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第八幕 光秀出奔す
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永禄七年(1564年)六月、三好義継は、四千の兵を従えて上洛して将軍足利義輝に謁見し、長慶の跡目を相続する許しを得ている。そこには、重病を押して上洛した長慶の姿と、それを介護するかのように寄り添う久秀の姿もあった。
二条御所での一連の式典が終わり、久秀は一人、茶室へと向かっていた。この御所には、立派な茶室も建てられており、ここに来ると、一人で茶を一服するのが久秀の習慣となっていた。たまには、長慶や幕府の重臣たちと共にすることもあったが、久秀は、数奇者らしく、一人で茶を点てる事を好んだ。
この城の主である義輝は、教養としての茶はやるが、実趣味で茶を一人で点てるような事はしない。となれば、幕府の実力者である長慶であるが、長慶もこの所は病が篤く、茶を余人に振舞う余裕はなかっただろうと思われる。であるならば、この風格のある茶室の現在の主は、この久秀といって差し支えなく、この事が現在の幕府内での彼の地位を現していると言えた。
「ふぅ、やはり仕事の後の茶は、格別じゃのう」
久秀は、茶室から出てくると両腕を太陽の方向に向かって突き上げて、茶室で縮こまっていた体を思いっきり解放させた。
「余人に振舞う茶も良いが、ここで点てる一人の茶も良きかな」
久秀は、家臣の誰もつけずに一人で茶室に入るのが、この所のお決まりになっていた。久秀からすれば、この御所内で気ままに過ごせる事に、一種の優越感を感じていたのかもしれなかったが、
(一体誰が、この久秀を害せるものか)
との強烈な思いと、自信とが彼をそうさせたのかもしれない。そして、一人でくつろいでいたその久秀の背後で、刀を鞘から抜き、刀身を構える男の姿があった。
「何奴じゃ?」
久秀は、殺気を感じすぐに身を翻えして、何時でも、腰に帯びた刀が抜ける態勢を取った。
「さすがだな。よく気づいたものだ」
久秀が振り返ると、そこに立っていたのは、刀を構えた光秀であった。光秀は、久秀が御所に来ると、一人で家臣も連れずに、茶室に籠る事があることに気づいて、久秀を殺すならここしかないと思い立ち、御所内に入り込んで、じっと久秀が出てくるのを待っていたのだった。
「貴様、明智!ここを御所と知っての狼藉か」
「無論の事だ。貴様を殺すためならば、この命も惜しくないわ」
光秀と久秀は対峙している。その二人の間には、一触即発の緊張が走っていた。
「この御所内にて、帯刀を許されるは、認められた高官のみぞ。貴様のような下賤の者が許さいでか」
「そのような事は、覚悟の上だ。貴様を殺した後に、どんな処罰をも甘んじて受けよう」
「明智!貴様は、一体何を望んでいるのだ!?」
「望みなどはない。ただ大義のためだ」
「大義!?」
「幕府を輔け、この国より戦を失くす。そのために、害となる貴様を殺すのだ」
光秀は、右手に持って下げていた刀を両手で持ち直し、中段の構えを取った。その眼が本気であることを物語っていた。一部の隙もなく剣先にブレがないのは、光秀の心が落ち着いている証拠でもあった。久秀は、光秀の静かな気迫に飲み込まれまいと、自らを叱咤するかのように、大声を上げた。
「明智、貴様っ殺してやる。殺してやるぞ!」
「最早言葉は無粋。貴様も武士ならば、いざ刀で語り合わん」
そう言うと光秀は、一直線に久秀に襲い掛かった。光秀と久秀の激しい打ち合いが始まった。久秀も戦ってみると歴戦の猛者らしく、剣技に長けていて、光秀との戦いも、そう易々とは決着が着きそうになかった。
しかし、その打ち合いが十数合を数える頃に、二人の均衡が破れた。久秀が履いていた草履の片方を踏んで、後ろに尻餅をついて倒れたのだ。
「不覚なり!」
光秀は、倒れた久秀を見下ろし、刀を構えて打ち下ろす姿勢を取った。
(これで、終わる)」
光秀は、心の中で思った。そして、その両手の中にある刀を、久秀に打ち下ろす瞬間であった。
「待てーっ!!」
凄まじいまでの怒号が、光秀と久秀の間を吹き抜けて行った。二人は、争いを忘れ、その白洲の後ろ側の、怒号の聞こえた廊下へ目を向けた。するとそこには、こちらを見据えて仁王立ちする長慶の姿があった。
「光秀刀を収めよ。ここは上様の居わす御所であるぞ」
長慶は、あえて光秀を諭すように穏やかな口調で語りかけた。
「しかし、この男は、貴方様の息子や弟たちを殺した、幕府に仇なす奸賊ですぞ」
光秀は、なおも久秀に振り上げた刀を下ろそうとはしない。久秀は、その状態に動けずにいた。
「久秀が奸賊であるならば、きっと天がお裁きになろう。お主の横やりは無用だ。これは、三好家の者である」
長慶の言葉に、光秀は一瞬、両腕に込めた力を抜いた。しかし、危機を脱しようと隙を覗っていた久秀に、その一瞬の隙を突かれてしまった。久秀の右手に持っていた刀の剣先が、光秀の左の肩口に深々と突き刺さっていた。
「ぐむっ…」
光秀は苦痛に歪み、久秀は、先ほどの立場から逆転できて、ほくそ笑んでいたが、すぐにその口元の薄ら笑いは、驚きの表情へと変わっていた。
「明智、貴様何を?」
久秀は、光秀の心臓を突いたと思ったが、突かれると見た光秀は、瞬間に身をかわし、急所を刺されるのを免れていた。それどころか、刺されたままの体で、脇をがっちりと締めて、刀を抜けないようにし、逆に久秀を釘付けにしていた。
(殺られる!)
久秀は、持っていた刀をとっさに手離した。そして、そのまま後ろに尻餅を付く態勢で、座り込んだ。
「ぐぎゃあっ」
久秀の悲鳴が辺りに響いた。光秀は、地面に置かれていた久秀の左手に、思いきり刀を突きたてていた。そして、久秀が戦意を喪失したのを確認すると、ゆっくりと刀をえぐるように引き抜いた。
「久秀よ、貴様の命を預けるのはこれが最後だ。次に容赦はせぬ」
光秀は、そう言い放つと刀をしまい、傷を負った肩を抑えながらその場を去った。
「明智!ここで、わしを殺さなかった事を後悔させてやるぞ。必ず後悔させてやる!」
歩み去る光秀の後ろ姿に久秀は叫んだ。しかし、光秀は一度も振り返らなかった。光秀が去ったその場には、長慶とその場に畏まる近習のお供が数名と、手傷を負った久秀だけが残された。
「久秀よ、傷の具合は?」
「大殿、大したことはございませぬぞ。この久秀、大殿の制止がなければ、今頃あの明智の首を取っていた所でございましたぞ」
傷の痛みに堪えて、強がって見せる久秀を、長慶は冷静に見ていた。
「急所であれば、本望であっただろうな」
「大殿?何をおっしゃるのか」
「貴様のしてきた事を言っておるのじゃ」
「大殿、まさか明智の言った事を間に受けたのでは?」
久秀は、そう言うと笑いながら長慶のいる殿中へとあがろうとした。
「久秀、図が高い!貴様、誰のおかげで今日があるかを忘れたか!」
長慶は、目をカッと見開いて一喝した。長慶のあまりの気迫に久秀は思わず、その場で平伏していた。そこには、気鬱の病で呆けた老人の姿はなく、天下人と謳われた漢の姿が在った。
「貴様は、三好家の躍進に役立っておった。しかるに地位を与えてきたのだ。しかし、それもこれまでかもしれぬな」
そう言い放つと、長慶はその場を去った。長慶も去る際に、光秀同様に一度も久秀を見ようとはしなかった。久秀は一人取り残されていた。胸中では、何とも言えぬ敗北感と屈辱感に震えていた。
「きっと、このままではすまさぬぞ。奸賊?結構ではないか。そうであれば、わしは日の本一の奸賊になってやるぞ。二人とも見ておれ」
久秀は、手のひらの痛みなど忘れて、両手を強く握って天を睨んだ。その左手からは、先ほど受けた傷から血が地面へと滴り落ちているのだった。
「一体、何があったと言うのだ?」
後日、義輝と藤孝に呼び出された光秀は、前日の久秀との争いの件で、藤孝より詰問を受けていた。
「お主ともあろうものが、軽挙に過ぎるぞ。だいたいお主と言う男は・・・」
「コホンッ」
藤孝のお説教が永遠と続きそうだと見た義輝は、咳払いを一つして話しを中断させた。
「光秀よ、傷の具合はどうだ?」
「上様、忝けのうございまする。傷は大したことはございませぬ」
強がって見せた光秀であったが、傷の具合は思いのほか重症で、今も左腕を補強し、動かすことは出来なかった。
「この大事な時期に、重ね重ね申し訳もございませぬ」
