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第一幕 光秀仕える
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永禄元年(1558年)の冬、京の都は沸き返っていた。京の人々が喜んでいるのは、
「公方様がお戻りなされた」
という、唯一人の男が都に戻って来たことを祝ってのことだった。この時、室町幕府も初代尊氏から十三代目を数え、将軍義輝の御世となっていた。
足利義輝の父である十二代将軍足利義晴は、管領である細川晴元の台頭により、実権を奪われ、名ばかりの将軍として知られた人物で、幕府の威信を取り戻そうと、戦いを挑んでは敗れて京の都を追われ、和解しては京に戻り、また戦っては追われてというのを毎年のように繰り返していた。
義輝が将軍職についたのも、そのような幕府にとって危急存亡の秋の事であり、失意の内にある父義晴より将軍職を譲られたのだ。
将軍宣下も京の都で盛大にとはいかず、近江坂本の地にてひっそりと行われた。今回の帰京も朽木の地にて五年の歳月を過ごした後、細川晴元の家臣で、主家の細川家より実権を奪って勢力を増していた三好長慶との講和がようやく決まったからであり、将軍として華々しく敵を打ち破っての凱旋とは程遠いものだった。
それでも都人が喜んでいるのは、将軍家を慕ってというよりは、
「これで戦が終わり、平和な世の中になるのでは?」
という期待感が人々の胸の内にあったからである。
将軍家の御供衆である細川藤孝は、京の町を歩いていた。
久しぶりの京で、都見物と行きたい所であったが、今の彼にはそんな余裕などはない。まだ若いとはいえ、官は従五位下兵部大輔であり、将軍義輝の側近と目される人物である。
藤孝は、名門細川家の出身ではあるが、細川管領家の出ではなく、元は、幕府奉公衆の三淵家の生まれで、その後、和泉細川家に養子に入った。
上背があり大力の男だが、力だけの武人とは違って藤原定家の歌道を受け継ぐ、二条流の古今伝授を受けることになる当代切っての文化人でもあった。
その彼が、たった一人で街を歩くのには理由があった。一つは、将軍義輝の身を守れる優れた武人を探すためで、もう一つは、目ぼしい商家を周って金を募るためであった。
もちろん金を募ると言っても自分の為ではない。幕府の金をである。であるからして、余計に深刻でもあった。本当の事を言えば人も金もあるのはあった。但し、それらはすべて、昨日までの敵であった三好長慶より与えられたものなのである。
その長慶は、今や幕府の相伴衆となり、幕府の実権を握って、将軍義輝を蔑ろにしようとしている。それを阻止するためには、三好家の息のかかってない人と金がいるのである。
将軍義輝が独自に動けるだけの備えが必要だと、藤孝は考えたのである。そのための資金調達のため、室町幕府のスポンサー探しに一人京の街を歩いていたのだ。
「ここも駄目か…」
吐息交じりで、何軒目かの融資を断られた藤孝が店を出てきた。
本来ならば、藤孝クラスの高官がする仕事ではないはずなのだが、それをお供も付けずに、一人で行っている所に、この男の面白さがあった。
もちろん、事を公にしたくない事情と、任せられる人材の欠落、さらに多人数でしらみつぶしに当って、幕府には金が無いらしいなどと、京の都人の噂になるのを憚る理由もあった。
京の人間には気を付けなければならない。長年、都であることへの誇りが、はっきりとは物を言わない京の奥ゆかしさという風土に育ててしまった。
だから、余計に噂話が立ちやすい土地柄となったのだ。口が堅く、身元がしっかりとした相手を選んで話をしなければ、たちどころに京中の噂になっている所だ。藤孝は、また街を歩き始めた。うつむき加減で、少し進むと人だかりがある通りに出た。
「何事か?」
藤孝は、人だかりをかき分けて、その先頭に立った。見ると、一つの商屋があり、そこに五人の無頼の者たちが、タカリを働いていた。
「こんな油を売ってるとは、許せねえなあ~」
男たちが店の者を通りまで引きずりだし、囲んで散々悪態をついている。今にも乱暴狼藉を行うのは、目に見えて明らかな状況だった。
「山崎屋?ここは油屋なのか」
看板をみて屋号を確認した藤孝は、のんきにも一人思っていた。しかし、もう見逃してはおけまいとも思い、一人で無頼の男たちに向おうとした時だった。
「この商屋に縁ある身にて、見逃せじ。助太刀致す」
野次馬より一人の武士が進み出て、すぐに一人を投げ飛ばし、また一人を殴り倒した。
仲間が倒されるのを見た二人の無頼の男たちは、刀を抜いて構えた。その武士の男は、身に付けていた刀の鞘を払うや、一瞬にして、その二人を抜刀した刀で倒してしまった。そして、残る一人は、それを見て逃げ出してしまった。
「安心しろ、峰は返した」
武士の男は、倒れている二人の男に言い放った。武士の男によって、手痛い目にあった四人の無頼の男は、互いに庇いながら、何とか立ち上がり、その場をスゴスゴと立ち去っていった。
