水色桔梗光る〜明智光秀物語〜

たい陸

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第十一幕 ~天下人~

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 見事、信長親子を討ち果たした後の光秀であるが、すぐに軍事行動を開始している。まず、信長の本拠地であった近江に侵攻するべく軍を発しているが、これは既定路線であった。その道中の粟田口にて、光秀は吉田兼見(この当時は兼和)の来訪を受けている。

「此度は、おめでとうござりまする」
 兼見は、吉田神社の神官であり、官はこの時、正四位下であった。後に従二位まで上昇している。

 織田家と朝廷との折衝役を務め、細川藤孝とは従兄弟の間柄であり、光秀とも特に親しい関係にあった人物である。兼見は、前日に行われていた、本能寺での茶会に顔を出してはいない。主だった貴族がすべて出席しているにも関わらずにである。

 恐らくは、光秀より本能寺に近づかないように、諭されていたのではないだろうか?

「これにて貴方様は、天下人で御座りまするなぁ」
 再会を果たした兼見は、感嘆を込めてそう漏らした。しかし、この兼見の言葉は光秀にとっては意外な事でもあった。

「私が…天下人?」
「さように御座いまする。覇者たる信長公を討ち果たしたとあらば、それが理という物に候や。帝への取次は暫時、相務めまする」

 光秀が自身の中で漠然としていた「天下」という物を明確に意識したのは、実にこの時が初めてであった。いや、この言葉は正しく無いであろう。明智光秀が「天下人」に成る事を確信したのが、この兼見との会話からであったのだ。

 これまでの光秀にとっての天下とは、足利将軍家を援ける天下であり、覇者たる信長と見る天下布武の旅であった。光秀は、自己防衛の為に信長を討った。討たなければ、自分と家族と家臣一同が殺されていた。そう光秀は信じていた。そして、信長を討ってみれば、ここに問題が生じるのである。信長の後に誰が天下を取るのか、という問題である。

(この俺が天下を平定する)
 これが光秀の答えであったであろう。        恐らく、日本史上で最も強烈な謀反を成し遂げた光秀にとって、戦国を生き抜いてきた武将の血が滾るには、当然の事であったであろう。

「瀬田の唐橋が焼かれ申した」
 兼見と別れて、近江地方に進軍を続ける光秀の元へ、その報せが届いたのは、進軍を再開して間もなくの事であった。

「瀬田の唐橋を制する者は、天下を制する」
 この橋は、古来より京の行く道の重要拠点の一つである。琵琶湖より流れる瀬田川に掛かる、東口から京に向かう陸路で、唯一存在するのがこの橋であった。

 壬申の乱の最期の決戦場であり、恵美押勝の乱の舞台ともなった、歴史の重要な決戦に何度も登場する橋である。

 その橋を焼いたのは、瀬田城主である山岡景隆であった。この景隆は、天正三年に信長の命で瀬田の橋を改築した際の奉行を務めた人物である。その景隆は、光秀からの勧誘を断り、信長への忠義心を示すために、橋を焼いて、自身は軍勢を率いて山中へ逃れている。天下を制すると言われた橋を焼いたのは、光秀の天下を認めないと宣言したも同じ事であった。

「目に物を見せてやりましょうぞ」
 配下の幾人らは、光秀に景隆追撃の命を乞うたが、光秀は相手にはしなかった。

「橋の修復を急げ」
 光秀は、橋の修繕の差配を施し、そのために部隊を一部置いて、自身は坂本城へと帰還するのだった。

「お戻りなされませ」
「父上、此度はおめでとうござりまする」

 城に着くと光秀の後妻や、長男の十五郎光慶ら、家族が出迎えてくれた。殺伐とした戦の最中にあって、家族との時間が少しだけ、息をつける心地にさせてくれるのだった。

「次の戦は、この十五郎もお連れ下さりませ」
 光秀の嫡男である光慶は、この時十五歳であったと伝わる。ルイス・フロイスが西洋の王侯貴族の子息のようだと記した、生まれながらに優雅さを持った少年であった。光秀に似て利発であり、光秀も自身の後継者の成長に期待していた事だろう。

 しかし、それと同時に光慶の将来が不安でもあったであろう。織田家の実力主義中心の政策にあって、光秀の後継者が余りにも若すぎる為、自分の死後に残された家族がどうなって行くのだろうか?この思いが光秀を謀反に走らせたと見るのは、あながち外れではないだろう。

「そなたの初陣の舞台は、きっと用意するゆえ、城を母上と一緒に守るのだぞ」

 そう言って、息子に語りかける光秀の顔は、子煩悩な父親と何ら変わりない笑顔で溢れていた。この日の坂本城での光秀の様子は、瀬田の唐橋の復旧を待つ間に、別働隊を琵琶湖から近江地方の攻略へと向かわせる一方で、自身は、諸国の大名に対して、書状を送っている。

 主だった物で、越後の上杉氏、土佐の長宗我部氏、関東の北条氏、そして、中国の毛利氏にである。これは、当然ながら、自分に対して、敵対行動を取ると予想される織田家の諸将への牽制の為と、味方を募る為であった。

 本能寺の変、直後の織田家の状況として、滝川一益は、関東にて北条氏を牽制しており、柴田勝家は、越前にて上杉氏を追い詰めていた。

 信長の三男である神戸信孝と副将の丹羽長秀は、四国地方への侵攻の為に、渡海直前の状態で近畿地方に軍勢を集結させていた。そして、羽柴秀吉は、中国地方にて毛利氏と交戦中であり、その毛利氏を追い詰める働きを見せていた。

「この書状を、至急毛利へ」
 光秀は、今認めたばかりの書状を部下に手渡した。しかし、この毛利氏へ、信長横死の事実を伝える書状が、光秀自身の運命をも変える事になるのである。


「さて、肝要なる家康殿への使者は、誰を遣わそうか?」
 光秀は、一人自室に籠り思案していた。その時であった。

「殿、客人が…」
 小姓が報せに来たのだ。
「それが、何とも面妖にて…」
 その小姓によれば、客人と称するのは、一人の浪人風の男であった。それが、名乗りもせずに城に来て、

「わしは、十兵衛の友じゃ。通せ!」
 と呼ばわり、城内に入ってしまったのだ。明らかに不審者であるのだが、門番も城内の人間も、この男の異様な様子に気圧されて、つい通してしまったという。

