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第十六話
冬の嵐《前編》
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「久しぶりだね。私が廉斗の部屋に来るの」
何の前触れもなくやって来た成海は先ほどの平坦な声から調子を変え、明るい声音で部屋の中を見回した。
「へえ……。あんまり物がないせいか、廉斗にしては綺麗じゃん」
成海の表情は顔を強張らせる廉斗とは真逆で、未知の世界に足を踏み入れたばかりの子どものような無邪気さと、この場所で小さな宝物を見つけることへの期待があった。
廉斗は自由奔放な姉によって変わりかけた部屋の空気について行けなかった。廉斗の心臓は、成海が最初の話題として持ち出した不穏そうな話のせいで暴れ始めている。彼の頭の中は、今や叔母のことでいっぱいだ。
廉斗は襲ってくる不安に耐えきれず口を開いた。
「あのさ、美香は?」
そもそも自分に話したいことがあると言ってきたのは美香だ。もしかすると美香が外出する前、自分に叔母の話をするはずだったのではないだろうか。しかし、その美香の姿はここにはない。
成海は困ったように微笑みを浮かべて答えた。
「美香ならまだご飯を食べてるよ。あの子、食べるの一番遅いから。ねえ、さっきの本題を話す前にさ、これ見て」
「何だよ……」
「部屋の片付けをしていたら見つけたの」
美香もその気があるが、成海は相手をするこちらが呆れるほどマイペースな人物だ。話題の中心人物である美香が来ない上に、成海の急な話題転換に拍子抜けがした廉斗は渋々といった感じで、姉が背中に隠していた物を目で捉えた。
「それ……」
「懐かしいでしょう? まだあったんだよ」
成海が両手いっぱいに持ってきたのは、小さい頃に流行ったアニメのキャラクターのぬいぐるみだった。それぞれ装飾が一部剥がれているのは、何度もそれを使って遊んでいた証拠だろう。もしかしたら誰かが乱暴に扱ったのかもしれないが。
「私たち、三人でよくこのぬいぐるみを使って遊んでいたよね。この子はずっとお父さん役だったけど、実は女の子のキャラクターだったんだっけ」
「ああ、それね。性別を知った時はみんなして衝撃を受けたっけか。なんせずっと男だと思っていたんだから」
成海は種類が全く違う複数のぬいぐるみを勝手に弟の勉強机に置くと、数あるぬいぐるみの中から一体だけ手にした。よく見たら、そのぬいぐるみの尻尾には黄色い小さなリボンがある。三人姉弟が可愛らしいリボンの存在に気付いたのは、飽きるほど遊んだ頃に、たまたまそのキャラクターが出演するアニメを美香が見たからだった。
それまでこのキャラクターは三人姉弟の間では、アニメとは全く違う性格をしていた。父親役以外に憎まれ役までこなしていたのか、数あるぬいぐるみの中で一番装飾がボロボロだ。身体全体が毛羽立っているし、ところどころ毛玉も目立つ。それに本来ふっくらとしているはずの白い身体は黒ずんでいて、見るからにボリュームがない。
「あれだけ遊んでおいて、誰も気付かなかったなんて可笑しいよね。見てよ。こんなに可愛いのに、この子だけすっかりボロボロだ」
成海は声を出して笑ったあと、子どもをあやすように黒ずんだぬいぐるみの頭を撫でた。
廉斗はここでふと思い出す。確か、このぬいぐるみの担当は成海だったような気がする。そんなことを考えていると、成海は廉斗の部屋のおもちゃ箱の中にあった剥き出しの野球グローブを発見した。
「あっ! グローブはここにあったんだ! ……懐かしいなあ。みんなすっかりサイズが合わなくなっちゃったね。とういうか、さすがにもう家の中でキャッチボールはできないか」
成海は残念だと言わんばかりに眉を下げながら、手元のぬいぐるみを好き勝手に弄っていた。
この家の二階には、一メートルにも満たない幅の長い廊下がある。廊下は両親の寝室と、子ども部屋を繋ぐものであり、成海と美香の共同部屋の前は幅が一・三メートルもあった。その空間にはピッチャーマウンドのような盛り土こそないが、小学生が野球ボールを投げるには十分な広さがある。
小学校低学年だった廉斗は幼い頃から活発だった姉に誘われ、自宅の長い廊下と両親の寝室を利用して、遊びでピッチング練習と打撃練習を繰り返していた。彼らが使っていたのは、おもちゃのバットとグローブだったので、バットが野球ボールにジャストミートしても飛距離が出ない。だからこそ、両親も家の中で野球の真似事をすることを許可していた。そんな中、廉斗は当時は自分より身長があって運動神経が秀でていた成海から、全く遠慮がない剛速球を身体に受けて泣かされていた。
元々野球は狭い場所でするような運動ではない。怪我をするのは必然であったと言えよう。廉斗は「痛い経験をしたその後、よくもまあ野球を本格的に始めようと決意したな」と自分でも不思議に思っていた。
そんな理由で、廉斗は姉の物騒な発言に情けない思い出が頭によぎり、やんわりとだが成海に物申した。
「やめとけって。今の成海が投げたら家が吹き飛ぶだろ」
「何だって?」
