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35 愛しいひと
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※血などの残酷な描写あり
「アンドレア様っ……!」
鈍色の世界が一瞬で七色に彩り、マルティーナの周囲が明るく照らされる。
そのきらびやかな世界の中心にいる愛しい愛しい人のもとへ、彼女は一目散に駆け出した。嬉しさで鼓動が速くなって、顔が火照る。
「もうっ、本当にお会いしたかったのですよ! 全然ご連絡をいただけませんし、監視が厳しくて、こちらからも何もできなくて……。王宮で軟禁されていると聞き及んで、とても心配しておりました。あなたがご無事で良かったですわ! ご連絡をくださったら、今日はご一緒に参加できましたのに」
彼女は堰を切ったように早口で捲し立てる。久し振りに再会した恋人に、話したいことが沢山あった。
彼と視線が交じるたびに、胸の奥から喜びが湧き上がって来る。あの瞳、あの鼻、あの口……全てが愛おしい。
本物の恋というのは、こういうことなのね。
さぁ、早く抱きしめてキスをして!
……しかし、すっかり舞い上がっている彼女は、第二皇子の冷ややかな視線には気付いていなかった。
独りよがりのお喋りは、止まらない。
「おまけに、好いてもいない公爵令息なんかと結婚させられてしまいましたわ! 本当に最悪。公爵家とは名ばかりで、貧乏で陰気臭くて、ダミアーノは偉そうだし。早く皇子妃として王宮で暮らしたぁい!」
第二皇子は沈黙を続けている。わたしと会えた感動で言葉も出ないのかしら、と彼女は彼を可愛く思ってくすりと笑った。
「ね、アンドレア様もそう思いますよね?」
やっとマルティーナの拙い長広舌が終わった。彼女は自慢の円い瞳をぱちくりさせながら、促すようにアンドレアを見た。
きっと、これまでみたいに優しく抱きしめてくれて、甘ったるい言葉で慰めてくれるに違いない。
やっと今夜から彼の寝室で眠れるのね。そう思うと、公爵家のメイドにもっと綿密に身体の手入れをさせれば良かった。
「……は?」
やっとアンドレアが一言だけ言葉を発する。
皇子は、光のない冷たい目で彼女を見下ろすだけだった。あまりに恐ろしい瞳に、ゾクリと背筋が凍る。
「えっと……? どうなさいましたの……?」
一拍して、おそるおそる問いかける。これまでとは異なる彼の冷淡な態度が、にわかには信じられなかった。
アンドレアは長いため息をついてから、
「お前は何か思い違いをしているようだな」
身体の芯に響くような低い声音で言い放った。彼女は急激に怖くなって、覚えず一歩後ずさる。
「ど、どういう……」
「お前は婚約者のいるヴィッツィオ公爵令息と肉体関係を持ち、さらに皇子である私を手に入れようと、皇族を欺いたな」
「ちがっ……わたしは……」
「違う? これは議会の正式な書類に記されていたのだが? ……皇太子が作成した、な」
「っ……」
マルティーナは二の句が継げずに動きを止める。アンドレアの怒りは、彼女にまっすぐに降り注いでいく。
「子爵令嬢如きが皇子である私を欺き、誑かそうとしたのだ。本来なら極刑のところを皇后陛下の慈悲で生かしてやっているのだぞ。
あまつさえ、未婚の頃より肉体関係のあった公爵令息と悲願の婚姻までさせてやった。苦情どころか感謝をしてもらいたいほどだ」
「待って! わたしが本当に愛しているのは――」
アンドレアの消えた表情に、マルティーナの全身が逆立つ。凍てつくような視線が、彼女の心臓を貫いた。
「二度と私の前に現れるな」
とどめの一言。それは、かつてあんなに愛し合って、甘い言葉を交わし合った恋人同士の言葉には思えなかった。
次の瞬間、マルティーナの視界が帷が落ちたように真っ黒になった。耳にキンと鋭い痛みが走って、胃がコポコポと鳴った。
アンドレアはゆっくりと踵を返す。
マルティーナは呆然と立ち尽くしている。
そして、
「なんでよおぉぉっ!!」
勢いよくアンドレアに飛びついた。
彼は床に倒れ、彼女は馬乗り状態になる。慌てて護衛が彼女を引き剥がそうとするが、女性とは思えないほどの強い力で皇子に喰らい付き、決して離れなかった。
マルティーナの両指が、アンドレアの首筋に深く沈んでいく。
「っかはっ……!」
そして彼の気道が急激に締め上げられた。
彼女は顔を真っ赤にして、悪魔のような形相で叫ぶ。
「なんでっ、なんでよっ! わたしたち、あんなに愛し合ったじゃない! あんなに身体も重ねたのに……!
