天下静謐~光秀奔る~

たい陸

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第五幕 風雲児飛翔し 隻眼の軍師堕つ

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 そして、それから約一年後の永禄三年五月十九日に起こった衝撃的な事件により、京の人々は、織田信長の名前を思い出す事になる。この事で、京どころか、日本中が織田信長を知ったと言っても過言ではないだろう。そう、世に有名な桶狭間の戦いである。

 現在では、これが昔に、物語などで語られていた狭間の街道への上からの奇襲などではなく、田楽狭間にあった桶狭間山に陣を取った、今川勢の本隊を織田勢が山の麓より急襲した事が分かってきている。ならば、厳密に言えば桶狭間山の戦いと言うべきであろう。

 世に討ち取られた今川義元は、馬に乗れない程、太っていたので、輿に乗っていたとか、お歯黒をしていて貴族趣味だったとか、信長との対比で、どうしても愚将として描かれてきた歴史があるが、事実だけを言うと、輿とお歯黒は、身分が高い証拠であり、家格を示すステータスの役割をしていたと言える。

 であるからして、一概にこれだけをもって、義元の凡庸さを示す根拠とはならないだろう。

 この時点だけで語るとするならば、国力・富・地の利を考慮した上で、もっとも天下に近い武将が今川義元であったと言える。

 そもそもが、今川氏は、清和源氏の名門である河内源氏の流れを汲む、足利氏の御一家の吉良氏の分家であり、吉良家は、足利宗家つまりは、将軍家の相続権を有した家柄であり、この時代には落ちぶれて、今川家が吉良家を養っていた。そして、今川家の当主たる義元が、

(俺が将軍になっても、おかしくはなかろう)
 と思っても、何ら不思議はないのである。

 また、義元自身も海道一の弓取りと謳われる程の名将であり、その尊称は後年に、愛弟子と言って良い、徳川家康へと引き継がれていくのである。

 この時の信長の本国である尾張と、義元の有する駿河・遠江は、長年に渡って小競り合いをしていた。それは、信長の父、信秀の代へと遡る。

 織田家と美濃の斎藤家が同盟を結んでいた時には、強大な今川とてうかつに手出しは出来なかった。それが織田側の狙いでもあったのだが、斎藤道三の死により、織田と斎藤とが決裂した今、義元が尾張に攻めても不思議ではない。

 不思議ではないどころか、当然の戦略とも言えた。義元の狙いとしては、隣接する織田を倒し、尾張に版図を拡大して、後々に京の都への道筋を固めたかったのであろう。

 桶狭間の戦いとは、今川義元が、京の都へと上洛するために、障害となる織田家を攻めたと思われてきた。義元が将軍になりたがっていると前に書いたばかりであるが、この桶狭間の戦いとは、実はそうではないのである。

 そもそもが、織田家からして見れば、今川勢に奪われたままの鳴海城と大高城を取り返し、尾張国を統一する事が悲願であった。今川から見れば、せっかく奪った土地を取り返されぬようにするのが目的であり、そのために、いっその事、織田家を叩いてしまおうと思っての出兵であった。

 要するに、長年続けられてきた、勢力争いの総決算とも言うべきものが、桶狭間であった。

 当然ながら義元は、信長が籠城するだろうと考えていただろう。それだけ当時の戦において、城攻めは難しく、守り易い。何倍する兵力差でありながら、結局は城を攻めきれずに退却する例など、この時代は多かったのだ。

 対する信長としてみれば、籠城しても援軍のあてはなく、味方も次々に離反し、万に一つも勝ち目はない。しかも、今回の戦いは、過去に合った小勢合い程度の戦ではなく、今川側も本気で尾張を攻め取るつもりである。

 もし、手をこまねいていれば、今川と斎藤とが手を結び、挟み撃ちに合うかもしれない。そうなれば万事休すである。信長は、籠城は愚策だと考えていた。

「撃って出る!」
 信長は、無用な軍議などはしない。腹は最初から決まっているのである。問題は、どのタイミングで、何を目的とするかである。信長は一人決断した。

 目的は、今川勢の本隊を急襲し、敵に打撃を与えて相手を引かせるためであった。信長としてみれば、本音を言えば勝てると思ってと言うよりは、死してもろとも、やってやろうじゃないかと言う気持ちの方が、大きかったように思える。