その様子に、野次馬からは拍手喝采が起こり、その拍手の音で藤孝は我に返った。一連の武士の男の所作が素晴らしく、助けに入るのも忘れて思わず見入ってしまっていたのだ。
武士の男は、峰を返したと言っていた。これは、相手を斬る直前に白刃を返して、峰打ちした事を言っているのだ。直前でそのような事が出来るのは、相当な手練れである証拠だと藤孝は考えていた。
店の亭主らしき男が、しきりに謎の武士にお礼を言っていたが、武士の男は、そこそこにその場を立ち去ろうとしていた。
「謝礼も取らず、名乗りさえせず、今の時代になんて男だ」
藤孝は思った。見れば身なりこそ浪士風だが、姿形を言えば、どこかの大名の身分に連なる程の高貴さを感じた。
「これを逃す手はない!」
そう藤孝は思い、野次馬を押しのけて、立ち去ろうとする男に声をかけた。
「先程の大立廻り、お見事でござりましたな」
急に声をかけてきた藤孝を見て、男は怪訝そうな顔をした。
「怪しい者ではござらん。拙者、幕府に仕える細川藤孝と申す。貴殿の先程の見事な太刀捌きに感服し、声をかけ申した。ぜひ、貴殿の名をお聞かせ願えぬか?」
藤孝は、出来るだけ慇懃に対応した。
「拙者、美濃が住人、明智十兵衛光秀と申す」
藤孝の言葉を聞いて、いぶかしんだ光秀も、態度を改め丁寧に挨拶した。
「美濃の明智と言えば、土岐氏の出ですな。斎藤道三殿の事は、残念でござりましたな」
藤孝の言葉に光秀は少し驚いた顔をした。
光秀は、美濃源氏の名門、土岐氏の支流である明智一族の出身で、この時の美濃の守護大名は斎藤義龍だった。
義龍の父が有名な蝮の道三こと斎藤道三だが、この親子間で争いが起き、光秀の明智氏は、道三に光秀の叔母が正室となっている縁で道三側についた。そして不幸にも、道三は敗れて戦死し、明智城も敵の手に落ち、多くが殺されてしまった。
光秀以下、生き残った者達も、ばらばらとなってしまったのだ。光秀は、名門の領主一族の身分から、一転、浪人となってしまった。
藤孝の言葉に光秀が少し驚いたのは、現在、美濃守護である斎藤義龍の出生の秘密に関係しており、義龍は、今は土岐義龍を名乗っている。それには事情があり、道三の側室に深芳野という女性がいた。
この女性は、道三の旧主にあたる、つまりは、道三が追いだした元の美濃守護の土岐頼芸の側室だったものを、道三が賭けをして頼芸より譲り受けた女性だった。
そして、一年以内に義龍が産まれる。当然、ある疑惑が浮かぶ。義龍の父親は誰なのかと。そして、親子間に争いが生まれる事になる。
話が長く逸れてしまったが、要するに、土岐と名乗る以上、源氏の一族になる。足利将軍家も、もちろん源氏の一族である。足利家と土岐家は、繋がりのある遠い親戚であり、主従関係であった。
道三は、藤孝から見て何の縁もない。それを藤孝が残念だったと光秀に言ったのは、明智氏と道三との繋がりを知っていて、光秀に対する配慮から、そう言って見せた事に光秀は驚いたのであった。
「先程の商屋にご縁があるとか?」
「旧主の出にござれば」
藤孝の問いに光秀は短く答えた。そう言えば、蝮の道三は、油商人の出身だと聞いたことがある。それならば、あの時光秀が助けに入ったのも頷けると藤孝は思った。
「明智殿、旧主亡き後は、どうされておられる?」
藤孝は、それとなく現在の就職状況について光秀に尋ねた。こういう時は、面と向かって貴方は浪人ですか?と聞いては失礼になることを、もちろん藤孝は知っている。
「諸国を歴訪して、良き出会いを探しておりまする」
時は戦国の世であり、この時代の武士の概念として、武士は二君に仕えずと思っている者の方が少ない。
こういう時は、私は浪人で食い詰めており、仕官先を探していますとは言わない。出来るだけ、自分を高く売るために、要するに履歴書を良く見せるよう努めるのが常であった。
「先程の狼藉者は、切って捨てる事も出来たのではござらんか?」
藤孝は、やんわりとあんな連中は、切って捨てるべきだったと光秀に問うた。
「武士には、人を切るべき時と切らぬべき時とを、見定める事が肝要と心得る」
暗に、あんな連中を切ってもどうしようもないだろうと言う事を、光秀は言いたかったのだ。光秀と藤孝が話を続けていると、先程の狼藉者の内、逃げた一人がまだうろついていた。
それを光秀が見つけて追おうとした時、狼藉者の男は、立っている近くに牛車用の牛が繋がれている事に気づいた。男はその牛の紐を切ると牛のお尻を叩き、二人に向って牛をけしかけた。
すると牛は、二人に向って猛突進してきた。光秀はすぐに横に避けたが、藤孝一人が牛に対峙する格好となった。
「早くお逃げなされ!」
光秀は藤孝に声をかけるも、藤孝は光秀に笑みを向けるが、避けようとはしなかった。次の瞬間、牛は藤孝目掛けて躊躇せず突進し、藤孝が吹っ飛ばされるものと思った狼藉者の男は、一人喜びの声をあげたが、その期待とは裏腹に、藤孝は、牛の頭と角を正面から見事受け止め、牛の暴走を食い止めて見せた。
その気迫と、藤孝が男に見せた形相の凄みに、狼藉者の男は、恐れをなして逃げ去ってしまった。
「お見事!」
今度は、光秀が感嘆の声をあげる番であった。
