(かぜ)が吹いておる」

 それが、最期の言葉となった。その日の夕刻、縁側にて、疾風!!(かぜ)を堪能した後に昏倒すると、そのまま眠るように亡くなった。

 万治三年(1660)五月二十六日、滝川三九郎一積は、七十八歳の天寿を全うした。三九郎の死後、一子豊之助は、名を三九郎一明と改めて、幕府に召し出される事となる。


‐完‐

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