わたしを皇太子妃にしてくれるって約束したじゃないっ! そのうち現皇太子を殺すから、絶対にわたしが皇太子妃になれる、って……!!」
貴族たちに戦慄が走る。にわかに肌がひりつくような緊張感が彼らを襲ったのだ。
この小公爵夫人は、絶対に言ってはならないことを口にした。それは、皇位簒奪に等しい恐ろしい言葉だ。
これまでは水面下でそのような攻防が起こっているのだろうと暗黙の了解はあったが、公の場で人の口から「陰謀」を発せられたのは初めてだった。
皇子の顔が青紫色になる。それは彼女の衝撃の告白が理由ではなく、だんだんと空気から遠ざかっていたのだ。もう、息ができない。
「約束したのにっ! 嘘つきっ! 嘘つきっ!」
騎士数人がかりで、やっとマルティーナを皇子から引き剥がせた。
アンドレアは、げほげほと苦しそうに咳き込みながら空気を吸う。
「何するのよっ! 離しなさいよっ!」
騎士たちに床に押し付けられたマルティーナは、獣の雄叫びのように吠えながら暴れ回る。今も彼女の力は凄まじく、強靭な肉体を持つ騎士たちも苦戦していた。
「こ……この、女を……しけ……」
おもむろに上半身を起こしたアンドレアが、騎士たちに何か命令をする。喉を痛めた彼の言葉は不明瞭で聞き取れず、彼らは思わず皇子のほうに聞き耳を立てた。
次の瞬間、
「あああああっ!!」
マルティーナが騎士たちを振り払って、近くのテーブルの上にあったケーキナイフを素早く握る。
そして、
「絶対に許さないっ! わたしたちは愛し合っているの! 結婚するのおおぉぉぉっっ!!」
瞬時に、アンドレアの腹部に突き刺した。
「ああぁぁぁっ!!」
「殿下っ!!」
騎士の一人が、マルティーナのナイフを持っていた手首を剣で斬り落とす。
「ぎゃああぁぁぁっ!!」
赤い血が吹き出して断末魔の叫びが辺りに響いた。
かつては可憐だった手は、ひくひくと痙攣しながら転がっていく。
すっかり取り乱したマルティーナは、今度は易々と騎士たちに取り押さえられた。
「離しなさいっ! わたしはっ! 未来の皇太子妃なのよっ! アンドレア様の妻なのっ!!」
第二皇子と小公爵婦人を中心に、騎士や側近たちが巨大な生き物のように固まって、ホールから慌ただしく出て行った。
沈黙。
誰しもが次の言葉を探していた。
そんな演劇みたいな刃傷沙汰を、キアラは令嬢たちに混じって遠くから見つめていた。
若い女性の金切り声。皿の割れる金属音。恐ろしく歪んだ形相の女。流れる高貴な赤い血。残った手首。武器が擦れる音。悲鳴。
……全てが計算された舞台の演出みたいで、ここからは隔絶されているように感じる。
(私がかけた魅了魔法は、とっくの昔に切れているのにね……)
ならば、マルティーナは本気で第二皇子のことを愛しているのだろう。
六回もの人生で、あんなに深く愛していた公爵令息よりもずっと。
移ろいやすい愛。儚い愛。存在しない愛。
マルティーナは結局のところダミアーノやアンドレアそのものを愛しているのではなく、彼らの背景を愛しているのだ。
下級貴族である子爵令嬢が上の階層へ行くために公爵令息と恋仲になり、真の婚約者から奪って、やっと手に入ったらもっと上を掴みたがる。
――じゃあ、もし第二皇子より上の存在が現れたら?
