1 / 15
序章 ~本能寺への道~
しおりを挟む
亀山城より、老ノ坂峠を上っていくと、大枝山がある。
昔、京の都に別れを告げる旅人が歌を詠み、古くから歌枕の地として知られていた山だ。
「大枝山 いく野の道の遠ければ まだ文も見ず 天の橋立て」
と金葉集に詠まれたのもこの大枝山である。
平安の頃、源頼政が酒呑童子を成敗したのも、この山と言われており、今でも酒呑童子の首塚と言われるものが残っている。
源平合戦では、一ノ谷へと向う源義経が、兵を進めている。また、六破羅探題を攻撃し、鎌倉幕府打倒に立ち上がった足利高氏も、この大枝山を通ったと言われている。
その大枝山を越えて行くと、京の都までは、桂川を挟んで目と鼻の先にある。京の都につく手前には街道があり、その街道にある街を沓掛と言った。
光秀は今、そこにいる。
右に向えば、山崎・天神馬場を経て摂津へ行ける。その先には、秀吉が救援を待つ中国地方へと続く道がある。
そして、沓掛を左に向えば、信長が居る京の都までは、すぐの距離にあった。この時の信長は、京における彼の常宿としていた本能寺に、二、三十名程の僅かなお供と寄宿していた。
対する光秀軍は、一万三千名を超す大軍である。この時期、織田勢の他軍団は京の近くには居らず、各地方にて敵と対峙していた。光秀だけが信長の近くにいて、大軍を有しているという状況であった。
歴史の神が居るのならば、以下にしてこの状況を作ったのか、正に歴史の分岐点と言える沓掛の地に光秀は居た。
光秀は一人、考えている。
「思えば、ここ(沓掛)に今いるのも定めかもしれぬ」
光秀は、一人座して篝火の炎に映る天幕に描かれている、その自らの家紋である、水色桔梗紋を眺めていた。明智光秀という武将は、この時代の武士の中でも、並はずれて教養が高かったと言われており、有職故実にも詳しかったはずである。
光秀は、土岐源氏の支流たる明智氏の出身なのは知られている事だが、過去に同じ場所で歴史の分かれ道を通った、源氏の先輩達に、自分をなぞらえていたのかもしれない。
もっとも興味をそそるのは、歴史を知る人間から見て、歴史を作る人間とは、どのような存在であるのか?という事であり、明智光秀から見た織田信長とは、どんな存在だったのだろうか?
(上様(信長)は、この国で最大の個性!)
光秀の心の中に、その思いがあったのではないだろうか?今その、この国で最大の個性を自らの手で滅ぼそうとしている。
(とても大それていないか?恐ろしくはないか?)
光秀は自分に問いかけている。
(恐ろしいのは信長本人ではない。織田信長という強烈な個性を、この時代から奪う事だ)
―しかし―
「このまま信長様が天下を取れば、この国はどうなるのか?」
光秀は、立ち上がるとそう独語した。
その思いに引きずられるままに、ここまで来てしまった。そして、もはや後戻りなどは出来ない。
このまま手をこまねいていれば、林佐渡守、佐久間親子や荒木村重と同じ道を歩む事になるだろう。
―しかし―
「上様には、恩義がある」
一介の浪人から、大名の身分まで登りつめられたのも、信長が自分の働きを認めてくれたことに他ならない。織田家へ仕官してから、ずっと命がけで働いてきた。自分の悲願であった室町幕府再興も、信長とともに見る夢のために、過去へと追いやった。
(ならば、なぜ?)
信長であれば、この戦乱の世の中に終止符を打ち、天下静謐へと導いてくれるはずだと信じていた。
(今の上様は、殷の紂王と同じだ。このままでは、この国を紂王と同じく壊してしまうだろう。誰かが止めなければならない。そして、それを止められる者は、自分しかいないのだ!)
