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第15話 もはや届かぬ昔の話
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妲己はどこからどこまで、どの部分を話すか思い悩んだ。レーヴは悪逆の全てを知っている…はずだ。それでも、話すのが怖いのだった。自分の積み重ねた過去が口を重くする。
勇気を出したい。
念願の、あのときの貘との会話は、もうとっくに叶ったじゃない。思ったような会話じゃなくって、悪態の多い、ロマンの欠片もない、不審がられて、怖がられているような内容ばかりだったが、それでも、すごく嬉しかった。本当は、昔みたいに逃げられるんじゃないかって怖かった。後もう一歩。
しかし、それとこれとは別なのだと、引き留めてくる自分がいる。あのときはありがとうなんて、どの口で言えたものか。
どれだけ償っても、罪が消えることなどなかった。
それに、レーヴは『おまじない』のこと、きっと怒っている。また、同じことしちゃったんだ。
俯いて黙りこくってしまった妲己は、いつもと様子が違っていた。妖艶な笑みも、人を魅了してやまない仕草も、大胆不敵さも、なにもかも鳴りを潜めている。眼の前にいる彼女はどこか儚げで…ただのか弱いひとりの少女だった。いつもの美しさとは別の、放っておけなくなるような、不思議な魅力があるのだった。今目の前にいるのは、いつしかの、古びた小さな小屋で酷く後悔しながらうなされていた彼女だった。
心配だった。あのときも、どんな事情があれ、どんな人かすら関係なく、ただ放っておけなかった。助けたい気持ちに、相手を選んで躊躇う理由なんてないのだった。
「あのー、妲己?もし具合が悪いなら、うちにくる?『おまじない』のこと、黙ってくれるなら、上がっても問題ないよ。体、冷えちゃうよ?」
ただただ、心配だった。
「…いいの?」
レーヴは温かく微笑んだ。
「二人きりで気まずいなら、四人一緒のときに話せるかもしれない。もしかしたら、私には話しづらいことなのかもしれないかな?とか…思ったりして。」
レーヴの心遣いは嬉しかった。
寄り添ってくれていたときを思わせる温かさに、心の氷が解けて溢れてしまいそうだった。ああ、この貘は、レーヴは今も昔もこんなに温かい。
けれど、事情がちょっと違うの。違うのよ。
「…嬉しいけど。」
断ろうと思った。出直して、度胸をつけてから、気持ちを伝えようと思い直し、立ち去ろうと思った。
「あの二人、妲己のこと大好きだって言ってたよ。多分、会いたがってる。顔を見せてあげてほしい。」
立ち去ろうとしているのがわかったレーヴは、すかさず妲己を食い止めた。
「…良かれと思って、二人にお守りをくれたんだよね?ありがとう、二人を大切にしてくれて。さっきはちょっと、問い詰めちゃってごめんね。ちょっと、びっくりしてしまって。」
悪いのは私の方なのに、レーヴは謝りだしてしまった。
「違うわよ、あなたは悪くないわ。余計な『おまじない』いれてごめんなさい。」
珍しく、しおらしい妲己にレーヴは動揺を隠せなかった。
「ううん。おかげでリーヴルは助かったし、一つ、新しい経験を積めた。そこからどう活かしていくかは本人次第なんだ。だから、気にしないで。」
妲己は目を大きく見開き、レーヴを見つめた。
「…気にしなくて、いいの?私の『おまじない』で、良くないことが起きたんじゃなくて?」
「そう。気にしない。結局、『おまじない』って持ち主を守るために編まれたものだったし、悪気はなかったんでしょう?」
妲己は胸が苦しくなった。黙って、ゆっくりと頷く。
「だったら、改良していけば良いんだよ。最初から上手くいく人はなかなかいないんだよ。たくさんこけて、たくさん立ち上がって、また挑戦して、つまずいて、また顔を上げて、前に進む。強すぎちゃったんだよ、今回は。だから、少し弱めるだけで良いんじゃないかな。」
やめて。
凍りついてしまった心が、レーヴの温かさに触れて、解けて、目から溢れてしまいそうだった。
やめて。私には優しくしてもらう資格なんてない。
本当はすぐに立ち去ってしまいたい、逃げ出してしまいたかったが。
「わかったわ。『おまじない』を編み直すわね。…レーヴ。」
妲己はすっと立ち上がり、髪を手で払った。
「なんでもないわ。すぐに行きましょう。」
部屋に帰る頃には、リーヴルもソーンもすっかり落ち着いて、談笑していた。
「あ!レーヴ!おかえりなさい。あれ?妲己さんだ!!」
いの一番に、リーヴルはパタパタと、無邪気に、人懐っこく駆け寄ってきた。元気を取り戻しているのを見て、レーヴは胸をなでおろす。
「久しぶりね、リーヴルちゃん。町で会って以来かしら?」
