夢魔

木野恵

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 酷くショックを受けた出来事のあと、しばらくの間本の虫と涙を流し続けていると、あの子が、あの子の魂が燃え盛っているのが見えた。

 黒く、暗くゆらめく闇の炎に包まれながら燃え盛っている様は、普通の炎を見た時に感じる美しさや幻想的なきらめきを取り除き、恐怖だけを残したかのようにおぞましかった。

 あまりのおぞましさに体がすくみ、心がすくみ、本の虫は体を震わせながら後ずさりしていた。

 怖い。

 いや、怖がっている場合ではない!

 急いで火を消さねばと、恐怖で動かぬ体に鞭を打ち、よろよろとこけそうになりながら水やら砂やらなにやら用意してなんとか消すことができた。

 怖かった。

 炎そのものが、あの子が燃えて消えてしまうのではないかと思ったことが……。

 火はあらゆる生き物が本能的に感知する恐怖の象徴でもあるけれど、この子が纏ったそれはまた違った恐怖を内包しているように思えた。

 あの子の魂がもう燃え上がらないか確認し、そっと状態を確認してみると、あまりに酷いいじめを受けた記憶が真っ黒で真っ暗に焼け焦げて見えなくなっていた。

 手足が、口元ががくがくと震える。

 本の虫はその場にへたり込んで震えていた。

 魂を、記憶を焼き尽くす炎だった。これが人に向けられていたらどうなっていただろうか。

 しかし、そうはならなかった。この子はいろいろな経験を積み重ねてとても優しく育ったから、人に向けることができず、自分にしか矛先が向かなかったんだろう。

 驚きと恐怖で引っ込んでいた涙が、もう一度頬を伝う。

 胸が痛い。痛くて苦しくて張り裂けそうなくらい。

 僕の好きな君の優しさが、君自身を傷つけてしまう原因になってしまったことが辛かった。

 自分を焼くぐらいなら、自傷行為を起こしてしまうくらいなら、他人を焼いてでも自分のことを大事にして欲しいと思わずにいられなかった。

 届かない想いを抱えながら、あの子をそっと抱きしめた。抱きしめてから、火傷を起こしていたら痛いんじゃないかと気がついたので、もう少し状態をよく見てからもう一度抱きしめた。

 苦しくて、辛くて、腹が立って……悲しかったんだね。辛かったよね。……すごく痛かったね。

 僕も一緒に見てた、疑似的に体験しちゃったから、すごくよくわかるよ。全部なんてわかりきることはないし、君以上の痛みなんて感じられないんだろうけど、僕もすごく悲しくて辛かった。胸が痛くて痛くてたまらなかったよ。

 そうしてしばらくずっと、あの子の魂を抱きかかえていると、その一年間のうちに起きた嫌な出来事を思い出しているのが分かった。

 記憶を整理しているのかな? もしかして、あのショックな出来事が自分の中から消し炭になっていることになんとなく気がついていて探しているの?

 どうして思い返しているのか、どうして自分の記憶を探っているのかを考えていると涙が出てきた。

 肉体が廃人になってもいいから、魂を引きずり出してこちらへ連れ去ってしまおうと思わされるきっかけだった。今まで見てきたことの積み重ねのとどめだった。

 僕のものになってもらう。親が泣こうが悲しもうがどうなろうがもうそんなこと知らない、知ったこっちゃない。



 あの子の片割れが眠る湖のほとりで一人考え込んでいた。考えて考えて、どうするべきなのかずっと悩んだ。

 本の虫から連絡がきて、つい先ほど起きたおぞましい現象を知った。

 自分自身の魂が燃え上がる現象。

 俺のせいだ。

 優しくなんて育てるんじゃなかった。優しさを捨てないでほしいなんて思うんじゃなかった。魂を二つに分けずにさっさとこちらへ連れ去っていれば良かった。

 後悔ばかりが浮かんでくる。大事なのはこれからどうやってこの子と優しいあいつを守るかだというのに。

 なぜ発火したのかはまだ情報が少なすぎてわからなかったが仮説は立てられる。

 仮説としては、やり場のない怒りや悲しみ等の負の感情が自分の中で膨れ上がり、それが火として発現した。そして、あの子は優しくなりすぎてしまったから外へエネルギーを向けられず、内に向けて放ってしまった。

 負の感情はあの子を燃え上がらせる燃料になった。

 そしてこれも仮説だが、俺が魂を真っ二つにしてしまったせいで、バランスが悪くなった可能性が大いにある。

 今起きて活動している方を優しいあいつは光の魂だなんて嬉しそうに話していたけれど、本当は闇の魂、そして今眠っている方が光の魂だ。

 言いづら過ぎる……。

 そうなると、相反する二つのものが単純に光と闇でわかれておらず、まだ他に相反するものを有していたとするなら説明がつく。こいつが火なら、今眠っている方はさしずめ水か。

 俺がバランスを崩してしまった……。

 守りたかったはずなのに、皮肉なことに自己崩壊を、自傷行為ならぬ自焼行為を起こすきっかけを作ってしまっていたようだ。

 一人で頭を抱えた。これから俺はどうすればいい。優しいあいつは消えるなんて言っていた。消えてほしくない、幸せになってほしい。でも本当のことを早く話さないともっと酷くなる。わかってる、わかってるんだ。でも……。

 俺にとって一番大切なのは優しいあいつと本の虫で、次がこの世界にいる仲間たち。その次があの子だ。

 最初、あの子は俺にとって優しいあいつの好きになったちょっと変わった子だという認識だった。

 生きているくせになぜかこちら側に遊びに来れて、夢を覚えて大事にしていて、一人遊びが、楽しく遊ぶのが大好きな子。辛い時でも遊びに置き換えて乗り越えるたくましい子だった。本人は無自覚だったようだけれど。

 そのうち、英雄のような、勇者のような振る舞いをしだして、俺はそれが気に食わなくて、見ているのが嫌で嫌で仕方がなかった。

 英雄や勇者なんて夢のまた夢だ。夢の世界でだけ見られる希望と栄光に満ちた存在、みんなの憧れ。でも現実では……。

 英雄や勇者になるなんて馬鹿のやることだ。

 でも、あの子は……どちらのあの子も底抜けに優しくて純粋だった。誰とでもきっとわかりあえるって信じていた。

 馬鹿なやつ……。

 わかりあうにはお互い歩み寄るしかない。自分がその気でも、相手にその気がなかったり、血も涙もない、話す気がないのであれば実現しない夢物語だ。

 俺はそいつを斬った。

 死にたい気持ちを分離し、生存本能を強くした。真っ白で純粋で高潔な心を切り離し、野蛮な方を引き出した。

 ついでに俺だけが……であることを隠したんだ。

 チャプチャプと音を立てる水面をぼーっと眺める。眺めながら、自分の気持ちと向き合い、これからどうするかを考えた。どうするかを考えるために、自分を見つめ直した。

 俺は優しいあいつをとられるのが本当は嫌だったのかもしれない。俺たちがどうやってこちらへきて、どうして夢魔のフリをしているのかを悟られてすべてが壊れるのが嫌だったのかもしれない。