光秀は、まだじっと水色桔梗紋を見つめていた。その水色生地に白色の桔梗花が描かれた、この時代に、もっとも美しい旗の一つと言われた、それが水色桔梗の旗であった。
今、自分の心に問いかけているのは迷いからではない。女々しいからでもない。これからやろうとすることへの正しさを、自分だけは、正確に理解しておきたいからだ。
「自分は、人々に謗られるだろう。後世に逆賊と言われるかもしれない」
―それでも―
「信長を討つ!」
少しの沈黙の後、自分自身に言い聞かせるように、光秀は叫んでいた。辺りは、まだ真っ暗な暗闇が広がり、松明の灯りだけが、そこに形あるものの存在を照らしているのだった。光秀は、ふと何か思いつくと、家臣である天野源右衛門を呼び寄せた。
「京に先行して、怪しき者が居れば斬れ!」
「御意!」
光秀は、非常の命令を下した。それが光秀なりの覚悟の現れであった。源右衛門は、光秀の冒し難い雰囲気に、何も質問する事を許されず、主からの命令を全うすべく、その場を後にした。
「思えば、自らの旗を立てて、大軍を指揮する身分になるとは、あの頃には思いもしなかったものだ」
光秀は、急に可笑しくなり苦笑した。今は、そんな事を思うゆとりなど、あろうはずもないのに。光秀は信長と、そして、秀吉と出会った時の事を思い出していた。
(私があの方と巡り会うたのは、いつの頃であっただろうか?そして、惚けた道化のように思えたあの男が、私の人生に深く係りを持つなど、あの時には、思いもよらぬ事であった)
昔、京の都に別れを告げる旅人が歌を詠み、古くから歌枕の地として知られていた山だ。
「大枝山 いく野の道の遠ければ まだ文も見ず 天の橋立て」
と金葉集に詠まれたのもこの大枝山である。
平安の頃、源頼政が酒呑童子を成敗したのも、この山と言われており、今でも酒呑童子の首塚と言われるものが残っている。
源平合戦では、一ノ谷へと向う源義経が、兵を進めている。また、六破羅探題を攻撃し、鎌倉幕府打倒に立ち上がった足利高氏も、この大枝山を通ったと言われている。
その大枝山を越えて行くと、京の都までは、桂川を挟んで目と鼻の先にある。京の都につく手前には街道があり、その街道にある街を沓掛と言った。
光秀は今、そこにいる。
右に向えば、山崎・天神馬場を経て摂津へ行ける。その先には、秀吉が救援を待つ中国地方へと続く道がある。
そして、沓掛を左に向えば、信長が居る京の都までは、すぐの距離にあった。この時の信長は、京における彼の常宿としていた本能寺に、二、三十名程の僅かなお供と寄宿していた。
対する光秀軍は、一万三千名を超す大軍である。この時期、織田勢の他軍団は京の近くには居らず、各地方にて敵と対峙していた。光秀だけが信長の近くにいて、大軍を有しているという状況であった。
歴史の神が居るのならば、以下にしてこの状況を作ったのか、正に歴史の分岐点と言える沓掛の地に光秀は居た。
光秀は一人、考えている。
「思えば、ここ(沓掛)に今いるのも定めかもしれぬ」
光秀は、一人座して篝火の炎に映る天幕に描かれている、その自らの家紋である、水色桔梗紋を眺めていた。明智光秀という武将は、この時代の武士の中でも、並はずれて教養が高かったと言われており、有職故実にも詳しかったはずである。
光秀は、土岐源氏の支流たる明智氏の出身なのは知られている事だが、過去に同じ場所で歴史の分かれ道を通った、源氏の先輩達に、自分をなぞらえていたのかもしれない。
もっとも興味をそそるのは、歴史を知る人間から見て、歴史を作る人間とは、どのような存在であるのか?という事であり、明智光秀から見た織田信長とは、どんな存在だったのだろうか?
(上様(信長)は、この国で最大の個性!)
光秀の心の中に、その思いがあったのではないだろうか?今その、この国で最大の個性を自らの手で滅ぼそうとしている。
(とても大それていないか?恐ろしくはないか?)
光秀は自分に問いかけている。
(恐ろしいのは信長本人ではない。織田信長という強烈な個性を、この時代から奪う事だ)
―しかし―
「このまま信長様が天下を取れば、この国はどうなるのか?」
光秀は、立ち上がるとそう独語した。
その思いに引きずられるままに、ここまで来てしまった。そして、もはや後戻りなどは出来ない。
このまま手をこまねいていれば、林佐渡守、佐久間親子や荒木村重と同じ道を歩む事になるだろう。
―しかし―
「上様には、恩義がある」
一介の浪人から、大名の身分まで登りつめられたのも、信長が自分の働きを認めてくれたことに他ならない。織田家へ仕官してから、ずっと命がけで働いてきた。自分の悲願であった室町幕府再興も、信長とともに見る夢のために、過去へと追いやった。
(ならば、なぜ?)