 しかし、信長はそれを家臣にはオクビにも出さない。このため、さも当然という風な体で出撃を決めた。

 この桶狭間の戦いを整理して見ると、織田勢二千余対今川勢一万余~二万余、今川勢は三河の松平元康(後の徳川家康)を先陣とし、鷲津砦、丸根砦を落とし、破竹の勢いであった。

 守る織田側は防戦一方となり、今川勢に寝返る者も出る始末で、信長は味方に援軍を送る気配もなく、籠城とのお達しも出さない。重臣達がこぞって登城し、軍議を求めても終始、雑談をして帰してしまう始末であった。

「殿はどうなさるおつもりか?尾張も今日で終わりよ」
 などと、自虐気味に悲観する者まで出る有様であった。

 ただ、信長は、城に座している間も情報を待っていたのである。今川本隊の正確な位置情報をである。そして、今川勢を急襲出来る隙を狙っていたのであった。

 五月十九日未明に、義元本陣が桶狭間山にあるとの情報を得ると、信長が好きで有名な、幸若舞の敦盛を一節舞い、具足をつけながら立ったままで、湯漬けを喰らい、胃袋に流し込むと、そのまま空になった椀に、ぬるめの白湯を注ぎ、一気に飲み干し、箸と椀を床に投げ捨て、駆けるように清須城を発った。

「人間五十年~下天のうちをくらぶれば~夢幻の如くなり 一度生をうけ滅せらるるもののあるべきか」

 信長は、この時どんな気持ちで敦盛を舞ったのだろうか?

 信長は、熱田神宮まで一気に馬で駆けて、ここで軍勢が集まるのを待っている。

最初、清須城を出た時に信長に付き従ったのは、僅かに小姓が五名と雑兵が二百名程度と伝わる。これは、本当に家臣に伝えずに、信長一人で出陣を決断した証拠になるだろう。信長のこのスタイルは、生涯ずっとこうだった。

 何せ、何も語らない。家臣は大変だったろう。信長の動向を常に目を光らせながら、尚且つ、今、殿が何を考えて、次にどう動くのかを予想しなければならない。或いは、それが信長流の家臣の育て方かもしれず、そういう一種の無茶振りをして、そこから機転の利く者を抜擢していく。

 それから、この熱田神宮で軍勢を待っている間、信長にしては珍しくというか、記録に残っている上では、唯一の戦勝祈願を行っている。さすがの信長も神頼みでもして、何かに縋りたかったに違いない。

 さて、桶狭間山である。この時、にわかに大雨が降った。運よく織田勢の行軍の足音を消してくれていた。そして、落雷である。今川勢は、落雷が長槍の先に落ちるのを恐れて長槍を置いて、雨を避けるために、それぞれが雨宿りをしていたらしい。

 当時、武田や上杉が使用していた三間の鑓で、長さが5m以上あり、信長が考案した三間半の鑓で、6mを超す長さがあった。小高い山の頂上に居て、他に避雷針になる大木も少なければ、無理もない話である。

 対する織田勢は、指物や旗を敵に気取られないように隠し、鑓を寝かして持っていたため落雷を逃れた。そして、ただただ一直線に本陣のある桶狭間山を目指していた。

 これが両軍の運命を分けたと言っても過言ではないだろう。信長は文字通り、天を味方につけたのである。対する義元は、一瞬の油断がすべてを変えてしまった事になる。

「かかれーーーっ!かかれーーーっ!!かかれーーーっ!!!」
 信長は声がしゃがれるまで叫び続けた。そして、信長は先頭を駆って敵に突撃した。

「殿、危のうござりまする。後方に御引き下され」
 家臣が引き止めるのも聞かずに、信長はしゃにむに突っ込んでいた。
「我に続けーーーーーーっつつつつ!!」

 信長は、ここが正念場であり、決して怯んではならないことを、彼の持つ嗅覚と言うべきか、本能と言うべきか、ともかく彼の武将としての本質のような部分でそれを感じとっていた。

「義元じゃ。敵の大将の首を獲れーーーーっ!!」
「殿を見殺しにするな。皆、かかれーーっ」

 信長の後には、味方が殿に遅れては一大事と、皆が士気をあげて一斉に攻めかかった。その中には、秀吉の姿もあったはずである。織田勢の誰しもが、殺らねば後がない事をしっていた。兵士一人一人が決死の覚悟だった。

「今川義元、討ち取ったりーーーーっっっ!!!!」
 そして、両軍入り乱れる混乱の中、敵将今川義元の首を取ったのである。結果だけ見れば、織田勢の大勝利であった。織田家の家中は、皆、涙を流してこの奇跡の勝利を喜び合った。

