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45 大切なもの
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グレースは結局その日は授業に出てこなかった。
放課後、ジェシカとデイジーは彼女の住む王都の屋敷へ向かうことにした。
私とセルゲイも付いて行きたかったけど、今朝グレースと大喧嘩したばかりで彼女がまだ冷静に話せないかもしれないので、残念だけど今回は二人に任せることにした。
私もセルゲイも沈んだ気持ちでとぼとぼと帰路についた。
二人とも自然と無言になる。今日はずっとグレースのことを考えていて、授業も全然身が入らなかった。きっとセルゲイも同じだったと思う。彼も今日は終始ぼんやりしていて、なにやら考えごとをしているようだった。
「……ごめんね、セルゲイ」と、私はポツリと呟いた。
「なんでリナが謝るんだよ」
「だって、私のせいでセルゲイまでグレースと喧嘩しちゃったじゃない。本当に申し訳ないわ」
「別にリナのせいじゃない」
「でも――」
「そう自分を責めるな。リーズに来たのは俺自身の意思だ」
「そっか……」
私は再び黙りこくった。なんて返せばいいか分からなかった。
アレクサンドル帝国の建国時から存在する歴史の長いストロガノフ家は祖国に対する愛情が特に強いので、グレースにあんなことを言われて彼は酷く傷付いたと思う。彼女の言い分は正論かもしれないけど、彼はそんな薄情な人間ではない。はるばる遠いリーズまで来たのも、並々ならぬ決意あってのことだと思うから。きっと彼も革命で心が疲弊しているのだ。
私はいつもセルゲイに守られてばかりで、肝心なときに彼を救うような一言さえ掛けることができなくて、もどかしかった。
それからしばらく、ザクザクと二人の足音だけが響いた。
ふと、規則的に鳴っていたセルゲイの音だけが途切れる。一歩先を行く私は驚いて振り返った。
「どうしたの?」
にわかにセルゲイが私の手を握った。
そして、私の瞳を吸い込むように真っ直ぐに見つめて、
「……なぁ、もういっそのこと二人でどこかへ逃げ出そうか?」
「えっ……?」
「まぁっ、帝国人同士で相変わらず仲がよろしいこと?」
そのとき、背後からグレースの声が聞こえてきた。はっとして振り返ると、彼女は口元を歪ませて邪悪な笑みを浮かべていた。
「王太子殿下にちょっかいを出して、今日は公爵令息? 本当にお盛んな平民ね」
背筋がぞくりとした。
なんだか、いつもの彼女と雰囲気が違う。普段は意地の悪さの中にも子供っぽい無邪気さを残している彼女なのに、今はなんだかそれらを搾り取って悪意だけが残った感じだった。
「グレース、今日は授業も出ないでどうしたの? 皆心配していたのよ」
「そうだぞ。さっきジェシカとデイジーが君の家に向かった。二人は特に心配しているから早く追いかけたほうがいい」
「そうね、用事が済んだらすぐに帰るわ」と、グレースはゆっくりとした足取りでこちらへと向かって来る。彼女が近付くにつれてぞくぞくと悪寒が走った。剣呑な空気が圧縮するように私たちへと押し寄せて来る。
「よ、用事って……?」
私は思わず一歩後ずさる。なんだか怖い。いつもの彼女じゃない。一体どうしちゃったの……?
