上 下
3 / 16

2 賑やかな辺境伯と今後の展望

しおりを挟む
「ど、ど、どういうことですのっ!?」

 正気に返って再び勢いを取り戻した時は、わたしは辺境伯の屋敷のベッドに横たえられていた。

「どういうことって……そういうことだよ」と、彼は肩をすくめる。

「わ、わたしっ……なにもっ、聞いていないっ……!」

「まぁ、その怪我だからゆっくり説明できなかったんだろう。――じゃ、悪いが少しだけ我慢してくれ」

 次の瞬間、彼の手の平から大きな水の塊が現れたと思ったら、みるみるわたしの全身を包み込んだ。
 驚いて目を見張って、身体が水の中で浮遊していることに気付く。

 でも、まるで水分なんて存在しないかのように、息も出来るし肉体も乾いたままかのように軽かった。
 ひんやりとして心地いい。水中を泳ぐ魚はこんな気分なのかしら。これなら、スイスイとどこまでも進んでいけそうね。


「よしっ! 終了!」

 彼が両手を叩くと、水の塊は泡みたいにパッと消えた。
 わたしは、元通りのベッドに横たわった形になる。

「とりあえず傷は治療したけど、疲労やらなんやらはまだ残っていると思うから、落ち着くまではしばらくは安静だな」

 気が付くと、ずっと苦しかった身体が軽やかになっていた。彼の言う通り、あんなにズキズキと痛んだ傷だらけの肉体は、すっかり元の状態に戻っていたのだ。

「あ……ありがとうございます……」

「なぁに、これくらい」彼はけたけたと豪快に笑う。「本当はすぐにでも歓迎会を開きたいけど、それは君の傷が全て完治してからにしようか。――病は気から、だからな!」

「あ……」

 恥ずかしくなって顔を伏せる。二の句が継げなかった。

 おそらく、彼は王都で起こった事件を知っているのだと思う。わたしが、惨めにも王太子殿下から婚約破棄をされたことを。
 身体の傷は癒えても、心の傷は本人の気持ち次第だから……。

「じゃ、早く元気になってくれ!」

 もごもごと狼狽えていると、彼はわたしの頭をちょんと軽くつついてから、踵を返した。









「…………」

 辺境伯から僅かに触れられた額が熱かった。懐かしい気持ちに胸がじんと温かくなる。

 彼――デニス・アレッド辺境伯のことは鮮明に覚えていた。
 彼が王宮で迷子になっていたところを、夜会の会場まで連れて行ったんだっけ。

 あの頃はもうトマス様の婚約者として厳しい王妃教育を受けていて、周囲からも未来の王族だと扱いを受けていて、気軽に会話できるような人物も皆無だった。

 まだ幼かったわたしは、好奇心で彼に話しかけたのだ。

 彼はよく喋ってよく笑う人で、会場までの少しの時間だったけど、強く記憶に残っている。未来の王妃だと忖度しない彼とは、自然に会話が生まれて、とっても楽しかった。

 お母様から「はしたないから決して片えくぼを見せないように」って、いつもきつく言われていたのに、それも忘れてケラケラと笑っちゃって、あとで誰かに見られなかったかヒヤヒヤしたわ。


「王命で辺境伯と婚姻を結ぶということは……もうトマス様とは破談になったのよね……?」

 わたしとトマス・マークス王太子殿下は、よくある政略結婚だ。
 でも、貴族の家門に生まれたからには仕方のないことだと思った。わたしは将来の国母になるために、子供の頃から必死で努力をしたつもりよ。

 でも……わたしには向いていなかった。
 才能がない、というのが正解かしら。

 本当は人見知りが激しくて、人と話すのが苦手で。引っ込み思案で、声も小さかったし、あがり症で、人前に立つとよく頭が真っ白になって……。
 こんな人間が王宮の中心である王妃なんて務まるわけがなかった。

 わたしの交流関係の構築の下手さにトマス様も辟易していたのか、いつの間にか彼との定期のお茶会の頻度もどんどん減っていった。

 そんな時、トマス様はリリアン・キャロット伯爵令嬢と出会ったのだ。

 彼女は既に社交界の華だった。
 波打つピンクブロンドの髪は目を引いて、生き生きとしたつぶらな瞳、華奢な身体は庇護欲が掻き立てられるようで、常に殿方たちから囲まれていた。

 人懐っこくて、会話上手で、あの眩しいくらいの明るい笑顔は、太陽みたいに周囲まで明るく照らしていた。彼女の側にいると、みんな自然と笑顔に溢れていた。
 頭の回転も早くて、他者を思いやり、時には計算ずくな言動は、陰謀渦巻く王宮で十分に戦っていける能力だった。

 そんな彼女とトマス様が恋に落ちるのに時間はかからなかった。
 分別のある彼女は彼との仲を必死で隠しているようだったけど、恋に浮ついた心は自然と漏れているみたいで、わたしもすぐに気付いた。

 二人が木陰でキスをしている姿も、何度も目撃した。
 ……惨めだった。

 彼女は、自分が欲しいものを全て持っている。
 王宮内も、彼女を中心とした新たな派閥が出来上がっていっていた。彼女を王太子妃にと持ち上げる勢力が出てくるのも時間の問題だろう。

 ――そんな風に考えている頃、神殿で彼から婚約破棄を告げられたのだ。



「っ……!」

 ふと、鏡の中の自分と目が合った。
 リラックスしていた身体が、途端に強張る。

 鏡は、真実を映す。
 幼い頃から、鏡に映る己を意識しなさいと何度も言われてきた。気高く、美しく。鏡の中の公爵令嬢は、完璧でないといけないのだ。
 以来、わたしは鏡の世界を生きている。立派で模範的な公爵令嬢として。

「本当のわたしは、どこにいるのかしら……?」




 その時、雷に打たれたかのように、ふと閃いた。

 わたしはこれから、知らない土地で知らない人たちに囲まれて暮らすことになる。彼らは王都での公爵令嬢のことを何も知らないのだ。

 これは、チャンスなんじゃないかしら?