「そうか!奴が来たか!」
 光秀は、何かに気づいた様子で、自室を後にし、小走りにその男が待つ部屋へと向かうのだった。

「上様に何用でござるか?」
 その男が通された部屋では、重臣の秀満が対峙していた。さすがに筆頭家老と言うべきか、他の者とは違い秀満は、その男の持つ、不思議な力に気圧される事なく、その男の前に着座していた。

「やれやれ、あの明智十兵衛が上様とは…」
 男は、そう言うと可笑しさを堪えきれないと言わんばかりに、その場に文字通りに笑い転げた。

「おのれ、愚弄するのか!」
 無礼な男の態度に、秀満は横に置いてあった佩刀を手に取り、片膝を立てて、すぐに抜ける態勢を取った。

「秀満よ、その男は確かに私の友であり、砲術の師だ」
 この緊迫した状況で光秀は顔を出した。その顔には、笑みが零れている。

「やはりお主か!重兵衛。御門重兵衛」
「おう、確かにわしじゃ。そなたの顔を見に来た」

 光秀が上座に着座すると共に、不満顔の秀満がその部屋を後にした。
「二人にしてくれ」
 その言葉に、秀満は異議を唱えたかったが、二人の間に、自分も知れない冒し難い雰囲気を感じて、何も言わずに退室したのだった。

「あの時の約定を果たしに来た」
 重兵衛は唐突にそう切り出した。光秀は、一つコクリと頷いた。
「覚えておったのだな?あの時の事を…」



 それは、光秀がまだ織田家にも足利将軍家にも仕えて居ない、若かりし浪人時代の話しであった。光秀は諸国を歴訪し、自らの経験を積むのと、仕えるに値する主を求めて旅をしていたのだった。

「いい具合に村があるぞ。今夜はここに宿を求めよう」
 ちょうど、陽が陰って日没を迎えようとしていた。光秀は、丘の上より見えた村落の炊煙が昇る家へと近づいて行った。

「何だ?様子がおかしい…」
 異様な気配を感じた光秀は、すぐに物陰に隠れる。すると、五、六人の怪しい風体をした男達が、その家の前にたむろしているのが見えた。光秀は、見つからぬように身を屈めながら進み、その家の横に再び身を潜めると、窓枠から中の様子を覗き見た。

「酒を出せ!あるだけ持って来い」
 中の様子を伺うと、一目みて状況は明らかであった。この家は、村の長の物なのか、屋敷の作りが他の家より立派であり、中には、酒を囲む十数名の男たちがいた。それに酒をむりやり注がされている様子の娘達が五、六人。さらに見ると、土間には、この男たちに殺されたのか、二名の遺体が転がっていた。

「盗賊か?数が多すぎるな…」
 光秀は、一人である。助けたくとも多勢に無勢であった。

「中に居るのは、ひい、ふう、みい、よう…」
 屋敷内に十二名の男、その中心に頭らしき男が娘を二人侍らせている。それに、表に見張りなのか、さらに五名の男がいた。合計で十七名の盗賊であった。

「こんな所で、命を落すべからずだ」
 光秀は心の中で、盗賊に弄ばれる娘達に詫びながら、身を翻して、その場を去ろうとした。

「パリンッ」
「この、小娘が!」
 その時であった。盗賊の頭である男に、酌をしようとした娘の一人が誤って、酒をかけてしまったのだ。頭の男は、娘を蹴り飛ばすと、自らが持つ太刀の鞘を払った。

「わしに粗相をすれば、どうなるかを思い報せてやる」
「ひぃーっ、誰かお助けをーっ!」
 娘は、助けなど来ない事を頭では理解していても、叫ばずには居られなかったのだろう。そして、その叫びは、確かに一人の若武者の心に響いていた。

「ドガッドーン!」
 その時であった。土間の勝手口を蹴り破った光秀が、太刀を片手に乗り込んできたのだった。

「何だ?貴様は!」
 近くに居た、二人の盗賊がすぐに光秀に気づいて、睨みつけながら近づいてきた。

「ズバッ!バシュッ!」
 光秀は、無言でその二人に有無を言わさず袈裟懸けに斬って、もう一人を返した刀で首に鋭い突きを喰らわせていた。辺りに二人の鮮血が飛び散った。その血しぶきを受けて真っ赤に染まった光秀が、その場に立って頭の男の方を睨んでいた。

「これ以上、乱暴狼藉を働くの言うのなら、斬る!」
 この冷静沈着な男としては、珍しく頭に血が上って、周りが見えて居なかった。光秀は、すぐに周りを盗賊たちに囲まれて、身動きが取れない状況となってしまっていた。

「何だ?貴様は!」
 頭の男の問いに、光秀は無言であった。答える余裕などなかったと言うべきか。光秀の正面にも右にも左にも斜めにも背後にも、盗賊たちが、今か今かと光秀に襲い掛かろうとしているのだ。

「まあいい。貴様が何者でも関係ないわ。殺せ!」
 頭の男は、非常な命令を下した。光秀自身も最期を覚悟した。このような所で若気の至りで死に行く、自らの運命を呪おうとした。

 が、その時であった。
「ドーーンッ!」
 一つの大音が辺りに轟いたのだ。
「ドサッ」

 そして、その音が鳴ったと同時に、頭の男が仰向けに倒れていた。
「し、死んでいる。一体、何をしたんだ?」
 頭の死を理解した盗賊たちに不安と恐怖が伝染するまで、そう長い時間を要しなかった事だろう。

「これで分かったであろう。私に刃向えば、お前たちもこのようになるぞ」
 光秀は、そう大喝すると、剣先で倒れている頭を指し示した。それだけで、盗賊たちが逃げ出すのに十分な演出効果を発揮したと言えた。

「こいつ化け物じゃ。妖術使いじゃ!」
 頭を失った盗賊たちは、口々に光秀を罵りながら、我先にその場を逃げ出していった。一人残らず盗賊が去ったその屋敷内には、脅えて蹲る娘達と光秀だけが残されていた。

「銃痕だな…」
 冷静さを取り戻した光秀は、頭の男の眉間から滴る血と、その先に空いた穴を眺めながら呟いた。

「一体誰が?」
 光秀がそう口に出した時に、表の戸が無くなった入口より、一人の男が入ってきた。

「お前さん、若いのにあの人数の前に飛び出すとは、いい度胸だ!」
 男は、入って来るなり、そう言うと、豪快に笑っていた。その男の背には、一つの鉄砲があった。

 その男が、この村に数日前から来ていた旅の者であることは、娘から聞いて分かった。
「一宿一飯の恩を返すために森に入って、鳥を獲るために、村を離れた隙を突かれたわ」

 男は、そう言うと、手に下げた二羽の野鳥を見せて笑った。

「砲術は、貴殿であったか?御助勢忝い」
 光秀は、そう言うと頭を下げた。

「礼には及ばぬ。頭の男を撃つ機会を、あの岩場の影より狙っておったのだ」
 男が差し示したその岩場は、この暗闇で微かに確認出来るぐらい、距離が離れている所にあった。