信長であれば、この戦乱の世の中に終止符を打ち、天下静謐へと導いてくれるはずだと信じていた。
(今の上様は、殷の紂王と同じだ。このままでは、この国を紂王と同じく壊してしまうだろう。誰かが止めなければならない。そして、それを止められる者は、自分しかいないのだ!)
光秀は、まだじっと水色桔梗紋を見つめていた。その水色生地に白色の桔梗花が描かれた、この時代に、もっとも美しい旗の一つと言われた、それが水色桔梗の旗であった。
今、自分の心に問いかけているのは迷いからではない。女々しいからでもない。これからやろうとすることへの正しさを、自分だけは、正確に理解しておきたいからだ。
「自分は、人々に謗られるだろう。後世に逆賊と言われるかもしれない」
―それでも―
「信長を討つ!」
少しの沈黙の後、自分自身に言い聞かせるように、光秀は叫んでいた。辺りは、まだ真っ暗な暗闇が広がり、松明の灯りだけが、そこに形あるものの存在を照らしているのだった。光秀は、ふと何か思いつくと、家臣である天野源右衛門を呼び寄せた。
「京に先行して、怪しき者が居れば斬れ!」
「御意!」
光秀は、非常の命令を下した。それが光秀なりの覚悟の現れであった。源右衛門は、光秀の冒し難い雰囲気に、何も質問する事を許されず、主からの命令を全うすべく、その場を後にした。
「思えば、自らの旗を立てて、大軍を指揮する身分になるとは、あの頃には思いもしなかったものだ」
光秀は、急に可笑しくなり苦笑した。今は、そんな事を思うゆとりなど、あろうはずもないのに。光秀は信長と、そして、秀吉と出会った時の事を思い出していた。
(私があの方と巡り会うたのは、いつの頃であっただろうか?そして、惚けた道化のように思えたあの男が、私の人生に深く係りを持つなど、あの時には、思いもよらぬ事であった)
0
お気に入りに追加
12
あなたにおすすめの小説
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
三九郎の疾風(かぜ)!!
たい陸
歴史・時代
滝川三九郎一積は、織田信長の重臣であった滝川一益の嫡孫である。しかし、父の代に没落し、今は浪人の身であった。彼は、柳生新陰流の達人であり、主を持たない自由を愛する武士である。
三九郎は今、亡き父の遺言により、信州上田へと来ていた。そして、この上田でも今、正に天下分け目の大戦の前であった。その時、三九郎は、一人の男装した娘をひょんな事から助けることとなる。そして、その娘こそ、戦国一の知将である真田安房守昌幸の娘であった。
上田平を展望する三九郎の細い瞳には何が映って見えるのだろうか?これは、戦国末期を駆け抜けた一人の歴史上あまり知られていない快男児の物語である。
日本列島、時震により転移す!
黄昏人
ファンタジー
2023年(現在)、日本列島が後に時震と呼ばれる現象により、500年以上の時を超え1492年(過去)の世界に転移した。移転したのは本州、四国、九州とその周辺の島々であり、現在の日本は過去の時代に飛ばされ、過去の日本は現在の世界に飛ばされた。飛ばされた現在の日本はその文明を支え、国民を食わせるためには早急に莫大な資源と食料が必要である。過去の日本は現在の世界を意識できないが、取り残された北海道と沖縄は国富の大部分を失い、戦国日本を抱え途方にくれる。人々は、政府は何を思いどうふるまうのか。
土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
帰る旅
七瀬京
歴史・時代
宣教師に「見世物」として飼われていた私は、この国の人たちにとって珍奇な姿をして居る。
それを織田信長という男が気に入り、私は、信長の側で飼われることになった・・・。
荘厳な安土城から世界を見下ろす信長は、その傲岸な態度とは裏腹に、深い孤独を抱えた人物だった・・。
『本能寺』へ至るまでの信長の孤独を、側に仕えた『私』の視点で浮き彫りにする。
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる