夢魔

木野恵

文字の大きさ
上 下
39 / 56

悔しさと成長と

しおりを挟む
 あっちのくそみたいだと思った世界で片割れが幸せそうに、何かに挑戦するのを心底楽しそうにしていて、思ったほど捨てた世の中ではなかったのかと思いながら、こちらでも負けじと自分のできることと調べごとをこなしていった。

 世界は平和そのもので、たまにトラブルがあるくらいだった。トラブルの話は噂でしか聞いてなくて、実際に見たことがないからどんなものか見てみたいものだった。

 夢に見たような冒険も勇者のような活躍もすぐにはなかったけれど、冒険に関してはこれからやることだからまだ夢も希望もなにもないわけではなかった。

 まずは自分のことを、いや、片割れのことも含めた自分たちのことをよく知ってから出掛けようと決めていたから、研究熱心にいろいろなことを試した。

 あいつがいろいろなことに挑戦するならこちら側でも挑戦してみるんだというライバル心がどこかにあったのは否定できない。

 ライバル心だけでなく、なによりも挑戦していっているのが楽しそうだったというのが心の原動力の大半を占めていた。

「芋食ってる場合じゃねえ!」

 そうは思っても、そうは言っても、腹が減っては戦はできぬというもの。

 いつものように、周りに誰もいない間に焼き芋の準備をしていると、物音がしたのでサッといつも通り消えようとしていたその時だ。

「……待って」

 現れたのは怖いけど気さくなお兄さんでも、ストーカーと化した優しかった人、略してストー化ーでもなく、本のお姉さんだった。

 消えるのをやめて本のお姉さんの方へ行くと、少しだけ微笑みながら頭を撫でてくれた。

「……良い子。いつもさつまいも持ってこそこそしてた。……なにしてた?」

 静かに言葉少なに話すお姉さんは心を静かでひんやりと落ち着かせてくれて大好きだった。

 けれど、なにをしていたのか話すのは少しだけ躊躇われた。

 焼き芋をしていましたなんていうのが恥ずかしかった。話せば買ってきたのにとか、いろいろ言われるかもしれないと思ったからだ。

 顔を赤らめながら、少し格好つけて実験していたのだと言おうと腹を決めかけていると、本のお姉さんはにっこり微笑み、頭を撫でてくれながらそっとサツマイモの入った袋をみせてくれた。