 否定はしない。ようやく手に入れた気楽で幸せでいられる場所だったから。

 自分の気持ちに折り合いをつけなければ。

 俺は、優しいあいつが本当に幸せになれるならとられてしまってもいい。でも、また同じ目に遭ったら嫌だ。俺と同じような目に遭っているあの子を見ていて心底虫唾が走ったし、また同じことの繰り返しになるような嫌な予感がしたからだ。

 ぎゅっと拳を握り締め、唇を結んだ。

 あの子は俺と同じような道を歩んでいる。切り分けたはずだけれど、元が優しすぎたのか、俺が優しさを捨てないでほしいと思って余計なことをしたせいか、結局優しいまま育ってしまった。このままだと、あいつとあの子がくっついても俺と同じ末路をたどってしまうかもしれない。

 正直なところ、もう立ち上がる気力も考える気力もなかった。

 あの子から離れてくれるのが一番嬉しかった。でも、それは俺にとってのこと。

 あいつはあの子からずっと離れないで尽くして、ずっと元気づけていて……。

 辛かった。傷ついてほしくないし繰り返されてほしくなかった。

 綴じるべきじゃなかったのかもしれないが、綴じなければいけなかった。

 あの子は俺と歩いている道が似ているけれど、ある部分がまるで逆だ。俺は優しさを捨てたいと願ったが、あの子はきっと……。

 俺の読みが正しければとんでもないことになる。別にどうなろうが知ったこっちゃないし、あいつらの自業自得でしかないんだが……。

 なんだかんだいって、あの子のようにお人好しを捨てられない自分が嫌いだった。本当に嫌いで嫌いで仕方がない。

 俺がこうやってお人好しであるのを嫌悪して悩めば悩むほどあいつは優しくなって、優しくなればなるほど世の中の残酷さに打ちのめされて傷ついてしまうとわかっているのに……。

 心の中で誰にも相談できずに独白しながら考えを、気持ちをまとめた。

 やはり俺は優しいあいつを手伝うだけだ。離れないなら、徹底的にくっつける手助けをする。できれば本当のことを話したい。でも、消えてほしくなんてない。

 どう打ち明けるかだけが悩みどころだった。

「お前はどう思ってどう考える? お前なら、正直に話すときどうやって話す?」

 湖の底で眠っている、俺と似ているあの子へと独り言をぶつけてみた。

「起こせる時が来たら、いつか聞かせてくれよ。虫が良いことを言ってるのはわかってるんだけどさ。こんなどうしようもない俺を、仇のような俺を許してくれるなら、聞かせてみてくれないか?」

 陰鬱な気持ちで暗い湖の底を覗き込む。

 今あの子はどのあたりで眠っているのだろうか?

 底の見えない湖を覗いていると、先の分からない未来を見ているようで不安な気持ちが膨れ上がってきた。

 さて、これからどうするか真剣に考えないとな。

 今まで真剣に考えていなかったのかと聞かれれば、そうではないと答えるだろう。ただ、気合を入れなおしたというだけだ。

 そんなことを思っていると、本の虫から優しいあいつが呼んでいるという知らせが届いた。

 このタイミングで、あいつは消えないから大丈夫だと自分に言い聞かせながら唐突に打ち明けてしまおうか。

 そんなことを憂鬱な気持ちで考えながら合流すると、優しいあいつらしからぬ提案をされて目を丸くしてしまった。

「あの子をこちらへ引きずり込む。連れ去ろう。あんなところに置いておけない」

 目が本気だった。真剣なまなざしをまっすぐこちらにぶつけてきている。本気でやるつもりらしい。

「……手伝う」

 本の虫はあいつに手を貸す気満々らしい。いつも抱きかかえている本を開き、パラパラとめくっている。使えそうな魔法を探しているようだ。

 まずいことになったけれど、いいかもしれない。

「あの子が廃人になっても、抜け殻になってもいいのか? もしその覚悟があるなら俺も力を貸すよ」

 冒険で手に入れた特別な道具を持っていて、不思議な説得力がある以外取柄のない俺だったけれど、なにかできることがあればするつもりで言った言葉だった。

「……うん。どのみちあんなところに置いていたら遅かれ早かれ魂が燃え尽きて死んでしまうと思うんだ。だからその前に連れ出す。連れ去る。ありがとう二人とも……。僕はあの子を幸せにしてみせるよ」

 無力で大失敗した俺に底抜けに明るい笑顔を見せてくれたあいつを見ていると胸が痛くてたまらなかった。

 うまくいくといいな……。

 結局このタイミングで打ち明けることができず、本の虫に言った自分の言葉をかみしめることになった。

 相手にしたことが、言った言葉が自分に返ってくるようになっているのかもな。



 あの子を見守る理由に、連れ去る機会をうかがう目的が加わったからか、少しだけ見る目が変わってきたように思える。

 辛くて悲しい日々の中で嬉しいこと楽しいことを分かち合い、人という生き物を学びながら見守っていたけれど、いつどうやって連れ去ろうか、どのタイミングでやろうかという思考が混ざるようになった。

 あの子がトイレで決まった個室しか使っていなくて、いつもそこを使ってるのをストーカーになりつつある女二人組が把握して意地悪してくるようになっていた。

 そこで流されていないものがあったらあの子のせいにされていた。トイレしたら流せと人がいる場所で大声で喚き散らして嫌がらせをしていた。

 あの子は流しているし、あの子が出た直後に流れていなかったわけじゃないのに、人前で大きな声でそんな言いがかりをつけていて、みていて吐き気を催してしまった。

 周りの人間は笑いながらその意地悪に乗っかって一緒になってからかっているか、見てみぬふりして過ごしていた。

 そのうち、二人組に嘘と本当を混ぜて噂を流された。

 あの子に一部だけ話を聞かせて頷かせ、聞いてない部分も認めた風に言いふらされたりもした。

 見ていて気付いたけれど、この二人は特にうんことトイレが大好きなようで、人のトイレ事情を徹底的に調べずにいられないようだった。

 そのうち、トイレ事情だけでは飽き足らず、描いている絵や好きな物、なにもかも知らずにいられない癖にファンというわけではなく、嫌がらせ目的なのによくそんなに情熱的につきまわすことができたなと感動できるほど本格的な気持ち悪いストーカーだった。