そのときセルゲイが不穏な空気を察して、重なるように私の半歩前に出た。
「簡単な用よ。すぐ終わるわ」
「グレース、君が皇女殿下のことをどれだけ慕っているかはよく分かった。朝のことだったら俺も悪かっ――」
「あら、別に貴族は謝らなくてもよくってよ。全ての原因はそこの平民なんだから」
「……なんだって?」
セルゲイが眉をひそめる。
「あたし、今日一日考えたのよ。そもそもが平民が貴族の世界に足を踏み入れたことが原因なんだわ。そして貴族の秩序を乱して、今度はエカチェリーナ様の大切な方を奪おうとしているわ。だから、自分がどんなに愚かな行為をしているか一度分からせてあげないと」
グレースは背中に隠していた右手を勢いよく突き出した。その手には使い古してすっかりしわくちゃになった紙袋が握られていた。
「そ、それはっ!!」
私は血相を変えて大声を上げる。
その紙袋にはフレデリック様からいただいた手紙が全部入っているのだ。皇女時代は宝石箱に大切にしまってあったけど、今ではペラペラの紙袋が入れ物だ。封筒は嵩張るのでアレクセイさんの家に置かせてもらって、中身を年代別に分けて麻の紐で束ねてある。それでも結構な量になって、長い物語が描かれた一冊の本のように、ずっしりとした重みがあった。
グレースは紙袋に手を突っ込んで、無造作に一部の手紙の束を取り出した。数え切れないくらい何度も何度も読み返した手紙たちだ。紙は傷んで手垢も付いて、見栄えの良いものではなかった。
「きったないわねぇ」グレースは顔をしかめながら、麻の紐を親指と人差し指だけで持つ。「こんなもの、見るのも不快だわ」
「返して!!」
「あら、その様子じゃあ本当にあんたの大切なものなのね? あたしの勘が当たって良かったわ。家族の手紙かしら? それとも一丁前に故郷に恋人でも残して来たの? あんたのリーズでの尻軽な様子を見る限り、然もありなんって感じ?」と、グレースはくすくすと笑う。
にわかに顔が上気した。彼女の言う通り、それは私の一番大切な婚約者からの手紙だ。
「まぁっ、これも図星? あんたってどれだけ男好きなのかしら。嫌ねぇ、平民は」
「グレース、それをリナに返せ! なんでそんなことをするんだ!?」
「なんでって……愚かな平民に学習してもらうためよ。あんたも貴族なら分かるでしょう? この女は危険よ。このまま放っておくと王太子殿下まで危険が及ぶわ。この女はエカチェリーナ様から殿下を奪うつもりなのよ。……だから、大切なものを失う気分を味わってもらうわっ!!」
グレースは呪文を唱え燃え盛る炎を眼前に放つ。火炎は私たちの目の前に壁のようにみるみる広がった。炎で照らされた彼女の瞳は暗く濁っていて、思わず鳥肌が立った。まるで暗い影が彼女を取り込んで食っているみたいだった。
「猛省しなさい、平民」
彼女は持っていた手紙の束を炎の中にポトリと落とした。
放課後、ジェシカとデイジーは彼女の住む王都の屋敷へ向かうことにした。
私とセルゲイも付いて行きたかったけど、今朝グレースと大喧嘩したばかりで彼女がまだ冷静に話せないかもしれないので、残念だけど今回は二人に任せることにした。
私もセルゲイも沈んだ気持ちでとぼとぼと帰路についた。
二人とも自然と無言になる。今日はずっとグレースのことを考えていて、授業も全然身が入らなかった。きっとセルゲイも同じだったと思う。彼も今日は終始ぼんやりしていて、なにやら考えごとをしているようだった。
「……ごめんね、セルゲイ」と、私はポツリと呟いた。
「なんでリナが謝るんだよ」
「だって、私のせいでセルゲイまでグレースと喧嘩しちゃったじゃない。本当に申し訳ないわ」
「別にリナのせいじゃない」
「でも――」
「そう自分を責めるな。リーズに来たのは俺自身の意思だ」
「そっか……」
私は再び黙りこくった。なんて返せばいいか分からなかった。
アレクサンドル帝国の建国時から存在する歴史の長いストロガノフ家は祖国に対する愛情が特に強いので、グレースにあんなことを言われて彼は酷く傷付いたと思う。彼女の言い分は正論かもしれないけど、彼はそんな薄情な人間ではない。はるばる遠いリーズまで来たのも、並々ならぬ決意あってのことだと思うから。きっと彼も革命で心が疲弊しているのだ。
私はいつもセルゲイに守られてばかりで、肝心なときに彼を救うような一言さえ掛けることができなくて、もどかしかった。
それからしばらく、ザクザクと二人の足音だけが響いた。
ふと、規則的に鳴っていたセルゲイの音だけが途切れる。一歩先を行く私は驚いて振り返った。
「どうしたの?」
にわかにセルゲイが私の手を握った。
そして、私の瞳を吸い込むように真っ直ぐに見つめて、
「……なぁ、もういっそのこと二人でどこかへ逃げ出そうか?」
「えっ……?」
「まぁっ、帝国人同士で相変わらず仲がよろしいこと?」
そのとき、背後からグレースの声が聞こえてきた。はっとして振り返ると、彼女は口元を歪ませて邪悪な笑みを浮かべていた。
「王太子殿下にちょっかいを出して、今日は公爵令息? 本当にお盛んな平民ね」
背筋がぞくりとした。
なんだか、いつもの彼女と雰囲気が違う。普段は意地の悪さの中にも子供っぽい無邪気さを残している彼女なのに、今はなんだかそれらを搾り取って悪意だけが残った感じだった。
「グレース、今日は授業も出ないでどうしたの? 皆心配していたのよ」
「そうだぞ。さっきジェシカとデイジーが君の家に向かった。二人は特に心配しているから早く追いかけたほうがいい」
「そうね、用事が済んだらすぐに帰るわ」と、グレースはゆっくりとした足取りでこちらへと向かって来る。彼女が近付くにつれてぞくぞくと悪寒が走った。剣呑な空気が圧縮するように私たちへと押し寄せて来る。
「よ、用事って……?」
私は思わず一歩後ずさる。なんだか怖い。いつもの彼女じゃない。一体どうしちゃったの……?