光秀は、頭を下げた。しかし、光秀を責める藤孝とは違い、義輝には光秀の軽挙を責める気にはなれないでいた。光秀がしたことは、罰せられるべき事ではあったが、真に幕府の為を思っての忠誠心から出た行動であったし、この件で長慶や久秀からは、何か抗議めいた行動があったわけではなかった。
それはそれで、不気味な沈黙と言うべきものであっただろうが、この際は、その事について、触れる余裕はなかった。
「それにしても上様、このまま不問に付すという分けにもいきませぬが」
「ふむ、そうであるか」
そして、義輝から光秀に下された処分は意外なものであった。
「越前に行ってもらいたい」
義輝の口から放たれた言葉は、光秀の考えの全く及ばぬ所であった。
「越前と言いますと?」
義輝の真意を掴みかねた光秀は、越前と言う言葉を何度も口の中で反芻していた。
「つまりは、朝倉氏に仕官したと見せかけ、その実、幕府の味方となるべく行動すると言う事だ」
横で控えていた藤孝が説明を付けたす。
「今回の件で、お前を遠ざけるつもりで言っておるのではない。前々から考えての事だ。越後の上杉輝虎と幕府の仲は、そなたも知っての通りだが、とかく京の都と越後は遠すぎる。何か事があるときに、すぐに駆けつけられる位置におり、強大な武力を有し、また、越後の上杉と共闘の出来る大名を、味方につける必要があるのだ」
この時の越前朝倉氏は、第十一代当主の義景の代となり、その文化的栄華は、北陸の小京都と謳われる程、栄えていた。
「その越前の朝倉氏だが、何度も書状を出して上洛を促してはおるが、無しのつぶてじゃ」
「そこで、光秀殿が越前まで赴いて、朝倉義景を説得し、上洛して幕府に助力するように計ってもらいたい。これについては、幕府の使者として行くのではなく、越前に仕官する程の気構えが出来、幕府に忠節を尽くす者が必要なのだ」
「光秀よ、この大事を託せるのは、お前しかおらぬ」
義輝の誠意を込めた言葉に光秀は思わず涙をこぼした。無理もない。本当の所であれば、殿中での刃傷沙汰は、死罪は免れぬ大罪である。
それをこれほどの大役を任せられた上に、思いもよらぬ程の心を込めた言葉を将軍自ら頂いたのである。光秀の頬をハラハラと涙が流れた。
「もったいのう。余りにももったいないお言葉。光秀、生まれ変わった気持ちにて相努めまする」
横で控える藤孝は、光秀の姿を見る義輝の目の奥にも、光るものが見えた気がした。
(この主だからこそ、人がついて来るのだ)
藤孝は、主の姿を見て、そう確信を持っていた。
「上様、藤孝殿、この光秀、きっと越前にて大望を果たして参りまする」
三人は笑顔で笑いあった。そして、しばらく今までのことを、これから行うべきことを、夢を大いに語り合うのであった。後年、光秀は何度も何度もこの時のことを思い出す事になる。そして、この時には、思いもよらなかったであろう。この主従の、これが最後の別れとなってしまう事を。
「旅立つのか?」
光秀が旅に出る前日に、例の一件以来姿を消していた御門重兵衛が訪ねて来ていた。
「ああ、どうしても越前に行かねばならなくなったのでな」
表向きは、幕府を見限っての出奔と言う事になる。武士にとっての不名誉な事であったが、光秀には、そんな事を構ってられる余裕などはない。
「お主も物好きなものだな」
そう言って、重兵衛なりの労いを言うのだった。あの一件以来、三好方からは、何の音沙汰もないのではあるが、やはり、根来衆を核とした幕府の鉄砲隊というのは、岐路に立たされているのは間違いなかったのだった。
「潮時かね?」
「承知した!」
二人がその件について、言葉を交わしたのは、それが最初で最後であった。鉄砲隊の隊長である光秀が幕府から去り、重兵衛は追われる身である以上、仕方の無いことであった。
「重兵衛、お主はこれからどうするのだ?」
「忘れたか?わしは元々が道々の輩だ。これからも立派に流れて生きていくだけだ」
重兵衛は、その両の手を天高く広げて見せる。
「今度会う時には、私もきっと功名を立て、大名に成っている事だろう」
「ならば、その時はうまい酒でも振舞ってもうらおうか」
二人は、笑顔で別れた。十兵衛と重兵衛、同じ名前の親友が再会を果たすのは、ずっと後年の事であった。
光秀は、越前に向けて旅立ったが、その前に若狭に向かっていた。これには事情がある。出発の前に藤孝より意外な事を言われたのだ。
「時に光秀殿よ、そなたには妻は居らぬのか?」
藤孝の話しによれば、この事を言い出したのは義輝であった。その意図とは、光秀はつまる所、間者としていくのである。そして、相手を信用させるには、家族同伴にて、一家をあげて越してきたことを示さなければ、信用が得られぬと言うわけであった。
「居らぬならば、しかるべき姫を遣わそう。無論、仮にではなく正式な伴侶としてだ」
藤孝は、義輝からの言葉を伝えた。光秀にとってみれば、とてもありがたいことであった。
「上様のお気持ち、誠に忝のうござりますが、この光秀には、将来を誓った妻が居りまする。今は、ゆえあってそれがしの母方の縁者である、若狭の武田家の元に預けておりますが」
「ならば話は早い。お主の妻を迎えに行き、越前へと向かうが宜しかろう。そして、これが、義景殿への書状じゃ。忘れぬように渡されよ。それと上様より、旅の途中でも傷の治癒に、くれぐれも湯治をせよとの仰せじゃ」
「藤孝殿、何もかも万事、ありがとうございまする。それがしの居らぬ間、上様の事は、くれぐれも宜しくお願いいたしまする」
「そなたも達者でな。くれぐれも無茶をしてくれるなよ」
藤孝は笑い、そうして二人は別れた。
光秀は、旅立つにあたっての迷いや恐れはなかった。形の上では、光秀は久秀との一件により、出奔した事になる。そうしないと内外での示しがつかないからとの、藤孝の配慮であった。
そして、自分に対して期待し、色々と便宜を図ってくれる主に対して、何とか報いようとする気持ちの方が、不安や恐れより、先に起っていたのだ。
しかし、光秀は、自分が新しい任務に心が躍り、大切な事を見落としているのに、気付いてはいないのであった。後日、光秀は、この時に京の都を旅立った事を、自分の軽挙をどれほど悔やんだであろうか。
光秀は、若狭の武田領へと入っていた。
「殿、光秀様」
「おお、熙子よ」
遠くに光秀の姿を認めた熙子は、すぐに光秀の元へと走り出していた。走ってくる熙子の姿を見た光秀も駆け寄る。
「わが君、お怪我を」
「うむ、大事ない。そなたも息災であったか」
熙子は、光秀の左腕の包帯を見て、不安な顔をした。その手は、自然に光秀の着物の左袖を握っていた。光秀は、自分の傷を見て、不安がる妻を愛おしそうに、左手を熙子の肩に置き、右手で彼女のその美しい黒髪を撫でていた。夫婦の久方ぶりの再会であった。
「今度は、越前に行くのでございますか?」
「そうじゃ。今度はお前も連れて行く。上様からの直々のお達しだからのう」
それを聞いた熙子は、嬉しそうに小走りして、荷物の整理を始め、その日の夕刻にはすべての整理を終えてしまっていた。彼女は、このような日が来ることを予感して、この若狭に与えられた屋敷を仮の住まいとし、余計な物を置かずに必要最低限で、いつでも出立出来るように、心がけて生活していたのであった。
持っていくものも、数日の食糧と必要最低限の着物のみ。他の道具などは、すべてお金や食糧へ、村の家人に申しつけて交換してもらった。この手際の良さには、さすがの光秀でも舌を巻くほどであった。
そして、その日のうちに、屋敷の主である光秀の母方の親戚筋の当主に挨拶をすませて、次の日の早朝には出立していたのであった。
(これは、何とも良い嫁を貰ったものだろうか)
少し後ろを歩く熙子を振り返り見ながら、光秀はつくづく思うのであった。
光秀の妻の熙子は、美濃の妻木城の城主、妻木弘忠の娘とされている。光秀と熙子の婚礼が決まった時の事である。
熙子は、疱瘡を患ってしまい、美濃国一の美女姉妹と謳われた長女の熙子の美貌はすっかり衰えてしまった。 これを見た父親の弘忠は、このような姿になった娘を嫁になどは行かせられぬと、双子と見間違うべき美しさを持つ妹を熙子として、光秀の元へ嫁に出した。婚礼の義は滞りなく進み、二人はその日の夜に、二人きりでの対面を果たした。
「そなたは、妹御ではないか?」
女の顔を見た光秀は、一目でそれが偽物であることを見抜いた。一説には、まだ熙子が病気にかかる前に、一度会った時に彼女の顔にほくろがある事を覚えており、ほくろのなかった妹が偽物だと分かったと言われている。
「例え、病気にかかろうとも治ったからには、妻として娶るのが約束でござる」
そう言って弘忠に書状を送り、無事に熙子を迎え、改めて祝言を挙げたのであった。