 あの子はあまりにしつこく、あまりに悪質に付きまとってくるその子ら二人に対し、皮肉ってパパラッチになれるっていったらありがとうと言われていた。

 褒め言葉でもなんでもないよ。

 見守っていて、ストーカー以上にストーカーしていて気持ち悪い上に鬱陶しかった。どうして誰も何も言わないのか不思議でならなかった。

 先生に気があると勘違いしていた子は、そのパパラッチみたいな二人の話を信じて一緒にからかってくる子の一人だった。

 見ていてしんどい日々を送っている中で、あの子が自分の爪を噛むようになり、自分の手をつねるようになり、自分の手や腕を噛むようになった。

 心配で、見ていて痛々しくて、どうしてそんなことをするようになったのか知りたくて、本棚の海で調べてみることにした。

 本によると『自傷行為』というものの一種でストレスが大きな要因だと書かれていた。

 そういえばあの子は保育所に通っていた時に、かさぶたをよく剥がして傷口をさらに抉るようにいじっていたことがあったな……。

 傷口を抉り、夢中になって血を吸って舐めていたから、お腹がすいたのかなとか、そういう食性なのかと思い込んでいて特に気にしていなかったけれど、大きな勘違いをしていたことに今更気づかされた出来事だった。

 あんな幼いころから自傷行為というやつをしていたのに、僕というやつは……人という生き物をよく知らなかったから全然気づいてやれていなかったんだね。

 僕の気持ちに全然気づかないなんて思ったことを後悔した。

 人のことを言えた義理じゃなかった。気づいていないのなんてお互い様だったんだ。

 君をこちらに連れ込んだら、お互いのことを少しずつ知っていけたらいいな、なんて夢を描くように、明るい未来を思い描いてみた。

 君が与えられなかった親からの温もりを僕が与えて、君が得られなかった友人との楽しくて充実してて時には喧嘩とかしちゃうような日々も僕が与える。なんなら、ペットとして仲良くなるのも……犬への恐怖の克服とか……どうだろう?

 そのうち、君がずっと昔に諦めてしまった恋人になって、一緒に手を繋いであちこち遊びに行ったり、一緒に美味しいデザートを食べさせっこしたり、一緒にお布団で寝て……。

 たくさんの幸せなことを想像した。

 もちろん、十六になるまでは変なことなんてしない。

 それまでは親や兄姉が幼い子にそうするように、僕は優しく頭を撫で、背中を撫で、寝やすいように優しくポンポンとするからね。



 教室で不審者がまたうろついているから、車に乗った人が声を掛けてきても話を聞かずに走るよう先生が話していたときのことだ。

「そんな人いるんだ」

 あの子がそうやって驚きながら話すと、隣の席にいた面食い女がびっくりした様子で騒ぎ始めた。

「え? 知らないの? やっぱり本当にやったんじゃ」

 あの子は終始きょとんとしていて、担任の先生も驚いたような目をあの子へ向けていた。

 あの子は記憶がないんだ。ショックが強すぎて。なのに誰も気がついていないだなんて……。

 あらぬ誤解を受けたのだろうとはっきりわかった。いじめが酷くなる原因になってしまうんだろうという予感があったけれど、こちらからはどうしようもなかった。


 
 たくさん嫌がらせをされたせいであの子が自分の手をつねっているのを見た人間どもが「気持ち悪いからやめろ」だなんて言っていたけれど、あの子にそうさせているのはお前らだろうという怒りを抑えるのは難しかった。

 またあの子の魂がぱちぱち音を立てて燃え始めていることに気がつき、急いで火を消しながらあの子を見守る忙しい日々の始まりでもあった。

 気づくのに少しでも遅れてしまった時は、消すために近づいた瞬間一緒に燃えそうになったし、大きな火傷を負うこともあった。

 許さない、許せない、痛い、熱い、苦しい、辛い……そして悲しい。

 これがきっとあの子の抱えている痛みなんだね。できることなら全部引き受けてしまいたい。そんなことができたらどれだけ良かっただろうか。

 やつらを同じ目に遭わせてやりたい。身を焼かれるほどの苦しみを! 痛みを! 悲しみを! 怒りを!



 そのうち、大縄跳びを学校の行事か何かの一部でやるときがきた。

 あの子はちゃんと跳んでいたけれど、いろいろな人があの子に跳べ跳べと迫っていて、見ていてイライラさせられるのだった。

 あの子の視界を借りて見てみたけれど、縄が来る前に他の人にぶつかっていて越えられていないだけだったし、あの子に跳べと言いまくっていた人が引っ掛かっている上に誤魔化していたのも見えていた。

 そうやって自分で引っかかったあと、引っかかってませんと言わんばかりに縄の右側に行ったかと思えば「跳べええ!」なんていって喚き散らしていた。

 醜いなあ。

 あの子は大縄跳びが大嫌いになっていた。跳びたくないしみたくもないと。

 ずっと見てきたからその気持ちもよく分かった。

 あの子に言いがかりをつけるのは最もよくないことだし、そうやって一人が悪いみたいに毎回毎回いちゃもんつけてくるような集団の中でやりたくないような遊びだろう。

 言われているうち、あの子が本当に引っかかって、今のは本当に引っかかったと正直に言っていたら今までのも全部そうだった風に言われていて腹が立った。

 やんなくていいよそんな遊び。

 あの子の肩を持ってくれる人たちがいたおかげであの子は孤立していたわけではなかった。

 肩を持ってくれる人たちもまた、嫌がらせをしてきた人のように帰り道付きまとっていたけれど、ちゃんと優しさを感じ取れるものだった。ただ、前例が、刻み付けられた経験のせいで、あの子は警戒しちゃって、ちょっとつらそうにしていた。