妲己も、いつもの調子で対応している。いや、もしかしたらそう振る舞っているのだろうか。
「お守り、ほつれたところがないか心配だから、少し見せてもらえないかしら?ちゃんと編めたか心配になっちゃって。ソーンちゃんも、いいかしら?」
素直にお守りを差し出しているリーヴルとソーンを見て、レーヴは妲己と共犯者になったような気分でほくそ笑んでしまった。悪いことは一つもしていないのだけれど、こっそりと善行を行うのは、こっそり盗みをしているときと少し似た気分になれるのだった。
当の妲己はというと、いつもの妖艶な笑みに加え、慈愛に満ちた眼差しを二人に向けている。それはどこか、神聖さを帯びているようだった。
ああ、なんて綺麗なんだろう。
見惚れている間に、妲己は素早く『おまじない』を編み直し、二人へと自然な流れで返していた。
「はい。二人とも、大事にしてくれてたのね。ちゃんと編めていたわ。人に手作りのものをあげるの、めったになくて、心配しすぎちゃったみたい。ほつれは見つからなかったし、二人が大切に持っていてくれたことがわかって、とても嬉しいわ。」
返しながら、二人の額に口づけをした。二人の顔はみるみる赤く染まっていく。
レーヴは感心した。約束通り、『おまじない』のことは伏せ、あまりにも自然に、二人を魅了しつつ完遂した。さすが『稀代の才女』。心からの称賛を送った。
「じゃあ、私はこれで。またお邪魔するわね。」
妲己が部屋を去ろうとするが、ソーンとリーヴルがそれぞれ妲己の腕にしがみつき、引き留めてしまった。
「お願い!今日一晩だけでいいから泊まっていってください!」
「妲己さんとレーヴのお話聞かせてほしい!」
二人が妲己にそう進言すると、珍しく妲己は頬を赤らめ、黙り込んでしまった。いつもなら、二人を骨抜きにすることで軽くあしらい、そのまま外へいってしまってそうなのだが。
いや、ひょっとすると、それはまさしくレーヴの『思い込み』なのではないか?妲己は『稀代の才女』ではなく、本当はただの乙女なのでは?
少しはらはらしながら様子をうかがっていると、なんと、妲己が折れたではないか。
「…わかったわ。可愛い二人のお願いだものね。」
二人の気迫に妲己が押されながら、レーヴとの話をポツポツと語り始めた。公園で二人きりのときと違い、とても明るく話している。それが、レーヴには少しだけ寂しいと思っていたのだが…。
「レーヴとの馴れ初め聞かせてください!」
先陣を切ったのはリーヴルだった。
「そうね…。あれは私が悪逆の限りを尽くしていた頃のことよ。」
妲己はいつものように、妖艶な笑みを浮かべ、ゆっくりと思い出すように話し始めた。
「あっやっぱりあの妲己さんなんだ。」
ソーンがぽつりと呟いた後、興味津々といった様子で、目を輝かせながら身を乗り出している。
妲己はそれを見て、少し驚いたかと思えば、とてつもなく優しい微笑みを向ける。それを受けたソーンは顔を赤くしながら魅入ってしまった。
「あの頃の私は人間が嫌いでならなかったわ。片っ端から殺してやる。そういう、憎しみと怒りに燃え盛っていたの。悪いことをたくさんして、たくさん人を殺したわ。今では…本当にいけないことをしたと、思っているわ。」
妲己は目を伏せた。二人は少しだけおろおろしている。
「で、でも!妲己さんは今、そんなことしてないし、私たちにとっても良いことしてくれてるよ!レーヴとソーンが会えたの、妲己さんのおかげだし!」
リーヴルは少ししょんぼりしてしまった妲己を懸命に元気づけようとしている。
「うん!私もね、妲己さんがいなかったら、今頃きっと…こうしてお話できてなかったと思う。本当に、ありがとうございました。妲己さんがしたのは、殺しだけじゃないです。昔のことは私たちにはわかりません。私たちには今の妲己さんしかわからないです。かといって、過去の妲己さんのことをなかったことにも、否定したりもしません。昔のそういうことがあったから、妲己さんが良い方向に向かおうとしたから、今の妲己さんが居るんだと思います。過去も今も、これから先の未来も、私は受け止めたいし、受け入れたいと思います。ほとんどの人って、自分の悪いことだけは隠して、棚に上げて、人の悪いことばっかり糾弾してるのに、妲己さんは悪いこと隠さないで、素直に話してくれて…えらい!立派です!」
ソーンはいつになく真剣な眼差しだ。その横でリーヴルの笑顔が陰ったが、レーヴにはどういうわけかわからないのだった。
妲己は少し勇気が出たのか、続きを話そうとするが、こちらを見やると、すぐに目をそらしてしまうのだった。なぜ。
「二人とも、ありがとう。…それで、レーヴとの馴れ初めなのだけど。」
公園でのときのように、また言いづらそうにしている。もしかして、なにかしちゃったのかな?
