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ベンチ
しおりを挟む雨に濡れた椅子は、百合の花の奥にもぐりこんだ蜜蜂。その残響、音節、波長という明確な概念を持って蜜が溜まってゆく。僕は傘を持たず、今しがた上がったばかりの空を見ている。無邪気な風情で、優しく、ひめやかに別れへと到着する、ひんやりとした思考。僕は心にまで雨粒の線が刻み込まれているのを知りながら、雨上がりのあと硬さをうしなった水滴が夜の街燈のいろにそまって砂金のような重い夜の時刻を伝えていることを知っている。あたかも一本の竿のうえでバランスをとり続けているみたいに、僕はやさしさと冷酷さがないまぜになった研ぎ澄まされた針。ずぶ濡れの僕は夜の墓を塞ぐ石。
今まで何処に潜んでいたのかわからないものを探すような夜、真っ黒な影法師は、はてしなく拡がっている。年に一度や二度は、感情の均衡が完全に壊れてしまう。仕方ない。僕は監獄の中の豚の贓物のような劣等感を持っている。僕の羞恥は、蟾蜍の腹のようにふくれる。
いつだって腹の底から、味気無さ、たくさんの骨を敷きつめたような、すさまじいまでの弱さ、悲しさを見つめている。どうしようもないじゃないか、そうだろう?
秘密は腐りかけのトマト、白熱した金いろの林檎・・。
そんな風にしていたら、景色だって、車のように後ろに流れてゆく。
―――だけど誰だって、焦げ付きそうな熱い砂のうえで、神を想ってる・・。
自動車は光の縞模様を時折すれちがわせる。僕はその乾いた座席が、静かな内海の上に浮かんだ島のように思える。空はいまになって織物をさかさまにしたもののように見え、月は白内障の眼のようにも、見えた。その時、誰かが近づいてくるのが見えた。公園のベンチに。ありとあらゆる物音が吐息を伴って、声のない部屋の中の衣擦れの気配のように、漠と誘いかけてくる。それは十月の暗い日かげのなかへ入ってゆく不安にも似ていた。
遠くでぴかぴかと光る舗装道路が残像みたいに輝いているのが見えた。
女はゆっくりとベンチに、繊細な模型の最後の重要な一部のように座った。硝子の花瓶にさした菜の花のようなかすかな臭いをただよわせる。
その時、周囲とのふれあいで時々起るしこりのような硬い気持ちが消える。忘れているはずの痛みやうっとうしさ、そういうものがふたたび心のうちがわに電光のようにひらめく。
その時、憑かれたような澱みのない、音色の虚弱、新鮮な血液、そのさらさらとした和音を意識の中で繰り返していた。それは肉体的な刹那から遊離した電子合成音がふたたび線香花火のようなきらめきを取り戻す過程のようにも思える。僕は彼女の周囲の空気がユラユラとうごめいているのを見る。底に澱んだ、冥さや重さのない、風景を。老いた歯茎から突き出た乱杭歯のような、僕や彼女のいる、風景。血も凍る、白い翼は折れる、だから見える恐竜の首、だから夢見る天使たちの世界・・。
彼女は透けている、そして風はその作用を知り尽くしたように、僕をさえも朝顔の蔓のように足元でなぶって、通り過ぎようとする。僕はシャッターを押す、明るい空の一点を慕いながら、殻をとられた蝸牛のようにもつれた塩とはせいはんたいの凝結体を見ている。
冷ややかで青白く、太古から引き継がれた謎と暗示・・・。
身体の裏がわにあるような、そういう汚いものが、咽喉元にせり上がる。
そこに、どんどん生気を吸い取って太くなる氷のような熱情の霧の源がある。
彼女はこちらを見る、その眼は充血し、殺意とはいわないまでも憎悪を持って僕を睨みつけている。でもその顔は永遠の中に凍り付いた、羞恥のようにも見える。やがて木々は大きなざわめきを立て、葉を落とすように枝を揺さぶり始める。僕は一本一本識別するように、木々を見ている。死者は大地の隠された暗黒へと、溶け込んでいくことはしない。遠い星のように、いまも何処かにその光を届かせている。僕は一日が終わる前に、この呪われた魔法の城から抜け出す。女は何か言いたそうにこちらを見ている。僕は赤ん坊の、病院で聞いた、静寂の中であえぐあの声を思い出す。死者はいまどんな叫び声をあげているのだろう。しいんとする淋しさや悲しさの感情に染まった―――閉じ込められた、エネルギー・・。
一瞬間、胸のなかにぽっかりと空いた大きな穴・・。
―――そこに、白く清冽な花の薫り・・。
遠近感の頼りない距離のなかで、僕はおおきな蜘蛛をふみつぶし、おおきな蛇を切り裂く。蒼い髄、焔の坩堝、―――そして、弱々しい電球、そして・・。