「この次は、切るべき時でござろう?」
止めた牛をあやしながら、笑顔で藤孝は言った。光秀は、苦笑するしかなかった。
「その明智十兵衛と申す者、そんなに出来るのか?」
義輝は、藤孝に問いかけた。藤孝は片足をつき、慇懃にその手に持っている弓矢を若き主君に手渡しながら、義輝を見て答えた。
「腕は、上様以上かもしれませぬぞ?」
その言葉を聞いて、次の弓矢の的を狙っている義輝の手が止まった。そう言えば、義輝が興味を持たぬはずがないことを、藤孝は知っているのだ。
「そこまで藤孝が言うのだ。会おう、連れてまいれ」
藤孝は、光秀を主君義輝に推挙しようとしているのだ。前日の光秀と狼藉者たちとの大立ち回りの件を、義輝に詳細に報告した。
そうすれば、剣聖と謳われた、塚原卜伝より剣術を習い、その奥義一之太刀を伝授され、後世において、剣豪将軍と渾名された義輝が光秀に会いたくなる事を、藤孝は知っていたのだ。
「ところで、その明智は、今どこに住んでおるのだ?」
「御心配には及びませぬ。もう調べておりますれば、藤孝が行って連れてまいりまする」
義輝の問いに、藤孝は恭しく頭を下げた。下げた顔が思い通りに言って笑っているのを、義輝には見えずとも分かっていた。
「ずいぶんと奥に入って行くのだな」
光秀の家を訪ねる藤孝は、少し嫌になっていた。街の大通りからは、はずれにはずれて、普通の民家もない洛外を進んでいる。
その後、部下に光秀の居場所を調べさせたが、突き止めるまでに数日かかってしまった。洛外の辺鄙な所に住んでいるとは、分かりにくいはずである。
しかも、浪人には過ぎたる広さの家で、家人は、光秀の他に飯炊きの婆が一人居るだけであるという。そして、その家には大きな立札がしてあり、そこに達筆な文字で、「剣術指南身分問わず」と書いてあるというのだ。
「やはり、あの男はおもしろい」
これを聞いた藤孝は、改めて光秀に興味を覚えた。
以外に思われるかもしれないが、この時代で、道場を開いて剣術指南をする武士などいない。現代のイメージにある剣道の道場のようなシステムが出来るのは、江戸時代に入ってからであり、この時代に剣術を習おうとする者の方がはるかに少数だった。
この時代の武士は、剣技は、戦場で鍛えられる物との共通認識があり、わざわざ剣術を他で習おうなどとは、誰も思わないのが、この時代の普通の価値観であったのだ。
藤孝がおもしろがったのも、そのことを知っているからであり、また、そうでありながらも道場を開く光秀に改めて興味を覚えたからであった。
そうこうしているうちに、家の前についた。なるほど、例の立札が立っているが、中の様子を探るに、剣術を習いに来ている者など、一人も居なさそうだった。
「御免!」
藤孝は、門をくぐって声をかけた。すると、一人の婆が姿を現したので、光秀の在宅の有無を聞くと、道場の方に居るので、縁側に廻りなされと教えてくれた。
藤孝が縁側から進むと、成程確かに道場と言うべき部屋があり、そこに光秀が一人着座し何やら瞑想している様子だった。
「御免!」
藤孝は再度、声をかけた。声が聞こえた光秀は、眼を開けて瞑想をやめ、縁側の藤孝の方に目をやった。
「これは細川殿、そろそろ来られる頃と思っておりましたぞ。さあ中へ」
光秀は、そう言いながら、藤孝に家の中に入るように促し、藤孝もそれに答えて道場の中に入った。二人は向い会って座る格好となった。
「拙者が来られるのをご存じでしたか?」
「道場を開けば、いずれお声がかかるものと思っておりました」
問いに対する光秀の答えを聞いて、藤孝は喉の奥で唸った。この男は、京の都で道場を開けば、剣術好きの上様の耳に入り、いずれ人が訪ねて来る事までを狙っての事なのかと。
「ならば、用件の向きもご存じで?」
「むろん、明智光秀ご用件の向き承った」
光秀は、恭しく頭を下げて見せた。それを見て藤孝は満足の笑みを浮かべた。
二人は、義輝の待つ室町御所へと向かった。道中、光秀が背に荷を背負っているのを見て、その荷に藤孝は興味を覚えたが、
「上様への献上品です」
荷の中身を聞くも、光秀はそう言って、それ以上答えようとはしなかった。
二人が御所につくと、敷地内の白州へ通されて、しばらく待たされた。その間二人は、一言も喋らず、ただひたすら声がかかるのを待ち続けた。もうしばらく待ち続けると、一人の男が早足で床をドカドカ鳴らしながら近づいて来るのが聞こえた。二人はその音が近づくと、恭しく頭を下げた。
「藤孝帰ったか。明智を連れて来たな」
その声の主が、将軍義輝であることを光秀はすぐに理解した。
「上様、明智十兵衛殿にござりまする」
「お初にお目にかかります。御前に侍りまするは、美濃が住人、明智十兵衛光秀にござりまする」
藤孝の声を聞いてから、光秀は名乗った。それがこの時代の武士の慣習と言うべき物だった。
「光秀、面をあげよ」
義輝に言われて、光秀はゆっくりと顔をあげた。この時に、目線をやや下に落として、相手を直視しないようにするのも大切なポイントであった。
「光秀、苦労!」