そのときセルゲイが不穏な空気を察して、重なるように私の半歩前に出た。
「簡単な用よ。すぐ終わるわ」
「グレース、君が皇女殿下のことをどれだけ慕っているかはよく分かった。朝のことだったら俺も悪かっ――」
「あら、別に貴族は謝らなくてもよくってよ。全ての原因はそこの平民なんだから」
「……なんだって?」
セルゲイが眉をひそめる。
「あたし、今日一日考えたのよ。そもそもが平民が貴族の世界に足を踏み入れたことが原因なんだわ。そして貴族の秩序を乱して、今度はエカチェリーナ様の大切な方を奪おうとしているわ。だから、自分がどんなに愚かな行為をしているか一度分からせてあげないと」
グレースは背中に隠していた右手を勢いよく突き出した。その手には使い古してすっかりしわくちゃになった紙袋が握られていた。
「そ、それはっ!!」
私は血相を変えて大声を上げる。
その紙袋にはフレデリック様からいただいた手紙が全部入っているのだ。皇女時代は宝石箱に大切にしまってあったけど、今ではペラペラの紙袋が入れ物だ。封筒は嵩張るのでアレクセイさんの家に置かせてもらって、中身を年代別に分けて麻の紐で束ねてある。それでも結構な量になって、長い物語が描かれた一冊の本のように、ずっしりとした重みがあった。
グレースは紙袋に手を突っ込んで、無造作に一部の手紙の束を取り出した。数え切れないくらい何度も何度も読み返した手紙たちだ。紙は傷んで手垢も付いて、見栄えの良いものではなかった。
「きったないわねぇ」グレースは顔をしかめながら、麻の紐を親指と人差し指だけで持つ。「こんなもの、見るのも不快だわ」
「返して!!」
「あら、その様子じゃあ本当にあんたの大切なものなのね? あたしの勘が当たって良かったわ。家族の手紙かしら? それとも一丁前に故郷に恋人でも残して来たの? あんたのリーズでの尻軽な様子を見る限り、然もありなんって感じ?」と、グレースはくすくすと笑う。
にわかに顔が上気した。彼女の言う通り、それは私の一番大切な婚約者からの手紙だ。
「まぁっ、これも図星? あんたってどれだけ男好きなのかしら。嫌ねぇ、平民は」
「グレース、それをリナに返せ! なんでそんなことをするんだ!?」
「なんでって……愚かな平民に学習してもらうためよ。あんたも貴族なら分かるでしょう? この女は危険よ。このまま放っておくと王太子殿下まで危険が及ぶわ。この女はエカチェリーナ様から殿下を奪うつもりなのよ。……だから、大切なものを失う気分を味わってもらうわっ!!」
グレースは呪文を唱え燃え盛る炎を眼前に放つ。火炎は私たちの目の前に壁のようにみるみる広がった。炎で照らされた彼女の瞳は暗く濁っていて、思わず鳥肌が立った。まるで暗い影が彼女を取り込んで食っているみたいだった。
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