 ばれてたんだ。

 顔が熱くなってくるのを感じながら目を逸らしていると、微笑みながら首を傾げている気配が風の揺れ方でわかった。

「……一緒して良い?」

 顔を真っ赤にしながら頷くと、一緒に焼き芋の準備をしてくれた。

 話さなくてもわかってくれているのか、何もかもお見通しで敢えて質問していたのか……。

 いろいろなことを考えながら慣れた手つきで焼き芋の準備をし、芋を一緒に焼いた。

「……美味しい。焼き芋は良い」

 お姉さんの笑顔はみていて癒されて、安心した。

「実は……」

 冒険へ出たいということ、自分のできることをまず調べて伸ばそうとしていることを洗いざらい相談した。

 気さくだけど怖いお兄さんや、ストー化ーには話しづらい内容だったけれど、本のお姉さんには素直に話せた。

「……なるほど」

 お姉さんは微笑みながらじっと私を見て、なにか探っているようだった。

「……修行つけれる」

 意外な提案に驚いていると、お姉さんは具体的にどんな風に強くなりたいのかを聞いてくれた。

「頭が良くて、格好良くて……あの漫画の主人公みたいになりたい!」

 幼稚園の頃に好きだったアニメの原作を指し、ウキウキワクワクしながら答えると、お姉さんは少し考え込む仕草を見せた。

「……私一人だと魔法と属性しか。……気さくなやつにも話していい? ……優しいやつと、月の子とか……」

 気さくだけど怖いお兄さんならまだしも、優しかったお兄さんだけは首を縦に振りづらかった。月の子……うさぽんは断る理由が一つもない。

「優しかったお兄さんはやだ……」

 躊躇いながらも正直に話してみると、お姉さんはそっと頭に手を乗せてじっと私を見ていた。

「……聞いてみたい。理由……」

 自分でも理由を上手く話せない。

 漠然とした嫌悪感が根底にあって、理由がはっきりわかっているわけじゃないからだった。

「……話してみて。まとまってなくていい……」

 心を見透かされているかのようなことを本のお姉さんが言っていて少し怖くもありながら、話しやすくて少しありがたいのだった。

 これなら話していても、上手に表現できなくても、誤解されずにすんでくれそうで、安心して話せそうで、心のどこかが温かくて落ち着いてくるのだった。

 落ち着いてくると、少しずつ気持ちがまとまって、理由が何となく頭に浮かんでくる。

「嫌なんだ。昔は優しいお兄さんだと思っていたのに、なんだか怖い。されて嫌だったことを、他のみんなが私にしてきたことと同じことをしていて嫌だ。怖くて嫌で、気持ち悪い」

 思ったことを正直に話していると、胸が少しだけずきずきと痛んだ。

 心の中で思ったり嫌悪する分にはなんともなかったのに、口に出すと痛かった。

 誰よりも優しかった。現実の誰とも違った優しいことをしてくれていたお兄さんを恋しくも思った。思っていて、私は本当に優しかったお兄さんのことが嫌いなのか疑問にも思えた。

「……無理はしないこと」

「うん」

「……ただ、知ってほしい。知っておいて。彼はただ、あなたのことを愛している」

「……うん」

「……心配なだけ。人間と違って言いふらしてない。帰りを遅くしてない……見守ってる」

「……そうだけどなんか……きつい」

「……うん」

 胸が痛かった。この痛みがなんなのか、私にはわからなかった。

 わからなくて、悲しくて、どうしようもなく嫌な気持ちが止まらなくて、苦しくて……。

 胸の痛みとモヤモヤした気持ちに苦しんでいると、本のお姉さんが静かに呟いた。

「……大好きだったんだね。気付いてくれなくて、悲しかった?」

 そうだったの……かな。

 言われてみると、否定したい気持ちがわき上がってきて止まらなかった。止まらなくて……胸が痛い。

「そんなことない……! 嫌い、嫌い嫌い、大嫌い!」

 嫌いだと口にするたびに涙が溢れて止まらなかった。それがどうしてなのかちっともわからないまま、胸の痛みを抱えながら否定し続けた。

「……そっか、そっか」

 ゆっくり頭を撫でながら本のお姉さんが宥めてくれて、少しずつ気持ちが落ち着いてくるのを感じた。

 落ち着いてくると、本のお姉さんは微笑み、折り紙でツルを折り始めた。

 幼稚園の頃だったか、まだ真っ二つにされる前に折ったことがあったけれど、折り方を覚えられないままだったな。

 そういえば、片割れが折り鶴を折るのにはまってたっけか。

 折り方を覚えられて、上手に折れるようになって、目を輝かせながら折ってたっけかな。

 私も折ってみたいなと思っていると、三羽の折りヅルが輝きながら宙に浮かび、どこかへ飛んでいった。

「……呼んだ。三人」

「えっ」

 三人ということはまさか、優しかったお兄さんも入っているのではないか?

