水色桔梗光る〜明智光秀物語〜

たい陸

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第八幕 ~決別の土岐~ 

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 天正十年(1582)五月十五日、安土にて光秀は、連日忙しい日々を送っていた。信長より、長年の労苦を慰安するべく、家康一行の饗応役を仰せつかっていたのだ。

 この日、安土に到着した家康を始め、その重臣一同と穴山梅雪ら、武田旧臣らのうち、信長に降り、許された者達の饗応には、信長自身とても気を使っていたと言われている。

 東海道の自領より、安土までの道中で、家康が通る国の領主にそれぞれ接待を厳命していたし、到着した家康を信長自らが出迎え、料理の膳を信長直々に運ぶなど、まるで皇族をもてなすかのような振る舞いであった。これには、家康もとても恐縮して、信長の細かな気遣いに感謝の意を述べている。

 その二人の様子を饗応役で忙しくしながらも、光秀は複雑な思いで見ていた。しかし、その思いを一つでも面に出すわけにはいかない。

「明智殿、これだけの贅を尽くした饗応では、家康殿が京都見物に訪れた際に、興を削ぎはしませぬかな」

 光秀は、家康の接待にと特別に取り寄せた珍味や京の好物などを持って、当時に考えられた最高のもてなしを施していた。

「三河殿(家康)には、この安土で最高の刻を過ごして頂く。京や堺を見物されても、最早この安土より、優れたるはありますまい」

 光秀の安土そして信長を賞賛する言葉に一同は頷き、豪勢な料理を愉しむのだった。

(明智殿は、我らを京に行かせたく無いのだろうか?)

 家康の重臣の一人で、この日に同行していた本多正信は、先程の光秀の言葉が気になっていた。厠に行く振りをして、光秀に真意を訪ねる。

「家康殿は、京の都に行くのは、後の方が宜しかろう」
 光秀は、それだけを言うと、接待の席へと戻って行った。正信は、光秀の真意を計れずにいた。

 家康の饗応は、日を跨いでも続けられていた。明けて十七日、宴会の場に中国地方で毛利氏と対峙する羽柴筑前守秀吉より、信長へ救援の使者が訪れる。

「毛利家の本隊が備中高松城を救援するべく、城を発したと報せあり。上様に置かせられましては、秀吉を援け、天下布武の総仕上げを参らせたまえ」

 秀吉の使者が、信長の前で口上を述べた。信長は、スクッと立ち上がると、次のように大喝した。

「日向守(光秀)に命じる。饗応役を解く。速やかに城に戻り、軍勢を集めよ。筑前を援け、余の到着を待て」

 その信長の大声に、その場にいた者達は、体に戦慄に近い高揚感が走るのを感じていた。ルイス・フロイスが語った、

(その声を発すれば、皆が平伏し、存在自体が恐怖の対象であった)信長の姿がそこにはあった。唯一人、光秀を除いて…。

「畏まって候」
 光秀は、平伏して頭を下げた。(その所作、立ち振る舞いの美しきかな)と謳われた光秀の姿がそこにもあった。

 安土城を出て、自領である坂本城に戻る道すがら、光秀は信長の事を考えていた。

(何と恐ろしく、また美しき覇王かな…)

 光秀は、家康が安土に到着する数日前の事を思っていた。

 ある夜の事である。信長の安土城の自室、城の最上階にある天主閣に光秀は招かれていた。信長は献上された葡萄酒を愉しんでいる。信長は、酒は強くなかったと伝わっているが、葡萄酒は気に入ったらしく、しばしば自室で休む前に、琵琶湖の景観を肴に愉しむのを喜んでいた。

「上様、今何とおっしゃりましたか?」
 その信長の言葉に光秀は絶句して、思わず聞き返していた。

「聞こえなんだか?後日、安土にやってくる家康と、その重臣どもを討て」
 その事を話す信長の様子は、至って普通であり、表情は上機嫌であるとさえ、光秀には感じられていた。