昔なんて言葉じゃ表現しきれないと思ってしまうくらい前の話だ。うーん。
レーヴは一生懸命、自分がなにかしてしまったんじゃないかと記憶を手繰っていくが、思い当たる節がひとつもない。
考え込んでいると、妲己が口を開いた。
「王宮の廊下を、歩いているのを見かけたわ。私はそのとき、人だけじゃなくて、貘という妖怪も好きじゃなかったの。それで…。」
レーヴは察した。殺されかけていたのか。全然気づかなかった。
血の気が引くのを感じながら妲己を見ると、妲己もこちらを見て、目があってしまった。
「人間ならまだしも、どうして貘も嫌いだったの?」
リーヴルがあどけなく聞いている。
ちょっと待って、人間ならまだしもって…。
レーヴは突っ込みたかったが、ぐっとこらえた。リーヴルも、そういえば何かを抱えていたのだった。いつも明るく純粋で元気が良くて忘れがちだったが、まだ気がかりなことがあるのだった。いつか聞けるときに聞かなければ。
「…私の非道で、人々は悪夢に苛まれていたのよ。それで、各地から貘が集まってきてたの。悪夢を貪り食う姿が醜くて見るに堪えなかった。もっと悪夢を見せるために恐ろしいことをもっとしろと、言う貘もいたわ。不愉快極まりなかったから、呪いをかけてやったわ。でも、彼は違ったの。」
三人の視線が一気にこちらへ向き、レーヴは亀のように首を引っ込める。
「正直に言うと、目障りな貘が王宮にいるのが不快で、殺そうって思ったのよ。でも、彼はある女官の部屋に入って、命拾いした。今では、殺してしまわずにすんで本当に良かったと思ってるわ。」
レーヴは思い出した。あのときか!あのときか!!!!
悪夢の香りを辿って歩いていたときだ。悪夢の香りが濃いのに生命力が希薄だった。見ている人の心が酷くボロボロで、このままだと夢に殺されてしまいそうだった、あのときだ。
「彼ね、他の貘と違って、悪夢に苦しんでいる人に寄り添っていたわ。とっても優しく。それで、気になったのがきっかけよ。」
妲己は目を伏せ、レーヴと反対方向を向いた代わりに、二人はレーヴに話を聞きたそうな眼差しを向けた。
「聞かせてもらうわよレーヴ。」
ソーンは逃さないぞと、レーヴを膝に抱き上げ、しっかり固定した。
「えーっと。何から話せば良いのかな?何を聞きたいのか私にはさっぱりわからないニャー。」
「猫のふりをしても無駄だよ。妲己さんが勇気出して話してくれたんだから、次はレーヴの番だよね?リーヴル!」
ソーンに固められ、リーヴルには美味しい紅茶とお菓子を、届きそうで届かない絶妙な位置に出された。
美味しそうだな、食べてみたいなと思うが、ソーンが抜け出すことを許さない。
これはもしや、もしや!
「お袋さんが泣いているぞ。食べたければ大人しく吐け。」
ちょっと渋めの声を意識したリーヴルが、最近観ている刑事ドラマのセリフを真似している。
やっぱりか!最近はまってるもんね!?
可愛らしかった、可愛いけど!
