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空波遥の章
冷たい廊下
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そういえば、と置いて、流れでさらりと出た話題みたいに永沢先生がこう口にした。
「今はアパートで一人暮らしなんだっけ?」
「そうです。先週から」
だからオレもなんでもないことのようにさらりと返したのだが。
「ご両親は他県なんだよね?」
「そうですね」
「大変だねえ・・・・・・。家に誰もいないからって、だらだらした生活しちゃダメだよ~?」
「ははは。気をつけます」
言語中枢の死んだAIみたいな抑揚になる。早くこの話題終わらせたい。
「困ったことがあったら、なんでも相談するんだよ?」
「ありがとうございます」と、オレはATMの亡霊にとり憑かれたかのような口調で返した。触れられたくないならむしろもうちょっと元気に爽やかに返すべきなんだろうなとは思うのだが、どうしてもそれができなかった。
「HRの時間が近いから後は教室に向かいながら話そうか」と連れ出された朝の廊下は、喧騒でいっぱいだった。
先生の背中を見失わないようにしながら、オレは周囲の光景をキョロキョロ見る。
指定の制服以外の服を着ていたり、Tシャツやパーカー、ジーンズなど、完全な私服を着ている者も幾人か見受けられた。
これが養瑛学園の、いつもの朝の風景。
のんびりと天気の話などしている生徒、小テストの話をしている生徒、手を拭きながらトイレから出てくる生徒、そんな彼らにもう教室に入るよう急かす教師・・・・・・。
(もしかして、この中に今日からクラスメイトになるやつがいるかもしれないんだよな・・・・・・)
俄かに胸の奥がきりきりざわめき出した。正直、自分があの中に入れるイメージが湧かない。
勉強に専念するんだからクラスメイトと必要以上に仲良くなる必要はない、一人ぼっちでもいいと覚悟を決めてきたはずなのに。教室に向かう足取りが、自分でもはっきり分かるほどに重い。
どうしよう。
喉の奥から何かが込み上げてくる。痺れるような頭痛を感じた。
「どうお?なかなか他の学校にはない雰囲気でしょ」
永沢先生からそんな言葉をかけられてはっと現実に引き戻される。
「へ?」
顔を上げると、先生が眼鏡の奥の目を細めて笑っていた。
「ほら、うち結構色んな服着て学校来る子いるから」
「あ、ああ・・・・・・、そのことですか」
正直、若干壁を感じるというか、自分には理解しえない人種だなと思っていた。
だって学校に制服以外の服を着てくるなんて。今までのオレの世界とは違いすぎる。
でも、そんなの別に気にすることではないだろう。オレはこの学校では余計な人間関係なんて築かない予定でいるのだから。今朝みたいに向こうからとんでもない圧でグイグイ来るようなやつがもしいたら・・・・・・、まあずっと無視し続けていればいい。そのうち諦めるだろう。
(そう・・・・・・。オレはこの学校では、誰とも関わらないで勉強だけやるんだ)
ぎゅっと拳を握りこむ。
もう、何度も何度も誓った。
大丈夫、もう絶対に揺らがない。何度も誓ったんだから。
・・・・・・なんで何度も誓ってるんだろうな。
とにかくもう100回くらい誓ってるから、これで最後にしたい。冷たいものが喉の奥でざわめく。そのたびに、それを沈めるのに躍起にならなければいけなかった。
「最初はびっくりするかもだけど、仲良くしてやってね?僕のクラスの子らもなかなかの個性派揃いだけど、絶対に悪い子たちではないから」
先生のその言葉に、「はい」と出たオレの声は、自分でも驚くほどに覇気がなかった。
ちょっと、集中力が途切れていた。目の前に広がる学校の風景が、前の高校にそっくりだったから。
思い出したくない記憶。
中学生の頃から、学校に通うのが苦痛だった。
思うように上がらない成績に焦りながら、ひたすら教室の端で問題集を解いていたオレに、隣の学区出身のやつらが放った一言。
『あいつさ、必死こいて勉強してる割にショボいよな?兄ちゃんはあんなにすげーのに』
一緒の小学校から上がってきた数少ない友達は、中学入学時にクラスが階を挟んで離れ離れになっていた。ひたすら笑いものにされるオレをかばってくれるやつは教室にはいなかった。
「・・・・・・」
全身が黒くて冷たい氷の塊になり変わっていくような感覚だった。痺れるような頭痛が強くなる。歩き方が一瞬思い出せなくなって、オレは前方に伸びる長い廊下を見た。
春の日差しに照らされたリノリウムは、ぴかぴかと輝く。だというのに、それはまるで処刑人を待ち受ける絞首台に続くごつごつと灰色の硬い石造りに見えた。
どうしよう。
このまま、新しいクラスになんて行けない。
どうしよう、どうしよう。
このまま回れ右をして、「とても教室にはいけないので今日は帰ります」と言ったら永沢先生はどんな顔をするだろう。せっかくそこそこいい流れだったのに、全てをぶち壊してしまうのは確実に思えた。
「結城くん、どうしたの?」
特にいぶかしむ様子のない、永沢先生の声。
オレはどうすることもできず、ただ力なく立っていた。
「どこか具合でも?」
「い、いえ・・・・・・」
このままだとぶっ倒れてしまう。オレは何とか自分を保つように、すう、はあと深い息をした。できれば、ここで数十分心の準備をしてもいいですかと言いたい。でもそれは許されないだろう。許されないというか、そんなことをしたらたちまちのうちに、オレは“普通じゃない生徒”になる。普通じゃない生徒は学校にいてはいけない。