「上様、三河殿は多年に及び、上様の覇業を援けて参った功労者ですぞ。それを討てとは、光秀は反対でございまする」
 光秀は、頭を何度も振りながら、意を決して信長に反対を述べた。これが、富士山を眺めていた時に、光秀が感じていた不安の正体であったのだ。

「そなたが余に逆らうは、三度目じゃ…。三度じゃぞ!そのような者は、この世に居らぬわ。光秀よ、勘違い致すな、相談ではない。命令じゃ」

 信長の光秀を見る目は、いつになく冷たく、そして鋭くあるように光秀には感じられていた。

「しかし、家康殿には何ら落ち度が無く、律儀な男にて、彼の者を討てば、上様が謗りを受けましょう。それに…」
「だまれ、だまれ!」
「だまりませぬ。功ありて罪無き者を罰すれば、これ王道に非ず。翻意下さりませ」

「罪など、後で作ればよい」
 信長にしてみれば、家康との同盟は、対武田家として戦略上、絶対に外せない要素であった。

 家康が武田を抑えてくれたらばこそ、信長は中央で台頭出来たとも言えた。家康は功労者である。それは、信長自身も認めていた。しかし、その脅威であった武田家を滅ぼした今となっては、急速に力をつけ始めた徳川家を見ると、その存在が後々の脅威となるように、感じられ始めたのであった。

「貴様、まだ逆らうか!」
 信長は、怒鳴り付けると右手を広げて、横に差し出していた。

 小姓に太刀を渡せとの合図である。その部屋には、信長と光秀と、あと一人の信長の付き人が居た。サスケと信長が名付けた黒人の大男である。

 このサスケは、宣教師より信長に献上された奴隷の男であった。連れてこられた時に、信長が黒人だと説明されると、それを怪しみ、墨が塗ってあるだけでは?と思い、実際に自分の前で体を洗わせ、本当に黒人だと解ると、これを面白がり、自分の付き人にして、士分に取り立ててやっていた男である。

 そのサスケは、信長の側に控えていた。しかし、差し出された信長の右手に渡す筈の信長の太刀を、その手に握り締めたままでいた。

「渡せ!」
 信長はそう言い、サスケに向かって右手を突きだした。しかし、どう思ったのかサスケは、微動だにせず、なおも太刀を渡さない。

「馬鹿者め!」
 いつまでも渡さないサスケに苛立った信長は、サスケに蹴りを見舞った。
「この愚か者めが!」

 そして、今度は、平伏する光秀に平手打ちを見舞っていた。信長に殴られた光秀は、その場に転び、頭を部屋の柱に打ち付けて、額より血が滴り落ちていた。

「翻意とは何か?出直して参れ!」
 信長の怒気により、光秀は何も言えずに部屋を出るしかなかった。光秀が信長よりこのような扱いを受けるのは、これが初めての事であった。

(これで、何もかもお終いやもしれぬ…)

 光秀は、項垂れて城を後にした。光秀の額より流れる血と、その曇った表情に、すれ違う者が一様に驚いていたが、光秀には、その一々に関わるゆとりを今は持ち合わせてはいなかった。

 光秀にとってみれば、家康を討つなど、あってはならない事であった。信長と家臣を繋ぐのは、働きに応じた報酬であり、それが領地となり、一家の繁栄をもたらせてくれると思えばこその働きであったからだ。

 信長と家康の長年の同盟関係は、日本中で知らぬ者が無い程の関係であったし、強固な物であった。それが、用が無くなったから、即排除するでは、同盟者でさえそうであるならば、家臣の我々など、信長にとっては、取るに足らぬ物であると言っているように思えてならないのだ。そんな男に、誰が今後付いて行くだろうか?