「いやいやいや、そこは、これでも食べろとか、とりあえず食うか?とか、食べても良い流れじゃないの?お預けなの?」
レーヴのツッコミもなんのその、二人は話をせがむのだった。
「実は…。見られていること、全然気づいてませんでした。」
二人はくすくす笑った。
「レーヴってちょっと鈍感で抜けてるもんね。」
「レーヴらしい。それで、女官さんはどうなったの?」
妲己はまだ向こうを向いている。
「夢を食べきった後、ぐっすり眠ったよ。しばらくして元気にもなった。そういえば、城が攻め入られた時、肩で息をしながら私のことを探しに来ていたな。」
妲己がこちらを向いた。
「その話、包み隠さず聞かせてもらえるかしら?」
「ひっ。」
あまりの圧にレーヴは萎縮した。ソーンとリーヴルには圧がかからなかったのか、平然としている。むしろ、妲己の気にした話を一緒に聞きたいと言わんばかりに目を輝かせている。
「…その、秘密にして欲しいって約束があるから。」
レーヴは女官との約束を守るべきか考えあぐねていた。妲己には、知らせてやるべきじゃないのか?と。しかし、約束は約束だ。本人の了承がないと。もう了承など得られないのだが。
「約束?…そう。」
妲己は引き下がったが、他の二人は気になって仕方がないことをまだ聞けていないのだった。
「じゃー、初めて妲己さんとお話したのはいつ?」
「妲己さんのことを知ったきっかけは?」
二人の勢いは衰えることがなかった。
「妲己と初めて話したのは図書館でだよ。きっかけは当時の人の悪夢で…。」
言いながら妲己を見ると、なにやら考え込んでいるようだった。
「どうして図書館が初めて話した場所なの?もっとずっと昔に知り合いだったんじゃないの?」
リーヴルの純粋な眼差しがレーヴを射抜く。
「それは…その…。」
言葉に詰まったのは、心当たりがあったからに他ならない。
怖くて声を掛けられても逃げていました。
言いづらい、非常に言いづらい!
妲己を見ると、まだなにか考え込んでしまっている様子だ。もしかして、女官のことだろうか。
「レーヴ、なにかやったの?」
ソーンが問い詰めてくる。
やってません!むしろ何もしなかった!逃げ回ってしまってた!悪いと思ってます!
「…臆病者でごめんなさいでした。」
「え???」
ソーンとリーヴルは困惑している。
レーヴのこんなところ初めて見た。
妲己は相変わらず考え込んでいる。まさか怒ってる?
「しょうがないなあ。昔の話が聞きたかったのに、二人が初めて会話したのが図書館じゃ、思い出話、聞けそうにないね。」
ソーンから開放され、リーヴルはにこやかにお茶と菓子を差し出してくれた。先程と違ってあまり食べたくはないが、もらえるものはいただく性分なので口をつける。
「美味しい!」
二人とも少し呆れたような顔で笑ったあと、妲己を心配した。
「妲己さん、もしかして、あんまり話したくないことでした?」
リーヴルは心配そうに妲己に声をかけている。
妲己は我に返り、またいつものような不敵な笑みを浮かべた。我に返ったときの表情は素だったのだろうか。それもまたとても綺麗なのだった。
「いいえ、そんなことないわ。心配かけちゃったわね。」
二人は安心した様子だったが、レーヴはむしろ心配になるのだった。
「それじゃ、私は失礼するわね。」
ソーンとリーヴルは、妲己にもう一度泊まっていってと言えず、少しだけしょんぼりしてしまった。
みんなに見送られ、いつものように消えてなくなろうとしていると、レーヴが声をかけてきた。一人だ。
「あの女官、もしかして特別な人だったの?」
なにか思うところがあったのだろう。鈍感なレーヴが珍しく気にかけている。
「ええ、特別な人よ。特別な人の妹でもあるわ。あまり話せたことはなかったのだけれど…。約束って、具体的にどんな約束なのかしら?それも話せないの?」
妲己の問いに、レーヴは少し考え込んだ。
「約束の内容自体は秘密にしろとは言われてないよ。これからお願いすることは言わないで欲しい。そう言ってた。」
言ってから、罪悪感に苛まれた。ほとんど喋ってしまったような気がしたのだ。
「…そう。じゃあ、あの女官との思い出はどう?それも秘密なのかしら?」
レーヴはよく思い返した後、首を横に振った。
「…良かったわ。ゆっくり、聞かせてもらえるかしら。」
レーヴは女官との思い出を語った。といっても、悪夢を一度平らげ、しばらく看病したときと、陥落する城で話したときだけが思い出だったが。それでも妲己は十分満足したらしい。
「…その後、どうなったの?」
城が陥落したあとのことはレーヴにもわからないので、首を横に振る。
「…そう。じゃあ、私はそろそろ行くわ。聞かせてくれて、ありがとう。」
