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第一幕 ~天下布武~ 

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 空が高い。
 空が青いのではなく、広いのでもなく、ただ高いのだ。

 その雲一つ無く拡がる高き空が、この冬の時期をより一層、寒く感じさせていた。

「風が出て来たな!」

 光秀は、一人それを言葉にした。北陸の越前より、この美濃国へと旅をして来た光秀であっても、冬の北風は身に堪えた。光秀が見下ろすその眼下には、そびえ立つ岐阜城とその城下町が映し出されていた。

「ここからだぞ、光秀!」
 光秀は、自分に言い聞かせるように、再び独語した。

 この時の状況として、明智光秀は、越前国の朝倉義景に仕える武士であった。そして、そこへ家臣に殺された前将軍足利義輝の弟である、足利義昭が落ち延びて来たのだ。

 光秀は、この義昭公を奉じて、京の都に攻めのぼり、一挙に天下を取る事を、主君義景に具申するも、義景は動こうとはしなかった。痺れを切らせた義昭は、朝倉を見限り、次に力になってくれる大名を求めて、近年、美濃国を攻め取り、勢いに乗る織田信長に光秀を使いに出したのであった。

 光秀のその身は、北風に晒されながらも、その身体の中に滾る熱い想いまでもは、到底冷ませそうにはなかった。

「往こうか!」
 光秀は、そう言うと、自らの両頬をピシャリッと叩き、カッと両の眼を見開くと、力強く歩を進めるのであった。

 
「今日こそは!」
 悲壮な決意で岐阜の街を、ヒタリ、ヒタリと歩く一人の武士がいた。木下藤吉郎秀吉である。秀吉は、主である信長から、一つの宿題を課せられていたのだ。

「この岐阜の街に、近頃入ったと聞く、唐物の茶器を求めて参れ」

 そう、信長より命を下されてから、もう三日が過ぎていた。茶器のある店は、すぐに分かった。金も十分に持たされていた。しかし、何とも思い通りにならないのである。何かと問われれば、その店の主がであった。

 この時期、信長が美濃の斎藤氏を打ち破り、その居城であった稲葉山城を奪取した後に、城を岐阜城と改め、城下町も岐阜の街となった。

 そして、信長が行った政策が楽市・楽座である。この楽市・楽座はというと、今でいう市場の規制緩和のようなもので、誰でも自分の才覚で商売が出来るとあって、この岐阜の街には、日本中から商人たちが集まってきて、京の都を凌ぐのではないかと思える程の賑わいを見せていた。

 ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、この時の岐阜の街の状況を見て、バビロンの賑わいと表現している。

 街が楽市になったお蔭で、高価な物や珍しい物が、街に入って来るようになったのは良いとして、その商人の一人一人が曲者なのであった。自分の才覚で伸し上がろうとする連中の集まりである。一筋縄ではいかない事ぐらい、自明の理であっただろう。

 そして、今回の茶器を持つ店屋の主人である。この店の主人は、博多より、唐物や南蛮渡来の珍しい品々を買い付けて、京の都に来ていた。そして、この岐阜の街の噂を聞きつけ、やってきて街を気に入り、移り住んでしまったのであった。

 であるので、その品々の一つ一つに思い入れがあるのか、客が店先で商品を一つ手に取ると、これは、何々国の何年前の代物でっと始めるのだ。そして、客がその商品に対して、全く知識が無かったならば、それはもう、鬼の首を獲ったかのような勢いで、一から十まで質問責めにし、客が答えられないでいると、

「この代物を分かっている客じゃねぇと、売らねぇ」
 とのたまわり、客を追い返してしまうのだ。秀吉もこれにやられてしまい、お勤めを仰せつかってから、三日が過ぎてしまっていたのだ。秀吉という男は、信長仕官以前に、様々な職に就き、色々な経験も積んでいた。

 そして、その他人を先んずる機転が効いているのがこの男の能力であった。しかし、何せ教養が少ない。これは、彼の能力ではなく、生まれ育った環境に寄るところだから、仕方ない事であった。