「冗談だってば。睨むなよ」
成海が部屋に来た当初とは別の意味で心臓が縮み上がった廉斗は、これ以上姉を刺激しないようにしようと心に誓った。
「なんてね。本気で怒ってないよ。廉斗ってば、そんなに怯えなくてもいいのに」
「ちょっと、何なのそれ。その動きやめてよ。ぬいぐるみの手が千切れたら可哀想だろ」
成海は自分がボロボロにしたであろうぬいぐるみの片手を掴んで上下に激しく動かし、廉斗に向かって変な動きを見せ始めた。この状況、ぬいぐるみの損傷が著しい原因を成海が把握していなさそうなのが余計に面白い。廉斗は込み上げてくる笑いを堪らえるのに必死だった。
「……良かった。お互いにリラックスして話せそうだね」
「えっ?」
その時、成海は弟を見守るしっかり者の姉の表情をしていた。廉斗は今の今まで自分が緊張していたことと、姉がそんな自分を気遣ってくれていたことを知る。
成海は思い出話を切り上げ、ようやく本題について話を始めた。
「昨日の話し合いの場で、廉斗に話しそびれたことだけど……」
成海はそう言って愛着があるぬいぐるみを勉強机に置き、すぐそばにあるベッドに座ると、廉斗と真剣な表情で向き合った。
「先に言っておくね。私は廉斗を傷付けたくて、こんな話をするんじゃないから。お母さんの事故の後で、私たち家族に何が起こったのか……真実を全て知ってほしいだけ。それだけは分かってほしい」
「ああ。もちろん分かっているよ」
驚いたことに、廉斗はこれまで家族の誰とも叔母の話をしたことがなかった。母親の通夜で叔母から罵声を浴びせられたというのに、彼ら三人姉弟が話題で出したのは、なんと昨日が初めてだったのだ。三人とも話題にするのを避けていたというよりも、三人の仲に溝があったのが最大の理由だった。しかし、それ以前の問題として、廉斗だけが頭の中から叔母の存在がすっかり抜け落ちていたのだ。
どうしてそうなったのか、いつから忘れていたのか、廉斗にもさっぱり分からない。まるで自分だけが嫌な記憶を箱の中いっぱいに閉じ込めていたようだ。
心に深い傷を負った人間は、二種類のタイプに分かれる。一方は自分がさらに傷付かないよう、心を頑丈な檻に閉じ込めて感情を麻痺させ、外部との接触を断つ。もう一方は復讐の鬼となり、自分に攻撃してきた者や周りの者になりふり構わず当たり散らす。その怒りと悲しみの発散方法は粘着質だ。他人から見れば、過去に囚われている人間の復讐劇は自分をさらに追い詰めるだけのように思えるが、彼女は至って真剣に過去の自分を慰めているのだ。他人には理解できずとも、叔母には新たな傷を、自分の身体と心に刻むことでしか得られない癒やしがあった。
廉斗は圧倒的に前者のタイプの人間だ。彼の心は罪悪感という重い鎖できつく縛られ、粉々になるまで強く締め上げられた。砕けた心の欠片を真っ先に拾い集めたのは、他でもない最愛の恋人だ。彼女の慰めの言葉がなければ、廉斗は立ち上がる力すら持ち得なかっただろう。
──そういえば、悦子叔母さんの記憶が戻ったのは、成海の発言が発端だったな。
廉斗は自分が記憶を失ったのは、当時は一種のショック状態だったからだろうと仮定していた。けれども、もしかするとそれは見当違いだったかもしれないと思い直す。
心とはブラックボックスだ。その人が何に対してどう感じているのか、外側にいる他人が動作や表情を読み取り、完璧に相手の心を把握するのは極めて難しい。さらに心そのものが、内部での動作原理などの解明が未だにされていない、謎に包まれた生きる装置である。つまり、廉斗が不快な記憶を収めた堅牢な箱を、心の内側で自ら作り出してもおかしくはないのだ。
不思議な仕組みでできたその箱の蓋を開けてみれば、叔母が存在していた記憶だけはあっさりと取り戻すことができた。今まで何かで施錠されていた箱が急に解錠できたのは、間違いなく成海の発言が引き金である。
これからまた辛い記憶が呼び起こされるかもしれない。けれど、もしも自分に呪いをかけたのが叔母であるならば、呪いから解放されるヒントが見つかるかもしれない。廉斗は佐奈のために全てを受け入れる覚悟を決めると、パンドラの箱を開けた姉の言葉を待った。
「私、悦子叔母さんのことで、ずっと引っかかっていることがあるの。お母さんの火葬でみんなが控室で待機している時、トイレでたまたま悦子叔母さんに会って……その時に言われたんだ。『姉さんが死んだのは、あんたの弟のせいだ』って」
成海の肩に早速力が入る。成海は底しれぬ理不尽な怒りを自分たちにぶつけてきた叔母への恐れと鬱憤を晴らすように、ベッドの端のシーツをぎゅっと掴んでいた。
恨みの標的は自分だけではなかったのだ。廉斗は全く把握していなかった話に驚くと同時に、叔母の自分に対する執念深さを改めて認識した。
「私はお父さんから話を聞いて、あの日の廉斗とお母さんの約束を知っていたからね。だから悔しくてさ、私は悦子叔母さんにふたりの約束の内容を教えて、『そんなわけない』って言い返したんだ。そしたら……」
──何よ。姉さんに落ち度があったって言いたいの? 冗談じゃない! あんたもとんでもない嘘つきね!