「あの距離より、格子窓の間をすり抜けて、眉間に当てたと言うのか?」
 それは、にわかには、信じ難い事実であった。

「いや、咄嗟の機転で、銃声を妖術に変えた貴殿の理知こそ、驚嘆の限り」
 二人は、そう言うとニヤリとして、心の中で互いを認め合うのだった。

「あの、もし、助けて頂きありがとうございました。ぜひ、お名前を!」
 気を取り戻した娘の中の一人が光秀に話し掛けてきた。

「これは失礼致した。拙者、明智十兵衛光秀と申す。しがない浪人に御座る」
「何?貴殿は十兵衛と申すか!わしも重兵衛じゃ。御門重兵衛じゃ」

 これが、十兵衛と重兵衛との出会いであった。二人は、その晩をその村で過ごす事にし、共に酒を酌み交わした。夜が明ける頃には、すっかり打ち解けて、しばらく旅を共にすることも決めていた。

「ドーーンッ」
 ある清流が流れる側で、光秀は重兵衛より、砲術の手ほどきを受けていた。
「そこは、脇を締めて。もそっと顎を上げよ」

 数か月間を重兵衛と共に過ごした光秀にとって、重兵衛は、砲術の師でもあり、友と呼べる存在となっていた。

「ふむ、まだまだわしには及ばぬが、そなたの上達は、末恐ろしい程じゃわい」
「師の御教示の賜物としておこうか?」
 光秀は、軽口を叩いたが、内心では重兵衛に感謝してもいたのだ。

「のう十兵衛よ。そなたは、砲術の腕を磨き、諸国を巡って、一体何をするのだ?何を目指すのだ?」
 重兵衛は、そんな事を口にしてきた。その眼は真剣であった。

「私は、源氏の名門たる土岐明智氏の出だ。今は、落ちぶれたとは言え、それは変わらぬ。私の望みは、この戦乱の世を終わらせる君に仕え、自らの腕を振るって、再び家名を起てる事だ」

 重兵衛の真剣な表情に、光秀も何時になく真剣に答えていた。思えば、このように事を他人に話したのも、初めてかもしれなかった。

「それが侍と言う者かのう」
 重兵衛は、そう言って、川の流れに視線を落とした。何時もなら、光秀が何か真面目な事を言っても、それを茶化してしまう事が多い、重兵衛であったが、光秀の真剣な言葉には、それをしなかった。男が夢を語るのを決して邪魔してはならない。そんな不文律の決まりごとが、二人の間には、存在するかのようであった。

「重兵衛、お主はどうするのか?」
「わしか?わしは武士では無いのでな。そなたのような大望などは無い。わしは、近江の刀鍛冶の倅として生まれた。砲術に早くから長じたのもそのためさ。しかし、わしの母者は道々の者であったのだ。わしにもその血がながれておる」

「わしの望みは、誰も主を頂かず、生を全うすること也。しかし、もしもそなたが大望を果たしたあかつきには、友として、そなたに力を貸そう」

 重兵衛が自分を語るのは、これが初めてであった。数か月の付き合いではあるが、極端に自分の事を話したがらない節が重兵衛にはあって、光秀もそれが気になってはいたのだ。

「おう、私はいずれ天下人になるぞ。さすれば、私を助けよ」
「抜かしたな。武士に二言はあらずじゃ」
 二人はそう言って、心から笑った。若き良き思い出であった。



 その後、旅の途中で二人は別れ、光秀は、足利将軍家に仕え、後の織田家へ仕官した。重兵衛は、根無し草らしく、人生を流れて旅を続け、何度か出会う機会があったのだが、遂にそれは果たされないままであった。

 その理由を光秀も重兵衛も分かっていた。かつて、信長を狙撃した名手が誰であったのか?それが意味する所と、友と敵になってしまった自分との葛藤を、二人は語り合わずともすべて知っていたのだった。

「あの時の約定を果たす。が、その前に一つ問いたい儀がある」
 光秀と重兵衛は、坂本城の客間にて対峙して座っていた。重兵衛は、身を乗り出して、光秀に近づく。

「十兵衛、そなた何故に主を討った?」
 それは、友だからこそ聞ける言葉であったろうか?歴史を知る人間であれば、誰しもが聞いてみたい問いであっただろうと思うのだ。

「信長公を私が討ったは、私と家族と、家臣一同の行く末を慮っての事だ」
 光秀は、心の内を素直に話したと言えた。その言葉には、嘘偽りは無かった。重兵衛はそう思った。

「為らば良い。そなたが、天下のためだとか、領民のためなどと、ご託を並べておれば、わしの手でそなたを討っておったわ」

 それが友として出来るせめてもの事だと重兵衛は言った。重兵衛の言葉に光秀は、頭を掻いて誤魔化すしかなかった。二人の間に一瞬流れた緊張がそれで解けたと言えた。

「まずは、一献を先生」
「先生はよせ」
 運んでこられた酒を光秀は自ら重兵衛の杯に注いでやる。

「のう十兵衛。わしはもう一人の弟子をな、何とか正道へ戻したかったな」
 信長が安土城を建てた直後に、重兵衛は信長の元を訪れていた。信長が安土の街を巡察していた所に、まるでふらっと立ち寄ったかのような体で。

「以前にわしは奴に言ったのだ。正道を外れたならば、わしが貴様を討つとな」
 重兵衛は、話す内容に比例しない口調と表情で語る。光秀はそれをだまって聞いている。

「もうわしを撃ったではないか?」
 信長はそう言って、笑った。そして、その後にこう付け加えた。
「これ以上、余の天下布武を邪魔するならば、如何なお主でも許さぬぞよ」
 信長は、重兵衛に感謝していた。偽りではない。少年時代に漠然と考えていた、天下への夢を現実とする種子島銃という、きっかけを作った重兵衛を高く評価していたのだった。

「致し方なし!」
「次は戦場でまみえようぞ!」
 二人は、安土の街角でそのまま別れた。一人は、安土城の天守閣へと登り、一人は、またさすらいの旅へと戻って行った。その信長はもういない。