 嫌な予感は当たっていたらしく、本のお姉さんが口を開きかけたときには優しかったお兄さんが現れた。早い。

 片手を挙げて振りながら現れたけれど、私を見るや否や、嬉しそうな、困ったような、複雑な表情になっていた。

「や、やあ……」

 声のかけ方も困り果てたような感じで、うっすら罪悪感を覚えていると、気さくだけど怖いお兄さんが来て、そのあとすぐにうさぽんが現れた。

「本の虫が話があるって聞いたんだが、何の話だ?」

 気さくなお兄さんは優しかったお兄さんと本のお姉さんと私を見ながら少し険しい顔をしている。

 心当たりがあるから視線をそらしていると、うさぽんが遠慮気味に肩をちょいちょいと指先でつついて挨拶してくれた。

「うさぽん!」

「う、うるさいぞ! 他にいい名前がないから仕方なく呼ばれてあげてるだけなんだからね」

 月の子という名前が十分綺麗で格好良くて最高の名前だからこそ、呼ぶのがおそれ多く感じて、砕けて呼びやすい名前で呼び続けているつもりなのに、本人は照れ隠しなのか、そんな風に言うのだから毎回申し訳なくなるのだった。申し訳ないと思っても、やっぱり月の子と呼ぶのは緊張した。

「……で、今日は何の呼び出しだ?」

 うさぽんと騒いでいると、気さくなお兄さんが本のお姉さんにもう一度問いかけていた。

「……修行。光の子の。……闇の子が楽しそう。鍛えたくなったって」

 言葉少なに説明する本のお姉さんの言葉を聞きながら、気さくだけど怖いお兄さんと優しかったお兄さんは視線を合わせて少し微笑み、私の方を見て、本のお姉さんに視線を戻していた。

「修行かー。こいつが何を目指してどうなりたいかによりけりだぞ?」

 気さくだけど怖いお兄さんの言葉に、本のお姉さんは頷き、一冊の漫画を取り出して渡していた。

 私が憧れているといった主人公の漫画だった。

 気さくだけど怖いお兄さんはそれを手に取り、パラパラと読み始めたかと思えば黙ってそのまま座り込んで楽しそうに熱中していた。

 うさぽんと優しかったお兄さんも横で覗き込んで読んでいて、しばらくの間静かに紙をめくる音と、穏やかに輝く片割れの火の気配だけが漂っていた。

 私も読みたいなあと思いながら、本のお姉さんを見上げると、にっこりと微笑んで手を差し伸べてくれた。

「……しばらくみんな読んでる。見せたいものがある。おいで」

 手を引かれて向かった先は、この世界のトラブル現場だった。

 空から星がたくさん降り注いでいて、みんなで協力して粉々に砕き、被害を最小限に抑えるために知恵を絞り、磨き上げた力で一生懸命抵抗していた。

 綺麗だった。

 流れ星が輝きながら降り注ぐ光景はあまりに綺麗で恐ろしかった。その輝きと死を覚悟させる迫力は、体の奥底から湧き上がるなにかを否応なしに自覚させるものだった。

 この世界の住人は魔法や科学的な物、ありとあらゆるものを駆使して生き残るためにみんなで協力し合って生きていた。

 そして浮かんできた疑問が一つ。

「この世界って精神世界、魂の世界じゃないの? 星が降るってどういうこと?」

 本のお姉さんは少しだけ微笑み、頭を撫でてくれた。

「……良い質問。ここはあなたの世界に重なっている別世界。だから星も降る」

 そういうものなのかと首を傾げていると、本のお姉さんはゆっくりと続けた。

「……溶岩が噴き出す、風に巻き上げられる、地は揺れ、海はあれ、雷が降る。過酷な自然。助け合わないと生きていけない。……力と知恵と技術を合わせて生きてる。いじめをしたり蹴落とす暇はない。みんなで成長しないと生き残れない」

 あっちの世界よりずっといいと思った。過酷でも、いじめられずにすむなんて、頑張っていても蹴落とされずにすんで、素敵じゃないかな。

 小学二年生の頃、頼まれて作って用意したものを回収され、私が作ったと伏せられて自分たちが頑張って作ったかのように名乗られていたのを思いだした。

 先生はそれを窘めたけれど、私が虐げられているのを知った瞬間、ま、いっかなんていっていて、すごく絶望的な気持ちにさせられていた。

 私じゃなくて片割れの経験だけど、あんな思いをするくらいならこういう世界で暮らした方がましじゃないかな。

「……そっちも同じ。自然の脅威と隣り合わせ。頻度が違う」

 それでもこちらの世界は素敵だと思った。人と人が手を取り合って協力し合って、自分を高めていく世界。

「比べたりしないの? どちらが劣ってどちらが勝っているか」

「……ない。あるにはあるけど、生きていくために競争して伸ばしているだけ。落ち込む暇はない。生きるのに最低限必要な知識と技術。あとは得意を伸ばす。苦手があるのは当然、いてもいなくてもいい人はいない。……いや、成長や栄光を邪魔する人は追放される。頑張ろうとして上手くいかないのは仕方がない。そんな人には他の役割をみんなで探す。邪魔しようとした人、悪意ある人は追い出す。全滅しないため」