 しかし、内情を見ると守っただけで、攻め取った土地は一つもなく、味方に恩賞として与えられる土地もない。苦い勝利であった。

 しかし、この勝利の意義は大きい。これで尾張国より、今川勢の勢力を駆逐し、ようやく念願だった尾張国の統一を成しえる事になる。

 しかも、対美濃攻略に当分の間は専念出来るのである。信長にとって、正に人生の分岐点になる戦いであった。

 そして、ここまでの情報が京に居る光秀の元に伝わったのである。
「あのうつけ者が?信じられぬ」

 京の都では、町中でこの話しで持ちきりとなっていたが、この時の日本中で、桶狭間合戦にて、今川義元敗死の報がもたらされた事だろうと思う。

「信長、何という男だ!」
 光秀は、唇をかみしめながら一人独語していた。あの時、京で会った時から、なぜか忘れがたい。織田信長とはどういう男か?これを今後、見定めねばならないだろう。光秀と信長、運命の二人が真に出会うのは、まだまだ先の事であった。

 そして、更なる報せが光秀の元へもたらされた。
「今、何と申した?」
「信濃の川中島にて、武田氏と上杉氏が激突し、両軍多くの死者が出たようでございまする。武田家は副将の武田信繁、軍師、山本勘助討死の様子」

「あの勘助殿が討死だと・・・」
 もたらされた急報に、光秀は、呆然自失してしまっていた。

 永禄四年八月、桶狭間の戦いより、約一年後に川中島の戦いが行われた。関東管領に就任し、上杉氏を継いで、名を上杉政虎と改名した長尾景虎と、出家し武田信玄と名乗った武田晴信との間で行われた有名な戦いである。

 元々、この武田家と上杉家の争いは、単純な国境の勢力争いから来ている。武田家は、今川家、北条家と同盟を結んだため、必然的に勢力拡大を北へ向かい、信濃方面へと向けてきた。
 
 そこには、諏訪氏や小笠原氏、村上氏など有力な地元勢力があったが、武田晴信は、これを時には正面から戦い、また謀略を用いて倒してきた。

 そして、武田に追われた豪族達が頼ったのが上杉政虎である。政虎は義のために所領を追われた豪族達を庇護し、その所領を武田から取り返すと言った。

 これは、上杉からしても、武田がこのまま北上を続ければ、いずれ越後に達することは明白であり、その勢いを止めるぎりぎりの所が川中島であった。

 そして、この戦いは別名を善光寺合戦とでも言う方が良いように思える。この善光寺とは、川中島には善光寺平と呼ばれる盆地が広がっており、そこに位置するのが善光寺であった。

 この寺の歴史は古い。建立が六四四年と伝わり、あまりに古いために、仏教寺でも無宗派を謳っている。

 これは、日本において仏教が各宗派に分かれる前に建立されたからに由来する。その寺をその勢力に加えるか否かで、この信濃地方での影響力を大きく左右するために、川中島で武田と上杉が争う都度、両者は、善光寺を敵より先に手に入れる事にやっきになっていた。

 この時の状況としては、政虎は十万の関東諸軍を従えて、北条氏討伐へと乗り出し、北条家の居城である小田原城を囲んでいた。これに危機感を強めた北条氏康が同盟者である武田信玄へ救援を要請し、武田はそれに応えて、信濃に侵攻した。囲みを解いて、武田と対決すべく、政虎は、一旦越後へ戻り、そしてこの信濃へと着陣したのである。

 その途中に鎌倉の鶴岡八幡宮で正式に関東管領職への就任式を行い、名を上杉政虎へと改めたのである。この上杉政虎という男は何事にも義理を通し、律儀に行わなければ、気が済まない気質のようであった。

 この第四次川中島の戦いは、始まる前から激しいものになる事が予感された。なにせ、この前に政虎は関東管領職に就任し、一回目の上洛の際に後奈良天皇へ拝謁し、錦の御旗を賜り、内乱を平定するようにとの綸旨を頂いたのである。これは、上杉政虎が戦う際の正当性を示した事となる。

 今度こそ、武田を打倒してやるとの意気込みが違っていた。対する武田は、信濃守護職に就任し、信濃での正当性を得ていた。こちらもこれを機に信濃攻略を完遂させたい意図があったのだ。