義輝はそう言うと、白州よりあがり、奥の部屋へと行ってしまった。藤孝に促されて、光秀もその後に続いた。いくつかの部屋と廊下を抜けると、別棟に光秀の道場とは、比べ物にならないくらいの大きな道場が見えた。
御所内にまさか大道場を作るとは、上様の剣術好きも相当な者だなと光秀は思った。
「上様の肝いりで…」
光秀の心の声を聞いてか、藤孝が教えてくれた。二人が中に入ると、すでに義輝は木刀を取り出し、素振りをしていた。
「どうじゃ明智、余と一番」
光秀の姿を認めると義輝は持っていた木刀を光秀に投げてよこした。
「お相手仕ります」
木刀を受け取ると光秀は一礼して答えた。二人の激しい戦いが始まった。
この時代、木刀とは言っても、現代にあるような、刀の形状はしておらず、樫木を削って作り、太さも今の物と比べるとずいぶん太く、まさに木棒と言えるようなものであった。
二人の勝負は二本勝負で行われた。まず義輝が先手をとり、攻撃を仕掛けた。それを光秀が受けて反撃する格好となった。義輝の剣筋は、その性格を反映してか、正に剛剣と呼ぶに相応しい暫撃で、二人の剣が当る度に道場内に激しい音を響かせた。
しかし、光秀は、その剛剣を受けても物ともせず、反撃の機会を伺っていた。しばらく二人は互角の打ち合いを演じた。
長い時間、二人の真剣勝負は続いた。お互いに息を切らし、汗が飛び散る激戦となった。勝敗の行方は、二人の打ち合いが、三十合目に入った時に動いた。
光秀が下がりながら、義輝の剣を受けていた時に、床に落ちていた汗で足を滑らせ、それを見逃さずに義輝の一撃が光秀の左肩に決まったのだ。
「光秀、もう一本!」
そう言うと、義輝はこれが勝機とばかりに開始から激しく打って出た。しかし、二本目の決着は、一本目と違いあっけなくついた。
一本目と同じように義輝が攻め、光秀がそれを受ける格好となったが、義輝の暫撃に光秀が下がりながらも、一瞬の隙を見逃さずに、面抜き胴を繰り出して、義輝に一撃を見舞ったのだ。
「それまで!」
光秀の胴が決まるのを見て、藤孝は大声をあげた。
「光秀、お主の腕見事だったぞ。どこで剣を極めた?」
義輝と光秀は、道場の床に腰を下ろし、上半身を露わにして、身体の汗をぬぐっていた。
「これと言った師を持ちませぬ。諸国を巡り、身に付けたものにございまする」
本当の事だった。諸国を放浪して様々な人や、事柄に出会った。その実体験を通して、自然に身に付いたものだった事を正直に答えた。
「そうか、お主は諸国を巡っていたのか」
光秀の答えを聞いて、義輝は愉快そうに笑った。見事に笑う人だと光秀は思った。
「して、諸国を巡って他に知り得た事などはないか?」
義輝の問いに光秀は、藤孝に預けておいた荷物を受け取り、その中身を取り出した。上様への献上品と藤孝に言っていたものだ。
「上様、こちらを献上仕ります」
光秀が恭しく中身を取り出し、義輝に差し出すと、そこには一丁の鉄砲があった。
それを見た藤孝は心で、
(鉄砲だったか。道理で重たいと思ったわ。はて?なぜにわざわざ大きな包みを施したのだ。ここまで持ってくるのも重いだろうに)
と思っていた。
これについて、後日に藤孝がふと気になって、光秀に聞いた事がある。光秀は上様への献上品として鉄砲を持っていくのに、中身が分かれば、そこで上様を害そうと企んでいると疑われて、奪われる事になるやもしれない事を考え、わざと中身が分からいないように、大きく包んでおいたのだ。
「上様、剣の道を極めれども、これには敵いませぬ」
光秀の言葉を聞いた義輝は内心で驚いていた。この時代、鉄砲伝来よりまだ十五年程しか経っておらず、鉄砲は高価なもので、庶民が手に入るものではない。
本格的な後世の戦のように、戦法に鉄砲を取り入れている大名もまだ少ない。
まして、浪人の身で鉄砲を持っていて、それをあっさり献上する者など他にはいないだろう。
もちろん、幕府にも鉄砲はあった。そこに一つ加わった所でどうということもない。義輝が驚いたのは、先程、自分と互角の剣の腕を示しながら、そのすぐ後に剣は鉄砲には敵わないと言ってのける、光秀の凄さをそこに認めたからであった。
「光秀よ、余に仕えよ」
鉄砲を光秀より受け取りながら義輝は言った。光秀は、少し間を置いてから答えた。
「明智家は、代々足利将軍家に御奉公しておりまする。ならば、我も上様のために、この身を捧げる事を、なぜに惜しみましょうや」
それを聞いて、義輝は豪快に笑った。
「光秀よ、先祖がどうとか、慣習などはどうでもよい。武士が仕えるかを決めるは、殿様の器量を見て、信じるに足るかどうかだけだ。どうだ、余を信じるか」
光秀は平伏していた頭を上げ、正面より義輝の顔を見てから答えた。
「一心の曇りもなく、信じまする」
光秀は本心からそう答えた。この将軍としては型破りな、しかし英気に富み、覇気と決断力があり、天性の武者振りのする義輝の人柄を好ましいように思っていた。
「明智十兵衛光秀、本日より、幕府足軽衆として細川藤孝付を命ずる。よって件の如し」
義輝は立ち上がりながら、光秀と藤孝に言い放った。義輝は去り際に、
「光秀よ、そちの砲術の腕は、また後日にでも、拝見させてもらうことにするぞ」