 そのあともあの子は跳べ跳べうるさかった女から嫌そうな目を向けられたり、見るたびに嫌な気持ちを抱くようになっていた。

 そのうち、帰り道で誕生日が同じ子と、もし結婚したら子供が混乱するかもしれないなんてもしもの話をしていたことがあった。

 それは確かに面白い話だと思って聞いていたけれど、相手の子は結婚しようという話と勘違いしてしまっていた。

 見聞きしていて頭を抱え込んでしまった。

 人の話や事情を聞かない人が多いのかな。

 あの子は悪気があったわけでも嘘をつく気があったわけでもないのに、そのあとそんなこと言ってないって主張していたら嘘つきだと言われて喧嘩をする羽目になっていた。

 しんどいなあ……。

 相手に悪気がないというのが物凄くしんどかった。きっと、悪意があってやられるほうがまだ気持ち的にマシなことがあるという意味でもあるのだろうな。

 そんな勘違いを起こしてしまった子と、他のいろいろな子と汚い話で盛り上がっていた時のことだ。

 ある子があるものを飲んだと自慢していて、みんながすごいと言っていたので、あの子は負けじとあるものを食べたと嘘をついていた。

 すると、飲んだと言っていた方の子のときと違って、あの子のときだけはやし立てたりからかったりネタにしてあれこれ大騒ぎされていた。

 軽いいじめのようだった。

 なんでこんな扱いに違いがあるのか全く理解が及ばなくて、あの子自身は顔を赤くしながら嘘だと言っていたけれど誰も耳を貸そうとしていなかった。

 僕だけはちゃんと君の味方だよ。だって見かけたことないからね、そんなことしてるの。

 ああ、隣にいられたら、声が聞こえていたらどれだけ良かっただろうかと思わずにいられないのだった。



 あの子が遠くの違う星で、延々と続く道を歩いていき、見覚えのある景色にたどり着く夢を見ていた。

 僕たちが見せたわけではない、あの子の見たオリジナルの夢。

 こっそりと、見えないなにかとして夢の中に入り込み、あの子の隣に並んで歩いた。

 似たような景色、似たような人々と出会い、会話を試みたけれど、お互い話していることがなにもわからなくて、指をさし、ジェスチャーを使い、コミュニケーションをとろうと頑張っても何一つ伝わらない夢だった。

 今まさにあの子が置かれている状況と同じものを夢に見ていて、胸が抉られるように痛かった。

 君はひとりぼっちじゃない。ちゃんと話を聞いて、理解してもらえて、自分の考えや正義感を押し付けられず、君の嫌がることをやらない人ときっと出会えるよ。君とちゃんと向き合える人と……。君のためにと言いつつ、自分のためや自分のしたいことを正当化するための理由になんてしない、本当の意味で君の話を聞ける人と。君が苦しんでいるようだったら苦しまずに済むよう考えてくれる人と。それが僕であってもなくてもいい。君は一人じゃないからね。少なくとも僕たちはここから見守ってるんだ。

 君が頑張って生きて、頑張って抗って、頑張って歩み寄ろうとして、頑張りながら楽しんで絵をかいて、君なりに助かろうとして、君なりに考えて、君なりに頑張ってきたことも全部見てきた。誰が何と言おうとそれは君の努力だ。努力してないなんて言わせたくないし言われていたら殺してやる、呪ってやる。これ以上どう頑張れば良かったって? 僕は君の味方だから。君は記憶も魂も燃やしてしまうけれど、僕は忘れない。ずっと覚えてる。僕が君を証明する。君が話せないなら僕が話して書いて残す。君は優しさを諦めなかったことも。

 君が一生懸命絵を描いたのに、頑張ったのにと言って泣いているのを怒鳴りつけて黙らされているのを見たこと、頑張りが認められて褒められたときはみんなから「ずるーい」と言われて引きずり降ろされていたことも全部全部見ていたし憎んでいる。

 君はずるくない。頑張ったから伸びた能力だ。君は最高だ。

 聞こえていなくても、伝わっていなくても構わなかった。ただただ愛してる。

 そっと、周りに人がいるのにひとりぼっちでいる寂しさを夢の中でまで味わっているあの子を優しく抱きしめ、幼子にそうするように、頭をそっと撫で、背中を優しくさすってやった。

 君はひとりじゃないよ。愛してる。



 そうして見守っているうちに、あの子が胸を気にしていることに気がついた。

 どうやら、膨らんできたことがショックで、気持ち悪くて、引きちぎってとってしまいたいくらいに思っているらしい。

 君は女の子だから、胸が膨らむのは普通なんだけどな……。

 年頃の女の子によくあることなのだろうかと思いつつ、もしかして性自認というやつが男なのではないかという可能性も視野に入れた。

 君が男なら僕は女になりたいな……。

 そんなことを思いながら、下着が増えることも、胸に関することのなにもかも嫌がっている、気持ち悪がっているあの子に何をしてやれるのか全く分からないままでいた。

 たとえ人の心が読めても、読めるのと理解できるのとは別の話だから。

 理解できなくても、できないなりに歩み寄りたくて、あの子がどちら側であっても気楽に話せたらいいな、なんて希望を持ちながら、僕が髪の毛を伸ばし始めるきっかけになる出来事だった。



 あの子が理科の授業中に下敷きを返してもらえず、たらいまわしにされていじめられて、見ていて本当に嫌な出来事もあった。

 調子に乗んなが口癖の女王みたいな女の子と、その取り巻きの男の子たちだった。女の子は担任に気があると言いがかりつけていた子だ。

 みんなで一緒の班になったとき、元々仲良しの集団の中へ一人だけ突っ込まれ、なにもかも嫌で緊張していたようだった。

 問題が起きても見て見ぬふりだったし、あの子が孤立しているのに誰も何とも思っていなかった。

 また女の子が集団の中にいる男の子に気があるんじゃないかと言いがかりをつけていた。

 見ているのも聞いているのも嫌だった。すごく嫌な出来事だった。

 あの子は別に何とも思っていないようだったけれど、見聞きしていた僕の心はひび割れた氷にでもなったかのようだった。

 僕は別にパパや兄でもいいって思っていたはずなのに……。



 あの子が酷い癇癪を起こすようになり、少しずつ横暴になってきたある日のことだった。

 助けてくれた子があの子へ頻繁に絶交したいと言うようになった。

 あの子はあまりの辛さにほぼずっと泣き続けるようになっていたけれど、僕としてはさっさとそんな子なんて諦めてしまってほしいと願わずにいられなかった。

 君を犬のいる家へわざわざ連れて行き、怖がっているのにこっちへ来るよう言っていたり、夢やあこがれがあって語っていれば、片っ端から否定して無理だと決めつけて諦めさせていたり、絵に関しては下手くそだと、お姫様のような扱いをしてる子のが上手い、また違ったあの子の方が上手いと比較し、批判して否定してばかり。目指す気持ちをくじき、やらせないようにするような子のどこがいいんだ! 君を利用して良い子ぶろうとしていた子だよ? そんなやつと仲良くなんかしなくていいんだよ。