彼女はまるで飢えた獣みたいに、上へ上へと最上階を目指して進むのだろう。そこに、ゴールなんてない。
(私は……あんな軽薄な女に負け続けいていたのね)
虚しさが塊となって、キアラを包み込む。
今となってはもう分からない。もしかしたら、彼女は最初は心からダミアーノのことを愛していたのかもしれない。
魅了魔法がかかる前のことは、もう覚えてはいないが。
(偽物の愛に、負けていたのね……)
キアラはおもむろに立ち上がり、ホールから出て行った。
今はただ、悲しみしか心に反響していなかった。
「アンドレア様っ……!」
鈍色の世界が一瞬で七色に彩り、マルティーナの周囲が明るく照らされる。
そのきらびやかな世界の中心にいる愛しい愛しい人のもとへ、彼女は一目散に駆け出した。嬉しさで鼓動が速くなって、顔が火照る。
「もうっ、本当にお会いしたかったのですよ! 全然ご連絡をいただけませんし、監視が厳しくて、こちらからも何もできなくて……。王宮で軟禁されていると聞き及んで、とても心配しておりました。あなたがご無事で良かったですわ! ご連絡をくださったら、今日はご一緒に参加できましたのに」
彼女は堰を切ったように早口で捲し立てる。久し振りに再会した恋人に、話したいことが沢山あった。
彼と視線が交じるたびに、胸の奥から喜びが湧き上がって来る。あの瞳、あの鼻、あの口……全てが愛おしい。
本物の恋というのは、こういうことなのね。
さぁ、早く抱きしめてキスをして!
……しかし、すっかり舞い上がっている彼女は、第二皇子の冷ややかな視線には気付いていなかった。
独りよがりのお喋りは、止まらない。
「おまけに、好いてもいない公爵令息なんかと結婚させられてしまいましたわ! 本当に最悪。公爵家とは名ばかりで、貧乏で陰気臭くて、ダミアーノは偉そうだし。早く皇子妃として王宮で暮らしたぁい!」
第二皇子は沈黙を続けている。わたしと会えた感動で言葉も出ないのかしら、と彼女は彼を可愛く思ってくすりと笑った。
「ね、アンドレア様もそう思いますよね?」
やっとマルティーナの拙い長広舌が終わった。彼女は自慢の円い瞳をぱちくりさせながら、促すようにアンドレアを見た。
きっと、これまでみたいに優しく抱きしめてくれて、甘ったるい言葉で慰めてくれるに違いない。
やっと今夜から彼の寝室で眠れるのね。そう思うと、公爵家のメイドにもっと綿密に身体の手入れをさせれば良かった。
「……は?」
やっとアンドレアが一言だけ言葉を発する。
皇子は、光のない冷たい目で彼女を見下ろすだけだった。あまりに恐ろしい瞳に、ゾクリと背筋が凍る。
「えっと……? どうなさいましたの……?」
一拍して、おそるおそる問いかける。これまでとは異なる彼の冷淡な態度が、にわかには信じられなかった。
アンドレアは長いため息をついてから、
「お前は何か思い違いをしているようだな」
身体の芯に響くような低い声音で言い放った。彼女は急激に怖くなって、覚えず一歩後ずさる。
「ど、どういう……」
「お前は婚約者のいるヴィッツィオ公爵令息と肉体関係を持ち、さらに皇子である私を手に入れようと、皇族を欺いたな」
「ちがっ……わたしは……」
「違う? これは議会の正式な書類に記されていたのだが? ……皇太子が作成した、な」
「っ……」
マルティーナは二の句が継げずに動きを止める。アンドレアの怒りは、彼女にまっすぐに降り注いでいく。
「子爵令嬢如きが皇子である私を欺き、誑かそうとしたのだ。本来なら極刑のところを皇后陛下の慈悲で生かしてやっているのだぞ。
あまつさえ、未婚の頃より肉体関係のあった公爵令息と悲願の婚姻までさせてやった。苦情どころか感謝をしてもらいたいほどだ」
「待って! わたしが本当に愛しているのは――」
アンドレアの消えた表情に、マルティーナの全身が逆立つ。凍てつくような視線が、彼女の心臓を貫いた。
「二度と私の前に現れるな」
とどめの一言。それは、かつてあんなに愛し合って、甘い言葉を交わし合った恋人同士の言葉には思えなかった。
次の瞬間、マルティーナの視界が帷が落ちたように真っ黒になった。耳にキンと鋭い痛みが走って、胃がコポコポと鳴った。
アンドレアはゆっくりと踵を返す。
マルティーナは呆然と立ち尽くしている。
そして、
「なんでよおぉぉっ!!」
勢いよくアンドレアに飛びついた。
彼は床に倒れ、彼女は馬乗り状態になる。慌てて護衛が彼女を引き剥がそうとするが、女性とは思えないほどの強い力で皇子に喰らい付き、決して離れなかった。
マルティーナの両指が、アンドレアの首筋に深く沈んでいく。
「っかはっ……!」
そして彼の気道が急激に締め上げられた。
彼女は顔を真っ赤にして、悪魔のような形相で叫ぶ。
「なんでっ、なんでよっ! わたしたち、あんなに愛し合ったじゃない! あんなに身体も重ねたのに……!
