【完結】婚約破棄寸前の不遇令嬢はスパイとなって隣国に行く〜いつのまにか王太子殿下に愛されていました〜

あまぞらりゅう

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30 異物

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 その人物は最初から会場にいたのだろうか。
 見た目はただの警備兵だけど、どこか陰鬱で重苦しい雰囲気を放っていた。

 誰か他の警備兵に……駄目だわ。彼らは令嬢たちに囲まれている王太子殿下を主に見守っていて、すぐ近くにいない。
 なにより、この異物を本物の警備兵と認識しているみたい。それに呼びに行っている間に先に動かれたら困る。

 ガブリエラさんたちも今は遠くで待機しているし、まだ大事になっていない今、無駄に騒ぎ立てて王太子殿下主催のお茶会を台無しにしたらアングラレス王国としての面目が立たないし……。


 仕方ない。
 わたしは、一人でこの異物に立ち向かうことにした。大丈夫、スカイヨン伯爵から教えていただいた間諜の技術が自分にはあるわ。
 とりあえず他の警備兵やレイたちが異物に気付くまでは、なんとか自分が足止めをするのよ。


「ちょっと、そこのあなた」

 わたしは覚悟を決めて異物に話し掛けた。

「っ……!」

 彼はビクリと肩を跳ねてから、硬直する。

「あなたに言っているのよ。聞こえないのかしら?」と、わたしはもう一度彼に声を掛ける。

「なん……でしょうか?」

「あら、ちゃんと耳と口はあるのね。聞こえるのだったらすぐに返事をしなさい」

「す、すみません……」

「まぁ、いいわ。あなた、待機しているわたしの侍女と付添人を呼びに行ってちょうだい。ドレスに少しトラブルがあったの」

「えっ……と」

「ほら、早く行きなさい? ジャニーヌ侯爵令嬢が呼んでいる、って」

「それは……」

「持ち場を離れられなかったら他の警備兵に一言声を掛けてからでもいいのよ? なんだったらわたしが代わりに言ってあげましょうか?」

「…………」

「あら、また口が聞けなくなったの? あなた、王宮の警備兵なのにどんな訓練を受けたのかしら。いいこと? 貴族から声を掛けられたら必ず返事をするのがマナーなのよ。あなた、階級は? 貴族社会のルールを知らないなんて、平民かしら? それでよく王宮勤めが出来るわねぇ。どうなの? 早く答えなさいな」

 わたしは畳み掛けるように彼に質問攻めをして、大仰に扇を振って嘆く振りをする。
 これで異物が動く前に、少しは周りから注目されるはず。お願い、誰か気付いて……!


「申し訳ありません、侯爵令嬢。この者がなにか失礼でも?」

 そのとき、剣呑な様子に気付いた警備兵がこちらに駆け付けてくれた。
 わたしは怒った素振りを見せて、

「ちょっと、ここの警備兵はどうなっているの? 貴族の呼び掛けに答えないなんて。わたし、こんなに軽んじられたのは初めてだわ」

「それは失礼をば致しました……! おい、侯爵令嬢に――お前、見ない顔だな?」

 駆け付けた警備兵が眉根を寄せた。
 そして次の瞬間、

「きゃっ!」

「動くな!」

 またたく間にわたしは異物の男に捕らえられて、首筋にナイフを当てられてしまった。ひんやりとした金属の感触が恐怖心を煽り立てて、わたしは縮み上がった。

「動いたら侯爵令嬢は殺す」と、男はじりじりと背後のテーブルへと下がる。

 近くにいた令嬢たちが一斉に悲鳴を上げる。穏やかなお茶会は一転して、恐怖と緊張が支配するむごたらしい会場へと変貌した。


「オディール嬢!」

 レイが血相を変えて駆けて来る。

「動くなっ!!」

 男の大音声の叫び声が庭園内に響き渡った。汗が滴り落ちる。当てられたナイフは今にもわたしの喉を掻っ切りそうで、肝が冷えた。

「令嬢たちの安全の確保を」と、レイが指示をする。その間も彼の視線はわたしだけに向けられていた。

「くそっ……なんでこうなったんだ……王子を狙うはずだったのにっ…………!」

 男はブツブツと独り言ちていた。やっぱり、王太子殿下を狙う刺客だったのね。
 これでレイに危害を加えるチャンスがなくなったと思うと、少しは安堵した。代わりがいくらでもいる侯爵令嬢なんかより、唯一無二の王太子殿下の命のほうが比べようもないくらいに重い。差し当たっては一安心ね。

 ……そんな風に考えていると、わたしの心もだんだん余裕が出てきた。
 今、男は非常に興奮している。注意力や判断力も落ちているはずだ。
 だから一瞬の隙を突けば、なんとか……!

 わたしは男に悟られないように、ゆっくりと扇の親骨から小さな針を取り出した。大使館に初めて足を運んだときにスカイヨン伯爵からいただいた諜報員の秘密道具である。
 細い針には即効性の痺れ薬が仕込んである。さすがに毒は怖くて使えなかったけど、これなら緊急時に役に立ちそうだったから常に携帯していたのだ。

 膠着状態が続いていた。
 兵士たちは男に手を出したくても侯爵令嬢が人質になっているので動けない。王太子殿下は悔しそうに歯噛みしながらこちらを見つめている。

 わたしは黙って男の観察を続ける。
 大丈夫。冷静に。スカイヨン先生から教わった間諜の心得を思い出すのよ……!

 相変わらず男は興奮している。彼の警戒心は兵士たちに向けられて、か弱い令嬢のことは完全に頭から抜け落ちているようで……わたしを押さえ付けている力が少しだけ弱まった。

 ――今よ!

 わたしはひっそりと手に握っていた針を、力を込めて男がナイフを持っている左手に突き刺した。

「ああぁぁぁっ!!」

 男は雄叫びのような声を上げながら目を剥き、ナイフを落とした。
 わたしはすかさず彼から離れ――、

「このアマっ!」

 刹那、男の拳がわたしの顔に飛んで来た。

「オディール!!」

 勢いよく丸テーブルに突き飛ばされる。後頭部が銀製のケーキスタンドにぶつかる。食器の割れるけたたましい音。背中がテーブルの角に激しく当たった。

 わたしはずるずると、流れるように地面に倒れ込む。ぬるりとしたものが額を伝った。
 鈍い感覚。頭がぼんやりする。目を細めると、男は既に兵士たちに捕縛されているようだった。

 よかっ――……、


「オディール! オディール! 死ぬなっ! 頼むから……!」

 レイの声が聞こえた。閉じそうな瞼を必死で開けると、今にも泣きそうな形相の彼が必死でわたしの名前を呼んでいた。

「レイ、落ち着け。大丈夫だ、侯爵令嬢は命に別状は――」

「やっぱり、僕が令嬢と関わってしまったのがいけなかったんだ……! オディール……きっ……君までも死んでしまったら、僕は…………!」

 ぼとり、と胸元に彼の頭が落ちた。

「えっ!? ちょ、ちょっと……! レ――殿下!?」

 わたしは驚愕のあまり、一瞬だけ意識がはっきりと蘇る。

 な……なぜ、怪我をしていないレイが先に気絶しているの…………?

 そう指摘しようとした折も折、わたしの気力も限界がきたようで、ふっと意識が遠のいていった。
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