そう言い残して去って行った。藤孝は、去る主人を平伏して見送りながら、義輝と光秀のやり取りを心地よいものとして受け止めていた。
「公方様がお戻りなされた」
という、唯一人の男が都に戻って来たことを祝ってのことだった。この時、室町幕府も初代尊氏から十三代目を数え、将軍義輝の御世となっていた。
足利義輝の父である十二代将軍足利義晴は、管領である細川晴元の台頭により、実権を奪われ、名ばかりの将軍として知られた人物で、幕府の威信を取り戻そうと、戦いを挑んでは敗れて京の都を追われ、和解しては京に戻り、また戦っては追われてというのを毎年のように繰り返していた。
義輝が将軍職についたのも、そのような幕府にとって危急存亡の秋の事であり、失意の内にある父義晴より将軍職を譲られたのだ。
将軍宣下も京の都で盛大にとはいかず、近江坂本の地にてひっそりと行われた。今回の帰京も朽木の地にて五年の歳月を過ごした後、細川晴元の家臣で、主家の細川家より実権を奪って勢力を増していた三好長慶との講和がようやく決まったからであり、将軍として華々しく敵を打ち破っての凱旋とは程遠いものだった。
それでも都人が喜んでいるのは、将軍家を慕ってというよりは、
「これで戦が終わり、平和な世の中になるのでは?」
という期待感が人々の胸の内にあったからである。
将軍家の御供衆である細川藤孝は、京の町を歩いていた。
久しぶりの京で、都見物と行きたい所であったが、今の彼にはそんな余裕などはない。まだ若いとはいえ、官は従五位下兵部大輔であり、将軍義輝の側近と目される人物である。
藤孝は、名門細川家の出身ではあるが、細川管領家の出ではなく、元は、幕府奉公衆の三淵家の生まれで、その後、和泉細川家に養子に入った。
上背があり大力の男だが、力だけの武人とは違って藤原定家の歌道を受け継ぐ、二条流の古今伝授を受けることになる当代切っての文化人でもあった。
その彼が、たった一人で街を歩くのには理由があった。一つは、将軍義輝の身を守れる優れた武人を探すためで、もう一つは、目ぼしい商家を周って金を募るためであった。
もちろん金を募ると言っても自分の為ではない。幕府の金をである。であるからして、余計に深刻でもあった。本当の事を言えば人も金もあるのはあった。但し、それらはすべて、昨日までの敵であった三好長慶より与えられたものなのである。
その長慶は、今や幕府の相伴衆となり、幕府の実権を握って、将軍義輝を蔑ろにしようとしている。それを阻止するためには、三好家の息のかかってない人と金がいるのである。
将軍義輝が独自に動けるだけの備えが必要だと、藤孝は考えたのである。そのための資金調達のため、室町幕府のスポンサー探しに一人京の街を歩いていたのだ。
「ここも駄目か…」
吐息交じりで、何軒目かの融資を断られた藤孝が店を出てきた。
本来ならば、藤孝クラスの高官がする仕事ではないはずなのだが、それをお供も付けずに、一人で行っている所に、この男の面白さがあった。
もちろん、事を公にしたくない事情と、任せられる人材の欠落、さらに多人数でしらみつぶしに当って、幕府には金が無いらしいなどと、京の都人の噂になるのを憚る理由もあった。
京の人間には気を付けなければならない。長年、都であることへの誇りが、はっきりとは物を言わない京の奥ゆかしさという風土に育ててしまった。
だから、余計に噂話が立ちやすい土地柄となったのだ。口が堅く、身元がしっかりとした相手を選んで話をしなければ、たちどころに京中の噂になっている所だ。藤孝は、また街を歩き始めた。うつむき加減で、少し進むと人だかりがある通りに出た。
「何事か?」
藤孝は、人だかりをかき分けて、その先頭に立った。見ると、一つの商屋があり、そこに五人の無頼の者たちが、タカリを働いていた。
「こんな油を売ってるとは、許せねえなあ~」
男たちが店の者を通りまで引きずりだし、囲んで散々悪態をついている。今にも乱暴狼藉を行うのは、目に見えて明らかな状況だった。
「山崎屋?ここは油屋なのか」
看板をみて屋号を確認した藤孝は、のんきにも一人思っていた。しかし、もう見逃してはおけまいとも思い、一人で無頼の男たちに向おうとした時だった。
「この商屋に縁ある身にて、見逃せじ。助太刀致す」
野次馬より一人の武士が進み出て、すぐに一人を投げ飛ばし、また一人を殴り倒した。
仲間が倒されるのを見た二人の無頼の男たちは、刀を抜いて構えた。その武士の男は、身に付けていた刀の鞘を払うや、一瞬にして、その二人を抜刀した刀で倒してしまった。そして、残る一人は、それを見て逃げ出してしまった。
「安心しろ、峰は返した」
武士の男は、倒れている二人の男に言い放った。武士の男によって、手痛い目にあった四人の無頼の男は、互いに庇いながら、何とか立ち上がり、その場をスゴスゴと立ち去っていった。
その様子に、野次馬からは拍手喝采が起こり、その拍手の音で藤孝は我に返った。一連の武士の男の所作が素晴らしく、助けに入るのも忘れて思わず見入ってしまっていたのだ。