妲己はとても安らかな顔をしていた。
よかった。
思いは伝えられずとも、知りたかった、探していた話を聞くことができた。何も知らないままで、終わらなかった。もう図書館を巡る必要なんて、なくなったのだ。
失くしてしまった大事な宝物をもう一度見つけ、大切に磨いて、もう失くさないように、大切に抱きしめたようだった。
勇気を出したい。
念願の、あのときの貘との会話は、もうとっくに叶ったじゃない。思ったような会話じゃなくって、悪態の多い、ロマンの欠片もない、不審がられて、怖がられているような内容ばかりだったが、それでも、すごく嬉しかった。本当は、昔みたいに逃げられるんじゃないかって怖かった。後もう一歩。
しかし、それとこれとは別なのだと、引き留めてくる自分がいる。あのときはありがとうなんて、どの口で言えたものか。
どれだけ償っても、罪が消えることなどなかった。
それに、レーヴは『おまじない』のこと、きっと怒っている。また、同じことしちゃったんだ。
俯いて黙りこくってしまった妲己は、いつもと様子が違っていた。妖艶な笑みも、人を魅了してやまない仕草も、大胆不敵さも、なにもかも鳴りを潜めている。眼の前にいる彼女はどこか儚げで…ただのか弱いひとりの少女だった。いつもの美しさとは別の、放っておけなくなるような、不思議な魅力があるのだった。今目の前にいるのは、いつしかの、古びた小さな小屋で酷く後悔しながらうなされていた彼女だった。
心配だった。あのときも、どんな事情があれ、どんな人かすら関係なく、ただ放っておけなかった。助けたい気持ちに、相手を選んで躊躇う理由なんてないのだった。
「あのー、妲己?もし具合が悪いなら、うちにくる?『おまじない』のこと、黙ってくれるなら、上がっても問題ないよ。体、冷えちゃうよ?」
ただただ、心配だった。
「…いいの?」
レーヴは温かく微笑んだ。
「二人きりで気まずいなら、四人一緒のときに話せるかもしれない。もしかしたら、私には話しづらいことなのかもしれないかな?とか…思ったりして。」
レーヴの心遣いは嬉しかった。
寄り添ってくれていたときを思わせる温かさに、心の氷が解けて溢れてしまいそうだった。ああ、この貘は、レーヴは今も昔もこんなに温かい。
けれど、事情がちょっと違うの。違うのよ。
「…嬉しいけど。」
断ろうと思った。出直して、度胸をつけてから、気持ちを伝えようと思い直し、立ち去ろうと思った。
「あの二人、妲己のこと大好きだって言ってたよ。多分、会いたがってる。顔を見せてあげてほしい。」
立ち去ろうとしているのがわかったレーヴは、すかさず妲己を食い止めた。
「…良かれと思って、二人にお守りをくれたんだよね?ありがとう、二人を大切にしてくれて。さっきはちょっと、問い詰めちゃってごめんね。ちょっと、びっくりしてしまって。」
悪いのは私の方なのに、レーヴは謝りだしてしまった。
「違うわよ、あなたは悪くないわ。余計な『おまじない』いれてごめんなさい。」
珍しく、しおらしい妲己にレーヴは動揺を隠せなかった。
「ううん。おかげでリーヴルは助かったし、一つ、新しい経験を積めた。そこからどう活かしていくかは本人次第なんだ。だから、気にしないで。」
妲己は目を大きく見開き、レーヴを見つめた。
「…気にしなくて、いいの?私の『おまじない』で、良くないことが起きたんじゃなくて?」
「そう。気にしない。結局、『おまじない』って持ち主を守るために編まれたものだったし、悪気はなかったんでしょう?」
妲己は胸が苦しくなった。黙って、ゆっくりと頷く。
「だったら、改良していけば良いんだよ。最初から上手くいく人はなかなかいないんだよ。たくさんこけて、たくさん立ち上がって、また挑戦して、つまずいて、また顔を上げて、前に進む。強すぎちゃったんだよ、今回は。だから、少し弱めるだけで良いんじゃないかな。」
やめて。
凍りついてしまった心が、レーヴの温かさに触れて、解けて、目から溢れてしまいそうだった。
やめて。私には優しくしてもらう資格なんてない。
本当はすぐに立ち去ってしまいたい、逃げ出してしまいたかったが。
「わかったわ。『おまじない』を編み直すわね。…レーヴ。」
妲己はすっと立ち上がり、髪を手で払った。
「なんでもないわ。すぐに行きましょう。」
部屋に帰る頃には、リーヴルもソーンもすっかり落ち着いて、談笑していた。
「あ!レーヴ!おかえりなさい。あれ?妲己さんだ!!」
いの一番に、リーヴルはパタパタと、無邪気に、人懐っこく駆け寄ってきた。元気を取り戻しているのを見て、レーヴは胸をなでおろす。
「久しぶりね、リーヴルちゃん。町で会って以来かしら?」
妲己も、いつもの調子で対応している。いや、もしかしたらそう振る舞っているのだろうか。