 話を聞きながら考えた。どちらで暮らしているのが平和で幸せなのか。

 誰に蹴落とされるわけでもなく、誰に邪魔されるでもなしに能力を伸ばせて協力し合えるけれど過酷な自然に囲まれた世界か、たまにしか起きない自然災害の中、同じ人間同士で能力を伸ばすわけでもなく窮屈な読みあいの中、蹴落としあいがあって生きがいも成功も名誉もなにもない世界か。

 私はこっちにいたいと思った。

 別に賞賛が欲しいと思ったわけじゃなかった。

 観ていただけ、同じ体験をした気分になっただけだったけれど、賞賛されれば嬉しいだろうとも思った。

 でも、大事なのはそういうところじゃない。

 誰もが助け合って、自分たちのできる限り精一杯頑張って生きようとしているのが綺麗だと思った。

 完璧な人はいないのが当たり前だし、一番になれなくても必要とされる。悪意をもって足を引っ張る人はどこかにつまみ出してもらえて……快適そうで良いと思った。

 本のお姉さんは少し微笑み、手を引いてくれた。

 片割れとみんながいる場所へと一緒に帰ってくると、みんな漫画に夢中になっていて顔も上げずに読みふけっていた。

「……修行。今度かな?」

 この世界のことを少し知れただけでも満足できそうだったけれど、それでは不満足も良いところだった。

 思わず頬を膨らませてしまっていると、本のお姉さんはクスクス笑いながら頭を撫でてくれた。

「……魔法、少し使う?」

 本のお姉さんの提案を聞くと、表情が緩んでくるのを止められなかった。

「実はね、少し試してたんだ! 水が使えるみたいなんだ!」

 嬉しくて今まで試してきたことを洗いざらいすべて話した。

 水の玉、水泡が出せること、中に何か入っていること、しまいこんでおけること、霧になったり雲になったり、水であれば姿かたちを変えられること……。

「……ほう」

 本のお姉さんは感心したように顎を手で撫で、まじまじと見つめてきた。

「……良い探求心。……氷になったことは?」

 言われてみれば確かに氷になったことはないし、そもそも基本的な水になったこともなかったな。

 首を横にゆっくり振ると、お姉さんが少し考え込んでいる様子で黙り込んでしまった。

 想像するんだ。強くイメージするんだ。

 本のお姉さんの指南を待たず、試しに氷をイメージしてみた。理由はわからないけれど、本能的に水になるのに抵抗があったからだった。

 自分の体が冷たくて、硬くて動かない。周りにあるものを冷やしていくような、強いイメージを浮かべていると瞼が開かなくなった。

 成功したのかどうかわからないまま声も出せず、棺桶の中にでも詰められたような気分で不安な気持ちに押し潰されそうになっていると、本のお姉さんのあたたかい声が聞こえて体に自由が戻った。