この夫婦は、終生仲が良く、光秀も妻を愛し、熙子も良く光秀を支えた。
「上様は、武芸の達人でいらしてな」
「細川藤孝殿は兵部大輔の要職にありながら、熊のような大男であってな」
光秀は、旅の道中で饒舌に熙子に今まであった話しを聞かせた。
「殿、そのような事があったのですか?」
「その時は、どうなされたのですか?」
光秀が話す度に、熙子は光秀に色々と今までにあったことを聞いた。光秀は、時に身振り手振りを交えては、熙子に語った。熙子は、光秀が自分に一生懸命に話しをしてくれることが嬉しくて、ついつい光秀にあれこれと聞いてしまうのだった。
思えば、二人が連れだって旅をするなど久方ぶりの事であった。以前の旅では、ここまでの余裕はなかったはずである。なにせ、居城であった明智城を奪われ、一族は、離散の憂き目にあってしまったのである。
光秀は一族の長として、生き残った者たちの生活を保障してやらねばならず、ある者は、知人の武家に再仕官出来るように取り計らい、また他の家人などは、親類や縁者を訪ねて、受け入れ先を探したのである。
そして、熙子を若狭の武田氏の親類へ預けて、身一つで旅をして諸国を渡り歩き、京の都に戻って将軍家に仕えたのであった。それを考えれば、この旅が二人にとっての今でいう所の新婚旅行のようなものであったかも知れない。
「越前に行く前に、遠回りをして湯治に行くぞ。これも上様からのお達しじゃ」
光秀は、藤孝から言われた通りに温泉宿に行くことにした。それがせめて、苦労をかけている妻への、せめてもの慰めになるのではないかとも思っていた。
光秀と熙子が入ったのは、加賀にある山代温泉と言う所で、現在でも光秀が入ったとされる湯殿があり、光秀伝説の一つとして、今でも語り継がれている。
「熙子、いい湯だぞ。幸い他に誰も居らぬし、お前も早く入りなさい」
光秀は、ゆっくりと湯に浸かり、旅の疲れを癒していた。時折、先の争いで負傷した左肩の傷口の湯をそっとかけて、傷口を癒そうとしていた。
「殿、恥ずかしゅうございます」
遅れて熙子が入ってきたが、すぐに湯に入ろうとはせずに湯殿の淵でずっと立って、もじもじしていた。
「早う入れ。そんな所にいつまでも突っ立っていては、風邪をひいてしまうぞ」
「そのような事をおっしゃられても、醜い体を見られとうは、ございませぬ」
熙子は、手ぬぐいを何枚も体に重ねて肌が見えないようにしており、温泉の湯を少し汲んでは、チョロチョロとかけ湯をするのを繰り返すだけであった。光秀は、そんな熙子を見かねてお湯から一度出て、熙子の手ぬぐいをすべてはがしてしまった。
「あれーっ殿、お許し下され。恥ずかしゅうございまする」
「何を申すか。そなたの体を自分でしかと良く見てみよ。痘痕など、もう残ってはおらぬぞ。そなたの美しさで醜いなどと言っておったら、世の中の女御は、みな醜いことになる。さあ、そんな所で縮こまってないで、こっちに来よ」
光秀は、熙子をむりやり裸にして、その手をにぎり一緒に湯の中に入った。
「熙子よ、そなたは美しい。そなたはこの光秀の宝ぞ」
「あら、うれしや殿。いつも、いつまでもお慕い申しております」
これが、夫婦水入らずに過ごせる久方ぶりであった。
光秀と熙子は、湯治のために数日間を温泉宿で過ごした後に、越前へ向かうことにした。
「よし、この辺で今日の食糧を調達することにしよう。お前は、食事の準備をしていなさい」
森の中に差し掛かると光秀はそう言って、鉄砲を持ち出し、狩りをするべく森の深くへと進んでいった。
「ドドーンッ」
辺りに銃声が響くと、一斉に鳥たちが羽ばたき逃げ出す羽音が聞こえた。
「ちっ逃したか。しばらくせぬうちに、腕がにぶったようだ」
光秀は、狙いがはずれて苦虫を噛んだ。
「今日は、鳥鍋にするか。それともいつぞやに、熙子が作った鳥のみそ焼きにするか。あれは、美味だからなあ」
光秀は、雄々しく生える草々を踏みしめて、より深くへとわけ入っていった。
「どちらにしろ、熙子が作った料理なら格別であろう」
光秀は、一人でノロケながら、座りこんであるものを作り始めた。
「出来たぞ、これでよし」
それは、草で編んだ即席の保護色の笠とでも言うのだろうか。とにかく鳥に悟られないようにするための物であった。光秀は、それを頭から被り、身を低く保ち、鳥が停まりそうな木の枝に狙いを定めてじっと待つことにした。
「スーハーッスーハーッ」
一つずつ呼吸を丁寧に、大きく吸って吐いてを繰り返し、頭の中をからっぽにして、集中する儀式を行っていた。そして、しばらくそのままの態勢で待っていると
「今だ!」
けたたましい音が森中に鳴り響くと、その木の枝に止まった鳥が下に落ちていったのが見てとれた。
「よし、当たったぞ」
光秀は、嬉々として鳥が落ちた方向に走っていった。すると、その鳥が落ちた所であろう場所に、一人の猟師風の男が立っていた。その手には、先ほど光秀が仕留めたはずの鳥を持っていた。
「その鳥は、私が仕留めた物だ。渡してもらおうか」
光秀は、男の近くに駆け寄り、右手を差し出した。その返答によっては、すぐに奪えるようにその左手は、大刀の鯉口をすでに切っていた。
「なんだお主は、これは先ほど儂が仕留めた物だぞ。ほれ、ここに鉄砲の弾によりつけられし、傷があろう」
男は、そう言って自分がつけたと言う傷を指さして、鳥を光秀の目の前にわざと近づけ、示して見せた。
「うん? その傷と反対側の所にも傷があるぞ。間違いない。これは、私が撃った弾がつけた傷だ」
光秀も負けじと、その傷を指でさし示してみせた。すると、相手の男は怪訝そうに眉をしかめてみせた。そして、男は、持っていた鳥をその場に投げ捨てると、光秀に向かって、腰にさしていた刀を抜くかのような構えをしてみせた。それを見た光秀もとっさにいつでも刀が抜ける態勢をとった。二人の間に瞬間にして緊張が走った。
「もしや、明智光秀様ではございませぬか?」
男は、大刀の鯉口を切るのではなく、その刀を鞘ごと抜き、地面に置いて、自らもその場に正座した。
「殿、お忘れですか?弥平次です。三宅弥平次でございまする」
しばし、呆然としてしまった光秀であったが、男が名乗ったのを聞いて、すぐに誰なのかが分かった。
「おお、弥平次であったか!なつかしいのう。あの小僧がこんなにも立派な青年へと成長したものだ」
「殿、小僧はひどすぎまするぞ。してなぜここに?」
「殿はよせ、つもる話しもある。そうだ、わしの妻が待って居る。先ほどの鳥を馳走に、一献傾けるとしよう」
そう言って、二人は先ほどの鳥を持って熙子の元へと向かうのであった。
「三宅弥平次秀満と申します。秀満の秀は、光秀の殿から頂戴いたしました」
「光秀の妻、熙子と申します」
三人は川べりの良い場所に、熙子が準備をしていたので、そこで食事をとる事にした。
「弥平次は、どうしてここに居たのだ」
「はい、あの後に光秀様と別れてから、諸国を巡り、武芸や兵法を学びました。数年たったある日に、光秀様が京の都に居ると聞き、伺いましたが、もう居られぬ事が分かり、それなら旅を続けようかと猟師に身をやつし、あてもなく北陸を彷徨っており申した。ここで、光秀様と再会できたことは、正に天のお導き、あの時の約束通り、どうかそれがしを配下にお加え下され」
そう言うと秀満は、恭しく頭を下げた。光秀は、その秀満を見ながら、何とも渋い表情をしていた。
「殿、弥平次殿とのお約束とは何でございましょう?」
「おお、そうであったの。熙子は知らぬのも道理だ。ならば、聞かせて進ぜよう」
そう言って、光秀は、数年前の秀満に始めて出会った時の事を話し始めた。
「あれは明智城が落城し、一家離散となり、熙子とも離れて諸国を巡る旅に出た頃の事だ」
光秀は、ある地域のある山道を歩いていた。すると、どこからか、女のすすり泣く声と、男たちの下品な笑い声とが聞こえてきた。光秀が茂みより覗いてみると、案の定、数人の男たちに、女二人が襲われていた。女は、男たちに次々に馬乗りに乗られて、犯され続けていた。見れば、女二人は母娘だろうか。
そのすぐ横には、その母娘の父親と思われる武士姿の男が斬られたのであろう、すでに事切れて倒れていた。
「うん?あれは」
光秀がよくよく目を凝らして見ると、奥側の木に括り付けられている一人の少年の姿が見えた。この時代では、そんなに珍しいことではない。大方、この一家は、旅の途中に野盗か人さらいの類であろう、この男たちに捕まったのだ。光秀は、旅の途中に何度かこのような光景を目にしていた。
(不憫ではあるが、さて、どうしたものか?)