 ぐっと拳を握り締めながら、歯を食いしばりながら様子を見守っていた。

 全部が憎い。

 そのうち、茶番のように、自分たちが寛大だから許してあげるといった風に、あの子のことを見逃してあげるというように、仲直りのフリをされていた。

 

 あの子はそれからも結局嫌がらせを受けていて、からかってくる男の子には容赦なく叩いて対応していた。

 叩かれてる子は別に悪気があったわけではなく、親しみを込めていじっているつもりだったけれど、あの子にとっては攻撃されているという認識だったようだ。

 あの子は疲れ切ったのか、頭痛や微熱を繰り返し、保健室へ頻繁に行くようになり、学校を早退することが増えていった。

 早退した後は家で寝込みながら一人ですすり泣いていた。

 見ていて心が痛くて、いたたまれなくて、学校へ行かなければいいんじゃないかと思ったけれど、親が強制的に通わせていたからそういうわけにはいかなかった。

 ゲームがしたいだけだなんて言われながら。

 そんなわけがないのに……。

 いつか君に春が訪れてくれますように。もう二度と意地悪されなくなりますように。もう誰からも踏み台にされず、自由になれますように。どうか穏やかな気持ちがあなたへ戻ってきますように。



 辛い日々を観察していて、いろいろなことを考えた末に、あの子が寝ている間に連れ去ることに決めた。

 大好きな夢を見ながら肉体が安らかに眠れるように、夢の中で初めて手を繋いだ時のように、優しく手を取ってこちらへ連れ去れたらいいなって思い描きながら。

 寝起きなら親が気づいて抜け殻になったあの子のことをちゃんと弔ってくれるだろう。さすがにそんな状態の子に酷い扱いなんてしないだろう。

 そう思いたかったけれど、心配でならなかった。信用できなかった。しかし、学校や外で抜け殻になった場合どうなるかを考えると、これが最もましなタイミングだと思えるのだった。

 魂を引きずり出す方法を調べて考えている間、本の虫と気さくなやつにあの子を見守ってくれるようお願いをした。

 あの子はこちらへ遊びに来ている間、魂がどんな状態だったのか、魂とは一体何なのか、いろいろなことがわからなかった。

 本棚の海にある資料も魂に関する記述がほとんどなく、ほぼ手詰まり状態だったけれど、幽体離脱の本を見つけた時に少しだけ希望を見出すことができた。

 幽体離脱させている間に、肉体とつながっている線を切ってしまおう。あの子の魂を掴んで離さなければきっとうまくいく。

 本の虫と気さくなやつのところへ本を片手に戻ろうとした。

 僕がきっと助けてみせるから。



 優しいあいつからのお願いで本の虫と一緒にあの子を見守りに赴いた。

 朝早くから親の手伝いをしていて、眠くて疲れている中、一生懸命起きて働いていた。

 疲れ果ててしまったからなのか、夢と現実のはざまに意識があるからなのか、あの子は俺たちの姿を認識している様子だった。

 本の虫を白い狐に、俺自身は黒い狐に化けて見守っていたけれど、正しくあの子は見ることができていた。

 今まで真っ二つにしてから気づくことがなかったのに、どうして今更認識できるようになったのか。

 考えていると、気づいてしまうと切なくなった。

 もしかして死にかけているのか? こちら側の世界に近くなっているのか?

 繰り返し自焼を繰り返し続け、もうすぐで死んでしまうところまで追い詰められてしまっているのか……。

 こちらを見つめていたあの子は静かに心の中で助けを求める声をあげていた。それは楽にしてほしいという意味なのか、連れ去ってほしいという意味なのか、人間の俺にはさっぱりわからなかったが……。

 俺たちもできる限りを尽くすからな……。

 本の虫と一緒に尻尾を使って風を起こし、風に癒しの魔法をかけて扇ぎ続けた。

 どうか、もってくれ。死ぬな。あいつのためにも、死ぬことは許さないぞ。お前はもう十分頑張ったよ。これでどうか少しでも安らげば……。

 あの子は少しだけ元気になれたようだった。

 どうか、休めるときにゆっくり休んでくれ……。

 そんな願いを込めながら、何度も何度も尻尾を振った。

 魂年齢にすれば約3歳、普通の人間なら、普通に育った魂なら反抗期を迎える時期だ。

 ストレスによるものか、魂年齢によるものなのか、人との接し方が壊滅的に悪かったのか、環境が悪かったのか、酷い癇癪を起こすようになった。

 辛くて苦しいだろうが、もう少し耐えて欲しい。

 ただひたすら祈りながら本の虫と一緒にあの子を見守った。

 優しいあいつはあの一件以来少しずつ変わっていってしまっている。

 あいつを癒して安心させられるのはお前だけだし、お前のこと誰よりも愛しているのはあいつだけだ。

 どうかなにもかもがうまくいくことをひたすら願った。できればハッピーエンドがいいと。



 あの子を連れ去る準備を終え、みんなが夜寝静まるのを待った。

 苦しいかもしれないけれど、きっと一時的な物だから……。

 あの子の魂を抱きかかえた。本の虫と気さくなやつが僕を引っ張り、肉体から魂を引き離そうと3人で力を合わせた。

 あの子が読んでいたことのある大きなカブを思わせるようなやり方だった。

 引っ張ったせいか、あの子は目を覚ましてしまい、頭が急に痺れて目を開けても目の前が真っ暗でとても怖い思いをしている様子だった。

 金縛りというやつだろうか。

 幽体離脱の状態まで持っていけなかったどころか、魂を肉体から引き離すことができなかった。ただいたずらにあの子を苦しめてしまっただけだった。

 疑問に思っていると、呼び出しがかかった。

 滅多にない干渉だったので驚いていると、すぐに使者が目の前に現れ、僕と気さくなやつ、本の虫を連れてあっという間にこの世界の主人のところへ連れていってしまった。



「何やら面白いことをしようとしていたようですね」

 連れていかれたのは真っ白な空間にレッドカーペットが一筋敷かれているだけの場所だった。

 僕たちはそこで尻もちをつき、目の前で立っている翼の生えた人を見上げた。

「人間の魂を引きずり込もうとしてどうするつもりだったんですか? ああ、二人がいると話せないでしょうね」

 指をパチンとならすと本の虫と優しいあいつはどこかへ行ってしまった。

「……」

 目を伏せていると、翼の生えた人はにっこりと微笑みかけてきた。

「これなら話しやすいでしょう? 相変わらず正直になれない子のようですね。あなたが思っているほどみんな弱くはないのですよ」

「俺は小さい子じゃない。もう大人だ。それに、あんたが思ってるほどみんな強くはないぞ」

「そういわれても。幼い君を拾った身としてはねえ。君はずうっと私から見れば幼いままなんですよ。親にとって子はずっと子であるようにね。強い弱いはそれぞれですからね。少なくともあなたの周りの方々だけは信じてあげては?」