(さらばだ!)
 重兵衛と光秀は、何も言わぬままほぼ同時に、杯を空にするべく、一気に流し込んでいた。それはさながら、この場に居る事の出来ない、もう一人の弟子に対しての鎮魂の手向けのようであった。


 重兵衛が光秀の元を去ったのは、それから一刻後の事であった。
「あのような輩に、重要な案件を申しつけて宜しかったのですか?」
 重兵衛が去った後に、別室にて事の次第を聞いていた秀満が現れて問うた。

「他に居らぬ。書状を送っただけでは、我が意は伝わらぬ。かと言って、そなたを含めて、使者が務まる家臣は、これから近江攻略へと向かわねば為らぬ。大丈夫じゃ。あの男であれば!」

 結局、秀満がこの件に対してそれ以上追及しなかったのは、瀬田の唐橋の復旧工事が取り敢えず整い、軍勢が渡れる目途が立ったからであった。

「行くぞ秀満よ。これからが正念場ぞ」
 光秀は、そう言うと、活発にその部屋を後にした。その背を見ながら秀満は、自分の体内に武士の血が滾るのを感じて、戦慄していたのだった。

 光秀が近江攻略を完遂して、信長の居城であった安土城に入ったのは、六月四日の事であった。光秀の眼前には、安土城建設の時に、信長が帝の行幸を実現させる為に作らせた、天主閣まで続く一本の大通りが広がっていた。皮肉にも、その道が信長を倒した光秀を次の主として、迎え入れているかのようであった。

「上様万歳!」
「光秀様万歳!」
「天下人様!」

 大通りの左右には、光秀の家臣一同が、光秀の到着と安土入城を歓び、歓声を口ぐちに上げていた。中には、光秀を「上様」と呼んで、感激の余り、涙を流す者の姿も見られた。その自分を迎える者達に光秀は、右手を挙げて答えながら、馬を進めていた。

(遂に…遂に、ここまで来たのだ!)

 光秀の中には、天下という、その実感が形となって現れてきているかのような思いを味わっていた。この時、明智軍は、信長の安土城、丹羽長秀の佐和山城、秀吉の長浜城をすでに攻略し、近江地方をほぼ手中に治めていた。光秀の天下取りは、現実の事として、着実に進められていたのであった。

「ポロンッポロンッ」
 やはりここで御座りましたか。秀満の眼前には、琵琶湖の雄大な景色が広がっていた。その一室にて、オルガンを人差し指で鳴らす、光秀の姿を認めたのだ。ここは、城の最上階に位置する信長の自室であった。信長は、当時としても珍しく、城の天主閣の最上階に自室を持ち、実際にこの部屋で寝食を行ったと言う。

「このオルガンと言う物を、何時か弾いてみたいと思うておった」
 光秀は、子供が新しい玩具を与えられたかのように、無邪気に一つ一つの音色を楽しんでいた。

「見よ秀満。この琵琶湖の素晴らしき眺めよ」
 光秀は、右手を自分のおでこに水平にし、遠くを眺める仕草をしていた。

「申し訳ござりませぬ。我ら家臣一同、上様に多大なご無理を強き申した」
 光秀が振り返ると、秀満が光秀に対して、深々と頭を下げていた。光秀は、聞かずともその意図を理解していた。

「何を申すか。そなたらが居らねば、とうに私の首は無かったわ」

 光秀は、頭を下げたままの秀満に近づくと、その肩に手を置き、この娘婿を慰めるのだった。秀満の心の中では、今度の信長打倒を光秀が決意したのは、自分たち家臣一同を護るためだったと考えていたのだ。そのために、主君に悪名を着せてしまったのではないかと、一本気な性格の秀満は、忸怩たる思いに捕られていたのだろう。

「後悔するよりも、先に進もうぞ。我ら明智家の皆に、信長公を討った後の世の中に対する責任がある。それを取る為にも、わしは天下人に成るのだ」

 これが、光秀が始めて天下人に成る事を公にした、最初の一言であった。光秀は、信長の居城であった安土城を占拠し、近江地方を支配下に治める事で、現実的に天下を掌握する事を確信出来たのだろう。その行為が、この信長の居ない部屋で、オルガンを弾く儀式であったのかもしれない。

「ポロンッポロンッ」
 再びオルガンを奏で始めた主の姿を見ながら、秀満は、新しき世の中の到来を予感していたのだった。

 安土城を占拠した光秀は、寝る間も惜しむほどの多忙を極めていた。まず、城内に置かれていた金銀財宝を家臣一同に分け与えて、その士気を高めている。そして、この間にも方々に使いを送り、味方を増やし、敵対する者が居ないか?織田家中の者で、自分に兵を向ける者が居ないのかを見極めようとしていたのだった。

 今光秀は、多忙の疲れより、執務の最中に夢を見ていた。その夢の中で、安土城落成の日に、信長が石垣の高台より、集まった家臣一同に、見物に訪れた民衆を前にして語った事を思い出していた。

「皆聞けーーっ!」
 信長は、右手を広げて合図をする。その遠くからも良く聞こえたという、彼特有の甲高い声が辺りに鳴り響いた。
「余の所に、バテレンの宣教師どもが海を渡って訪れる事がある。その者どもが言うには、この日の本は、世界の果てに位置する恵豊かな国であると…」

「国の学者共が余に言った事がある。この国の先祖は、大陸より追われて渡ってきた弱者であったと。しかし、果たしてそうだろうか?余は思う。我らの先祖は、新しき世を求めて、世界の果てまで旅した強者であったと。その強者たる者達の末裔が我ら侍である…」

 その場に居る何百という聴衆は、皆信長の言葉に耳を傾けていた。そして、その場を照らし出していた陽の光が、丁度信長の背によって隠れてしまった。演説は続く。

「我ら兵(つわもの)どもの使命は、この国を一統し、再び世界の果てを求めて、旅をする事にある。皆の者、余と共に来よ!」

 信長の演説が終わったその瞬間、隠れていた陽の光が、信長の背より漏れ溢れて、その場に眩しい程の光を放っていた。まるで、信長が、その光の中より生まれてきたような、そんな錯覚を起こさせていた。

 その場に居た、信長が兵(つわもの)と称した侍達は、一人残らず信長に傅いて頭を垂れた。残りの民衆の中にも、信長を仏に見立てて、手を合わせて拝む者が多数見られた。
 光秀自身も、信長の中に神仏を見た心地がしていた。