真っ暗だ。前も後ろも。
「今はアパートで一人暮らしなんだっけ?」
「そうです。先週から」
だからオレもなんでもないことのようにさらりと返したのだが。
「ご両親は他県なんだよね?」
「そうですね」
「大変だねえ・・・・・・。家に誰もいないからって、だらだらした生活しちゃダメだよ~?」
「ははは。気をつけます」
言語中枢の死んだAIみたいな抑揚になる。早くこの話題終わらせたい。
「困ったことがあったら、なんでも相談するんだよ?」
「ありがとうございます」と、オレはATMの亡霊にとり憑かれたかのような口調で返した。触れられたくないならむしろもうちょっと元気に爽やかに返すべきなんだろうなとは思うのだが、どうしてもそれができなかった。
「HRの時間が近いから後は教室に向かいながら話そうか」と連れ出された朝の廊下は、喧騒でいっぱいだった。
先生の背中を見失わないようにしながら、オレは周囲の光景をキョロキョロ見る。
指定の制服以外の服を着ていたり、Tシャツやパーカー、ジーンズなど、完全な私服を着ている者も幾人か見受けられた。
これが養瑛学園の、いつもの朝の風景。
のんびりと天気の話などしている生徒、小テストの話をしている生徒、手を拭きながらトイレから出てくる生徒、そんな彼らにもう教室に入るよう急かす教師・・・・・・。
(もしかして、この中に今日からクラスメイトになるやつがいるかもしれないんだよな・・・・・・)
俄かに胸の奥がきりきりざわめき出した。正直、自分があの中に入れるイメージが湧かない。
勉強に専念するんだからクラスメイトと必要以上に仲良くなる必要はない、一人ぼっちでもいいと覚悟を決めてきたはずなのに。教室に向かう足取りが、自分でもはっきり分かるほどに重い。
どうしよう。
喉の奥から何かが込み上げてくる。痺れるような頭痛を感じた。
「どうお?なかなか他の学校にはない雰囲気でしょ」
永沢先生からそんな言葉をかけられてはっと現実に引き戻される。
「へ?」
顔を上げると、先生が眼鏡の奥の目を細めて笑っていた。
「ほら、うち結構色んな服着て学校来る子いるから」
「あ、ああ・・・・・・、そのことですか」
正直、若干壁を感じるというか、自分には理解しえない人種だなと思っていた。
だって学校に制服以外の服を着てくるなんて。今までのオレの世界とは違いすぎる。
でも、そんなの別に気にすることではないだろう。オレはこの学校では余計な人間関係なんて築かない予定でいるのだから。今朝みたいに向こうからとんでもない圧でグイグイ来るようなやつがもしいたら・・・・・・、まあずっと無視し続けていればいい。そのうち諦めるだろう。
(そう・・・・・・。オレはこの学校では、誰とも関わらないで勉強だけやるんだ)
ぎゅっと拳を握りこむ。
もう、何度も何度も誓った。
大丈夫、もう絶対に揺らがない。何度も誓ったんだから。
・・・・・・なんで何度も誓ってるんだろうな。
とにかくもう100回くらい誓ってるから、これで最後にしたい。冷たいものが喉の奥でざわめく。そのたびに、それを沈めるのに躍起にならなければいけなかった。
「最初はびっくりするかもだけど、仲良くしてやってね?僕のクラスの子らもなかなかの個性派揃いだけど、絶対に悪い子たちではないから」
先生のその言葉に、「はい」と出たオレの声は、自分でも驚くほどに覇気がなかった。
ちょっと、集中力が途切れていた。目の前に広がる学校の風景が、前の高校にそっくりだったから。
思い出したくない記憶。
中学生の頃から、学校に通うのが苦痛だった。
思うように上がらない成績に焦りながら、ひたすら教室の端で問題集を解いていたオレに、隣の学区出身のやつらが放った一言。
『あいつさ、必死こいて勉強してる割にショボいよな?兄ちゃんはあんなにすげーのに』
一緒の小学校から上がってきた数少ない友達は、中学入学時にクラスが階を挟んで離れ離れになっていた。ひたすら笑いものにされるオレをかばってくれるやつは教室にはいなかった。
「・・・・・・」
全身が黒くて冷たい氷の塊になり変わっていくような感覚だった。痺れるような頭痛が強くなる。歩き方が一瞬思い出せなくなって、オレは前方に伸びる長い廊下を見た。
春の日差しに照らされたリノリウムは、ぴかぴかと輝く。だというのに、それはまるで処刑人を待ち受ける絞首台に続くごつごつと灰色の硬い石造りに見えた。
どうしよう。
このまま、新しいクラスになんて行けない。
どうしよう、どうしよう。
このまま回れ右をして、「とても教室にはいけないので今日は帰ります」と言ったら永沢先生はどんな顔をするだろう。せっかくそこそこいい流れだったのに、全てをぶち壊してしまうのは確実に思えた。
「結城くん、どうしたの?」
特にいぶかしむ様子のない、永沢先生の声。
オレはどうすることもできず、ただ力なく立っていた。
「どこか具合でも?」
「い、いえ・・・・・・」
このままだとぶっ倒れてしまう。オレは何とか自分を保つように、すう、はあと深い息をした。できれば、ここで数十分心の準備をしてもいいですかと言いたい。でもそれは許されないだろう。許されないというか、そんなことをしたらたちまちのうちに、オレは“普通じゃない生徒”になる。普通じゃない生徒は学校にいてはいけない。
真っ暗だ。前も後ろも。
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