(ならばこそ、反対したのだが…)
 信長には、家康を排除する理由が信長なりにあった。家康は、正室と嫡男を武田に内通したとの疑いにより、自らの命令で死に追いやった事があった。家康は、重臣の石川数正を信長の元に派遣して、処罰の許可を求めている。

「三河殿の好きなようにせよ」
 信長はそう言って許した。敵に内通したとあっては、身内であってもそれ以上に言える事があっただろうか?信長は、この時に思ったのだ。この家康の非情さは脅威であると。

 家康にとって見れば、信長より排される理由を潰すために、身内より家名の存続を優先したと言うのが、本音であった筈だ。実際にそうしなければ、家康自身が武田に内通したと思われて、信長に討たれかねない。信長は決して、裏切り者を許さない。それを家康も良く理解していたのだ。

 信長は、年下の家康が、自分の死後に、織田の天下を奪う事を恐れていた。この時期、織田政権下では、大規模な内部統制改革が始まった所であった。第一次改革で、林通勝や佐久間盛重ら、老臣を排除し、光秀や秀吉らの有能な士を重用して、信長の意が伝わりやすい組織改革を行った。

 そして、天下統一が目前となったこの時期には、武田征伐の総指揮官に嫡男の信忠を就ける。四国征伐の指揮官に三男の信孝を就けるなどの、身内を重用するやり方に替えてきており、天下統一後の事に、目を向けて動き始めていたのだ。

 そして、天下統一後に、家康の存在が邪魔であると信長は確信したのだろう。

「先日は、誠に申し上げござりませぬ」
 後日、傷の癒えた光秀は、信長に先日の非礼を詫びるために参上していた。

「分かればそれでよい…」
 信長が簡単に許したので、光秀にはいささか拍子抜けであったが、信長のその固い表情を見た光秀は、それだけですべてを悟っていた。

(許したわけではない。家康討ちが出来る者が他に居ないから、我慢しているだけだ)

 有り得る事だった。信長は、逆らう者を決して許さない。この禁を犯した光秀を信長は、必要な時だけ、使って必要なくなればあっさりと捨てるであろう。家康のように…

 時に光秀が、この非常な謀議を受諾したのは、ある決意を固めたからに他ならない。本当は、信長に謝罪の上で、もう一度説得するつもりであったのだが、信長のその表情を見てしまった光秀は、瞬時に説得が無意味であることを悟ったのだった。

「謹んで、上様の上意を拝命し候」
 その夜から、信長と光秀は、家康到着までの数日を二人だけの謀議の時間に充てる事となった。


 ここは、安土城内の一室である。宴会を終えた家康と、本多正信主従の二人だけで籠っていた。

「明智殿は、何ゆえそのような事を?」
「さればでござる。京の都にて、一大事出来の由!」
「何が起こるのか?」
「そこまでは、分かり申さず」

 この二人の関係は、信長と光秀の関係に似ている。いや、今となっては、こちらの方がより強固であったかもしれない。本多正信は、家康の重臣であったが、所謂謀将でもあった。家康は、この老臣を「友」と呼び、必ず謀り事の相談には、この正信が呼ばれていた。いや、徳川の謀事のすべて、そうすべてがこの二人によって計画されていたと言えた。

 正信は、一時理由があって家康の元を去っていた。その時に松永久秀に仕えていた時期もあり、この時に足利将軍家の繋がりで、光秀とは旧知であったかも知れない。

 とにかく、正信が帰参する前と後では、明らかに家康の謀略の才の活躍が違う為に、この本多正信の存在は、家康にとって必要であったのだろう。

「上様も尋常ならざりしご様子にて…」
 光秀が家康の饗応役を解かれた次の日の事である。能の舞台後に演じた役者の演技が不出来であったとして、大勢の前で、信長自らが折檻に及んでいる。家康らもその信長の暴挙を見ていた。戦が近いので、より好戦的になっているのか思っていたのだが。

「しかし、京で何かあるのならば、上様がそう申そう」
「その上様でも知らぬ事が、御座るのでは?」
「はて?上様が知らずに明智殿が知る、京の事変とは?」

 そう家康が発した所で、二人は恐らく、同時にそれに気づいた。
「もしや、明智殿は…」

 家康と正信は顔を見合わせて、その後は声を潜めた。誰かに気取られぬ為であった。ともかくも、今後の見物の予定を変更し、堺の後に京に入るように、二人の間では無言で決まっていた。
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