 秀吉の継父は、竹阿弥と言って、茶坊主をしていた。しかし、秀吉は、この継父と折り合いが悪く、若い頃に家を飛び出してしまっており、茶道などを習った事はなかったのである。

「こんな事なら、茶をやるんだった…」
 後悔先に起たずとは、この事であろうが、秀吉は、うろ覚えの知識で、この店の主人に相対していた。

 そして、見事に撃沈して、この三日間、秀吉なりに茶を勉強してきたのであった。その思いは、もはや悲壮感に近かったであろう。

「着いたな… 着いてしまったな」
秀吉は、店先で店の看板を見上げながら、ため息交じりに呟いていた。そして、この三日間で学んだ知識を、ブツブツと口の中で呟いては、復習していた。

「御免!」
 秀吉が店の暖簾を潜ると、店の主が番台に座っており、その目の前には、一人の武士の男が立っていた。

「お侍さん、これが何か知っていなさるか?」
 秀吉が見ると、その武士の男の手には、件の唐物の茶器が乗っており、やはり店の主の質問攻撃を受けている最中であった。

(おっ早速やってやがるな?どれ、この男のやられる様を見物といこうか)

 秀吉は、自分がやられた腹いせに、店主と男のやりとりをしばらく静観する事に決めた。

 男は、手に茶器を手に取り、しげしげと見つめている。
「ふむ、これは天目茶碗ですな。何ともこの黒光りする、縞模様が素晴らしい」
「おう、分かりなさるか。ならば、なぜこの時期に、この茶器をお求めなさる?」

「黒物の茶碗は、熱を逃がしにくい。冬の寒さには、茶が格別にうまかろうと思うてな」

(パンッ)
 店の主は、その武士の男の答えを聞いて、膝を打って破顔した。

「よしよし、この茶器は、あんたに譲ろう」
 この情景を眺めていた秀吉は、少しの間、放心してしまっていた。そして、
「店主、それはない!」

 やっとの事で声を出したが、それが精いっぱいであった。この頓智の効いた男には珍しく、それ以上何も言えずに口をパクパクさせて、店主を非難しているのか、指を指していた。

「おや?貴殿は、木下殿ではないか」
 その声に秀吉は我に返った。そして、自分の名を呼んだ武士の男を見て驚いた。

「明智殿ではないか!」
「そういう事でござったか。拙者も何か、御所様(足利義昭)への土産物でもと思うて、あの店によってみたまでの事。そういう事情であれば、この茶器は木下殿に御譲り致そう」

 そう言って、光秀は先程手に入れた天目茶碗を秀吉に渡してあげた。
「これは忝い。明智殿、恩に着ますぞ」
「ところで、明智殿は、我が殿に会いに来なされたのか?」

「御意にござる。お会い出来るだろうか?」
「やはりそうであったか。然らば、この秀吉が案内仕ろう」

 光秀と秀吉は、信長が前将軍足利義輝に拝謁するために、京の都へ上洛した際、出会った旧知の仲であった。その二人は、共に信長の元に向かう事にした。

「殿は、ここに居られまする」
 そう言って秀吉が案内した先は、岐阜城ではなく、城下の長屋の一軒家であった。
「どうぞ、こちらに」

 光秀が間違いではないのか?と問う前に、秀吉は、さっさと中に入ってしまった。光秀は、いぶかしながらも、続けて中に入ってみる事にした。

「殿、藤吉郎にござりまする。客人をお連れ申した」
 二人が中に入ると、襖を隔てた奥の部屋から、複数の男たちの声が聞こえてきた。
「藤吉か、入れ!」

 奥から声が聞こえると、中から襖が開けられた。部屋が狭いので、光秀は仕方なしにその場の土間に傅いた。襖が開くと、そこには、異様な光景が広がっていた。

 男たちが五、六人狭い一室にすし詰めに居て、その中心に信長が座っていた。異様なのは、その信長の周りににいる男たちであった。商人の男に、農民の者、猟師風の男や、やくざ者と思われる者、果ては虚無僧までいたのだ。