「お守り、ほつれたところがないか心配だから、少し見せてもらえないかしら?ちゃんと編めたか心配になっちゃって。ソーンちゃんも、いいかしら?」
素直にお守りを差し出しているリーヴルとソーンを見て、レーヴは妲己と共犯者になったような気分でほくそ笑んでしまった。悪いことは一つもしていないのだけれど、こっそりと善行を行うのは、こっそり盗みをしているときと少し似た気分になれるのだった。
当の妲己はというと、いつもの妖艶な笑みに加え、慈愛に満ちた眼差しを二人に向けている。それはどこか、神聖さを帯びているようだった。
ああ、なんて綺麗なんだろう。
見惚れている間に、妲己は素早く『おまじない』を編み直し、二人へと自然な流れで返していた。
「はい。二人とも、大事にしてくれてたのね。ちゃんと編めていたわ。人に手作りのものをあげるの、めったになくて、心配しすぎちゃったみたい。ほつれは見つからなかったし、二人が大切に持っていてくれたことがわかって、とても嬉しいわ。」
返しながら、二人の額に口づけをした。二人の顔はみるみる赤く染まっていく。
レーヴは感心した。約束通り、『おまじない』のことは伏せ、あまりにも自然に、二人を魅了しつつ完遂した。さすが『稀代の才女』。心からの称賛を送った。
「じゃあ、私はこれで。またお邪魔するわね。」
妲己が部屋を去ろうとするが、ソーンとリーヴルがそれぞれ妲己の腕にしがみつき、引き留めてしまった。
「お願い!今日一晩だけでいいから泊まっていってください!」
「妲己さんとレーヴのお話聞かせてほしい!」
二人が妲己にそう進言すると、珍しく妲己は頬を赤らめ、黙り込んでしまった。いつもなら、二人を骨抜きにすることで軽くあしらい、そのまま外へいってしまってそうなのだが。
いや、ひょっとすると、それはまさしくレーヴの『思い込み』なのではないか?妲己は『稀代の才女』ではなく、本当はただの乙女なのでは?
少しはらはらしながら様子をうかがっていると、なんと、妲己が折れたではないか。
「…わかったわ。可愛い二人のお願いだものね。」
二人の気迫に妲己が押されながら、レーヴとの話をポツポツと語り始めた。公園で二人きりのときと違い、とても明るく話している。それが、レーヴには少しだけ寂しいと思っていたのだが…。
「レーヴとの馴れ初め聞かせてください!」
先陣を切ったのはリーヴルだった。
「そうね…。あれは私が悪逆の限りを尽くしていた頃のことよ。」
妲己はいつものように、妖艶な笑みを浮かべ、ゆっくりと思い出すように話し始めた。
「あっやっぱりあの妲己さんなんだ。」
ソーンがぽつりと呟いた後、興味津々といった様子で、目を輝かせながら身を乗り出している。
妲己はそれを見て、少し驚いたかと思えば、とてつもなく優しい微笑みを向ける。それを受けたソーンは顔を赤くしながら魅入ってしまった。
「あの頃の私は人間が嫌いでならなかったわ。片っ端から殺してやる。そういう、憎しみと怒りに燃え盛っていたの。悪いことをたくさんして、たくさん人を殺したわ。今では…本当にいけないことをしたと、思っているわ。」
妲己は目を伏せた。二人は少しだけおろおろしている。
「で、でも!妲己さんは今、そんなことしてないし、私たちにとっても良いことしてくれてるよ!レーヴとソーンが会えたの、妲己さんのおかげだし!」
リーヴルは少ししょんぼりしてしまった妲己を懸命に元気づけようとしている。
「うん!私もね、妲己さんがいなかったら、今頃きっと…こうしてお話できてなかったと思う。本当に、ありがとうございました。妲己さんがしたのは、殺しだけじゃないです。昔のことは私たちにはわかりません。私たちには今の妲己さんしかわからないです。かといって、過去の妲己さんのことをなかったことにも、否定したりもしません。昔のそういうことがあったから、妲己さんが良い方向に向かおうとしたから、今の妲己さんが居るんだと思います。過去も今も、これから先の未来も、私は受け止めたいし、受け入れたいと思います。ほとんどの人って、自分の悪いことだけは隠して、棚に上げて、人の悪いことばっかり糾弾してるのに、妲己さんは悪いこと隠さないで、素直に話してくれて…えらい!立派です!」
ソーンはいつになく真剣な眼差しだ。その横でリーヴルの笑顔が陰ったが、レーヴにはどういうわけかわからないのだった。
妲己は少し勇気が出たのか、続きを話そうとするが、こちらを見やると、すぐに目をそらしてしまうのだった。なぜ。
「二人とも、ありがとう。…それで、レーヴとの馴れ初めなのだけど。」
公園でのときのように、また言いづらそうにしている。もしかして、なにかしちゃったのかな?