「上様、上様…」
 その小姓の言葉で光秀は、夢の中より引き戻されていた。
「夢をご覧にござりましたか?」
 目を覚ますと、目の前には秀満が座っていた。

「うむ、いつの間にかに眠っておった。いつぞやに上様が、この城の石垣で語った時の夢じゃ。覚えておるか?」
「あの時の事、忘れてはおりませぬ」
「上様は、いつの時も先を見ておられた。大した御仁で在られたわ…」
 光秀は、そう言って遠くを見るように視線を上にしていた。

「殿、お休みの所申し訳ございませぬが、只今、都より、朝廷の使者が安土に到着したとの報せが参りましてございまする」

 光秀は、それを聞いた瞬間立ち上がった。それが、何を意味するのかを良く理解していたからであった。朝廷の使者が光秀の元を訪れたと言う事は、光秀の政権を認める意志表示に他ならない。光秀は、重要な使者を迎える為に、かつて信長の執務室であったその部屋を後にした。
 
「貴方様でありましたか」
 勅使は、京にて再会を果たしていた、吉田兼見その人であった。
「此度の義挙、改めてお喜び申し上げまする」

 兼見は、上座から光秀に深々と頭を下げた。光秀もそれに倣い、同じく頭を下げた。顔を上げた二人は、同時に笑みを浮かべた。二人とも随分と穏やかな微笑みであった。長い間を過ごしてきた友人同士であった二人には、ここで顔を合わせただけで、お互いが今感じでいる事が、理解し合えていたのだろうか。
 兼見は、自身の書いた日記に、安土にて光秀と存分に談合致し候と記している。

「誠仁殿下より、京の事を頼み入ると」
 この兼見が発した言葉を受けて、光秀は力強く頷いた。

(京都の儀、別義無きの様、堅く申し付くるの旨仰せ也)

 兼見卿記には、朝廷よりの言葉として、そう記されている。それが意味する事の重要性を理解していたからであった。光秀に頼むと言った事は、信長後の光秀政権を朝廷が認めた事に他ならなかった。であるからして、兼見は、改めて祝いの言葉を口にしたのだろう。

「して光秀殿、今後の手立ては…」
「うむ、さればで御座る」
 光秀は、そう言うと、日本地図を持ってくるように小姓に命じた。

 この時の日本の情勢であるが、光秀が考えていた政権構想と密接に係っている。信長が死ぬ寸前の状況をみると、織田家の版図は、日本の半分とは言わないまでも、それに近い所までに大きくなっており、中国地方の毛利氏、越後の上杉氏、四国の長宗我部氏を滅ぼすのも時間の問題であった。

 ともすれば、残るは関東と東北地方、それに九州が残されるだけであったが、北条氏は信長には恭順の意を示していたし、後の独眼竜である伊達政宗は、まだ歴史の表舞台に立っては居ない。残す所は、九州で勢力を強めていた島津氏であったが、これも織田軍には敵わなかったであろう。

 つまりは、信長がそのまま健在であったのならば、近い将来に日本統一を成し遂げていたであろう事は、今も当時も言われるまでもない事実であったのだ。

 この事実を踏まえて上で、そこに光秀による信長襲撃が成功する。ここで、頭に地図を思い描いて頂きたい。京周辺にポッカリと空いた、純軍事的な空間を埋めるためには、一体どうする事が最適だろうか?光秀は、それを考えていた事だろう。

「五十日無いし、百日程で京洛周辺及び、近畿周辺を平らげ、地盤を盤石に出来申そう」
 周辺地域に居る諸将は、光秀参下の武将が多く、光秀がそう考えられる根拠があった。では、各国へ軍勢を派遣している織田家が誇る軍団長はどうだろうか?

「柴田修理殿が、一番にこちらに向かって来るとの専らの事」
 地図を見た兼見が、京の公家どもが話している噂話しを聞かせてくれた。
「その越前・加賀の柴田勝家でござるが…」

 柴田修理大夫勝家は、織田家の宿老であり、家臣の要とも言うべき人材であった。武辺の人であり、また織田家の武を体現するような武将という評価が定着している。この分、智に傾斜するように思われる羽柴秀吉とは、対局のような存在であろうか。この両者に比べれば、信長は知勇の均衡が取れているように思われるが、信長もその性格上、武を好むので、智将と言うよりは、勇将と言える。
 
 では、明智光秀であるが、智に傾斜するように思われている人が多いようであるが、実際には、その軍の統率、計略、政治などを見てみると、この時代で、一番知勇の均衡が取れた武将であったと評価せざるをえない。

 勝家の話しである。勝家が本能寺の変の報せを聞いたのは、六月七日の事であったと言う。この前の六月三日に苦労して、上杉軍の魚津城を落したばかりであった。報せを聞いた勝家は、即時全軍に撤退命令を下した。配下の将であった前田利家と佐々成政にも領国へ引き上げるように言って、自分も越前国に引き上げている。

 その時に上杉軍によって、手痛い追撃を受けており、すぐに光秀を討つために、京に上って来るとは考えられなかった。

 この事を本能寺襲撃後に、早い段階から書状のやり取りを上杉と行っていた形跡がみられる光秀である。恐らくは、勝家の状況を正確に分析していたのではないだろうか。

「柴田修理は、動けぬでしょうな」
「では、神戸・丹羽はどうでござろうな?」

 信長の三男である神戸信孝と重臣で副将である丹羽長秀は、一万の大軍を率いて、四国征伐の為に堺に兵を集結させており、本能寺の変がなければ、そのまま渡海していた筈であった。

 この一軍が光秀を除けば、京周辺にて最も兵数を有する軍団であった事から、反転して光秀を討つべく兵を挙げるのは、信孝であろうと目されていた。光秀もそれを危惧して、京の先にある勝竜寺城に重臣の溝尾庄兵衛を入れて、対抗処置を施している。

 しかし、信孝軍は動かなかった。いや、動けなかった。まだ徴兵されて間もなかった軍勢が大半であった事が災いして、本能寺の変による信長・信忠の横死が知れると、軍団は半狂乱状態に陥り、兵の大半が逃げ散ってしまったのだ。これには、信孝も重臣で智将と言われた丹羽長秀も成す術もなく、残りの兵をまとめて、大阪城に入っている。

「信長公死後の織田家を、どうなさるおつもりか?」
「これは、まだ秘中の事ながら、信澄殿に任せようと考えている」

 津田信澄は、信長の弟の子、つまりは甥にあたる。その父信行は、信長との家督争いの為に殺されていた。津田姓を称していたが、織田家での一族の序列は高い方であり、信長も期待をかけていた。「一代の逸物」と称される大器であったという。実は、光秀の娘を正室に迎えていた。