「殿、藤吉郎が、お役目を果たして御座りまする」
 秀吉はそう言うと、先ほどの唐物の茶器を、大事そうに風呂敷より取り出すと、信長の前に両手でそっと置いた。

 信長は、差し出された天目茶碗を無造作に鷲掴みすると、その茶碗を指で弾いて、茶碗より漏れる音を聞いた。この間、秀吉はずっと信長の前で平伏したままで、少し冷や汗を流している様子であった。

「藤吉、そなた役目を果たしたと言うたな?」
「御意!」
「たわけ者!これなる茶碗は、そこに居る明智に、譲り受けた物であろうが」

 秀吉は、信長の言葉を聞いて、血の気が引くのを感じていた。その一室に緊張の糸が張りつめるのを光秀は感じていた。

(まずい!ここで対応を間違えれば、命取りになる)
 秀吉は、心の中でどうすべきか思案に迷っていた。

 家臣が主君を騙すなどあってはならぬ事ではあったが、殊の外、信長という主君は、そういう事にうるさい事を、秀吉は知っていたのだ。

「なぜ、先程の事をすでにご存じなのか?」
 その場の、微妙な空気を察した光秀は、堪らずに信長に尋ねてみた。
「明智か?思案してみよ」

 問いを問いで返されて、光秀は困惑したが、ここで答えを仕損ずれば、秀吉の身に処分が下されるのは明白であったので、慎重に思案して、答えることにした。

「さればでござる。織田の殿は、尾張・美濃を束ねる大大名でありながら、このような城下の長屋で様々な者たちと会っている。これすなわち、ここに居る者たちを使って、街の様子を探っており、拙者と木下殿とのやり取りを、報せたに相違ござりませぬ」

 光秀は、殊更に言い切って見せた。この織田信長という、気難しい人物の心を動かすのには、歯切れの良い物言いが効果的であることを、肌で感じていたからに違いなかった。

「かっはっはっ!藤吉郎よ。そなた茶器を求めに行って、珠玉の珠を拾うて来たな」
 信長はそう笑いながら言うと、
「城に戻る!話しは城で聞こうぞ。この茶碗は、御所様への土産とせよ」

 と言い残して、その長屋を去って行った。後には、光秀と秀吉と天目茶碗だけがその長屋に取り残された。秀吉は、その場にへたりこんで座り、その顔には安堵の表情が見てとれた。
「明智殿、助かり申した」

 光秀は、この秀吉の表情と言葉で、信長という男を説得するのが生半可では行かない事を覚悟した。部屋の真ん中では、ポツンと置かれた天目茶碗が、黒く不気味に光を漂わせていた。

 信長に城に来るように言われた光秀は、一度旅籠に戻る事にした。秀吉は、光秀がすぐに城に向かわないのを訝しがったが、光秀には、一つ思い当たる節があったのだ。

(信長が、わざわざ城に戻って対面をすると言った事は、この私を御所様の正式な使者だと認めたからに相違ない)

 であればこそ、光秀も旅の垢を落として、身なりを整える必要があったのである。

「お待たせし申した」
 身なりを整え直した光秀を、秀吉が待っていた。秀吉は、城までの案内役を買って出でくれ、二人は共に、信長の元へ向かうことにした。

「それにしても、なぜ、あのような事を?」
 城への道すがら、光秀は、先刻の長屋での一件を秀吉に問うた。その言葉には、少しの皮肉が混じっているように思えた。

「さてさて、どうでござろうかな?」
 光秀の皮肉を知ってか知らずか、秀吉はニコニコしながら道を先導している。
(主君を騙すという危うい事をしても、立身を望むゆえか?それとも、他に考えがあっての事か?)