武士の男は、峰を返したと言っていた。これは、相手を斬る直前に白刃を返して、峰打ちした事を言っているのだ。直前でそのような事が出来るのは、相当な手練れである証拠だと藤孝は考えていた。
店の亭主らしき男が、しきりに謎の武士にお礼を言っていたが、武士の男は、そこそこにその場を立ち去ろうとしていた。
「謝礼も取らず、名乗りさえせず、今の時代になんて男だ」
藤孝は思った。見れば身なりこそ浪士風だが、姿形を言えば、どこかの大名の身分に連なる程の高貴さを感じた。
「これを逃す手はない!」
そう藤孝は思い、野次馬を押しのけて、立ち去ろうとする男に声をかけた。
「先程の大立廻り、お見事でござりましたな」
急に声をかけてきた藤孝を見て、男は怪訝そうな顔をした。
「怪しい者ではござらん。拙者、幕府に仕える細川藤孝と申す。貴殿の先程の見事な太刀捌きに感服し、声をかけ申した。ぜひ、貴殿の名をお聞かせ願えぬか?」
藤孝は、出来るだけ慇懃に対応した。
「拙者、美濃が住人、明智十兵衛光秀と申す」
藤孝の言葉を聞いて、いぶかしんだ光秀も、態度を改め丁寧に挨拶した。
「美濃の明智と言えば、土岐氏の出ですな。斎藤道三殿の事は、残念でござりましたな」
藤孝の言葉に光秀は少し驚いた顔をした。
光秀は、美濃源氏の名門、土岐氏の支流である明智一族の出身で、この時の美濃の守護大名は斎藤義龍だった。
義龍の父が有名な蝮の道三こと斎藤道三だが、この親子間で争いが起き、光秀の明智氏は、道三に光秀の叔母が正室となっている縁で道三側についた。そして不幸にも、道三は敗れて戦死し、明智城も敵の手に落ち、多くが殺されてしまった。
光秀以下、生き残った者達も、ばらばらとなってしまったのだ。光秀は、名門の領主一族の身分から、一転、浪人となってしまった。
藤孝の言葉に光秀が少し驚いたのは、現在、美濃守護である斎藤義龍の出生の秘密に関係しており、義龍は、今は土岐義龍を名乗っている。それには事情があり、道三の側室に深芳野という女性がいた。
この女性は、道三の旧主にあたる、つまりは、道三が追いだした元の美濃守護の土岐頼芸の側室だったものを、道三が賭けをして頼芸より譲り受けた女性だった。
そして、一年以内に義龍が産まれる。当然、ある疑惑が浮かぶ。義龍の父親は誰なのかと。そして、親子間に争いが生まれる事になる。
話が長く逸れてしまったが、要するに、土岐と名乗る以上、源氏の一族になる。足利将軍家も、もちろん源氏の一族である。足利家と土岐家は、繋がりのある遠い親戚であり、主従関係であった。
道三は、藤孝から見て何の縁もない。それを藤孝が残念だったと光秀に言ったのは、明智氏と道三との繋がりを知っていて、光秀に対する配慮から、そう言って見せた事に光秀は驚いたのであった。
「先程の商屋にご縁があるとか?」
「旧主の出にござれば」
藤孝の問いに光秀は短く答えた。そう言えば、蝮の道三は、油商人の出身だと聞いたことがある。それならば、あの時光秀が助けに入ったのも頷けると藤孝は思った。
「明智殿、旧主亡き後は、どうされておられる?」
藤孝は、それとなく現在の就職状況について光秀に尋ねた。こういう時は、面と向かって貴方は浪人ですか?と聞いては失礼になることを、もちろん藤孝は知っている。
「諸国を歴訪して、良き出会いを探しておりまする」
時は戦国の世であり、この時代の武士の概念として、武士は二君に仕えずと思っている者の方が少ない。
こういう時は、私は浪人で食い詰めており、仕官先を探していますとは言わない。出来るだけ、自分を高く売るために、要するに履歴書を良く見せるよう努めるのが常であった。
「先程の狼藉者は、切って捨てる事も出来たのではござらんか?」
藤孝は、やんわりとあんな連中は、切って捨てるべきだったと光秀に問うた。
「武士には、人を切るべき時と切らぬべき時とを、見定める事が肝要と心得る」
暗に、あんな連中を切ってもどうしようもないだろうと言う事を、光秀は言いたかったのだ。光秀と藤孝が話を続けていると、先程の狼藉者の内、逃げた一人がまだうろついていた。
それを光秀が見つけて追おうとした時、狼藉者の男は、立っている近くに牛車用の牛が繋がれている事に気づいた。男はその牛の紐を切ると牛のお尻を叩き、二人に向って牛をけしかけた。
すると牛は、二人に向って猛突進してきた。光秀はすぐに横に避けたが、藤孝一人が牛に対峙する格好となった。
「早くお逃げなされ!」
光秀は藤孝に声をかけるも、藤孝は光秀に笑みを向けるが、避けようとはしなかった。次の瞬間、牛は藤孝目掛けて躊躇せず突進し、藤孝が吹っ飛ばされるものと思った狼藉者の男は、一人喜びの声をあげたが、その期待とは裏腹に、藤孝は、牛の頭と角を正面から見事受け止め、牛の暴走を食い止めて見せた。
その気迫と、藤孝が男に見せた形相の凄みに、狼藉者の男は、恐れをなして逃げ去ってしまった。
「お見事!」
今度は、光秀が感嘆の声をあげる番であった。
「この次は、切るべき時でござろう?」
止めた牛をあやしながら、笑顔で藤孝は言った。光秀は、苦笑するしかなかった。
「その明智十兵衛と申す者、そんなに出来るのか?」