「……解けなさい」

「……!」

 助けがなければ自力で戻れなかったと思う。

 霧や雲と違って、とても怖かった。

 体に自由がなくて、窮屈で、このまま閉じ込められて外に出られないかのようで、まるで、まるで……。

 寒さと恐怖でガクガク震えていると、本のお姉さんがいつも抱えている本を開いた。

 ページをめくる手を止め、私に軽く手を振るとあたたかい風が体を包み込んであたためてくれて、心から落ち着いてくるのを感じた。

「……氷はトラウマ。多分……。水や蒸気に慣れてからすると良い。……その前に、白い布見せて」

 自分が氷漬けにされていたのを覚えていないわけではなかったけれど、トラウマになっているなんて思ってもみなかったことだった。

 心が麻痺しているのか、何も感じなくなったのか定かではなかったけれど、自分の気持ちに気付けなかったのは確かだった。

 他人事のように自分の状態に気がつきながら、強く水玉をイメージして白い布の入った水泡を呼び出した。

「……ほう」

 本のお姉さんはそれを見て興味深そうにまじまじと見つめた。

 指先で水泡をつつくと、水たまりに雨が落ちた時のように水泡の表面に波紋がみられた。

「……水の塊。綺麗な水」

 本のお姉さんはゆっくりと水泡に手を入れ、感覚を楽しむかのようにゆっくりと手を動かした後、中に入っている白い布を引っ張り出した。

 中身がなくなると水泡はただの水になって地面にバシャッと落ちていき、本のお姉さんは最初から最後までじっくりと観察していた。

「……布、濡れてないね」

 本のお姉さんに言われて初めて気がついたことだった。

 確かに、水に覆われていたのに布はちっとも濡れてなかった。覆っていた水は手で触れると冷たくてしっとりと湿ったのに。

「……これは夢魔の夢衣ゆめごろも。天女にとっての羽衣のようなもの」

 布を見つめたまま黙ってしまったお姉さんは真剣な面持ちで、少しだけ怖い顔をしていた。

 もしかしたら怒らせてしまったのかもしれないなんて不安になっていると、お姉さんがゆっくりと布を広げて私に被せるものだから驚かされた。

「……落ち着いて。イメージ。自分のなりたいもの。……水泡を出した時のようにイメージ」

 目を閉じ、イメージをした。

 風になれたら……。でも、風ってどんな姿?