 光秀は、先を行く秀吉の背中を見つめながら、秀吉という、自分とは違う種類の男に興味を抱いていたのだった。


 この時期の信長は、生国の尾張より、岐阜城に本拠地を移していた。岐阜城は山城であり、その山頂に建つ姿は、壮麗という言葉が似つかわしい。元は斎藤氏の居城であった稲葉山城を改名し、周の武王が挙兵した故事に倣って、岐阜と名付けられた事は、つとに有名な話しだ。

 しかし、信長はそこには住んではいない。この時代の他の大名にも見られた事ではあるのだが、城が在る山の麓に館を建てて、そこに住んでいた。いちいち、山頂まで上り下りする時間の短縮という、ただ合理的な理由からであった。

「これは!何と壮大な…」
 麓の館についた光秀が、まず驚いたのは、信長が美濃を制圧した後に建てた、巨大な石を積み重ねた石垣だった。

 これが、山頂の城と、麓の信長の館をぐるりと覆うようにして、建てられていた。光秀が美濃に居た頃には、無かったものであり、城下町の繁栄ぶりといい、信長は美濃を取ってわずかな期間に、すっかりこの国を変えてしまっている事に驚いていたのだった。

「殿は、山頂の本城に居られます」
 光秀と秀吉が館で目通りを乞うと、以外な答えが返ってきた。信長は、館ではなく、山頂にある城の天守に登っていると言う。光秀は、秀吉の方を見たが、秀吉も首を捻るだけであった。

 二人は仕方なく、城へ向かうことにした。山への登頂は疲れるが、光秀にとっては久方ぶりのの稲葉山であり、この疲労が何だか心地良いもののようにも感じられた。

「殿は先刻より、天守に登られております」
 光秀は、門番の言葉に小さく頷いた。天守に登ると、其処には、光秀と秀吉に背を向けて、遠望を楽しむ信長ともう一人、横に控える武者との、二人だけであった。

「池田紀伊守殿でございます」
 小声でそう秀吉が教えてくれたので、光秀は得心した。池田紀伊守とは、池田恒興と言って、信長の母衣衆の筆頭に位置する、側近の一人の名前であった。

「殿、明智殿をお連れ致しました」
 秀吉は、信長の背に殊更に大声でそう言上した。その声に反応した信長は、ゆっくりとこちらを振り返った。

「御所様の使者だ。上座を用意せねばならぬかのう」
「これは、お戯れを」
 光秀は、そう返すと、信長の横に並ぶように天守の外を見下ろした。

「貴殿は、ここからの眺めを見たことはあるか?」
「はい、若年のおりに、斎藤入道殿のお供にて」

 信長と光秀の眺める先には、濃尾平野の雄大な田園風景が広がっていた。そして、もう一つ、この岐阜城より、南西の方角に進めば琵琶湖が広がり、その先には京の都が在る。この城の天守よりは、その古都千年の姿は確認出来ないが、光秀の頭の中にはありありと、その姿が浮かんでいた。

「申せ!」
 信長は、始めて光秀に向き直って口を開いた。その余りにも短い言葉により、その場には、張りつめた空気が流れるのを光秀は感じていた。

「御所様は、先年の約定を、今こそ果たすべしとの、仰せにございまする」

 光秀は、殊更に慇懃に勿体ぶった言い回しをして、信長の短き言葉を制した。先年の約束とは、信長は義昭が奈良を脱出して還俗のおりにも、迎え入れて、都に進軍する旨を義昭側に打診した事があった。

 しかし、この時には、信長は対美濃攻略の最中であり、実際には、義昭らを助ける余裕はなかったのである。

 仕方なく義昭らは、当時の現実問題として、有力大名である朝倉氏の元へ行く事に決めたのであった。信長が美濃国を手に入れた今、言ってみれば、朝倉が動かぬ以上は、織田に頼るのが、当然の選択の一つだと言えた。

「我の益や如何に?」
 信長のその率直過ぎる言葉に、光秀は絶句した。これ程までに、足利家の嫡流である義昭の正式な使者に対して、言葉を選ばぬ大名も、珍しいのではないだろうか。

(試されている…)