 その信澄であるが、光秀との縁を疑心に見られて、大阪城にて信孝と長秀の謀殺に合い、命を落している。妻である光秀の娘がその後どうなったかは、歴史の闇に消えたままである。

「関東では、滝川軍が北条軍により、反撃を受けた由…」
 関東管領の地位にあって上野にいた滝川一益は、不利と承知しながらも関東の諸将を集めて信長の死を伝えたと言われている。先君の仇を討つべく、京に上る事を表明した。この事に感じ入った関東の諸将らは、動揺しながらも一益と共に、北条軍と戦う事を決意していた。

「ありがたい。関東武士の心意気、一益生涯忘れぬ」
 一益はそう言って涙を流した。

 しかし、この北条による追撃戦で大敗を喫し、辛くも領国である伊勢・長島城に辿り着いたのは、すべての事が決した後であった。他に甲斐国を任されていた、かつての信長黒母衣衆筆頭の河尻秀隆は、甲斐国人一揆にて殺害されており、森蘭丸の兄である森長可も信濃を放棄して、尾張国へ向かっていた。

「羽柴筑前は、毛利と対峙しており、援軍を求めておった程であるため、こちらに兵を向けようとすれば、後ろから毛利に討たれよう」

 光秀は、そう考えていた。しかし、結果を知っているというだけで、後世の我々が勝手を言うのは簡単な事である。
「三河守殿は如何致し申した?」
「三河殿は、我が陣営に取り込む所存」

 その三河守こと徳川家康は、本能寺の変を堺見物中に報せを聞いていた。信長・信忠親子の死を知った家康は、狼狽し知恩院にて腹を切ると言ったとされるが、本当かどうかは分からない。家康が狼狽したのは、本当であっただろう。そこに光秀の使者と名乗る男が現れる。光秀に託された御門重兵衛その人であった。

「我は御門重兵衛と申す者也。三河太守殿に、本能寺の真のカラクリを仕り候」
 重兵衛は、そこで、信長による家康討ちと三河侵攻の謀議と、それを逆手に取った光秀の計略であった事。そして、今後信長が生きていたならば、光秀・家康を含めた主だった武将たちが、その餌食になったであろう事を語ってみせた。

「俄かには、信じがたき仕儀なれど…」
 その場にいた誰しもが、重兵衛の言葉を聞いて、すぐには反応が出来ずにいた。

「そなたの申し状は、真であろうな?もしも間者であったならば…」
 若い井伊直政が血の気が多い事を口にした。それを年長の石川数正が止めに入る。

「我は光秀の友であって、家臣ではない。従って、申し伝えども、この儀を成立させる責任はござらぬ」

 重兵衛は、そっけなく答えた。しかし、この光秀と友であると言った言葉が、その場の空気を変える転機となった。

「殿、日向守殿の申す事、最も也。周りをご覧下され」
 最初に口を開いたのは、謀臣の本多正信であった。家康に「我が友」と言わせし男である。家康とその場に居た家臣一同は、正信が言ったように互いの顔を見合わせていた。

「そうか!そうか!」
 そして、家康がポンッと手を叩いた。この二人のやり取りには、古参の臣であっても入っていけないような空気が流れる事があった。

「殿、一体何が分かったので?」
 堪らず、本多忠勝が家康を促した。

「良く見ろ。ここに居る者の顔触れを。信長公に申しつけられた通りに、三河の主だった武将が集まっておるわ」

 この時、家康と共に堺に来ていた者は、主だったものでも、本多忠勝、井伊直政、榊原康政、本多正信、酒井忠次、石川数正、大久保忠隣、大久保忠佐など三十数名であった。これらは、家康が言った通りに、徳川家の首脳陣であった。
「ここに居る皆を、一箇所に集めて片付けてしまえば…」

 正信はそう言うと、右手拳を顔の高さまであげてから、それを広げる仕草をした。一間の終わりという意味である。

「それに武田滅亡後に、我が領内を通った信長公の態度と言い、安土での明智殿の意を含んだ物言いといい、今思えばすべてに合点がいく」

 その瞬間、家康の気持ちは決したと見て良い。家康の表情を見た家臣一同は、瞬時に主君の気持ちを理解していた。

(良き主従也…)
 重兵衛は、心の中でそう思っていた。
「これからどうなさるおつもりで?」
 重兵衛の問いに、家康は短く答えた。

「領内に戻る。しかる後に、織田家打倒の旗を立てる」
 重兵衛は、この家康の実直な人と也を好ましく感じていた。

 そして、この出会いが、その後の運命を変える事になるとは、まだ誰も知らない。

 その後の家康であるが、所謂「神君伊賀越え」を成すべく、京都の豪商である茶屋四郎次郎の財力を背景に、諸国人を懐柔し、また服部正成ら伊賀出身の家臣を介して、伊賀忍者らの協力を取り付けて、無事に領内へと帰還を果たしている。

 この道中に不審な点が一つあり、同行していた穴山梅雪が家康らと別れて、途中で一揆により命を落した事件の事である。梅雪は、武田一族であったが、信長に寝返り、今では武田家惣領の地位を信長より約束されていた。

 ここに松平家忠という家康の家臣が出てくる。この家忠は、その日記の六月四日付けで穴山切腹の由と記している。一揆に殺されたとは記していない。梅雪は一体、誰に切腹させられたのだろうか?家康が領内に帰還した後に攻めた所を考えれば、答えはおのずと見えてくると思うのだが…。

 その六月五日の日記には、登城したが着城した家康より、出陣の支度をするように命じられたので、一度帰ったと記録されている。

「殿、それは誠でござろうか?」
 三河に戻った家康の命令に、国元に残っていた家臣の多くは、面食らっていた。しかし、家康に帯同して京の事変を潜り抜けた者達は、さも当然であるという顔をしていた。

「西三河衆には、西陣して明智軍に合流せよ。駿河・遠江・東三河衆は東陣して、甲斐・信濃へ侵攻する」

 この時、甲斐・信濃は、当然ながら織田家の領土であった。主君である信長が死んだ直後にそこに軍を進めるのは、敵対行動以外の何物でもなかったのだ。家康の中に最早、迷いはなかったのであった。