「いやあ、複雑な気分なもんだねえ。今の姿を見てもらえないってのは。……あいつらのことは考えとくよ」

「だったら正直になってみなさいな」

「……そうだな」

「別に嘘をつきたくてついてるわけじゃあないってわかっていますよ。私はあなたの親のようなものですからね。それに、人は誰しも生きていく上で嘘をついています。人を傷つけるためのものでなければ良いと思います。それに、嘘といっても、夢まで嘘呼ばわりされてはたまったものではありませんし、そこの線引きと区別が難しいところですよね。それに、なんでも嘘だなんて、生きづらくてたまりません。夢を忘れないでいてほしいものです」

 ニコニコと微笑みながら話す翼の生えた人は、心から慈しむような目を向けてくれている。

「本題に入りましょうか。私はあなたの行いや、手を差し伸べようとしている子のことも見ていましたよ。その上で、あなたに尋ねましょう。何があって、どうしようとしていたのですか?」

 柔らかく微笑みながら耳を傾けてくれて、いつものように書くものを用意して待ってくれていて、少しだけ心が軽くなってくる。

「実は……」

 優しいあいつと見守り続けてきた内容、俺は優しいあいつとあの子が結ばれてほしいと思っていること、あの子の魂を二つにしてしまったこと、あの子の置かれている状況や環境、様々なことをまとまりがつかないままポツポツと話した。

 それを逐一メモにとり、話が止まったときにわからなかったところを聞いてくれたり、掘り下げたりしてくれて話しやすいのだった。

「それは……辛い思いをしたのですね」

 涙を滝のように流しながらメモを取っているその人は相変わらずだった。俺を拾った時と変わらない。

「それでこちらへ連れてきたかったんだが、うまくいかなくて……」

 翼の人の前では自分が小さい男の子に戻ったようになってしまうのが情けなく思いつつ、少しだけ楽でもあるのだった。

 いじけたような語尾になってしまったのを恥ずかしく思っていると、頭をそっと撫でてくれて余計に照れくささが増してくる。

「よく挑戦しました。よく手助けしようとしました。あなたは、いえ、あなたも優しく育ちましたね。あなたもあの子も嫌なことはたくさん経験してきたでしょうけれど、私はあなたたちの優しさが大好きですよ」

 少し考え込んだ翼の人は、少し残念そうな顔をしている。

「おそらくですが、あの子の炎がこちら側へ来れないようにはじかれてしまったのではないかと思うのです。脅威だとこの世界に認定されてしまったのでしょう。私としても、いくら優しくて良い子でも、制御できない能力のある子をこちらへ引き入れるのは躊躇ってしまいます。あの子に手を差し伸べたい気持ちは私にもありますが、ここには他にも大切な子たちが過ごしています。どんなに良い子でも、どんなに優しい子でも、たとえ最愛であるあなたの子のような存在でも、人には相性がございますから、同じようにいじめが起きないとは限りません。そんなとき、あの子は自分にしか炎を向けないといっても、あの子が燃え尽きた後その炎はどうなってしまいますか? 周りに広がらないという保証はありますか?」

 ぐうの音もでなかった。燃え広がらないという保証はない。未知数だ。

 ここにもあの子の居場所を用意できないのだろうか。

 酷く落ち込みながら項垂れていると、翼の人が指を鳴らして提案してくれた。

「落ち込むことはないのです。制御できれば、安定させることができれば、他に害が及ばないと証明できるなにかがあれば良いのです。魂がひとつだったときはこちらへ遊びに来れていたのでしょう? だったら、ひとつに戻すのが難しくても、二つをずっと傍にいられるようにすれば、手を取り合っていられるようにすれば良いのです」

 それはそうなんだが……。

 黙ったまま俯いていると、ふふふと言いながら微笑んでくれるのが聞こえてきた。

「素直になってみるのです。大丈夫ですから。あなたは……あなたが傷つくのが怖いのですか? それとも、相手が傷つくのが怖いのですか? 隠されたままという方が悲しいこともあるのですよ」

 優しいまなざしで頭を撫でられながら、ゆっくりと考えた。

「あいつが消えるって言うんだ。たとえ話を持ち掛けてみてさ、試してみたんだ。あの子が二人なことに気付けてないのは辛いって……打ち明けるならせめて、危ないやつらがいなくなってから」