 その日の川中島周辺には、この地域特有の盆地地帯が織りなす、深い霧が立ち込めていて、両軍の行軍を妨げるには十分な役割を担っていた。その川中島へ最初に到着したのは上杉勢であった。

 政虎は、善光寺を先に掌握すると、妻女山へ陣を取った。従えた兵は一万余と伝わる。上杉勢からすると妻女山に陣を敷くのは、規定の戦術であった。この山からは、武田が建てた海津城が一望出来るからである。

 対する武田勢は、妻女山の背後にある茶臼山へ陣を敷いた。その兵数一万八千。海津城の兵数を加えると二万を超えた。上杉の倍近い兵力であった。しかし、武田は、敵より倍以上の兵力を持ちながら容易に動けなかった。

 それは、以前の戦いに起因する。以前の川中島での戦いでも犀川を挟んで、上杉を挟撃出来る有利な体制に持ち込む事が出来た。

 しかし、上杉は動かない。自軍の不利を悟りながらも、少しも軍勢に動揺が見て取れなかった。武田信玄は頭の切れる大将である。無理に力押しすれば、自軍に大きな損害が出る事は分かっていたのだ。

 そして、両軍は長い間睨みあった末に衝突する。しかし、兵数で勝る武田勢は、上杉勢に押しまくられた。越後勢は一人一人が屈強でよく戦ったので、両軍の戦闘は互角で進み、引き分けとなった。信玄は、この前回の戦いが頭に残っていたに違いない。

(政虎め、同じ轍は踏まぬぞ)
 信玄は、そう思っていたに違いない。上杉勢より有利に展開する為には、敵を平地に引きずり出すのだ。信玄は、ある作戦を考えた。

「何?信玄め、何を考えているのだ」
 報せを聞いた政虎は首を傾げた。茶臼山に陣を敷いていた武田本隊が海津城へ移動したのだ。これで、上杉勢は挟撃される事はなくなり、敵は一か所に集中したことになる。

「敵は籠城の構えでは?」
 重臣の一人がそう進言した。確かに城に籠れば籠城と言えるだろうが、この時は違っていた。海津城は小城であり、籠城には適さない。まして、武田の大軍が入るにふさわしい城とは言えなかった。

(信玄め、わしを誘っておるのだ)
 政虎は、信玄の意図を理解した。武田は、八幡原に上杉をおびき出して兵力差で圧倒するつもりなのである。

「武田の意図が読めたなら、それの裏を取るのが上策である」
 政虎は、そう家臣に言うと出兵の準備を命じた。第四次川中島の戦いは、両軍の激突前から、凄まじいまでの駆け引きが、すでに始まっていた。

「お館様、さてやりまするか」
「うむ、勘助よ。後は任せる」

 信玄の横で控えていた山本勘助がそう切り出した。サイは振られた。勘助は、下知を下した。上杉勢を平地に引きずり出す作戦は、勘助と馬場信房が担当した。

 まず、武田の兵を二手に分けた。一方を高坂昌信と馬場信房らが率いる、一万余の兵で上杉が陣取る妻女山を夜討ちに急襲し、敵を山より平地に引きずり出し、迎え討つ本隊を信玄が指揮する。その数、八千。これを世に啄木鳥がエサを取る様を模して、啄木鳥戦法と呼んだ。信玄と勘助が考えた必勝の策と言えた。

 そして、政虎である。政虎は、その日の夜、陣にて大量の篝火を焚かせた。そして、自らは全軍を率いて、夜のうちに山を降りて、八幡原へと音を消しながら、行軍を開始していたのである。政虎には、信玄の意図が分かっていたのである。

 甲陽軍鑑では、武田方より大量の炊煙が上がるのを見て、夜討ちがある事を知った事になっているが、果たして、信玄ほどの武将がそんなミスを犯すだろうか?

 あるいは、政虎が使っていた間者か、忍の者たちのもたらした報で知ったかもしれない。

 しかし、朝方より、霧が立ち込める川中島周辺である。果たして、間者の報告は間に合っていただろうか?それらを考えると、政虎は、その天才的な戦術的嗅覚で、敵の襲撃を知ったとしか、言いようがないのである。

「殿、なぜ武田が夜討ちを行うと?」
 重臣達は、みな不思議がって聞いたであろう。敵より圧倒的に有利な山の陣を捨ててまで、上杉にとっては、死地とも言える平野の八幡原に向かうのである。まして、山を下から攻めるのは、至難の業である。武田方が果たしてそう動くだろうか?