 光秀は、必然的にそう感じていた。そして、信長の側に控える池田恒興と、秀吉にチラリと目線を変えた。ここで、自らの思案を話せば、他に内容が漏れる事を、警戒したのである。

「勝三郎は我が乳兄弟であり、藤吉郎は配下の将、構わぬ」
 光秀の懸念を読んでか、信長は、配慮した言葉をかけた。それを聞いた光秀は、少し間をあけて、ゆっくりと、しかしはっきりとした口調で、しゃべり始めた。

「天下布武…」
 それだけを光秀が口にすると、そこに居る三人の男たちの顔色に、微妙な変化をもたらす効果を発揮した。
「織田様が掲げし、天下布武。その一旦が成し得ましょうぞ」

 光秀は、言葉の後に信長の顔を見据えた。信長の心底がどう動くのかを、見極めておきたかった事が、無意識にそうさせてのであろう。

「我の掲げる天下布武を、どう思案す?」
 そう問い返す信長の表情からは、その心の奥までは、まだまだ計り知れぬ物を感じさせていた。

「天下一統!すなわちに天下静謐にございまする」
 光秀の言葉を聞いた信長は、再び天守からの眺めに目を細めた。

「貴殿は、この眺めの先に何が見える?」
「只々、京への道が。そして、笑って暮らす民草たちの顔が見えまする」

 信長は、振り返って光秀を見た。その瞬間、今まで交わる事のなかった二人の視線が、確かに交差した。そして、信長は、口元に細く細く笑みを浮かべた。

「かのような高き場所よりは、何も解るべからず」
 信長の言葉に、光秀は思わず頭を下げた。高い場所より、下を眺めた所で、一体何が出来ると言うのか?民は果たして、満ちているのか?貧して居るのか?だからこそ、自分は、麓の館に住まい、城下の長屋にも出入りするのだと。そう、信長は語っているように光秀には感じられた。

(自分が探し求めていた、幕府再興の君は、この方に相らわずや?)

「信長様、日の本の覇者給え。光秀、微力を奮い申す」
 信長は、光秀の言葉に内心驚いていた。

 信長は、この城を岐阜城、街を岐阜と改めた。中国の古の王、周の武王の故事にあやかっての事である。その周王室を護るために実力を発揮した諸侯を覇者と呼んだ。光秀は、信長にそれに成れと言っている。岐阜と名付け、天下布武を謳う織田信長こそが、それに相応しいと。

「よかろう。御所様にお伝えせよ。信長は幕府を護ると」
 光秀は、信長の元に傅く自分を、誇らしく感じていた。久しく忘れていた高揚感が、光秀の心に満ちていた。すると、そこに陽の光が差し込み、信長と光秀を照らして、深い影を形作って見せた。

 その様子は、さながら、バテレンの宣教師たちが先年信長に献上した、あちらの世界の神のお姿とやらを描いた絵図に似ていると、秀吉と恒興は思うのであった。

「殿のあのように嬉しそうな顔を、久方ぶりに拝見いたしました」
 光秀と秀吉の去った天守にて、恒興は、信長の背にそう笑いかけた。信長は、こちらに顔を向けず、それについて何も発しなかったが、それが照れであることを信長の乳兄弟として共に育った恒興だけには、分かっていたのである。

「思い出しておったのだ。我が砲術の師の事を。あの者は言っておった。余が正道を歩まんと欲するならば、必ずや、もう一人の十兵衛と出会うであろうとな」

「彼の者の言う通りとなりましたか?」
「うむ」

 信長はそれ以上語ろうとはしない。そして、恒興もそれ以上の事を聞きはしない。二人にはそれで十分であったから。信長は、城下を眺めたままだ。その心中は定かではない。その背を恒興は、変わらぬ姿で、ただじっと見つめていた。
 