義輝は、藤孝に問いかけた。藤孝は片足をつき、慇懃にその手に持っている弓矢を若き主君に手渡しながら、義輝を見て答えた。
「腕は、上様以上かもしれませぬぞ?」
その言葉を聞いて、次の弓矢の的を狙っている義輝の手が止まった。そう言えば、義輝が興味を持たぬはずがないことを、藤孝は知っているのだ。
「そこまで藤孝が言うのだ。会おう、連れてまいれ」
藤孝は、光秀を主君義輝に推挙しようとしているのだ。前日の光秀と狼藉者たちとの大立ち回りの件を、義輝に詳細に報告した。
そうすれば、剣聖と謳われた、塚原卜伝より剣術を習い、その奥義一之太刀を伝授され、後世において、剣豪将軍と渾名された義輝が光秀に会いたくなる事を、藤孝は知っていたのだ。
「ところで、その明智は、今どこに住んでおるのだ?」
「御心配には及びませぬ。もう調べておりますれば、藤孝が行って連れてまいりまする」
義輝の問いに、藤孝は恭しく頭を下げた。下げた顔が思い通りに言って笑っているのを、義輝には見えずとも分かっていた。
「ずいぶんと奥に入って行くのだな」
光秀の家を訪ねる藤孝は、少し嫌になっていた。街の大通りからは、はずれにはずれて、普通の民家もない洛外を進んでいる。
その後、部下に光秀の居場所を調べさせたが、突き止めるまでに数日かかってしまった。洛外の辺鄙な所に住んでいるとは、分かりにくいはずである。
しかも、浪人には過ぎたる広さの家で、家人は、光秀の他に飯炊きの婆が一人居るだけであるという。そして、その家には大きな立札がしてあり、そこに達筆な文字で、「剣術指南身分問わず」と書いてあるというのだ。
「やはり、あの男はおもしろい」
これを聞いた藤孝は、改めて光秀に興味を覚えた。
以外に思われるかもしれないが、この時代で、道場を開いて剣術指南をする武士などいない。現代のイメージにある剣道の道場のようなシステムが出来るのは、江戸時代に入ってからであり、この時代に剣術を習おうとする者の方がはるかに少数だった。
この時代の武士は、剣技は、戦場で鍛えられる物との共通認識があり、わざわざ剣術を他で習おうなどとは、誰も思わないのが、この時代の普通の価値観であったのだ。
藤孝がおもしろがったのも、そのことを知っているからであり、また、そうでありながらも道場を開く光秀に改めて興味を覚えたからであった。
そうこうしているうちに、家の前についた。なるほど、例の立札が立っているが、中の様子を探るに、剣術を習いに来ている者など、一人も居なさそうだった。
「御免!」
藤孝は、門をくぐって声をかけた。すると、一人の婆が姿を現したので、光秀の在宅の有無を聞くと、道場の方に居るので、縁側に廻りなされと教えてくれた。
藤孝が縁側から進むと、成程確かに道場と言うべき部屋があり、そこに光秀が一人着座し何やら瞑想している様子だった。
「御免!」
藤孝は再度、声をかけた。声が聞こえた光秀は、眼を開けて瞑想をやめ、縁側の藤孝の方に目をやった。
「これは細川殿、そろそろ来られる頃と思っておりましたぞ。さあ中へ」
光秀は、そう言いながら、藤孝に家の中に入るように促し、藤孝もそれに答えて道場の中に入った。二人は向い会って座る格好となった。
「拙者が来られるのをご存じでしたか?」
「道場を開けば、いずれお声がかかるものと思っておりました」
問いに対する光秀の答えを聞いて、藤孝は喉の奥で唸った。この男は、京の都で道場を開けば、剣術好きの上様の耳に入り、いずれ人が訪ねて来る事までを狙っての事なのかと。
「ならば、用件の向きもご存じで?」
「むろん、明智光秀ご用件の向き承った」
光秀は、恭しく頭を下げて見せた。それを見て藤孝は満足の笑みを浮かべた。
二人は、義輝の待つ室町御所へと向かった。道中、光秀が背に荷を背負っているのを見て、その荷に藤孝は興味を覚えたが、
「上様への献上品です」
荷の中身を聞くも、光秀はそう言って、それ以上答えようとはしなかった。
二人が御所につくと、敷地内の白州へ通されて、しばらく待たされた。その間二人は、一言も喋らず、ただひたすら声がかかるのを待ち続けた。もうしばらく待ち続けると、一人の男が早足で床をドカドカ鳴らしながら近づいて来るのが聞こえた。二人はその音が近づくと、恭しく頭を下げた。
「藤孝帰ったか。明智を連れて来たな」
その声の主が、将軍義輝であることを光秀はすぐに理解した。
「上様、明智十兵衛殿にござりまする」
「お初にお目にかかります。御前に侍りまするは、美濃が住人、明智十兵衛光秀にござりまする」
藤孝の声を聞いてから、光秀は名乗った。それがこの時代の武士の慣習と言うべき物だった。
「光秀、面をあげよ」
義輝に言われて、光秀はゆっくりと顔をあげた。この時に、目線をやや下に落として、相手を直視しないようにするのも大切なポイントであった。
「光秀、苦労!」
義輝はそう言うと、白州よりあがり、奥の部屋へと行ってしまった。藤孝に促されて、光秀もその後に続いた。いくつかの部屋と廊下を抜けると、別棟に光秀の道場とは、比べ物にならないくらいの大きな道場が見えた。
御所内にまさか大道場を作るとは、上様の剣術好きも相当な者だなと光秀は思った。
「上様の肝いりで…」