「信玄の意図は、我らを八幡原に誘き出して、兵数で圧倒するのが狙いじゃ。しかし、我らは山に陣を敷いておる。わしがそう簡単に誘いに乗らぬのは、今までの戦いで信玄自身がよく分かっておる。ならば、自分たちで敵を動かせばよい。夜襲が一番良いとわしなら考える。わしが考えるなら、信玄も考え付くが、道理と言う物じゃ」

 信玄を知る者、謙信以上になく、謙信を知る者は、信玄以上にはいなかったのである。武田信玄は、後年、上杉謙信を評して、日本国古今稀名大将也と絶賛している。恐らく、二人の間には余人が及ばない、友誼に近いライバル心が働いていたのだろう。

 そして、夜討ち組の武田方、高坂昌信と馬場信房らが率いる一隊が妻女山の上杉勢を急襲した時には、そこは、もぬけの殻であった。ただただ、大量の旗物と篝火が立ち込めるだけであった。人の影は、どこにも見当たらない。

「しまった!読まれていたぞ。すぐに戻らねば、本隊が危ない」
 高坂と馬場の部隊は、今しがた登ってきた山を、今度は一気に駆け下りなければならなかった。

 そして、信玄と政虎である。この日の朝方に発生した濃霧のせいで、両軍の戦闘は、半ば偶発的に始まる事となった。何せ、霧が晴れて、辺りが見え始めた時には、もう敵が目の前に居て、戦闘を回避したくても出来ない状況となっていたのだ。

「これは、どういう事じゃ?なぜ敵が目の前に居るのか?」
 信玄と勘助は焦ったことだろう。何せ、全く自分たちが考えた手立てとは違うのである。完全に不意を突かれた格好となってしまっていた。最初の手筈では、上杉を夜討ちして、傷ついた敵が八幡原に下りて来た所を一挙に挟撃して、仕留めるはずであった。

 しかし、目の前の敵は、戦ってきた形跡がなく、一糸も乱れることなく、こちらに向かってくるではないか。信玄と勘助は自分たちの不利を悟った。

「こちら側が裏をかかれたわ。さすが、上杉政虎よ」
 信玄は、泰然自若として、政虎を誉める余裕を見せたが、内心は穏やかではなかった。

 今までの戦いでは、常に数の上で優勢に展開しながら、それでも互角だったのである。それが、武田として、初めて劣勢に立たされたのだ。武田勢八千対上杉勢一万余、これで兵数では武田が不利となった。

「かかれーーっ!!ここが正念場ぞ。妻女山に向かった味方が戻ってくれば、挟撃が出来る。そうすれば、我らの勝ちぞ」

 勘助は、そう味方を鼓舞した。劣勢の武田勢はよく戦った。混戦になり、上杉勢は政虎自身が太刀を取って敵と対峙するまでの混乱を見せた。武田方は、ひるむことなく、立ち向かって、一歩も引く気配を見せない。

 上杉の優勢も、武田の別動隊が戻ってくるまでの期間限定である。政虎も内心は焦っていたに違いない。

そして、そんな混戦の中、戦局が動いた。武田方の副将である信玄の実弟の武田信繁と、その後見人で、宿老の室住虎光とが戦死したのである。

 この報は、すぐに信玄の待つ本陣にもたらされた。武田の重臣達は皆、動揺した。特に武田信繁と言う人物は、名将と名高い。子供に残した九九ヶ条からなる家訓は、江戸時代でも武士の心得として、広く読み親しまれた。
「惜しみても、尚、惜しむべし」

 そう武田の将兵たちは、その死を悼んだ。後世に、日本一の兵なりと徳川家康に言しめた真田幸村の本当の名前は、真田信繁と言われる。言うまでもなく、この武田信繁にあやかった命名だろう。

 信繁は、その父、武田信虎に寵愛された。信虎は、信玄を廃嫡し、信繁に家督を譲ろうと考えていたらしい。しかし、信玄は、実の父親を廃して、自ら家督を奪った。その時も信繁は父ではなく、兄である信玄に従っている。兄弟仲は誰が見ても良く、信玄は、この戦いの後に信繁の遺体を探させて、その遺体に縋って号泣したらしい。戦国の世ではめずらしいまでの兄弟仲と言えた。信繁あっての信玄であり、信玄あっての信繁であったのだ。