光秀は、そう思いその場の状況を見ていた。このような事、この戦国の世では、どこにでもあることだった。光秀にも大望という物がある。
しかし、ここでつまらぬ争いに巻き込まれて、万が一にも命を落とせば、元も子もなくなってしまうと言う物だった。しかし、ここで何もせずに放っておくだけの男が果たして、大望とやらを果たせるものだろうか。光秀は、考えながら、尚も状況を見極めようとしていた。
「何をするんだ、テメエ!」
野盗の男の隙をついて、母であろう女が、地面に刺さっていた小刀を手に取る事が出来た。
「動くな!娘を離しなさい」
母は、娘に乗っかっていた男を脅し、娘を取り戻すことに成功した。しかし、尚も母娘の周りは、野盗の男たちで囲まれている。
「おい女!どうするんだ?逃げられやしねえぜ。観念して続きをやらせろや」
男たちの嘲笑と恫喝とが、母娘をなおも苦しめていた。すると、
「グサッ」
母は、持っていた刀を自らの左胸に深々と突き刺し、それどころか、その刺さった刀を抜いて、その小刀を娘に握らせ、自らの心臓から飛び散る血しぶきを浴びながら、倒れた。そして、娘に小刀を渡す際ににっこりと笑って、そして果てた。それを見ていた娘は、躊躇なく渡された小刀を、今度は自らの左胸に深々と突き刺し、そのまま前のめりに倒れた。
「見事なり!」
去ろうと考えていた光秀は、その一連の出来事を一部始終見ていた。そして、母娘の激烈な死に様を目のあたりにして、考えを改めた。
「ギャァーーーッ グァッ」
男たちの断末魔が木魂した。光秀は、茂みから躍り出ると、野盗たちの後ろの位置であったのが幸いし、続け様に二人を切り倒していた。
(残りは二人か?)
「何だ貴様は!」
冷静に相手の数を確認すると、光秀は、残り二人の内、手前にいる男に斬りかかった。
「おおーーーーっ」
雄叫びを上げながら、光秀と野盗の男は切り結んだ。しかし、野盗の男も相手がこれほどの手練れと知っていたなら、恥も外聞もなく逃げ出せたであろうが、自分と切り結んだ男が明智光秀であることを知らなかった事が、命取りとなった。男は、一合も刀を交えることなく、光秀によって、袈裟懸けに斬られてしまった。
「テメエは誰だ?」
「美濃の浪人、明智光秀」
最後に残った恐らく一党の頭らしき男と光秀は対峙していた。そして、光秀と頭の男が今まさに切り結ぼうとしたその時であった。
「グサッ」
頭の男は、構えた刀も体もそのままに、首だけを音のした後ろの方に向けた。
「小僧!」
そこには、縛られていたはずの少年が、刀を頭の男の脇腹に突きたてていた。これで形勢は決した。少年は、傷口を押さえて地面に転がる頭の男の鼻先に、奪った刀をつけていた。
「お願いだ、命だけは」
「貴様らがこの家族にしたことを考えてみろ。無益な哀願は、よすんだな」
横で見ている光秀は、頭の男の哀願に冷たい返事をした。
「お主の好きにするがい。家族の仇を討つために、苦しめてから殺すのもいいだろう」
光秀は、少年の気持ちを察して、殊更にそんな事を言ってみせた。例えどのような拷問に会おうとも、こいつは、それだけの事をしている。自業自得だと。しかし、少年は、ゆっくりと口を開くと光秀の考えとは違う意外な事を口にした。
「死ねば、野盗も武士も僧も皆、仏となる。無益な拷問など必要ない」
少年はそう言うと、一思いに頭の男の首を刎ねた。それを見ていた光秀は、眼を見開いて、少年を凝視した。
(一時の感情に流されずに何という子供だろうか。ひょっとするとこの子は、将来の名将足るやもしれぬ)
光秀は、心の中でそんな事を考えていた。一軍の将たる者は、一時の感情に流される事なく、冷静にその状況を見極めて、事に当るべし。光秀自身が、浪々の身の上から将来の戒めとして、自らに課していることを、この少年が目の前で行った事に、一つの感動を味わったのであった。
少年は、事がすべて終わった後、光秀に礼を言って、まず家族の遺体を揃えて寝かせてやると、とても大声で泣いた。森中に響くかと思えるほどの大声であった。そして、ピタッと泣き止んだかと思うと、今度は野盗の男たちの死体を埋めるための穴を掘り始めた。
「そのような事をせずとも、こいつらは、お主の家族を殺した奴らだぞ」
「死ねば皆、同じです」
光秀の抗議にも少年は動じず、さっさと一人で穴を掘りつづけた。仕方なく、光秀もその作業を手伝う事にした。二刻後、何とか穴を掘り終えて、野盗たちの埋葬を終えた。
「家族の遺体はどうするのだ?」
「この近くに廃寺があった。そこに連れて行って埋葬します」
少し腰を下ろしていた二人は、一休みすると家族を埋葬すべくその廃寺に行き、丁重に三人の遺体を埋葬した。光秀は、教養のある念仏を唱えてやり、寺に少しだけ残されていた焼香もしてやった。
「色々とありがとうござりました。おかげで助かりました」
「それがしは明智光秀じゃ。そなたは?」
「はい、私は三宅弥平次と申します」
「弥平次よ、これから行く宛てはあるのか?」
「近くに住む親類の所に厄介になろうと思いまする」
「そうか、それならば良い。弥平次よ、そなたも武士ならば大望があろう。わしもだ。いつかこの明智光秀の名が世に聞こえてくれば、訪ねてくれば良い。その時は、そなたにわしの腹心になってもらおう」
そう言って光秀と弥平次は別れた。まだ、光秀が足利将軍家に仕える、ずっと前の事の出来事であった。
「改めてお願い致しまする。この弥平次を殿の配下にお加え下さいますよう」
秀満は、恭しく両手をついた。秀満にとってみれば、この再会は、偶然ではなく必然であったのだろう。その眼には、一点の曇りもなかった。
「しかしだな弥平次よ、約束ではわしが一旗上げてからと言う事だったが、見ての通り、わしは明日をも知れぬわが身かなだ。これでは、そなたに報いてやるべき何物もないのだぞ」
これが、光秀が先ほど渋い表情を見せた理由だった。秀満には家臣になってもらいた。しかし、今は与えてあげるべき給金も出してやれない。さて、どうしたものだろうか。
「金など光秀様が晴れて一国一城の主に成った暁に、いくらでも無心致します。この秀満が今は猟師の真似事をし、先ほども殿に先んじて獲物を取った事をお忘れですか?」
秀満は、そう言って笑った。顔を見合わせた光秀と熙子の二人も何やら可笑しくなってきて、笑ってしまっていた。
「殿、宜しいのではないですか?弥平次殿は、家臣ではなく、家族として迎え入れては」
熙子がそう言った事が決めてとなった。三人は、揃って越前の一乗谷に向かう事となった。ここに光秀の第一の腹心が誕生したのである。
二条御所での一連の式典が終わり、久秀は一人、茶室へと向かっていた。この御所には、立派な茶室も建てられており、ここに来ると、一人で茶を一服するのが久秀の習慣となっていた。たまには、長慶や幕府の重臣たちと共にすることもあったが、久秀は、数奇者らしく、一人で茶を点てる事を好んだ。
この城の主である義輝は、教養としての茶はやるが、実趣味で茶を一人で点てるような事はしない。となれば、幕府の実力者である長慶であるが、長慶もこの所は病が篤く、茶を余人に振舞う余裕はなかっただろうと思われる。であるならば、この風格のある茶室の現在の主は、この久秀といって差し支えなく、この事が現在の幕府内での彼の地位を現していると言えた。
「ふぅ、やはり仕事の後の茶は、格別じゃのう」
久秀は、茶室から出てくると両腕を太陽の方向に向かって突き上げて、茶室で縮こまっていた体を思いっきり解放させた。
「余人に振舞う茶も良いが、ここで点てる一人の茶も良きかな」
久秀は、家臣の誰もつけずに一人で茶室に入るのが、この所のお決まりになっていた。久秀からすれば、この御所内で気ままに過ごせる事に、一種の優越感を感じていたのかもしれなかったが、
(一体誰が、この久秀を害せるものか)
との強烈な思いと、自信とが彼をそうさせたのかもしれない。そして、一人でくつろいでいたその久秀の背後で、刀を鞘から抜き、刀身を構える男の姿があった。