 信長の元を去った光秀は、今晩、秀吉の屋敷にて泊まる事となった。光秀自身は、街の旅籠に泊まるつもりであったが、信長より、池田恒興が光秀の接待役を仰せつかっていた。

 しかし、その場にて秀吉が是非に当屋敷にてと申し出て、信長より許されたのだ。恒興は、面白くなさそうな顔をしていたが、秀吉は、全く意に介そうとはしていない様子であった。

「ここが当屋敷にござれば」
 案内された秀吉の屋敷は、中々見事なものであった。聞けば、秀吉には五十名以上の家臣がすでについており、この者達の中の数名と、寝起きを共にしているという。

 これは、信長が本拠地を尾張から美濃に移したことに伴い、家臣団も自らの家族ごと、引っ越した事に起因した。要するに、当時の兵制は、半農半兵がまだまだ普通であった。しかし、信長は、この時すでに、専門職としての武士団を形成したことになる。

「藤吉郎よ、先刻の茶碗の褒美を渡してなかったな。そなたの申しでの件、許す」

 光秀が、信長の元を去り際に信長は、秀吉にそう言っていた。光秀は、秀吉が茶碗の任務如きに自らの命を懸けた事が、ずっと気になっていた。そして、その理由は、秀吉の屋敷にて判明したのである。

「こっちは妻のねねと、弟の秀長じゃ。そして、ここにいるのが…」
「竹中重治でございまする」
 奥より出てきた、長身の色白な男が名乗った。

「殿、その様子では、ご首尾は果たされ申したな」
「おうよ。これで正式に半兵衛は、木下家の家臣じゃ」

 秀吉の家族や家臣に紹介された光秀は、心の中で唸っていた。それほどに竹中半兵衛の名は、当時でも鳴り響いていたのだ。後世でも名軍師として、有名であるが、この時でも半兵衛は、今孔明ともっぱらの噂であった。

 半兵衛を有名にしたのは、彼がまだ、前美濃国主の斎藤龍興に仕えていた時に遡る。龍興は、父であった義龍が急死し、若年で後を継いだ。そして、国の政治に興味を示さず、女と酒の日々を過ごした。これを諌めたのが、半兵衛ら国を憂える者達であった。

 しかし、龍興はそんな半兵衛たちを煙たがり、遠ざけてしまった。進退に窮した半兵衛は、一計を案じる。龍興が、城の防備にも見向きもしない事に目をつけ、隙を突いて、わずかな手勢で稲葉山城を落としてしまったのである。

 半兵衛にしてみれば、若き主君を諌める一心であったが、城を還しても、龍興の所業は改まる事はなかった。この件で失望した半兵衛は、斎藤家を去り隠遁してしまう。その後に半兵衛の憂いた通りに、美濃は信長の手に落ちた。

 そして、秀吉が半兵衛に目をつけ、彼の天性たる人たらしの力で、半兵衛を織田方に引き入れたのは有名な話しである。そして、光秀もその半兵衛の噂なら聞いて、知っていたのであった。

「秀吉殿は、半兵衛殿を迎えるために、命の危険を冒されたか?」

 秀吉と半兵衛のやり取りを聞いていた光秀は、先ほどの気になっていた事の理由がそれである事を得心した。秀吉は、あの茶碗を得る褒美に、半兵衛を家臣にする事を信長に申し出ていたのだ。

「半兵衛は友でござれば…命を賭すは理の当然也」
 秀吉は、あっさりと言ってのけたが、光秀はこの秀吉という男を見直さずには居られなった。

「この秀吉は、女にも男にも惚れやすい性質でしてな。惚れてしまえば、仕方なし、仕方なし」

 秀吉は、そう照れを誤魔化していたが、何ともそれが嫌味にはならずに、この男の一種独特の可笑しみを醸し出していた。これが何とも心地よく、周りを愉快にさせる。

(これこそが、この秀吉と言う男の、最たる武器なのだ)

 光秀は、酒を酌み交わしながら、この秀吉という男が将来、大人物になっていくのではないかと感じて、恐れと高揚と、可笑しみが入り混ざった、不思議な感情に浸っている自分に気づいて、戸惑っていた。
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