そして乾いた花びらのようないろをした月の光のなか、叩き潰されそうな紙風船を見ている。女は、もう見えない。媚薬の痺れにも似たうつくしい夜の合唱曲をみせながら、鳥を飛ばす、葉を落とす。そしていまとなっては、幽霊の、女というのは、精神の虚空に浮かんだ屈折物のようにも思える。砂が開いた足指のあいだを滑りぬけるように、僕のなかにある何かのいりぐちのあいだを、無機的なパセティックなそのあいだを、彼女が滑りぬけてゆく。気怠い眼蓋をとじながら薄い膜をはりめぐらせる。そして、不気味な蝋燭のように風にゆがめられた一本の長いくろい影を、僕はガラス表面の引っ掻き傷のように認める。触覚の芸術の域、世界に対する感応の体得。
―――無原罪の御宿りを、あるいは智慧の実を・・。
そして魚の下腹部のようになまなましい水銀光線さながらの模様を・・。
それを見ていると、暗く、埃まみれの、締まりの悪い戸口の、みすぼらしい階段が見える。僕は黒曜石の小粒子。彼女は長いこと空気を断たれたままの砂時計の砂だろうか。僕はいつか、黄色く、皺だらけの、月光に想いを馳せる。
この円い空は木々のうしろに位置し、濃さを増し、この宇宙の向こうから覗くレンズのなかでもその夜の垢をみとめられる。皺ひとつなく、ピンでとめられた青い海と同じように。
―――夜が目覚めると、水分をうしないながら、生きる気力さえうしないながら、ものうげにまつわりつく生が魂の中を通り抜ける。彼女は星屑にうずまった水晶のように澄んだ天蓋をつくり、僕は投げ網をひろげたように夜の四角形をつくる。隣のブロックのピースと隣り合うように組み合わせ、一つの図形を完成させることで完成した図形のブロックを消すことができるみたいに。
僕は光を集める、からだのうちがわに眠る、羞恥を。
この病的な光をいかにも奇妙な山脈の凸凹に変えながら、現像する。地の底へ沈殿してゆく人の悲しみが、あきらめや、物静かな気持ちのうちに、魂をひびわれさせる。僕はうるわしい夜のための灰色の衣をまとっている。空に、冬の蛾が飛ぶ。光の迷子はしだいに感覚をうしないながらやさしくつつんでくれる何かを求めて飛んでゆく。そして些細な思い出がいつか異常に大きなものとして甦ってくる。こみあげてくる感情に唆しかけられながら、はたして、そこに、女はいたのだろうか。本当にすわったのだろうか、そして、それは幽霊だったのだろうか。僕にはいまや、それはお伽の国の幻燈画。遠慮と斟酌を通り越した、なにかしら軽からぬ荷物。そこに、木があり、風がある。疑う心さえ淡い夢、張っていた糸も心の置き場、想像力よりも耐久力をもとめ、生きるために、ただ、手のとどかぬところへ、空へ、人の見えないところへとすれちがってゆく。しなやかな自我の切なさが僕に教える、それは色とりどりの美しいきれいな花か、と。僕はだんだん深まってゆく、僕は眼かくしをしているにすぎない。どんな俳優よりもたしかな意味のない、仮面を、つけているに過ぎない。
僕だって君と同じじゃないか、君だっていつも何かを待ち続けているじゃないか。
こういう熱さが冷えてゆき、生来の僕が持っていた熱を奪ってゆくことが手に取るようにわかる。波紋が拡がってゆくように硬い顔が、もがけばもがくほどはまる深い穴のようにつくられる。首の岬からいつ始まるともなくなだらかにはじまる肩・・。
それが複眼のように、僕に様々なコマ割りを見せる。
―――振り返りベンチを見ると、運命は風に吹かれる、一茎の葦だった。近付けば、そこに波のような、秘められた心のうごきを感じる。僕の心もいつか風景のように汚れて、ただ、瞬間のなかに流されてゆく崖の底を観た。偏狭な心理作用という繊維の網が、そこに、何かを求めているにすぎない。通り魔が去ってゆく、時計の針はヒステリックに脇目もふらず動き続けている。眼を閉じると、女がお辞儀をしている。僕もお辞儀をし、一つの欠陥のある完璧な機械のように、家へと帰る。妖精を見る熱病人の眼、膿んだきずぐちのなかの蛆。多分、僕の寿命は短いだろ―――う・・けれど、言葉はいつも、鋼色のシンバル、空気を揺する。それが夢であるみたいに、また、何十年も前の不安で頼りない、迷子の記憶であるみたいに。
いつか考えていた、僕等は玩具の兵隊みたいだって―――。
いつも何かが動いていた、僕がそれに気付かないまま、動いていた。
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