「何奴じゃ?」
久秀は、殺気を感じすぐに身を翻えして、何時でも、腰に帯びた刀が抜ける態勢を取った。
「さすがだな。よく気づいたものだ」
久秀が振り返ると、そこに立っていたのは、刀を構えた光秀であった。光秀は、久秀が御所に来ると、一人で家臣も連れずに、茶室に籠る事があることに気づいて、久秀を殺すならここしかないと思い立ち、御所内に入り込んで、じっと久秀が出てくるのを待っていたのだった。
「貴様、明智!ここを御所と知っての狼藉か」
「無論の事だ。貴様を殺すためならば、この命も惜しくないわ」
光秀と久秀は対峙している。その二人の間には、一触即発の緊張が走っていた。
「この御所内にて、帯刀を許されるは、認められた高官のみぞ。貴様のような下賤の者が許さいでか」
「そのような事は、覚悟の上だ。貴様を殺した後に、どんな処罰をも甘んじて受けよう」
「明智!貴様は、一体何を望んでいるのだ!?」
「望みなどはない。ただ大義のためだ」
「大義!?」
「幕府を輔け、この国より戦を失くす。そのために、害となる貴様を殺すのだ」
光秀は、右手に持って下げていた刀を両手で持ち直し、中段の構えを取った。その眼が本気であることを物語っていた。一部の隙もなく剣先にブレがないのは、光秀の心が落ち着いている証拠でもあった。久秀は、光秀の静かな気迫に飲み込まれまいと、自らを叱咤するかのように、大声を上げた。
「明智、貴様っ殺してやる。殺してやるぞ!」
「最早言葉は無粋。貴様も武士ならば、いざ刀で語り合わん」
そう言うと光秀は、一直線に久秀に襲い掛かった。光秀と久秀の激しい打ち合いが始まった。久秀も戦ってみると歴戦の猛者らしく、剣技に長けていて、光秀との戦いも、そう易々とは決着が着きそうになかった。
しかし、その打ち合いが十数合を数える頃に、二人の均衡が破れた。久秀が履いていた草履の片方を踏んで、後ろに尻餅をついて倒れたのだ。
「不覚なり!」
光秀は、倒れた久秀を見下ろし、刀を構えて打ち下ろす姿勢を取った。
(これで、終わる)」
光秀は、心の中で思った。そして、その両手の中にある刀を、久秀に打ち下ろす瞬間であった。
「待てーっ!!」
凄まじいまでの怒号が、光秀と久秀の間を吹き抜けて行った。二人は、争いを忘れ、その白洲の後ろ側の、怒号の聞こえた廊下へ目を向けた。するとそこには、こちらを見据えて仁王立ちする長慶の姿があった。
「光秀刀を収めよ。ここは上様の居わす御所であるぞ」
長慶は、あえて光秀を諭すように穏やかな口調で語りかけた。
「しかし、この男は、貴方様の息子や弟たちを殺した、幕府に仇なす奸賊ですぞ」
光秀は、なおも久秀に振り上げた刀を下ろそうとはしない。久秀は、その状態に動けずにいた。
「久秀が奸賊であるならば、きっと天がお裁きになろう。お主の横やりは無用だ。これは、三好家の者である」
長慶の言葉に、光秀は一瞬、両腕に込めた力を抜いた。しかし、危機を脱しようと隙を覗っていた久秀に、その一瞬の隙を突かれてしまった。久秀の右手に持っていた刀の剣先が、光秀の左の肩口に深々と突き刺さっていた。
「ぐむっ…」
光秀は苦痛に歪み、久秀は、先ほどの立場から逆転できて、ほくそ笑んでいたが、すぐにその口元の薄ら笑いは、驚きの表情へと変わっていた。
「明智、貴様何を?」
久秀は、光秀の心臓を突いたと思ったが、突かれると見た光秀は、瞬間に身をかわし、急所を刺されるのを免れていた。それどころか、刺されたままの体で、脇をがっちりと締めて、刀を抜けないようにし、逆に久秀を釘付けにしていた。
(殺られる!)
久秀は、持っていた刀をとっさに手離した。そして、そのまま後ろに尻餅を付く態勢で、座り込んだ。
「ぐぎゃあっ」
久秀の悲鳴が辺りに響いた。光秀は、地面に置かれていた久秀の左手に、思いきり刀を突きたてていた。そして、久秀が戦意を喪失したのを確認すると、ゆっくりと刀をえぐるように引き抜いた。
「久秀よ、貴様の命を預けるのはこれが最後だ。次に容赦はせぬ」
光秀は、そう言い放つと刀をしまい、傷を負った肩を抑えながらその場を去った。
「明智!ここで、わしを殺さなかった事を後悔させてやるぞ。必ず後悔させてやる!」
歩み去る光秀の後ろ姿に久秀は叫んだ。しかし、光秀は一度も振り返らなかった。光秀が去ったその場には、長慶とその場に畏まる近習のお供が数名と、手傷を負った久秀だけが残された。
「久秀よ、傷の具合は?」
「大殿、大したことはございませぬぞ。この久秀、大殿の制止がなければ、今頃あの明智の首を取っていた所でございましたぞ」
傷の痛みに堪えて、強がって見せる久秀を、長慶は冷静に見ていた。
「急所であれば、本望であっただろうな」
「大殿?何をおっしゃるのか」
「貴様のしてきた事を言っておるのじゃ」
「大殿、まさか明智の言った事を間に受けたのでは?」
久秀は、そう言うと笑いながら長慶のいる殿中へとあがろうとした。
「久秀、図が高い!貴様、誰のおかげで今日があるかを忘れたか!」
長慶は、目をカッと見開いて一喝した。長慶のあまりの気迫に久秀は思わず、その場で平伏していた。そこには、気鬱の病で呆けた老人の姿はなく、天下人と謳われた漢の姿が在った。
「貴様は、三好家の躍進に役立っておった。しかるに地位を与えてきたのだ。しかし、それもこれまでかもしれぬな」
そう言い放つと、長慶はその場を去った。長慶も去る際に、光秀同様に一度も久秀を見ようとはしなかった。久秀は一人取り残されていた。胸中では、何とも言えぬ敗北感と屈辱感に震えていた。
「きっと、このままではすまさぬぞ。奸賊?結構ではないか。そうであれば、わしは日の本一の奸賊になってやるぞ。二人とも見ておれ」
久秀は、手のひらの痛みなど忘れて、両手を強く握って天を睨んだ。その左手からは、先ほど受けた傷から血が地面へと滴り落ちているのだった。
「一体、何があったと言うのだ?」
後日、義輝と藤孝に呼び出された光秀は、前日の久秀との争いの件で、藤孝より詰問を受けていた。
「お主ともあろうものが、軽挙に過ぎるぞ。だいたいお主と言う男は・・・」
「コホンッ」
藤孝のお説教が永遠と続きそうだと見た義輝は、咳払いを一つして話しを中断させた。
「光秀よ、傷の具合はどうだ?」
「上様、忝けのうございまする。傷は大したことはございませぬ」
強がって見せた光秀であったが、傷の具合は思いのほか重症で、今も左腕を補強し、動かすことは出来なかった。
「この大事な時期に、重ね重ね申し訳もございませぬ」
光秀は、頭を下げた。しかし、光秀を責める藤孝とは違い、義輝には光秀の軽挙を責める気にはなれないでいた。光秀がしたことは、罰せられるべき事ではあったが、真に幕府の為を思っての忠誠心から出た行動であったし、この件で長慶や久秀からは、何か抗議めいた行動があったわけではなかった。
それはそれで、不気味な沈黙と言うべきものであっただろうが、この際は、その事について、触れる余裕はなかった。
「それにしても上様、このまま不問に付すという分けにもいきませぬが」
「ふむ、そうであるか」
そして、義輝から光秀に下された処分は意外なものであった。
「越前に行ってもらいたい」
義輝の口から放たれた言葉は、光秀の考えの全く及ばぬ所であった。
「越前と言いますと?」
義輝の真意を掴みかねた光秀は、越前と言う言葉を何度も口の中で反芻していた。
「つまりは、朝倉氏に仕官したと見せかけ、その実、幕府の味方となるべく行動すると言う事だ」
横で控えていた藤孝が説明を付けたす。
「今回の件で、お前を遠ざけるつもりで言っておるのではない。前々から考えての事だ。越後の上杉輝虎と幕府の仲は、そなたも知っての通りだが、とかく京の都と越後は遠すぎる。何か事があるときに、すぐに駆けつけられる位置におり、強大な武力を有し、また、越後の上杉と共闘の出来る大名を、味方につける必要があるのだ」