 事実、信繁亡きあと、武田家は、信玄とその嫡男義信の骨肉の争いに代表されるような、暗い影が目立つようになってくる。武田にとって、失くしてはならない人物が死んだのである。

(これは、わしの責任じゃ…)
 信繁の戦死を知った勘助はそう感じていた。自分が立てた作戦によって、味方が窮地に立たされ、しかも副将の信繁まで失ってしまったのである。しかし、信玄は勘助を責めるような事はしない。すべては、最終的に決めた大将である自分の責任だと思っている。武田信玄とは、そういう武将なのである。

 ならばこそ、今まで命を賭して仕えてきた。この見事な大将を天下人足らしめる事こそが、自分の夢ではなかったのか?

「お館様、敵の戦振りに勘助も血が騒ぎましたぞ。我も一軍を率いて、政虎の首をあげてご覧に入れまする」

 勘助はそう言うと、信玄に一礼して本陣から前線へ乗り出していった。信玄は、勘助の気持ちが痛い程、分かっていた。本心を言うならば、引き止めたかった。信繁を失った今、軍師である勘助まで失うわけにはいかなかったからだ。

 しかし、他の将兵の目もある。武田全軍が、この啄木鳥戦法が誰の発案かを知っているのである。これだけ、旗色が悪くなっている今、その張本人だけが、本陣で座しているわけにはいかなかったのであった。

「我こそは、武田信玄が軍師、山本勘助なるぞ。政虎、出らえそうらえ」
 勘助は、馬を駆り、戦場を走り抜けた。ここが自分の死に場所と定めていた。片目で片足も不自由な男が、なぜにこんなにも馬を操れるのかと、周囲の者が感歎する程の見事な戦振りだった。

「かかれーっ、政虎を討つとれ」
 勘助は、政虎を目指して、無茶な突撃を繰り返した。太刀を左右に振るい、戦場を縦横無尽に駆け抜けた。最初、二百人からいた勘助旗下の家臣たちも一人減り、二人減りしていき、気づけば勘助の周りには誰も居ない状態となっていた。

 そして、辺りの霧がすっかり晴れて、辺りが見渡せる正午頃、戦局は一挙に激変する。

 妻女山に行っていた、武田の別動隊が帰ってきたのである。遠くで粉塵があがるのを、その一つの目を細めて見た勘助は、別動隊が戻ってきたのを悟った。
「わっはっはっは!戻って来たぞ。戻って来たぞ!」

 味方の逆転を確信した勘助は、その直後に不意を突かれて、討ち取られてしまう。しかし、不思議とその首だけとなった顔は、笑顔で満ち足りた顔をしていた。

「我、悔いなし!」
 その首だけとなった顔は、そう言っているように思えた。武田の別動隊が戻ってきた事で、当初、優勢だった上杉勢は挟撃され、今度は、劣勢に立たされる事となった。自軍の不利を悟った政虎は、全軍に引き上げの命を出した。

 そして、越後へと引き上げていった。武田方にしても、追撃するだけの余力は残っておらず、両軍の激しい戦闘はまたもや痛み分けとなった。両軍の戦死者は合わせて、七千人余と伝わる。戦国時代でも稀な正に死闘であった。

「そうか、御苦労であった。勘助殿、御命運をお祈りしますぞ」
 ここまでの戦の内容を聞いた光秀は、勘助が眠る東の空へ合掌し、黙とうを捧げながら、世の中が加速度的に進もうとしているのを、肌で感じているのであった。
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悠井すみれ
歴史・時代
 職人の若者・清吾は、吉原に売られた幼馴染を探している。登楼もせずに見世の内情を探ったことで袋叩きにあった彼は、美貌に加えて慈悲深いと評判の花魁・唐織に助けられる。  清吾の事情を聞いた唐織は、彼女の情人の振りをして吉原に入り込めば良い、と提案する。客の嫉妬を煽って通わせるため、形ばかりの恋人を置くのは唐織にとっても好都合なのだという。  純心な清吾にとっては、唐織の計算高さは遠い世界のもの──その、はずだった。 嘘を重ねる花魁と、幼馴染を探す一途な若者の交流と愛憎。愛よりも真実よりも美しいものとは。 第9回歴史・時代小説大賞参加作品です。楽しんでいただけましたら投票お願いいたします。 表紙画像はぱくたそ(www.pakutaso.com)より。かんたん表紙メーカー(https://sscard.monokakitools.net/covermaker.html)で作成しました。

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