 姿がわからなくてイメージができない。だったら、風のように、風に乗って飛べる何かが良いな。

 鳥……。

 片割れが親から鳶の話を聞いていたのを思い出す。

 風に乗って飛んでいるから羽をあまりパタパタさせないのだとか。

 目を開けてみると、水たまりに映った自分の姿が鳶そのものになっていて興奮するのを感じた。

「わあ! すごい!」

 本のお姉さんは微笑んで、犬や猫を撫でるときのように優しく頭を両手で包み込んで撫でてくれた。

「これって、この布を被せた相手のことも変えることができるの?」

 自分だけでなく他の物も姿を変えられるのではないかと思って聞いてみたけれど、本のお姉さんは首を横に振っていた。

「……変えられるのは自分だけ。他人を変えるのは禁忌」

「禁忌ってことは変えられないわけじゃないってこと」

「……うん。でも、元に戻せなくなる可能性が高い」

「それって……確かに怖いね。禁忌になるのもわかるかなあ」

「……夢魔のプロポーズ、知りたい?」

 今の流れでどうしてプロポーズの話をするのか疑問に思いながら頷くと、本のお姉さんは口の端を上げていた。

「……お互いの夢衣を被せ合って一年過ごす。確かめるのは心と魂の信頼の証と絆、そして真の愛。うまくいったらそのまま結婚」

 少しロマンチックだと感じた。

 相手が少しでも悪い気を起こせば、元の姿に戻れなくなるかもしれない不安と恐怖があるわけだ。

 そんな状態でお互い一年過ごすなんて、信頼と愛情がなければとてもできないもの。

「私にはそんな相手見つからないし絶対無理だな」

 好奇心や悪戯心を抑えられる自信がないのはもちろんのこと、意地悪されない自信もなかったから出た言葉だった。

「……わからないよ。……出せるのはこれだけ?」

 本のお姉さんの問いかけに心当たりがあったので、あんまり出したくはなかったけれど、あの記憶映像が流れる水玉を出した。

「……」

 本のお姉さんの目から涙が伝うのを見てしまい、思わず目を逸らした。

 気まずさと、一声かけてから出すべきだったのかもしれないという後悔に見舞われながら仕舞おうと思い立つ前に、お姉さんは指先でそれに触れていた。

 触れた瞬間、膝から崩れ落ち、怒りと悲しみに満ちた顔になって、あのとき片割れが突き飛ばされたところと同じ腕や背中の方へ手を伸ばして顔をしかめていた。

「……追体験」

 しばらくの間、本のお姉さんは顔をしかめたまま目を閉じてじっとしたあと、両手で顔を覆うように拭いてから立ち上がった。

「……他は?」

 先ほどまでのことで何か言いたいことや叱りたいことはないのか、顔色をうかがいながら怯えていると、口の端を上げて頭を撫でてくれた。

「……大丈夫。あなたを知りたいだけ……」

 とても温かい手と声をしていた。

 それだけですごく安心できて、怯えていて不安な気持ちが収まってくるのだった。

「他は何もないんだ。何かをしまえる空っぽな水が出てくるだけで」

「……そう」

 何か心当たりがあるような顔をしながらお姉さんが黙っていて、首を傾げながら見上げていると、微笑みながら抱き上げて腕の上に止まらせてくれた。

「……そのまま飛んでみよう」

 唐突な提案に戸惑いながらも、一生懸命翼を動かして飛ぼうとしたがうまくいかなかった。

 落っこちそうになったら抱きかかえて受け止めてくれて痛い思いをしなかったけれど、とても悔しくてたまらなかった。

 自転車に乗る練習をしたとき、たくさんこけながらひたすら練習した時のような悔しさだった。

「……もっかい飛ぶ!」

 何度も飛ぼうとしては失敗し、飛ぼうとしては失敗した。一体何がいけないのかさっぱりわからない。

 悔しさともどかしさで苛立ち始めていると、お姉さんが頭を撫でながら提案してくれた。

「……月の子は生物に詳しい。たくさん教えてもらうと良い。……体の動かし方と道具の扱いは気さくなやつ、私は魔法と属性の研究し方と使い方、優しいやつは……保護者」

「保護者!?」

 驚いて大きな声を出していると、本のお姉さんはクスクス笑いながら口元に手を当てていた。

「……冗談。優しいやつは傷の手当てとか相談事だけじゃなくて、アイディアを出すのが好きで得意。……本当なら。アイディア出すのが苦手な分野もあるみたいだけど……一緒に考えて悩んでくれる。呼んでないけどセラピストは手当と相談を受けるのがもっと得意。心理にも詳しい。……もし優しいやつの応援が嫌ならおまじないが得意」

「おまじない? 魔法とは違うの?」

「……うん。魔法は自然との協力。自然を知り、己を知り、共存し、力を借りる。魔術と精霊術で分野が分かれる。魔術は自然と直接、精霊術は精霊と協力して魔法を使う。精霊にしか使えない魔術がある。とても強力。おまじないは心の強さや形、魂の在り方、精神の力。呪いと祈り、願い、癒し、気持ちの具現化」

 本のお姉さんの話は魅力的で引き込まれた。

 優しかったお兄さんのことは少し苦手に思ってしまったし嫌いだけれど、おまじないに興味がないわけもなく、学ぶために我慢しようと思わされるくらい魅力があるのだった。

「応援されるの慣れてないから、おまじないがいいな」

 その返事を聞いたお姉さんは少し微笑んでいた。

「……ちなみに、死霊術もある。死霊術はこちらの世界にいるあらゆる住人との協力。……死霊術は良いイメージがない。……降霊術や召喚術と変わらない。名前が少し違うだけ。天使も悪魔も死者も妖怪も魔物も通じ合えたら協力してもらえる。……月の子の得意な生物の分野」