わたしを皇太子妃にしてくれるって約束したじゃないっ! そのうち現皇太子を殺すから、絶対にわたしが皇太子妃になれる、って……!!」
貴族たちに戦慄が走る。にわかに肌がひりつくような緊張感が彼らを襲ったのだ。
この小公爵夫人は、絶対に言ってはならないことを口にした。それは、皇位簒奪に等しい恐ろしい言葉だ。
これまでは水面下でそのような攻防が起こっているのだろうと暗黙の了解はあったが、公の場で人の口から「陰謀」を発せられたのは初めてだった。
皇子の顔が青紫色になる。それは彼女の衝撃の告白が理由ではなく、だんだんと空気から遠ざかっていたのだ。もう、息ができない。
「約束したのにっ! 嘘つきっ! 嘘つきっ!」
騎士数人がかりで、やっとマルティーナを皇子から引き剥がせた。
アンドレアは、げほげほと苦しそうに咳き込みながら空気を吸う。
「何するのよっ! 離しなさいよっ!」
騎士たちに床に押し付けられたマルティーナは、獣の雄叫びのように吠えながら暴れ回る。今も彼女の力は凄まじく、強靭な肉体を持つ騎士たちも苦戦していた。
「こ……この、女を……しけ……」
おもむろに上半身を起こしたアンドレアが、騎士たちに何か命令をする。喉を痛めた彼の言葉は不明瞭で聞き取れず、彼らは思わず皇子のほうに聞き耳を立てた。
次の瞬間、
「あああああっ!!」
マルティーナが騎士たちを振り払って、近くのテーブルの上にあったケーキナイフを素早く握る。
そして、
「絶対に許さないっ! わたしたちは愛し合っているの! 結婚するのおおぉぉぉっっ!!」
瞬時に、アンドレアの腹部に突き刺した。
「ああぁぁぁっ!!」
「殿下っ!!」
騎士の一人が、マルティーナのナイフを持っていた手首を剣で斬り落とす。
「ぎゃああぁぁぁっ!!」
赤い血が吹き出して断末魔の叫びが辺りに響いた。
かつては可憐だった手は、ひくひくと痙攣しながら転がっていく。
すっかり取り乱したマルティーナは、今度は易々と騎士たちに取り押さえられた。
「離しなさいっ! わたしはっ! 未来の皇太子妃なのよっ! アンドレア様の妻なのっ!!」
第二皇子と小公爵婦人を中心に、騎士や側近たちが巨大な生き物のように固まって、ホールから慌ただしく出て行った。
沈黙。
誰しもが次の言葉を探していた。
そんな演劇みたいな刃傷沙汰を、キアラは令嬢たちに混じって遠くから見つめていた。
若い女性の金切り声。皿の割れる金属音。恐ろしく歪んだ形相の女。流れる高貴な赤い血。残った手首。武器が擦れる音。悲鳴。
……全てが計算された舞台の演出みたいで、ここからは隔絶されているように感じる。
(私がかけた魅了魔法は、とっくの昔に切れているのにね……)
ならば、マルティーナは本気で第二皇子のことを愛しているのだろう。
六回もの人生で、あんなに深く愛していた公爵令息よりもずっと。
移ろいやすい愛。儚い愛。存在しない愛。
マルティーナは結局のところダミアーノやアンドレアそのものを愛しているのではなく、彼らの背景を愛しているのだ。
下級貴族である子爵令嬢が上の階層へ行くために公爵令息と恋仲になり、真の婚約者から奪って、やっと手に入ったらもっと上を掴みたがる。
――じゃあ、もし第二皇子より上の存在が現れたら?
彼女はまるで飢えた獣みたいに、上へ上へと最上階を目指して進むのだろう。そこに、ゴールなんてない。
(私は……あんな軽薄な女に負け続けいていたのね)
虚しさが塊となって、キアラを包み込む。
今となってはもう分からない。もしかしたら、彼女は最初は心からダミアーノのことを愛していたのかもしれない。
魅了魔法がかかる前のことは、もう覚えてはいないが。
(偽物の愛に、負けていたのね……)
キアラはおもむろに立ち上がり、ホールから出て行った。
今はただ、悲しみしか心に反響していなかった。
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