この時の越前朝倉氏は、第十一代当主の義景の代となり、その文化的栄華は、北陸の小京都と謳われる程、栄えていた。
「その越前の朝倉氏だが、何度も書状を出して上洛を促してはおるが、無しのつぶてじゃ」
「そこで、光秀殿が越前まで赴いて、朝倉義景を説得し、上洛して幕府に助力するように計ってもらいたい。これについては、幕府の使者として行くのではなく、越前に仕官する程の気構えが出来、幕府に忠節を尽くす者が必要なのだ」
「光秀よ、この大事を託せるのは、お前しかおらぬ」
義輝の誠意を込めた言葉に光秀は思わず涙をこぼした。無理もない。本当の所であれば、殿中での刃傷沙汰は、死罪は免れぬ大罪である。
それをこれほどの大役を任せられた上に、思いもよらぬ程の心を込めた言葉を将軍自ら頂いたのである。光秀の頬をハラハラと涙が流れた。
「もったいのう。余りにももったいないお言葉。光秀、生まれ変わった気持ちにて相努めまする」
横で控える藤孝は、光秀の姿を見る義輝の目の奥にも、光るものが見えた気がした。
(この主だからこそ、人がついて来るのだ)
藤孝は、主の姿を見て、そう確信を持っていた。
「上様、藤孝殿、この光秀、きっと越前にて大望を果たして参りまする」
三人は笑顔で笑いあった。そして、しばらく今までのことを、これから行うべきことを、夢を大いに語り合うのであった。後年、光秀は何度も何度もこの時のことを思い出す事になる。そして、この時には、思いもよらなかったであろう。この主従の、これが最後の別れとなってしまう事を。
「旅立つのか?」
光秀が旅に出る前日に、例の一件以来姿を消していた御門重兵衛が訪ねて来ていた。
「ああ、どうしても越前に行かねばならなくなったのでな」
表向きは、幕府を見限っての出奔と言う事になる。武士にとっての不名誉な事であったが、光秀には、そんな事を構ってられる余裕などはない。
「お主も物好きなものだな」
そう言って、重兵衛なりの労いを言うのだった。あの一件以来、三好方からは、何の音沙汰もないのではあるが、やはり、根来衆を核とした幕府の鉄砲隊というのは、岐路に立たされているのは間違いなかったのだった。
「潮時かね?」
「承知した!」
二人がその件について、言葉を交わしたのは、それが最初で最後であった。鉄砲隊の隊長である光秀が幕府から去り、重兵衛は追われる身である以上、仕方の無いことであった。
「重兵衛、お主はこれからどうするのだ?」
「忘れたか?わしは元々が道々の輩だ。これからも立派に流れて生きていくだけだ」
重兵衛は、その両の手を天高く広げて見せる。
「今度会う時には、私もきっと功名を立て、大名に成っている事だろう」
「ならば、その時はうまい酒でも振舞ってもうらおうか」
二人は、笑顔で別れた。十兵衛と重兵衛、同じ名前の親友が再会を果たすのは、ずっと後年の事であった。
光秀は、越前に向けて旅立ったが、その前に若狭に向かっていた。これには事情がある。出発の前に藤孝より意外な事を言われたのだ。
「時に光秀殿よ、そなたには妻は居らぬのか?」
藤孝の話しによれば、この事を言い出したのは義輝であった。その意図とは、光秀はつまる所、間者としていくのである。そして、相手を信用させるには、家族同伴にて、一家をあげて越してきたことを示さなければ、信用が得られぬと言うわけであった。
「居らぬならば、しかるべき姫を遣わそう。無論、仮にではなく正式な伴侶としてだ」
藤孝は、義輝からの言葉を伝えた。光秀にとってみれば、とてもありがたいことであった。
「上様のお気持ち、誠に忝のうござりますが、この光秀には、将来を誓った妻が居りまする。今は、ゆえあってそれがしの母方の縁者である、若狭の武田家の元に預けておりますが」
「ならば話は早い。お主の妻を迎えに行き、越前へと向かうが宜しかろう。そして、これが、義景殿への書状じゃ。忘れぬように渡されよ。それと上様より、旅の途中でも傷の治癒に、くれぐれも湯治をせよとの仰せじゃ」
「藤孝殿、何もかも万事、ありがとうございまする。それがしの居らぬ間、上様の事は、くれぐれも宜しくお願いいたしまする」
「そなたも達者でな。くれぐれも無茶をしてくれるなよ」
藤孝は笑い、そうして二人は別れた。
光秀は、旅立つにあたっての迷いや恐れはなかった。形の上では、光秀は久秀との一件により、出奔した事になる。そうしないと内外での示しがつかないからとの、藤孝の配慮であった。
そして、自分に対して期待し、色々と便宜を図ってくれる主に対して、何とか報いようとする気持ちの方が、不安や恐れより、先に起っていたのだ。
しかし、光秀は、自分が新しい任務に心が躍り、大切な事を見落としているのに、気付いてはいないのであった。後日、光秀は、この時に京の都を旅立った事を、自分の軽挙をどれほど悔やんだであろうか。
光秀は、若狭の武田領へと入っていた。
「殿、光秀様」
「おお、熙子よ」
遠くに光秀の姿を認めた熙子は、すぐに光秀の元へと走り出していた。走ってくる熙子の姿を見た光秀も駆け寄る。
「わが君、お怪我を」
「うむ、大事ない。そなたも息災であったか」
熙子は、光秀の左腕の包帯を見て、不安な顔をした。その手は、自然に光秀の着物の左袖を握っていた。光秀は、自分の傷を見て、不安がる妻を愛おしそうに、左手を熙子の肩に置き、右手で彼女のその美しい黒髪を撫でていた。夫婦の久方ぶりの再会であった。
「今度は、越前に行くのでございますか?」
「そうじゃ。今度はお前も連れて行く。上様からの直々のお達しだからのう」
それを聞いた熙子は、嬉しそうに小走りして、荷物の整理を始め、その日の夕刻にはすべての整理を終えてしまっていた。彼女は、このような日が来ることを予感して、この若狭に与えられた屋敷を仮の住まいとし、余計な物を置かずに必要最低限で、いつでも出立出来るように、心がけて生活していたのであった。
持っていくものも、数日の食糧と必要最低限の着物のみ。他の道具などは、すべてお金や食糧へ、村の家人に申しつけて交換してもらった。この手際の良さには、さすがの光秀でも舌を巻くほどであった。
そして、その日のうちに、屋敷の主である光秀の母方の親戚筋の当主に挨拶をすませて、次の日の早朝には出立していたのであった。
(これは、何とも良い嫁を貰ったものだろうか)
少し後ろを歩く熙子を振り返り見ながら、光秀はつくづく思うのであった。
光秀の妻の熙子は、美濃の妻木城の城主、妻木弘忠の娘とされている。光秀と熙子の婚礼が決まった時の事である。
熙子は、疱瘡を患ってしまい、美濃国一の美女姉妹と謳われた長女の熙子の美貌はすっかり衰えてしまった。 これを見た父親の弘忠は、このような姿になった娘を嫁になどは行かせられぬと、双子と見間違うべき美しさを持つ妹を熙子として、光秀の元へ嫁に出した。婚礼の義は滞りなく進み、二人はその日の夜に、二人きりでの対面を果たした。
「そなたは、妹御ではないか?」
女の顔を見た光秀は、一目でそれが偽物であることを見抜いた。一説には、まだ熙子が病気にかかる前に、一度会った時に彼女の顔にほくろがある事を覚えており、ほくろのなかった妹が偽物だと分かったと言われている。
「例え、病気にかかろうとも治ったからには、妻として娶るのが約束でござる」
そう言って弘忠に書状を送り、無事に熙子を迎え、改めて祝言を挙げたのであった。
この夫婦は、終生仲が良く、光秀も妻を愛し、熙子も良く光秀を支えた。
「上様は、武芸の達人でいらしてな」
「細川藤孝殿は兵部大輔の要職にありながら、熊のような大男であってな」
光秀は、旅の道中で饒舌に熙子に今まであった話しを聞かせた。
「殿、そのような事があったのですか?」
「その時は、どうなされたのですか?」
光秀が話す度に、熙子は光秀に色々と今までにあったことを聞いた。光秀は、時に身振り手振りを交えては、熙子に語った。熙子は、光秀が自分に一生懸命に話しをしてくれることが嬉しくて、ついつい光秀にあれこれと聞いてしまうのだった。
