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第二章 日常に溶け込んでいく
第十一話 穏やかな時間
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翌日も補習のために学校へ向かった。出かける前に朝陽に声をかけようとしたが、朝早くに出かけたらしい。昨日のことを謝るタイミング失って、モヤモヤした気分のまま家を出た。
授業中は相変わらず上の空だった。黒板の英文法を板書するふりをしながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
カラっと晴れた青空の下で、真っ白いユニフォームをまとった野球部員が練習に励んでいる。日和もユニフォーム集団に交じって走り回っていた。
◇
補習を終えて帰ろうとすると、日和が校門の脇に立っていた。俺の姿を見つけると、ふわりと頬を緩めながら駆け寄ってきた。
「圭ちゃん、補習お疲れ様。一緒に帰ろう」
周囲を見渡すも、日和の傍には野球部員はいない。
「野球部の手伝いはもういいのか?」
「午後はミーティングなんだって。だからお手伝いは午前中で終わり」
「そっか。じゃあ一緒に帰ろうか」
「うん!」
俺達は校門を出て、家までの道のりをのんびり歩く。日和は野球部での出来事を楽しそうに話していた。俺は相槌を打ちながら、コロコロと変わる日和の表情をしみじみと眺めていた。
伊崎神社の赤い鳥居の前に差し掛かると、日和はピタリと足を止めた。それから澄んだ瞳を向けた。
「圭ちゃん、小説の続きを読ませて」
その言葉は、とても懐かしく感じた。学校終わりに小説を読んでもらう。かつての日課をもう一度体験できるとは思わなかった。
俺はいつだって「しょうがねえなぁ」と面倒くさがるふりをしながら、A4ノートを差し出す。だけど本当は、日和から小説をせがまれることが嬉しくて仕方なかったんだ。
「しょうがねえなぁ」
あの頃と同じようにA4ノートを差し出す。日和は「わーい、ありがとう!」と嬉しそうにノートを受け取った。
欅の下で並んで腰を下ろす。日和は真剣な表情で、ノートに綴られた文字を追っていた。俺は欅の幹に背中を預けながら、日和が読み終わるのを待った。
境内ではアブラゼミの騒がしい声が響く。ワイシャツの下はじっとり汗ばんでいたが、風が通り抜けると少しずつ汗が引いていった。
真っ白な雲がゆっくりと流れるように、穏やかな時間が二人の間に流れる。当時は気にもとめていなかったけど、日和に小説を読んでもらう時間はとても心地よかった。
しばらくすると、日和はパタンとA4ノートを閉じた。眼鏡の奥から覗く瞳はキラキラと輝いていた。
「面白かった! 早く続きが読みたいな」
その一言で承認欲求が満たされる。日和から続きをせがまれると、書きたいという欲求が湧き上がってくるから不思議だ。
「続きを書いたら、また渡すよ」
俺は照れる心を隠しながら、素っ気なく約束をした。日和からA4ノートを受け取ろうとした瞬間、ふわっと柑橘系の爽やかな香りを感じた。その香りに、胸がぎゅっと締め付けられる。
心が揺らぐのを悟られないように手早くノートをしまう。俺の動揺は日和には伝わっていなかったようで、いつもと変わらない口調で話を続けた。
「そういえば、新人賞の結果発表ってもうすぐだったよね?」
その言葉で、過去の苦い記憶を思い出した。高校二年の春、俺はとある新人賞に応募してあっけなく落選した。
世の中そんなに甘いものではない。いまとなれば、冷静に結果を受け止められるが、当時の俺は簡単には受け入れられなかった。何度も結果発表のページを見返して、自分のペンネームを見落としていないか確認した。
しかし何度見返したところで結果は変わらない。自分自身が否定されたような感覚に陥り失望した。苦々しい記憶を振り払いながら淡々と伝える。
「結果が出るのは、七月末だ」
結果は無残なものだったが、今の日和には告げる必要なない。何も知らない日和は、無邪気に微笑んだ。
「そっか、楽しみだね!」