光秀の心の声を聞いてか、藤孝が教えてくれた。二人が中に入ると、すでに義輝は木刀を取り出し、素振りをしていた。
「どうじゃ明智、余と一番」
光秀の姿を認めると義輝は持っていた木刀を光秀に投げてよこした。
「お相手仕ります」
木刀を受け取ると光秀は一礼して答えた。二人の激しい戦いが始まった。
この時代、木刀とは言っても、現代にあるような、刀の形状はしておらず、樫木を削って作り、太さも今の物と比べるとずいぶん太く、まさに木棒と言えるようなものであった。
二人の勝負は二本勝負で行われた。まず義輝が先手をとり、攻撃を仕掛けた。それを光秀が受けて反撃する格好となった。義輝の剣筋は、その性格を反映してか、正に剛剣と呼ぶに相応しい暫撃で、二人の剣が当る度に道場内に激しい音を響かせた。
しかし、光秀は、その剛剣を受けても物ともせず、反撃の機会を伺っていた。しばらく二人は互角の打ち合いを演じた。
長い時間、二人の真剣勝負は続いた。お互いに息を切らし、汗が飛び散る激戦となった。勝敗の行方は、二人の打ち合いが、三十合目に入った時に動いた。
光秀が下がりながら、義輝の剣を受けていた時に、床に落ちていた汗で足を滑らせ、それを見逃さずに義輝の一撃が光秀の左肩に決まったのだ。
「光秀、もう一本!」
そう言うと、義輝はこれが勝機とばかりに開始から激しく打って出た。しかし、二本目の決着は、一本目と違いあっけなくついた。
一本目と同じように義輝が攻め、光秀がそれを受ける格好となったが、義輝の暫撃に光秀が下がりながらも、一瞬の隙を見逃さずに、面抜き胴を繰り出して、義輝に一撃を見舞ったのだ。
「それまで!」
光秀の胴が決まるのを見て、藤孝は大声をあげた。
「光秀、お主の腕見事だったぞ。どこで剣を極めた?」
義輝と光秀は、道場の床に腰を下ろし、上半身を露わにして、身体の汗をぬぐっていた。
「これと言った師を持ちませぬ。諸国を巡り、身に付けたものにございまする」
本当の事だった。諸国を放浪して様々な人や、事柄に出会った。その実体験を通して、自然に身に付いたものだった事を正直に答えた。
「そうか、お主は諸国を巡っていたのか」
光秀の答えを聞いて、義輝は愉快そうに笑った。見事に笑う人だと光秀は思った。
「して、諸国を巡って他に知り得た事などはないか?」
義輝の問いに光秀は、藤孝に預けておいた荷物を受け取り、その中身を取り出した。上様への献上品と藤孝に言っていたものだ。
「上様、こちらを献上仕ります」
光秀が恭しく中身を取り出し、義輝に差し出すと、そこには一丁の鉄砲があった。
それを見た藤孝は心で、
(鉄砲だったか。道理で重たいと思ったわ。はて?なぜにわざわざ大きな包みを施したのだ。ここまで持ってくるのも重いだろうに)
と思っていた。
これについて、後日に藤孝がふと気になって、光秀に聞いた事がある。光秀は上様への献上品として鉄砲を持っていくのに、中身が分かれば、そこで上様を害そうと企んでいると疑われて、奪われる事になるやもしれない事を考え、わざと中身が分からいないように、大きく包んでおいたのだ。
「上様、剣の道を極めれども、これには敵いませぬ」
光秀の言葉を聞いた義輝は内心で驚いていた。この時代、鉄砲伝来よりまだ十五年程しか経っておらず、鉄砲は高価なもので、庶民が手に入るものではない。
本格的な後世の戦のように、戦法に鉄砲を取り入れている大名もまだ少ない。
まして、浪人の身で鉄砲を持っていて、それをあっさり献上する者など他にはいないだろう。
もちろん、幕府にも鉄砲はあった。そこに一つ加わった所でどうということもない。義輝が驚いたのは、先程、自分と互角の剣の腕を示しながら、そのすぐ後に剣は鉄砲には敵わないと言ってのける、光秀の凄さをそこに認めたからであった。
「光秀よ、余に仕えよ」
鉄砲を光秀より受け取りながら義輝は言った。光秀は、少し間を置いてから答えた。
「明智家は、代々足利将軍家に御奉公しておりまする。ならば、我も上様のために、この身を捧げる事を、なぜに惜しみましょうや」
それを聞いて、義輝は豪快に笑った。
「光秀よ、先祖がどうとか、慣習などはどうでもよい。武士が仕えるかを決めるは、殿様の器量を見て、信じるに足るかどうかだけだ。どうだ、余を信じるか」
光秀は平伏していた頭を上げ、正面より義輝の顔を見てから答えた。
「一心の曇りもなく、信じまする」
光秀は本心からそう答えた。この将軍としては型破りな、しかし英気に富み、覇気と決断力があり、天性の武者振りのする義輝の人柄を好ましいように思っていた。
「明智十兵衛光秀、本日より、幕府足軽衆として細川藤孝付を命ずる。よって件の如し」
義輝は立ち上がりながら、光秀と藤孝に言い放った。義輝は去り際に、
「光秀よ、そちの砲術の腕は、また後日にでも、拝見させてもらうことにするぞ」
そう言い残して去って行った。藤孝は、去る主人を平伏して見送りながら、義輝と光秀のやり取りを心地よいものとして受け止めていた。
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