 家康が、光秀に味方する事を決意していた時に、光秀は安土城にて、兼見と協議を重ねていた。兼見は、朝廷の勅使であり、友人関係でもあり、光秀にとって欠かす事の出来ない重要人物であったからである。その兼見に我が意を知ってもらえば、すなわちそれが、朝廷を動かす事に繋がっていくのであった。

「朝廷と民は、どうなさるおつもりか?」
「帝には、今までと変わりませぬよう、心安んじ給え。我が開府の暁には、守護仕らん。民は、新しき世の要也。我が歩むべき道の指針となり申そう」

 光秀が幕府を開きたかったかどうかは、現実として分からない。しかし、それは重要な事ではない。彼が丹波・坂本の治世で行った、中間搾取層を除く事で、民と支配層の両方が潤う、新しい中央集権体制を日本中で実施出来ていたならば、日本は、文明開化の波がいち早く訪れていたかもしれない。

「しかし、それでは、今までの支配層からは、反発は必死!また、力を持った民が貴方様の権力を奪うやもしれず…」

 兼見の言う事はもっともであった。しかし、光秀は、人が持つ可能性を信じてもいた。人が先の時代に進むには、与えられるだけでは駄目なのだと。自ら勝ち取る何かが必要なのだと。

「いずれ、戦の世は終わりを告げる。終わらせねば為らぬ。その後に来る時代は、槍、刀、鉄砲に変わる武器を持って戦わねばならぬ」

「そは、何に候?」
「そは、人の持つ知恵にて候」
 幾世にも渡って、人間が生活の中で培って来た知恵こそ力であると。光秀は、そう言っていた。

(倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る)

 その昔、斉の管仲が諭した、民が安んじてこそ、国が保たれる。

 この考えを光秀は持っていたのかもしれない。光秀が施そうとしていた政策は、言わば経済圏の拡張と、発展に他ならない。既得権益を守って、自ら小さい枠組みにて国営政策を行うのではなく、民の自由意思によって、経済の発展を援け、それによって結果、国が豊かになるという。言わば、この発想は、今で言う自由市場を連想させる。光秀が夢見ていたものは、現代の我々が暮らす世の中の仕組みに、少し似ているのかもしれなかった。

「京にお待ち申し上げまする」
 光秀による新しい国造りの展望を聞いた兼見は、去り際にそう口にした。二人は、光秀の再上洛を誓って固い契りを結ぶと別れた。むしろ、光秀の展望が崩れていくのは、兼見と別れた後からだったかもしれなかった。予期せぬ報せが光秀の元へ届いたのである。

「細川藤孝・忠興親子が髻りを切り、こちらへの参加を拒否した模様…」
 この不測の事態には、光秀も取り乱した様子がある。

「幽斎?三斎とは何か?あの二人は一体何を考えておるのか!」

 それは、光秀への義絶を伝えた細川親子の出家名であった。細川忠興は、光秀の娘で正室のお玉の方を田舎へ軟禁状態にし、織田信孝に二心無きを伝えている。光秀がこんなにも狼狽する所を、長年の重臣である秀満でさえも始めて見る姿であった。光秀にとっては、親類にも辺り、長年の友でもある藤孝は、すぐにでも駆けつけてくれるであろうと信じて疑っていなかったのであった。

「わしは、この通り、髻りを落して義を貫く。そなたは、お玉の事もあるゆえ、よくよく熟考されたし」

 本能寺の変を聞くと、藤孝は、剃髪して幽斎と称し、嫡男の与一郎忠興を呼び出して家督を譲っている。そして、自らは田辺城に移り、隠遁生活を決め込んでいた。

「父上、見損なうべからず。我も出家し、三斎と称す。明智には与み致さぬべし」
 父に倣い、光秀は娘婿にも裏切られる形となった。

「貴方様は、明智家を見限るおつもりですか?」
 お玉の方は、そう夫である忠興に詰め寄ったかもしれない。

「これも乱世の習い。致し方なし」
 忠興は、そう妻を慰めるも、お玉は納得などしない。

「細川家が再興出来たのは、誰のおかげぞ!」
 お玉は泣きながら、義父と夫に訴えた。二人を信じて待っているであろう父を思うと、胸が苦しく、張り裂けそうであった。

「その驕り高ぶりが、我らを義絶に走らせたのやもしれぬ…」
 その言葉に反応したお玉は、幽斎を見たが、幽斎はさっと目を逸らした。

(この義父は、以前より、ずっと父を見下していたのではないのか…)

 その疑念に思い至った時に、始めてお玉は、義父の真意を得たのである。
(つまる所、嫉妬なのだ…)

 元を質せば、光秀は、細川家に仕える中間より身を起こした武士であった。
 それが、時を経て、信長という時代の革命者を得た時に、光秀の才能も開花し、いつしか、幽斎との立場は逆転してしまっていたのだった。

 幽斎が光秀への友誼心も持っていたのは、確かな事であった。しかし、その心の奥底へとしまっていた、光秀に対する暗心が、本能寺の変という急時を得て、発芽してしまったと思えた。それに、かつての組下であった光秀の出世を妬む者が、細川家の内部に居た事も大きかった。

(名門細川家の総意として、積極的な中立を維持する)
 これが、幽斎の出した結論であっただろう。思うに、藤孝は、従兄弟である吉田兼見から、光秀に関する何らかの情報を事前に得ていたのではないだろうか?藤孝は、最初から事が起こる事を、或いは、知っていたのかもしれない。

「日向守は、勝てぬであろう…」
 幽斎は、小さく呟いた。お玉は夫の方を見る。忠興は、妻の顔を見てコクンと一つだけ頷いていた。お玉は、二人の顔を見比べると、わっと声を上げて、その場に泣き崩れた。

「殿…、火急の報せが届きましてございまする」
「松井佐渡か?構わぬ」

 幽斎に促されて気まずそうに、家老の松井康之が襖を開けて中に入って来た。
「羽柴筑前守より、書状が届きましてございまする」

「何と?」
 書状を一瞥した幽斎は、絶句した。それを見た忠興は、父より書状を貰い受けて読む。この書状が、さらに光秀を追い詰めて行くきっかけになろうとは、この時、この場所に居た余人ですら、分かり得ない事であった。


 六月八日、光秀は摂津地方の攻略と再上洛の為に、安土城を出発した。兼見が促すまでもなく、京に入り、朝廷を押さえるのは、政略上既定路線であったのだ。帝を守護する者が日本と言う国において、正義を有する存在となる事は、信長が生前示した方法であった。