俺の才能を信じて疑わない日和。その純粋さはどこから出てくるのかと不思議に感じた。
日和の笑顔を見つめていると、もう一つの重大な出来事を思い出した。新人賞の落選を知った日、俺は日和とキスをしたんだ。
日和は落ち込んだ俺を励まそうと、花火大会に連れ出してくれた。俺は行かないと断ったが、日和がどうしてもとせがむから、仕方なく行くことにした。
夜空に弾ける花火を見ても、気が紛れることはない。一瞬でも気を緩めたら、みっともなく泣き出してしまいそうだった。
花火がクライマックスに差し掛かった時、日和がそっと俺の頬に撫でた。
『私は、圭ちゃんの書くお話が大好きだよ』
その瞬間、心の内で渦巻いていた感情が一気に弾けた。すぐそこまで差し迫っていた涙が決壊し、頬に熱い雫が伝わった。俺は泣き顔を見られたくなくて、日和にキスをした。
日和がどんな表情をしていたかは覚えていない。だけど唇の柔らかな感触だけは、ぼんやりと覚えていた。
それからだ。俺と日和が付き合いだしたのは。告白めいた言葉はなかったけど、あの日から確実に俺と日和の関係は変わった。今思い返せば、とてつもなく身勝手な話だ。
そういえば、俺がこの時代に留まっていられるのは十日だ。計算上だと、十日目は花火大会の日と重なる。つまり俺は、もう一度花火大会の日をやり直すことになる。
この時代の自分を演じるのであれば、俺はまた日和にキスをすることになる。そうすれば、なし崩し的に交際が始まるだろう。
だけど、もしキスをしなかったらどうなる? あの時のキスがなければ、俺達が付き合うことはなかったんじゃないか?
高校二年の夏に、俺と日和が付き合わなければ、結婚することだってない。そうすれば、日和が死ぬことだってないはずだ。
アブラゼミの煩い声が頭に響く。とんでもない可能性に気付き呆然としていると、日和が心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「圭ちゃん、大丈夫?」
小首をかしげながら澄んだ瞳を向けてくる日和を見て、我に返った。混乱を悟られないように立ち上がる。
「そろそろ、帰るか」
「そうだね」
日和はスカートに付いた砂を払いながら立ち上がった。
授業中は相変わらず上の空だった。黒板の英文法を板書するふりをしながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
カラっと晴れた青空の下で、真っ白いユニフォームをまとった野球部員が練習に励んでいる。日和もユニフォーム集団に交じって走り回っていた。
◇
補習を終えて帰ろうとすると、日和が校門の脇に立っていた。俺の姿を見つけると、ふわりと頬を緩めながら駆け寄ってきた。
「圭ちゃん、補習お疲れ様。一緒に帰ろう」
周囲を見渡すも、日和の傍には野球部員はいない。
「野球部の手伝いはもういいのか?」
「午後はミーティングなんだって。だからお手伝いは午前中で終わり」
「そっか。じゃあ一緒に帰ろうか」
「うん!」
俺達は校門を出て、家までの道のりをのんびり歩く。日和は野球部での出来事を楽しそうに話していた。俺は相槌を打ちながら、コロコロと変わる日和の表情をしみじみと眺めていた。
伊崎神社の赤い鳥居の前に差し掛かると、日和はピタリと足を止めた。それから澄んだ瞳を向けた。
「圭ちゃん、小説の続きを読ませて」
その言葉は、とても懐かしく感じた。学校終わりに小説を読んでもらう。かつての日課をもう一度体験できるとは思わなかった。
俺はいつだって「しょうがねえなぁ」と面倒くさがるふりをしながら、A4ノートを差し出す。だけど本当は、日和から小説をせがまれることが嬉しくて仕方なかったんだ。
「しょうがねえなぁ」
あの頃と同じようにA4ノートを差し出す。日和は「わーい、ありがとう!」と嬉しそうにノートを受け取った。
欅の下で並んで腰を下ろす。日和は真剣な表情で、ノートに綴られた文字を追っていた。俺は欅の幹に背中を預けながら、日和が読み終わるのを待った。