思えば、二人が連れだって旅をするなど久方ぶりの事であった。以前の旅では、ここまでの余裕はなかったはずである。なにせ、居城であった明智城を奪われ、一族は、離散の憂き目にあってしまったのである。
光秀は一族の長として、生き残った者たちの生活を保障してやらねばならず、ある者は、知人の武家に再仕官出来るように取り計らい、また他の家人などは、親類や縁者を訪ねて、受け入れ先を探したのである。
そして、熙子を若狭の武田氏の親類へ預けて、身一つで旅をして諸国を渡り歩き、京の都に戻って将軍家に仕えたのであった。それを考えれば、この旅が二人にとっての今でいう所の新婚旅行のようなものであったかも知れない。
「越前に行く前に、遠回りをして湯治に行くぞ。これも上様からのお達しじゃ」
光秀は、藤孝から言われた通りに温泉宿に行くことにした。それがせめて、苦労をかけている妻への、せめてもの慰めになるのではないかとも思っていた。
光秀と熙子が入ったのは、加賀にある山代温泉と言う所で、現在でも光秀が入ったとされる湯殿があり、光秀伝説の一つとして、今でも語り継がれている。
「熙子、いい湯だぞ。幸い他に誰も居らぬし、お前も早く入りなさい」
光秀は、ゆっくりと湯に浸かり、旅の疲れを癒していた。時折、先の争いで負傷した左肩の傷口の湯をそっとかけて、傷口を癒そうとしていた。
「殿、恥ずかしゅうございます」
遅れて熙子が入ってきたが、すぐに湯に入ろうとはせずに湯殿の淵でずっと立って、もじもじしていた。
「早う入れ。そんな所にいつまでも突っ立っていては、風邪をひいてしまうぞ」
「そのような事をおっしゃられても、醜い体を見られとうは、ございませぬ」
熙子は、手ぬぐいを何枚も体に重ねて肌が見えないようにしており、温泉の湯を少し汲んでは、チョロチョロとかけ湯をするのを繰り返すだけであった。光秀は、そんな熙子を見かねてお湯から一度出て、熙子の手ぬぐいをすべてはがしてしまった。
「あれーっ殿、お許し下され。恥ずかしゅうございまする」
「何を申すか。そなたの体を自分でしかと良く見てみよ。痘痕など、もう残ってはおらぬぞ。そなたの美しさで醜いなどと言っておったら、世の中の女御は、みな醜いことになる。さあ、そんな所で縮こまってないで、こっちに来よ」
光秀は、熙子をむりやり裸にして、その手をにぎり一緒に湯の中に入った。
「熙子よ、そなたは美しい。そなたはこの光秀の宝ぞ」
「あら、うれしや殿。いつも、いつまでもお慕い申しております」
これが、夫婦水入らずに過ごせる久方ぶりであった。
光秀と熙子は、湯治のために数日間を温泉宿で過ごした後に、越前へ向かうことにした。
「よし、この辺で今日の食糧を調達することにしよう。お前は、食事の準備をしていなさい」
森の中に差し掛かると光秀はそう言って、鉄砲を持ち出し、狩りをするべく森の深くへと進んでいった。
「ドドーンッ」
辺りに銃声が響くと、一斉に鳥たちが羽ばたき逃げ出す羽音が聞こえた。
「ちっ逃したか。しばらくせぬうちに、腕がにぶったようだ」
光秀は、狙いがはずれて苦虫を噛んだ。
「今日は、鳥鍋にするか。それともいつぞやに、熙子が作った鳥のみそ焼きにするか。あれは、美味だからなあ」
光秀は、雄々しく生える草々を踏みしめて、より深くへとわけ入っていった。
「どちらにしろ、熙子が作った料理なら格別であろう」
光秀は、一人でノロケながら、座りこんであるものを作り始めた。
「出来たぞ、これでよし」
それは、草で編んだ即席の保護色の笠とでも言うのだろうか。とにかく鳥に悟られないようにするための物であった。光秀は、それを頭から被り、身を低く保ち、鳥が停まりそうな木の枝に狙いを定めてじっと待つことにした。
「スーハーッスーハーッ」
一つずつ呼吸を丁寧に、大きく吸って吐いてを繰り返し、頭の中をからっぽにして、集中する儀式を行っていた。そして、しばらくそのままの態勢で待っていると
「今だ!」
けたたましい音が森中に鳴り響くと、その木の枝に止まった鳥が下に落ちていったのが見てとれた。
「よし、当たったぞ」
光秀は、嬉々として鳥が落ちた方向に走っていった。すると、その鳥が落ちた所であろう場所に、一人の猟師風の男が立っていた。その手には、先ほど光秀が仕留めたはずの鳥を持っていた。
「その鳥は、私が仕留めた物だ。渡してもらおうか」
光秀は、男の近くに駆け寄り、右手を差し出した。その返答によっては、すぐに奪えるようにその左手は、大刀の鯉口をすでに切っていた。
「なんだお主は、これは先ほど儂が仕留めた物だぞ。ほれ、ここに鉄砲の弾によりつけられし、傷があろう」
男は、そう言って自分がつけたと言う傷を指さして、鳥を光秀の目の前にわざと近づけ、示して見せた。
「うん? その傷と反対側の所にも傷があるぞ。間違いない。これは、私が撃った弾がつけた傷だ」
光秀も負けじと、その傷を指でさし示してみせた。すると、相手の男は怪訝そうに眉をしかめてみせた。そして、男は、持っていた鳥をその場に投げ捨てると、光秀に向かって、腰にさしていた刀を抜くかのような構えをしてみせた。それを見た光秀もとっさにいつでも刀が抜ける態勢をとった。二人の間に瞬間にして緊張が走った。
「もしや、明智光秀様ではございませぬか?」
男は、大刀の鯉口を切るのではなく、その刀を鞘ごと抜き、地面に置いて、自らもその場に正座した。
「殿、お忘れですか?弥平次です。三宅弥平次でございまする」
しばし、呆然としてしまった光秀であったが、男が名乗ったのを聞いて、すぐに誰なのかが分かった。
「おお、弥平次であったか!なつかしいのう。あの小僧がこんなにも立派な青年へと成長したものだ」
「殿、小僧はひどすぎまするぞ。してなぜここに?」
「殿はよせ、つもる話しもある。そうだ、わしの妻が待って居る。先ほどの鳥を馳走に、一献傾けるとしよう」
そう言って、二人は先ほどの鳥を持って熙子の元へと向かうのであった。
「三宅弥平次秀満と申します。秀満の秀は、光秀の殿から頂戴いたしました」
「光秀の妻、熙子と申します」
三人は川べりの良い場所に、熙子が準備をしていたので、そこで食事をとる事にした。
「弥平次は、どうしてここに居たのだ」
「はい、あの後に光秀様と別れてから、諸国を巡り、武芸や兵法を学びました。数年たったある日に、光秀様が京の都に居ると聞き、伺いましたが、もう居られぬ事が分かり、それなら旅を続けようかと猟師に身をやつし、あてもなく北陸を彷徨っており申した。ここで、光秀様と再会できたことは、正に天のお導き、あの時の約束通り、どうかそれがしを配下にお加え下され」
そう言うと秀満は、恭しく頭を下げた。光秀は、その秀満を見ながら、何とも渋い表情をしていた。
「殿、弥平次殿とのお約束とは何でございましょう?」
「おお、そうであったの。熙子は知らぬのも道理だ。ならば、聞かせて進ぜよう」
そう言って、光秀は、数年前の秀満に始めて出会った時の事を話し始めた。
「あれは明智城が落城し、一家離散となり、熙子とも離れて諸国を巡る旅に出た頃の事だ」
光秀は、ある地域のある山道を歩いていた。すると、どこからか、女のすすり泣く声と、男たちの下品な笑い声とが聞こえてきた。光秀が茂みより覗いてみると、案の定、数人の男たちに、女二人が襲われていた。女は、男たちに次々に馬乗りに乗られて、犯され続けていた。見れば、女二人は母娘だろうか。
そのすぐ横には、その母娘の父親と思われる武士姿の男が斬られたのであろう、すでに事切れて倒れていた。
「うん?あれは」
光秀がよくよく目を凝らして見ると、奥側の木に括り付けられている一人の少年の姿が見えた。この時代では、そんなに珍しいことではない。大方、この一家は、旅の途中に野盗か人さらいの類であろう、この男たちに捕まったのだ。光秀は、旅の途中に何度かこのような光景を目にしていた。
(不憫ではあるが、さて、どうしたものか?)