「留守を頼んだぞ」
 安土城の留守を預かるのは、明智秀満である。戦線の離れた安土城に秀満という勇将を置いておくのは、痛手であったが、美濃・尾張方面と北陸との要所に位置する安土という重要拠点を任せられる者など、他に居なかったのであった。

「蒲生家からは、まだ返事は無きか…」
 光秀がこぼしたように、蒲生賢秀が、本能寺の変を知り、信長の妻子を護って、安土城を脱出してから、まだ光秀に降ってはおらず、近江地方に跋扈していたのだ。再三、使者を送って味方するように促していたが、賢秀は首を縦には降らなかった。

 このように、安土城を手に入れたとはいえ、光秀の政権は、まだ途上段階であったのだ。

「お任せ下され。何者にも邪魔はさせませぬ。上様、御武運を!」
「上様はよせ…そなたも大八幡の加護を!」

 二人は笑って別れた。これがこの主従にとっての永久の別れになろうとは、この時は予見出来ぬ事であった。

 無事に上洛を果たした光秀は、兼見を介して、朝廷に多額の献金を行っている。正親町天皇と誠仁親王に、それぞれ銀子五百枚、天龍寺や相国寺、大徳寺などの所謂、京都五山と有力寺院にも銀子を百枚ずつ。そして、取次に助力した兼見にも五十枚を献上している。

 光秀は、参内して帝に拝謁していたであろう。有力な文書にその証拠は無いながらも、光秀が参内して、帝よりその地位を約束されていたであろう事は、想像に難くない。

「日向守、京周辺の治安回復に務めよ」
「ははっ」

 この時が、明智光秀の人生の絶頂であったろう。光秀は、帝に拝謁して感じ入っていたかもしれない。しかし、後世にて、それを示す内容は、失われている。光秀がこの時点で昇殿出来る身分に無かった事と、勝者に媚びる為に都合が悪くなった何者かの画策が、光秀を巡る歴史を難しくしてしまっているのは事実のようだ。

 また、光秀は、京洛に住む民に対して、地子銭の永代免除を行っている。光秀は、人心掌握と自己の正義の確立に必死であったのだろう。このような光秀の政策に、京の人々の中では、喝采を送る者も、また冷ややかに見つめる者も存在している。

 光秀が丹波の山に周山城を建設したのを揶揄して、殷の紂王を滅した、周の武王の故事に光秀を模し、その高慢さを嘲笑していたという。

 京に入った光秀は、兼見邸に陣所を設けて、尚も四方に書状を遣わしている。この時に記されたのが、義絶を伝えてきた細川親子に、翻意を促す為に記した書状であろう。

「二人が元結を切ったと聞いて、我らも立腹したが、それも致し方の無い事だと理解している。しかし、この上は、兵を出して協力して貰いたい。領地については、摂津を分配しようと考えていたのだが、但馬・若狭を希望するならそれでもかまわない。他に約束していた者が居たとしても、必ず希望を叶えるので、協力して貰いたい。

 私が不慮の事体を起こしたのは、与一郎らを取り立てようと思った事で、他意は無い。五十日か百日程度で近隣国を従え、後は十五郎と与一郎に任せて、私は隠居したいと考えております」

 文章の内容を見て分かるように、光秀は下手に出てまで、細川親子を懐柔しようと躍起になっている。国を平定後は、引退して、息子達に任せたいとも書いてあり、光秀の本音であったかどうかは議論が分かれる所だ。原文にも残っている所だが、光秀は(我らも一時腹が立ったが)と書いている。我らとは、光秀と他の誰らを指した言葉であっただろうか?

  さて、ここで光秀のこれまでの行動で、疑問が残る点が一つ残されている。それは、六月四日に安土城に入城して後、八日に安土を去るまでの間に光秀が何をしていたのかである。前日の七日に吉田兼見が勅使として安土城を訪れているから、この一日を除外しているとしても、他の二日間は謎である。

 ここで、六月五日の資料として、家老の一人である藤田伝吾を使者に立てたと記している。ここが鍵ではないだろうか?伝吾はどこに行っていたのか。それは、大和国の守護大名であった筒井順慶の元へであった。順慶は、光秀の子を養子としていたという説がある程に密接な関係があった、有力大名の一人である。光秀が細川家と並んで、もっとも頼りとしていた武将である。一見すれば、この順慶に対して、協力を呼び掛けていたとも取れる。しかしである。もっとも頼りにしていた武将に変後の三日も立ってから、使者を発するなどはおかしいと思われる。

 これは、軍事行動の綿密な打ち合わせの為に、伝吾を派遣したと取った方が正しいのではないだろうか。恐らく光秀は、安土城にて、細川親子と筒井順慶が兵を引き連れて合流するのを待っていたのではないかと推察される。しかし、待てども来ない。それならばと、兵を挙げて安土を出発する事で、両将の動きを牽制したと考えるのが、妥当ではないだろうか。

 六月九日に光秀は京を発して、鳥羽へ出陣している。そして、翌日の十日には、洞ヶ峠に着陣を果たしている。これは、すべてにおいて順慶の着陣を待つためであった。

「筒井様、殿がお待ちでございまする。ご決断を!」
「分かっておる。分かっておる」

 藤田伝吾は、強い口調で順慶に迫った。順慶も最初は、光秀に組した方が有利と見て、兵を起こそうと決意していた。しかし、羽柴秀吉が驚異的な速さで大軍を率いて、京に迫りつつあるとの報せを受けて、その態度を硬化させ始めていた。

「もし、我と同行されぬ場合は止む無し!」
 伝吾はそう言うと、腰の刀に手をかけた。

 主命を果たせぬ以上は決死の覚悟であった。順慶とその重臣たちにも緊張が走り、その場には、一触即発の空気が流れた。順慶は、光秀に対する義理と友誼と、秀吉の勢いとの間に苦悩していた。

(信長・信忠親子は、生きて本能寺を脱出し、我らが保護している。光秀に組みする者は、これをすべて誅殺する)

 順慶は、この風聞に悩まされており、散々この狭間で悩んだ挙句に、細川家と同じように、積極的な中立的立場を保持する事に決めた。

「順慶が来ないだと?」
 伝吾からの報せを聞いた光秀は、肩を落とした。伝吾はその場で順慶を討ち取って死ぬ事も考えたが、それではただ味方の戦力を削るだけだと思い留まっていた。

「殿、それよりも羽柴筑前の動きが気になり申す」
 光秀は、この伝吾の言葉で仕方なく、筒井軍を勧誘する事を諦めて、迫る羽柴軍に対抗する為の処置を検討し始めるのだった。
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