 すごく魅力的な分野だった。どの勉強も楽しそうで魅力的で夢があった。

「……今はみんな漫画に夢中。今その姿で上手く飛べないのは生物に詳しくないから。それでも飛びたいなら飛ぶと良い。……今私が教えられることは魔法の探求。……やる?」

 迷わず頷いた。

「やる! 魔法! 小さいころアニメで観て憧れてたんだ!」

 返事を聞いたお姉さんは嬉しそうに笑っていた。

「……私が言うまでもなく調べてた。だから言わずとも調べる意欲はある。……自然にある属性から勉強しよう。……その前に、元の姿に戻れる?」

 お姉さんに言われてハッとした。

 鳶に化けたまま元に戻るのを忘れていて、このまま戻れなかったらという不安と焦燥感に駆られながら布を外そうとしたけれど、どこからどう外すのかさっぱりわからなくて手詰まりになって泣いてしまった。

「……落ち着いて。……真っ白をイメージ。戻る時のイメージ。他の何かを戻すときには使えないやり方。……元の自分の姿を正確に知ってる人はなかなかいない。他人の姿も……。……自分の姿は変えてよくて他人は禁忌の理由」

 言われた通り、まず落ち着いてから目を閉じ、真っ白なイメージを浮かべた。

 思い浮かべて目を開け、水たまりで自分の姿を確認してみると、布を被った時の真っ白な姿になっていた。

「……上出来。あとは布をとるだけ」

「……他人の姿変えようとか思えないや。すごく怖かった。布を被せるのすら怖い。姿が変わってる間は布は外せないってこと?」

「……うん」

「じゃあお互い損しちゃうんだね」

「……うん。中にはもう夢魔として化けれなくていいから相手を支配したいやつもいる」

「えっ」

 怖いと思った。そんな人がいるのかと。

「……だからこそ禁忌。プロポーズで姿を変えられたら相手を殺すしかない。夢衣は魂の片割れ。本体が死ねば消えて、元の姿に戻れる」

「……」

 思ったより危険で恐ろしく、残酷な世界なのではないかと思っていると、本のお姉さんが頭を撫でてくれた。

「……だからこそ、相手選びはお互い慎重。支配欲が強い人も命がけ。お互いが良ければ姿を変え合って楽しく過ごしてる」

 話を聞きながら布を外して畳み、思ったよりロマンチックじゃないのかもしれないと思って俯いていると、お姉さんが心配そうな顔で覗き込んできた。

「……夢、壊れちゃった?」

 ゆっくりと首を横に振ると、少し考え込んだ様子で口を開いた。

「……誰もが優しくて平和な世界。それは難しい。いろいろな人がいる世界だから平和を求める人がいて、争いを求める人がいる。……あなたがあなたらしくいられる場所を自分の周りにだけでも作れたらそれは幸せ。……きっと」

 本のお姉さんの言葉に少し救われた気持ちと、心が一回り大きくなったような気分でいると、一冊の本を手渡してもらえた。

「……自然の知識」

 お姉さんが呟いたままのタイトルが表紙に書かれた本だった。

 これから魔法について学べるのを心から楽しみにしながら抱きしめ、水泡の中へとしまいこんだ。

「……今日はそれを読んでゆっくり休んで。疲れてるようだからまた今度練習しよう」

 本のお姉さんの気遣いに勢いよく頷くと、微笑みながら頭を撫でてくれた。

 たくさん頭を撫でられてうれしい気持ちと、氷の状態から自力で戻れなかったこと、上手く飛べなくて悔しかった気持ち、これから先に待ち受けるたくさんの成長を夢見て、こちらの世界で眠りについて夢を見た。



 昔、ピッグと呼びながら追いかけてきたお兄さんがいた。

 すごく優しいお兄さんで、嫌な感じが一つもない人で、顔が格好良いと思った。

 ピッグと呼ばれていただけでなく、お肉好きなのかよく聞かれて、お兄さんと同級生の男の子を追いかけたりもして仲が良さそうだと思ったことがある。

 そのお兄さんのことは別に嫌いなわけじゃなかった。

 他のどんな人より優しさを感じられて、差別的な言葉を言っていたわけでもなかった。

 どうしてそんな夢を見たのかわからないけれど、無事でいてほしいという気持ちがある。
しおりを挟む

処理中です...