光秀は、そう思いその場の状況を見ていた。このような事、この戦国の世では、どこにでもあることだった。光秀にも大望という物がある。
しかし、ここでつまらぬ争いに巻き込まれて、万が一にも命を落とせば、元も子もなくなってしまうと言う物だった。しかし、ここで何もせずに放っておくだけの男が果たして、大望とやらを果たせるものだろうか。光秀は、考えながら、尚も状況を見極めようとしていた。
「何をするんだ、テメエ!」
野盗の男の隙をついて、母であろう女が、地面に刺さっていた小刀を手に取る事が出来た。
「動くな!娘を離しなさい」
母は、娘に乗っかっていた男を脅し、娘を取り戻すことに成功した。しかし、尚も母娘の周りは、野盗の男たちで囲まれている。
「おい女!どうするんだ?逃げられやしねえぜ。観念して続きをやらせろや」
男たちの嘲笑と恫喝とが、母娘をなおも苦しめていた。すると、
「グサッ」
母は、持っていた刀を自らの左胸に深々と突き刺し、それどころか、その刺さった刀を抜いて、その小刀を娘に握らせ、自らの心臓から飛び散る血しぶきを浴びながら、倒れた。そして、娘に小刀を渡す際ににっこりと笑って、そして果てた。それを見ていた娘は、躊躇なく渡された小刀を、今度は自らの左胸に深々と突き刺し、そのまま前のめりに倒れた。
「見事なり!」
去ろうと考えていた光秀は、その一連の出来事を一部始終見ていた。そして、母娘の激烈な死に様を目のあたりにして、考えを改めた。
「ギャァーーーッ グァッ」
男たちの断末魔が木魂した。光秀は、茂みから躍り出ると、野盗たちの後ろの位置であったのが幸いし、続け様に二人を切り倒していた。
(残りは二人か?)
「何だ貴様は!」
冷静に相手の数を確認すると、光秀は、残り二人の内、手前にいる男に斬りかかった。
「おおーーーーっ」
雄叫びを上げながら、光秀と野盗の男は切り結んだ。しかし、野盗の男も相手がこれほどの手練れと知っていたなら、恥も外聞もなく逃げ出せたであろうが、自分と切り結んだ男が明智光秀であることを知らなかった事が、命取りとなった。男は、一合も刀を交えることなく、光秀によって、袈裟懸けに斬られてしまった。
「テメエは誰だ?」
「美濃の浪人、明智光秀」
最後に残った恐らく一党の頭らしき男と光秀は対峙していた。そして、光秀と頭の男が今まさに切り結ぼうとしたその時であった。
「グサッ」
頭の男は、構えた刀も体もそのままに、首だけを音のした後ろの方に向けた。
「小僧!」
そこには、縛られていたはずの少年が、刀を頭の男の脇腹に突きたてていた。これで形勢は決した。少年は、傷口を押さえて地面に転がる頭の男の鼻先に、奪った刀をつけていた。
「お願いだ、命だけは」
「貴様らがこの家族にしたことを考えてみろ。無益な哀願は、よすんだな」
横で見ている光秀は、頭の男の哀願に冷たい返事をした。
「お主の好きにするがい。家族の仇を討つために、苦しめてから殺すのもいいだろう」
光秀は、少年の気持ちを察して、殊更にそんな事を言ってみせた。例えどのような拷問に会おうとも、こいつは、それだけの事をしている。自業自得だと。しかし、少年は、ゆっくりと口を開くと光秀の考えとは違う意外な事を口にした。
「死ねば、野盗も武士も僧も皆、仏となる。無益な拷問など必要ない」
少年はそう言うと、一思いに頭の男の首を刎ねた。それを見ていた光秀は、眼を見開いて、少年を凝視した。
(一時の感情に流されずに何という子供だろうか。ひょっとするとこの子は、将来の名将足るやもしれぬ)
光秀は、心の中でそんな事を考えていた。一軍の将たる者は、一時の感情に流される事なく、冷静にその状況を見極めて、事に当るべし。光秀自身が、浪々の身の上から将来の戒めとして、自らに課していることを、この少年が目の前で行った事に、一つの感動を味わったのであった。
少年は、事がすべて終わった後、光秀に礼を言って、まず家族の遺体を揃えて寝かせてやると、とても大声で泣いた。森中に響くかと思えるほどの大声であった。そして、ピタッと泣き止んだかと思うと、今度は野盗の男たちの死体を埋めるための穴を掘り始めた。
「そのような事をせずとも、こいつらは、お主の家族を殺した奴らだぞ」
「死ねば皆、同じです」
光秀の抗議にも少年は動じず、さっさと一人で穴を掘りつづけた。仕方なく、光秀もその作業を手伝う事にした。二刻後、何とか穴を掘り終えて、野盗たちの埋葬を終えた。
「家族の遺体はどうするのだ?」
「この近くに廃寺があった。そこに連れて行って埋葬します」
少し腰を下ろしていた二人は、一休みすると家族を埋葬すべくその廃寺に行き、丁重に三人の遺体を埋葬した。光秀は、教養のある念仏を唱えてやり、寺に少しだけ残されていた焼香もしてやった。
「色々とありがとうござりました。おかげで助かりました」
「それがしは明智光秀じゃ。そなたは?」
「はい、私は三宅弥平次と申します」
「弥平次よ、これから行く宛てはあるのか?」
「近くに住む親類の所に厄介になろうと思いまする」
「そうか、それならば良い。弥平次よ、そなたも武士ならば大望があろう。わしもだ。いつかこの明智光秀の名が世に聞こえてくれば、訪ねてくれば良い。その時は、そなたにわしの腹心になってもらおう」
そう言って光秀と弥平次は別れた。まだ、光秀が足利将軍家に仕える、ずっと前の事の出来事であった。
「改めてお願い致しまする。この弥平次を殿の配下にお加え下さいますよう」
秀満は、恭しく両手をついた。秀満にとってみれば、この再会は、偶然ではなく必然であったのだろう。その眼には、一点の曇りもなかった。
「しかしだな弥平次よ、約束ではわしが一旗上げてからと言う事だったが、見ての通り、わしは明日をも知れぬわが身かなだ。これでは、そなたに報いてやるべき何物もないのだぞ」
これが、光秀が先ほど渋い表情を見せた理由だった。秀満には家臣になってもらいた。しかし、今は与えてあげるべき給金も出してやれない。さて、どうしたものだろうか。
「金など光秀様が晴れて一国一城の主に成った暁に、いくらでも無心致します。この秀満が今は猟師の真似事をし、先ほども殿に先んじて獲物を取った事をお忘れですか?」
秀満は、そう言って笑った。顔を見合わせた光秀と熙子の二人も何やら可笑しくなってきて、笑ってしまっていた。
「殿、宜しいのではないですか?弥平次殿は、家臣ではなく、家族として迎え入れては」
熙子がそう言った事が決めてとなった。三人は、揃って越前の一乗谷に向かう事となった。ここに光秀の第一の腹心が誕生したのである。
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