「ええ、賢明です。あなたにとっての相棒、優しいあの子は自分のできることに気がつくと、きっと炎をまき散らしにいってしまうことになるでしょうからね」

「でも、あの子がそれまでに燃え尽きて死んだら……」

「あなたならきっと大丈夫。あの子が死ぬ前に仕掛けをするのです。あなたならきっとできます。あなたのできることを最大限発揮してみせるのです」

 そういうとウィンクをし、指をパチンと鳴らした。

 まだ話したいことがあった。まだ一緒にいたかったけれど、甘えてばかりはいられない。



 光に包まれ目を閉じ、光が消えた頃にそっと開けると、本の虫と優しいあいつのいる場所に飛んだらしい。いつもいるあの子のことを見守れるあの場所で。

 優しいあいつは打ちひしがれながら項垂れていた。

 本の虫はじっと考え込んでいる様子だ。

「ただいま」

 声を掛けると二人ともゆっくりとこちらを向いた。

「おかえり。能力を制御できないような子をこちらに招くのは危険だから、制御できるようにって……使者の人が」

 優しいあいつがまた項垂れながらぽつりと呟いた。

「……あの子が死んじゃう。助けられなかった……僕も一緒に死ぬ。殺してほしい」

 項垂れながら涙をぽとぽとと落とし、すすり泣いているのを見ると胸が痛んだ。

「死ぬにはまだ早いぞ。俺に任せてもらえないか。良い考えがあって……あの子が死なない方法が新しく浮かんでいるんだ。保障はできない。あの子次第だから」

 今度はちゃんとやる。今度は守る。今度は道具に頼らない、実力で成し遂げてみせるから。

 あいつはゆっくりと頷いてそれを許してくれた。

「僕には何もできないんだ。本の虫のような魔法はないし、君みたいな特別な何かが僕には何もないんだ。お願い、あの子を助けて」

 塞ぎこみながらそんなことを呟いていて、胸が抉られるように痛かった。

 お前は誰よりも特別で誰よりも優しい能力があるんだよ。

 ただ、今回はダメだ。ダメなんだ……相性が悪いんだよ。

「きっとうまくいかせてみせる」

 俺がこいつのできることを隠した分、しっかりしないとな。



 二人を背に、あの子の魂に歩み寄る。こちらへこれなくなった炎の魂へ。

 そうしてまだ寝静まっているあの子へそっと語かけた。周りに聞こえてしまわぬように。

「お前は不死身だ。お前は炎だ。炎の化身だ。お前ならなれるんだ、不死身に。不死鳥がそうであるように、炎が破壊と再生を司る象徴としての側面があるように、お前は死んでも蘇る。お前は再び灰の中から生まれ変わる。お前は不死身だ。鳥でも龍でもなんでもいい。お前は灰の中から蘇る。その身を焼き尽くし、転生する炎だ。お前は何度でも燃え上がり、何度でも燃え尽き、何度でも蘇る魂だ。決して滅びぬ魂だ。お前の滅びぬ優しい心のように、魂も滅びることがないだろう」

 俺がみんなを一時的にでも夢魔にできているように、あの子へと暗示をかけた。

 どうか、上手くいってくれますようにと願いながら。



 学年が上がる前になり、あの子は一度燃え尽き、灰になったけれど、灰の中からもう一度魂を形成していた。

 上手くいったのか……。

 自分で自分が恐ろしくなった瞬間だった。ただの人の子だったはずなのに。

 震える手をぎゅっと握りしめていると、優しいあいつが涙を流しながら喜んでいるのが見えた。

「気さくなやつ。いつもありがとう。前もあの子のこと助けてくれたんだもんね。本当にありがとう」

 前のは……助けた内になんて入らないよ……。

 そうやって喜びながら泣いているあいつに本当のことを打ち明けるのがどんどん難しくなっていってしまうのだった。







 クラスで国語の教科書の物語と論文に分かれて発表会をすることになっているのを眺めていた。

 片方はキツネのお話で、もう片方はあの子が選ばなくて興味がなかったので目を通してない。

 あの子は物語の方を選んでいて微笑ましかったし、本当に絵本のような物語が、キツネが大好きになったんだと思わされる出来事でもあった。

 それぞれのグループに分かれ、あの子は背景がしたいと言っていたけれど、最初からできるわけがないと言われていたし、みんなで手を挙げて決めるという方法をとられていて、誰からも選ばれていなかっただけでなく、他の子は最低でも一票入っていて、自分で自分に手を挙げないとか馬鹿だなんて、誰もお前のことなんか選ばないなんて言われてなじられ、笑われていた。

 自分の時に手を挙げるのは普通だと言われ、普通を押し付けられそうになっていたし、何よりも酷い言われ方をしたことに我慢ができなかったようだった。

 人の心を傷つけることに何も感じないんだね。

 あの子は協力しようとしなかった。ボイコットだった。あの子なりの意思表示だった。

 いらない扱いを受けたのだからそういう風になっても当然なのに、周りからはさぼりだとか、自分の仕事をやれだとか、我がままだとか、ひどいなじられようだった。

 よっぽど暇なのか、あの子の周りに集まって罵倒ばかりする人もいた。同じさぼりだと言っても、誰かを傷つけていないあの子の方がよっぽど良い、ずっとましだろう。

 それに、あの子はわがままなんじゃない。なにがなんでも自分のしたかった担当にこだわっていたわけじゃない。言われ方が嫌で、誰にも選ばれないなんて言葉が嫌で、受け入れたくなかっただけだよ。自分に手を挙げていいってわかっていたら自分に手を挙げて、他の人に票なんていれなかったし、他の人に自分の票が入っているのが嫌でたまらなかっただけだよ。

 自分たちがいらないって言っておいて、その扱いは本当にない。どのみち担当できるできないとかそういう話じゃなくて、気持ちの問題、気分の問題だったんだよ。

 そのうち、あの子は担当になったものを描き始めた。誰よりも上手に誰よりも早く、模写であったといっても、とても精巧に描き上げていた。

 教科書の挿絵に載っていない部分も、想像力を働かせて上手に描いていて思わず頭を撫でたくなった。

 偉いね。よく頑張ったね。あんなに罵倒されたのに、選ばれないとかいらないとか言われたのに、よく描こうと思えたね。君はとても立派だ! 君の心はとっても綺麗で優しくて強いね。僕は君の絵が大好きだし、君に傍にいてほしいよ。

 しかし、発表の直前で絵の一部を破られてしまった。

 あの子はショックを受けていて、付きまとってくるやつらが助けてくれた子が破いたなんて言っていたけれど、あの子は信じようとしなかった。

 日頃から嘘を混ぜて人に付きまとってあることないこと言いふらすようなやつ信用できなくて当然だったんだろうけれど、本当のことを言っていたよ……。

 助けていた子は君の友達なんかじゃないのに、君はあれを大事にしようと、大事な友達として扱っていて、付きまとってくるやつを信じず、どちらにしてもわざとじゃないんでしょ? なんて言って庇っていた。

 君が短時間とはいえ丁寧に描いた絵を、上手に描いた絵を破ったそいつを僕は許せなかった。許せなかった……!

 でも、君が大事に思っているから……手を出すわけにはいかなくて……。

 我慢した。ひたすら耐えた。許せなくても、あの子がいいというのなら……。



 様々な辛いことを見てきた中でも、微笑ましいことはあった。

 あの子がまた料理に挑戦しようとしていて思わずにっこりしてしまった。

 僕は君のどんな料理も食べたい。

 どうやらあの子は今度はチャーハンに夢中になっているようだった。

 あの子は自分の好きな具材を冷蔵庫から適当に取り出している。卵にウィンナー、もやしに人参、タケノコ、レタス、たまねぎ……それらを一生懸命切って、溶いて準備していた。

 そのチョイスは水が……。

 気さくなやつ、本の虫と三人で料理の勉強をし、パラパラチャーハンを作るコツを教わっていたから、選ばれた具を見た時点で嫌な予感しかしなかった。

 その上、あの子は火が極端に怖いようで、ガスコンロのスイッチを入れるだけなのに、火をつけるときは極端に怯え、手が震えていた。

 スイッチを押すとき、小さく「ひっ」って声をあげているのが可愛らしいと思えたけれど、こちら側から見たあの子の魂が燃え上がっていたのを思い出すと全然笑えないのだった。