昔なんて言葉じゃ表現しきれないと思ってしまうくらい前の話だ。うーん。
レーヴは一生懸命、自分がなにかしてしまったんじゃないかと記憶を手繰っていくが、思い当たる節がひとつもない。
考え込んでいると、妲己が口を開いた。
「王宮の廊下を、歩いているのを見かけたわ。私はそのとき、人だけじゃなくて、貘という妖怪も好きじゃなかったの。それで…。」
レーヴは察した。殺されかけていたのか。全然気づかなかった。
血の気が引くのを感じながら妲己を見ると、妲己もこちらを見て、目があってしまった。
「人間ならまだしも、どうして貘も嫌いだったの?」
リーヴルがあどけなく聞いている。
ちょっと待って、人間ならまだしもって…。
レーヴは突っ込みたかったが、ぐっとこらえた。リーヴルも、そういえば何かを抱えていたのだった。いつも明るく純粋で元気が良くて忘れがちだったが、まだ気がかりなことがあるのだった。いつか聞けるときに聞かなければ。
「…私の非道で、人々は悪夢に苛まれていたのよ。それで、各地から貘が集まってきてたの。悪夢を貪り食う姿が醜くて見るに堪えなかった。もっと悪夢を見せるために恐ろしいことをもっとしろと、言う貘もいたわ。不愉快極まりなかったから、呪いをかけてやったわ。でも、彼は違ったの。」
三人の視線が一気にこちらへ向き、レーヴは亀のように首を引っ込める。
「正直に言うと、目障りな貘が王宮にいるのが不快で、殺そうって思ったのよ。でも、彼はある女官の部屋に入って、命拾いした。今では、殺してしまわずにすんで本当に良かったと思ってるわ。」
レーヴは思い出した。あのときか!あのときか!!!!
悪夢の香りを辿って歩いていたときだ。悪夢の香りが濃いのに生命力が希薄だった。見ている人の心が酷くボロボロで、このままだと夢に殺されてしまいそうだった、あのときだ。
「彼ね、他の貘と違って、悪夢に苦しんでいる人に寄り添っていたわ。とっても優しく。それで、気になったのがきっかけよ。」
妲己は目を伏せ、レーヴと反対方向を向いた代わりに、二人はレーヴに話を聞きたそうな眼差しを向けた。
「聞かせてもらうわよレーヴ。」
ソーンは逃さないぞと、レーヴを膝に抱き上げ、しっかり固定した。
「えーっと。何から話せば良いのかな?何を聞きたいのか私にはさっぱりわからないニャー。」
「猫のふりをしても無駄だよ。妲己さんが勇気出して話してくれたんだから、次はレーヴの番だよね?リーヴル!」
ソーンに固められ、リーヴルには美味しい紅茶とお菓子を、届きそうで届かない絶妙な位置に出された。
美味しそうだな、食べてみたいなと思うが、ソーンが抜け出すことを許さない。
これはもしや、もしや!
「お袋さんが泣いているぞ。食べたければ大人しく吐け。」
ちょっと渋めの声を意識したリーヴルが、最近観ている刑事ドラマのセリフを真似している。
やっぱりか!最近はまってるもんね!?
可愛らしかった、可愛いけど!