 一からの人間関係の構築。一からマーガレットという人間の存在を示す機会。
 そう、どんなしがらみからも縛られない……新しいマーガレットとして、独り立ちするチャンス!

 天啓のように考えが浮かんだら、背中に羽がはえて今にも籠から飛び立せそうな気分になった。

 辺境伯とは仮面夫婦になって、一人で生きていこう。
 きっと彼も、長い期間この地に住んでいて、愛する女性が存在するはず。わたしは彼らの邪魔をしないように、ひっそりと一人で暮らすのよ。

 もう、人と人の隙間に挟まれて、神経を擦り減らすこともない。苦手な社交もしたくない。
 ここでは、今までの自分を知っている人物はいないのだから、なりたい自分として振る舞っていいのよ。

 突然未来が明るくなって、目の前に花輪の道が出来ていく。


「わたしは……ここで自立をするわ!!」


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】婚約者が好きなのです

maruko
恋愛
リリーベルの婚約者は誰にでも優しいオーラン・ドートル侯爵令息様。 でもそんな優しい婚約者がたった一人に対してだけ何故か冷たい。 冷たくされてるのはアリー・メーキリー侯爵令嬢。 彼の幼馴染だ。 そんなある日。偶然アリー様がこらえきれない涙を流すのを見てしまった。見つめる先には婚約者の姿。 私はどうすればいいのだろうか。 全34話(番外編含む) ※他サイトにも投稿しております ※1話〜4話までは文字数多めです 注)感想欄は全話読んでから閲覧ください(汗)

断罪される前に市井で暮らそうとした悪役令嬢は幸せに酔いしれる

葉柚
恋愛
侯爵令嬢であるアマリアは、男爵家の養女であるアンナライラに婚約者のユースフェリア王子を盗られそうになる。 アンナライラに呪いをかけたのはアマリアだと言いアマリアを追い詰める。 アマリアは断罪される前に市井に溶け込み侯爵令嬢ではなく一市民として生きようとする。 市井ではどこかの王子が呪いにより猫になってしまったという噂がまことしやかに流れており……。

拝啓、婚約者様。ごきげんよう。そしてさようなら

みおな
恋愛
 子爵令嬢のクロエ・ルーベンスは今日も《おひとり様》で夜会に参加する。 公爵家を継ぐ予定の婚約者がいながら、だ。  クロエの婚約者、クライヴ・コンラッド公爵令息は、婚約が決まった時から一度も婚約者としての義務を果たしていない。  クライヴは、ずっと義妹のファンティーヌを優先するからだ。 「ファンティーヌが熱を出したから、出かけられない」 「ファンティーヌが行きたいと言っているから、エスコートは出来ない」 「ファンティーヌが」 「ファンティーヌが」  だからクロエは、学園卒業式のパーティーで顔を合わせたクライヴに、にっこりと微笑んで伝える。 「私のことはお気になさらず」

もう、いいのです。

千 遊雲
恋愛
婚約者の王子殿下に、好かれていないと分かっていました。 けれど、嫌われていても構わない。そう思い、放置していた私が悪かったのでしょうか?

もう、振り回されるのは終わりです!

こもろう
恋愛
新しい恋人のフランシスを連れた婚約者のエルドレッド王子から、婚約破棄を大々的に告げられる侯爵令嬢のアリシア。 「もう、振り回されるのはうんざりです!」 そう叫んでしまったアリシアの真実とその後の話。

[完結]婚約破棄してください。そして私にもう関わらないで

みちこ
恋愛
妹ばかり溺愛する両親、妹は思い通りにならないと泣いて私の事を責める 婚約者も妹の味方、そんな私の味方になってくれる人はお兄様と伯父さんと伯母さんとお祖父様とお祖母様 私を愛してくれる人の為にももう自由になります

婚約破棄された検品令嬢ですが、冷酷辺境伯の子を身籠りました。 でも本当はお優しい方で毎日幸せです

青空あかな
恋愛
旧題:「荷物検査など誰でもできる」と婚約破棄された検品令嬢ですが、極悪非道な辺境伯の子を身籠りました。でも本当はお優しい方で毎日心が癒されています チェック男爵家長女のキュリティは、貴重な闇魔法の解呪師として王宮で荷物検査の仕事をしていた。 しかし、ある日突然婚約破棄されてしまう。 婚約者である伯爵家嫡男から、キュリティの義妹が好きになったと言われたのだ。 さらには、婚約者の権力によって検査係の仕事まで義妹に奪われる。 失意の中、キュリティは辺境へ向かうと、極悪非道と噂される辺境伯が魔法実験を行っていた。 目立たず通り過ぎようとしたが、魔法事故が起きて辺境伯の子を身ごもってしまう。 二人は形式上の夫婦となるが、辺境伯は存外優しい人でキュリティは温かい日々に心を癒されていく。 一方、義妹は仕事でミスばかり。 闇魔法を解呪することはおろか見破ることさえできない。 挙句の果てには、闇魔法に呪われた荷物を王宮内に入れてしまう――。 ※おかげさまでHOTランキング1位になりました! ありがとうございます! ※ノベマ!様で短編版を掲載中でございます。

仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが

ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。 定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──

処理中です...