境内ではアブラゼミの騒がしい声が響く。ワイシャツの下はじっとり汗ばんでいたが、風が通り抜けると少しずつ汗が引いていった。
真っ白な雲がゆっくりと流れるように、穏やかな時間が二人の間に流れる。当時は気にもとめていなかったけど、日和に小説を読んでもらう時間はとても心地よかった。
しばらくすると、日和はパタンとA4ノートを閉じた。眼鏡の奥から覗く瞳はキラキラと輝いていた。
「面白かった! 早く続きが読みたいな」
その一言で承認欲求が満たされる。日和から続きをせがまれると、書きたいという欲求が湧き上がってくるから不思議だ。
「続きを書いたら、また渡すよ」
俺は照れる心を隠しながら、素っ気なく約束をした。日和からA4ノートを受け取ろうとした瞬間、ふわっと柑橘系の爽やかな香りを感じた。その香りに、胸がぎゅっと締め付けられる。
心が揺らぐのを悟られないように手早くノートをしまう。俺の動揺は日和には伝わっていなかったようで、いつもと変わらない口調で話を続けた。
「そういえば、新人賞の結果発表ってもうすぐだったよね?」
その言葉で、過去の苦い記憶を思い出した。高校二年の春、俺はとある新人賞に応募してあっけなく落選した。
世の中そんなに甘いものではない。いまとなれば、冷静に結果を受け止められるが、当時の俺は簡単には受け入れられなかった。何度も結果発表のページを見返して、自分のペンネームを見落としていないか確認した。
しかし何度見返したところで結果は変わらない。自分自身が否定されたような感覚に陥り失望した。苦々しい記憶を振り払いながら淡々と伝える。
「結果が出るのは、七月末だ」
結果は無残なものだったが、今の日和には告げる必要なない。何も知らない日和は、無邪気に微笑んだ。
「そっか、楽しみだね!」
俺の才能を信じて疑わない日和。その純粋さはどこから出てくるのかと不思議に感じた。
日和の笑顔を見つめていると、もう一つの重大な出来事を思い出した。新人賞の落選を知った日、俺は日和とキスをしたんだ。
日和は落ち込んだ俺を励まそうと、花火大会に連れ出してくれた。俺は行かないと断ったが、日和がどうしてもとせがむから、仕方なく行くことにした。
夜空に弾ける花火を見ても、気が紛れることはない。一瞬でも気を緩めたら、みっともなく泣き出してしまいそうだった。
花火がクライマックスに差し掛かった時、日和がそっと俺の頬に撫でた。
『私は、圭ちゃんの書くお話が大好きだよ』
その瞬間、心の内で渦巻いていた感情が一気に弾けた。すぐそこまで差し迫っていた涙が決壊し、頬に熱い雫が伝わった。俺は泣き顔を見られたくなくて、日和にキスをした。
日和がどんな表情をしていたかは覚えていない。だけど唇の柔らかな感触だけは、ぼんやりと覚えていた。
それからだ。俺と日和が付き合いだしたのは。告白めいた言葉はなかったけど、あの日から確実に俺と日和の関係は変わった。今思い返せば、とてつもなく身勝手な話だ。
そういえば、俺がこの時代に留まっていられるのは十日だ。計算上だと、十日目は花火大会の日と重なる。つまり俺は、もう一度花火大会の日をやり直すことになる。
この時代の自分を演じるのであれば、俺はまた日和にキスをすることになる。そうすれば、なし崩し的に交際が始まるだろう。
だけど、もしキスをしなかったらどうなる? あの時のキスがなければ、俺達が付き合うことはなかったんじゃないか?
高校二年の夏に、俺と日和が付き合わなければ、結婚することだってない。そうすれば、日和が死ぬことだってないはずだ。
アブラゼミの煩い声が頭に響く。とんでもない可能性に気付き呆然としていると、日和が心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「圭ちゃん、大丈夫?」
小首をかしげながら澄んだ瞳を向けてくる日和を見て、我に返った。混乱を悟られないように立ち上がる。
「そろそろ、帰るか」
「そうだね」
日和はスカートに付いた砂を払いながら立ち上がった。
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