「いやいやいや、そこは、これでも食べろとか、とりあえず食うか?とか、食べても良い流れじゃないの?お預けなの?」
レーヴのツッコミもなんのその、二人は話をせがむのだった。
「実は…。見られていること、全然気づいてませんでした。」
二人はくすくす笑った。
「レーヴってちょっと鈍感で抜けてるもんね。」
「レーヴらしい。それで、女官さんはどうなったの?」
妲己はまだ向こうを向いている。
「夢を食べきった後、ぐっすり眠ったよ。しばらくして元気にもなった。そういえば、城が攻め入られた時、肩で息をしながら私のことを探しに来ていたな。」
妲己がこちらを向いた。
「その話、包み隠さず聞かせてもらえるかしら?」
「ひっ。」
あまりの圧にレーヴは萎縮した。ソーンとリーヴルには圧がかからなかったのか、平然としている。むしろ、妲己の気にした話を一緒に聞きたいと言わんばかりに目を輝かせている。
「…その、秘密にして欲しいって約束があるから。」
レーヴは女官との約束を守るべきか考えあぐねていた。妲己には、知らせてやるべきじゃないのか?と。しかし、約束は約束だ。本人の了承がないと。もう了承など得られないのだが。
「約束?…そう。」
妲己は引き下がったが、他の二人は気になって仕方がないことをまだ聞けていないのだった。
「じゃー、初めて妲己さんとお話したのはいつ?」
「妲己さんのことを知ったきっかけは?」
二人の勢いは衰えることがなかった。
「妲己と初めて話したのは図書館でだよ。きっかけは当時の人の悪夢で…。」
言いながら妲己を見ると、なにやら考え込んでいるようだった。
「どうして図書館が初めて話した場所なの?もっとずっと昔に知り合いだったんじゃないの?」
リーヴルの純粋な眼差しがレーヴを射抜く。
「それは…その…。」
言葉に詰まったのは、心当たりがあったからに他ならない。
怖くて声を掛けられても逃げていました。
言いづらい、非常に言いづらい!
妲己を見ると、まだなにか考え込んでしまっている様子だ。もしかして、女官のことだろうか。
「レーヴ、なにかやったの?」
ソーンが問い詰めてくる。
やってません!むしろ何もしなかった!逃げ回ってしまってた!悪いと思ってます!
「…臆病者でごめんなさいでした。」
「え???」
ソーンとリーヴルは困惑している。
レーヴのこんなところ初めて見た。
妲己は相変わらず考え込んでいる。まさか怒ってる?
「しょうがないなあ。昔の話が聞きたかったのに、二人が初めて会話したのが図書館じゃ、思い出話、聞けそうにないね。」
ソーンから開放され、リーヴルはにこやかにお茶と菓子を差し出してくれた。先程と違ってあまり食べたくはないが、もらえるものはいただく性分なので口をつける。
「美味しい!」
二人とも少し呆れたような顔で笑ったあと、妲己を心配した。
「妲己さん、もしかして、あんまり話したくないことでした?」
リーヴルは心配そうに妲己に声をかけている。
妲己は我に返り、またいつものような不敵な笑みを浮かべた。我に返ったときの表情は素だったのだろうか。それもまたとても綺麗なのだった。
「いいえ、そんなことないわ。心配かけちゃったわね。」
二人は安心した様子だったが、レーヴはむしろ心配になるのだった。
「それじゃ、私は失礼するわね。」
ソーンとリーヴルは、妲己にもう一度泊まっていってと言えず、少しだけしょんぼりしてしまった。
みんなに見送られ、いつものように消えてなくなろうとしていると、レーヴが声をかけてきた。一人だ。
「あの女官、もしかして特別な人だったの?」
なにか思うところがあったのだろう。鈍感なレーヴが珍しく気にかけている。
「ええ、特別な人よ。特別な人の妹でもあるわ。あまり話せたことはなかったのだけれど…。約束って、具体的にどんな約束なのかしら?それも話せないの?」
妲己の問いに、レーヴは少し考え込んだ。
「約束の内容自体は秘密にしろとは言われてないよ。これからお願いすることは言わないで欲しい。そう言ってた。」
言ってから、罪悪感に苛まれた。ほとんど喋ってしまったような気がしたのだ。
「…そう。じゃあ、あの女官との思い出はどう?それも秘密なのかしら?」
レーヴはよく思い返した後、首を横に振った。
「…良かったわ。ゆっくり、聞かせてもらえるかしら。」
レーヴは女官との思い出を語った。といっても、悪夢を一度平らげ、しばらく看病したときと、陥落する城で話したときだけが思い出だったが。それでも妲己は十分満足したらしい。
「…その後、どうなったの?」
城が陥落したあとのことはレーヴにもわからないので、首を横に振る。
「…そう。じゃあ、私はそろそろ行くわ。聞かせてくれて、ありがとう。」
妲己はとても安らかな顔をしていた。
よかった。
思いは伝えられずとも、知りたかった、探していた話を聞くことができた。何も知らないままで、終わらなかった。もう図書館を巡る必要なんて、なくなったのだ。
失くしてしまった大事な宝物をもう一度見つけ、大切に磨いて、もう失くさないように、大切に抱きしめたようだった。
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