 怖いだろうね。怖くて当然だよね。だって、君のことを焼き尽くしてしまいそうな炎だから。自覚があったのかなかったのかわからないけれど……。

 火傷しないか心配で、ハラハラしながら見守っていると、案の定べちゃべちゃで水浸しのチャーハンならぬ、中華風リゾットと形容できてしまいそうな得体のしれないなにかが出来上がっていた。

 そこに塩コショウと鶏がらスープが投入されて出来上がり……らしい。

 あの子は一生懸命水気を飛ばそうとしていたけれど、米が潰れてもっととんでもないことになるばかりで酷い物だった・

 それでも食べてみたいな。

 こちらに再現したものを用意して食べてみたけれど、味は良いけど食感が最悪でべっちゃべっちゃしていた。チャーハンだと思って口に放り込むと顔が引きつりそうだ。

 チャーハンとしてじゃなく、新種のなにかだと思って食べるといけるな……。

 たまごサンドと違って味が良かったから平らげるのに難はなかった。

 違う料理だから失敗したんだよ。それに、たまごサンドでの失敗はちゃんと活かされてる。大丈夫、大丈夫だよ。確実に進んでる、成長してるんだ! だって味がちゃんとついてるのだから。次はもっと良くなるよ。ただ、どちらもなんか水が絡んでるね。もしかして君は水が大好きなのかい?

 家族からはあれこれ言われていたけれど、僕は君がちょっとずつでも成長していることにちゃんと気がついているからね。
 


 そんなある日、あの子が父親の飲んでいるお酒に興味を持ち、ちょっとだけもらっているのを見た。

 君は飲んだら危ないよ! 未成年だし、なによりお酒の飛んでないハンバーグであんな酔い方をしていたんだよ?

 そんな心配をよそに、あの子はビールや芋焼酎を一舐めしたあと一口飲み、美味しそうにしていたし正気を保っていた。

 あ……れ?

 成長したから強くなったということだろうか?

 疑問に思いながらみていると、少しだけ顔が赤くなっていた。

 あのとき酔ったから耐性ができたということかな? もしそうだとしてもお酒はよくないよ。

 さすがの親もそれ以上は飲まそうとさせてなくて安心できたが、少し違和感を覚えた出来事でもあった。



 あの子の掃除場所がトイレになり、真面目に掃除をしていたときのことだ。

 付きまとってくる二人組が窓の外からスリッパを叩き落して掃除の邪魔をしていた。

 あの子はすごく真面目に掃除していたのに、邪魔をしまくって知らんふりした挙句、さぼっているなんて先生に言いつけていた。

 無法地帯。

 そんな言葉が頭に浮かぶ。

 そうやって好き放題している子がいる傍らで、真面目に頑張っていれば邪魔をされて悪者扱いを受ける子がいる。

 そのうち、あの子は爆発して、嫌になって、個室に引きこもってしまったが、どういうわけか意地悪してくるやつらが授業を放り出し、先生を連れて周りに群がり、教室へ来いと喚きたててみんなで責めているかのようにうるさく詰め寄っていた。

 見ていて腹が立った。自分らが正義で正しいのだと、さぼりは許さないと、泣いている人に手を差し伸べている優しいクラスメイトでいるつもりだったようだけれど、茶番にしか見えなかった。

 優しくしてくれている女の先生が臨時できていたけれど、その先生にすらどっか行けなんて言って癇癪を起していた。今のあの子には全部が敵に見えてしまっていたんだ。

 それはそうだろう。いつも教室で意地悪しておいて、引きこもったらそうやって引きずり出そうと群がられて、誰が信用できる? 誰が手を取る? 攻撃しに来たと思うのが自然だろう。

 でも、先生は君に意地悪してないし、君のこと心から心配していたんだよ……。

 巻き添えを食らってしまった臨時の先生が気の毒でならなかった。あなたは悪くなくて、環境が悪いんだよ。

 あなたがあの子へ作ってあげた手作りのクッキーを僕は覚えている。アンパンマンの形をしたとても綺麗なクッキーだった。

 あの子はそれをとても嬉しそうに眺め、ずうっと残しておけたらいいのになんて言いながら、ちょっとずつ大事にかじって食べていたよ。

 あの子に優しくしてくれてありがとう。あの子が傷つくようなことを言ってしまってごめんなさい。

 

 あの子は人の話が理解できなくなっていた。

 聞こうとしても聞くことがちっともできなくて、聞こえないなりに悩んだ末にいろいろな工夫をしていて微笑ましく見守っていた。

 耳を手で覆ってドーム状にすると音の聞こえ方が変わるのを見つけ、面白がりながら試してみていた。これならちゃんと人の話が聞けるかもしれないなんて希望の満ち溢れた様子だった。

 録音中のような音の聞こえ方をしていて、辛い学校生活の中での楽しみであり、こうしていたら人の話が聞けて理解できるかもしれないなんて考えてのことだった。

 しかし、担任の先生がそれを耳ふさいで話を聞かないようにしていると勘違いして激しく怒ってしまっていた。

 一年生からやり直せば一番になれるといって廊下に引きずり出して怒鳴り、一緒に一年生の教室へ行こうなんて大声でわめいていた。

 授業中、冬場にも関わらず日差しが強すぎて暑くてカーテンを閉めたいとあの子がいったのに、無視されたか聞こえてなかったかで返事がもらえていなかった。

 あの子はそのまま授業を受けてぐったりしてしまったのを、助けてくれた子がまたカーテンをしめて助けてあげていた。

 僕としては信用できないけど、素直にありがたいとは思った。

 そうしてぐったりしてから、怒鳴っているときのように廊下へ手を引っ張って連れだしていった。

 見ていて警戒していると、今度は怒鳴るのではなく、廊下にある水場で水をかけて冷やしていたから少し安堵した。

 カーテンを閉めたかったら勝手に閉めていいなんていまさら言っていて腹が立つにもほどがあった。

 今まで授業中にうろつくなとか、黙って勝手にトイレ行くなとか、そういう注意し方を学校側でしておいて、何をいまさら。

 この先生だけが言ったわけじゃないにしても、矛盾していて、なんだか歯がゆく思えるのだった。

 そうしてあの子は一度力尽き、灰の中から蘇った。

 気さくなやつにお礼を言うと、少し暗くなっていたけれどどうしたんだろう?

 でもあと少しだ。あと少しで学年が上がって、先生も変わって、クラスメイトも変わって、次はましになるからね。

 またあの子が燃え尽きて死んでしまわないことを願いながら、人生に希望を持ってほしいと祈りながら、精一杯励まし続けた。
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