「すごい剣幕だったよ。『そんなひどい事、私の前で二度と言わせない!!』って……」
成海は自分の反論がきっかけで、磨き抜かれたナイフのような鋭い目つきに変えた叔母を思い出す。手洗い台に拳を振り下ろした叔母のあの雰囲気は、まるで腹を空かせた獰猛な獣が獲物に目をつけたようだった。
顔を真っ赤にさせて激昂していた叔母だが、普段の彼女は物静かな性格だった。成海が叔母と会ったのは片手で数えられるくらい少ないが、覚えている叔母は見た目も、所作もかなり落ち着いていたはずだ。
叔母は女性にしては背が高く、髪は透明のある艷やかな黒い長髪で、色白の肌が実年齢より若く見せていた。何より成海が綺麗だと思ったのは、神秘的な光を宿している猫のような目だ。その美しい容姿が悪い方向に作用して、迫力がある幻覚を生み出したのだろうか。あの瞬間、成海は毒牙を持つ巨大な蛇に威嚇されているような感覚があった。
「まさかその後、本当に誰にも言えなくなるなんて……」
成海の悲しそうな呟きが、廉斗にとって呪い解明の幕開けとなった。
何の前触れもなくやって来た成海は先ほどの平坦な声から調子を変え、明るい声音で部屋の中を見回した。
「へえ……。あんまり物がないせいか、廉斗にしては綺麗じゃん」
成海の表情は顔を強張らせる廉斗とは真逆で、未知の世界に足を踏み入れたばかりの子どものような無邪気さと、この場所で小さな宝物を見つけることへの期待があった。
廉斗は自由奔放な姉によって変わりかけた部屋の空気について行けなかった。廉斗の心臓は、成海が最初の話題として持ち出した不穏そうな話のせいで暴れ始めている。彼の頭の中は、今や叔母のことでいっぱいだ。
廉斗は襲ってくる不安に耐えきれず口を開いた。
「あのさ、美香は?」
そもそも自分に話したいことがあると言ってきたのは美香だ。もしかすると美香が外出する前、自分に叔母の話をするはずだったのではないだろうか。しかし、その美香の姿はここにはない。
成海は困ったように微笑みを浮かべて答えた。
「美香ならまだご飯を食べてるよ。あの子、食べるの一番遅いから。ねえ、さっきの本題を話す前にさ、これ見て」
「何だよ……」
「部屋の片付けをしていたら見つけたの」
美香もその気があるが、成海は相手をするこちらが呆れるほどマイペースな人物だ。話題の中心人物である美香が来ない上に、成海の急な話題転換に拍子抜けがした廉斗は渋々といった感じで、姉が背中に隠していた物を目で捉えた。
「それ……」
「懐かしいでしょう? まだあったんだよ」
成海が両手いっぱいに持ってきたのは、小さい頃に流行ったアニメのキャラクターのぬいぐるみだった。それぞれ装飾が一部剥がれているのは、何度もそれを使って遊んでいた証拠だろう。もしかしたら誰かが乱暴に扱ったのかもしれないが。
「私たち、三人でよくこのぬいぐるみを使って遊んでいたよね。この子はずっとお父さん役だったけど、実は女の子のキャラクターだったんだっけ」
「ああ、それね。性別を知った時はみんなして衝撃を受けたっけか。なんせずっと男だと思っていたんだから」
成海は種類が全く違う複数のぬいぐるみを勝手に弟の勉強机に置くと、数あるぬいぐるみの中から一体だけ手にした。よく見たら、そのぬいぐるみの尻尾には黄色い小さなリボンがある。三人姉弟が可愛らしいリボンの存在に気付いたのは、飽きるほど遊んだ頃に、たまたまそのキャラクターが出演するアニメを美香が見たからだった。
それまでこのキャラクターは三人姉弟の間では、アニメとは全く違う性格をしていた。父親役以外に憎まれ役までこなしていたのか、数あるぬいぐるみの中で一番装飾がボロボロだ。身体全体が毛羽立っているし、ところどころ毛玉も目立つ。それに本来ふっくらとしているはずの白い身体は黒ずんでいて、見るからにボリュームがない。
「あれだけ遊んでおいて、誰も気付かなかったなんて可笑しいよね。見てよ。こんなに可愛いのに、この子だけすっかりボロボロだ」
成海は声を出して笑ったあと、子どもをあやすように黒ずんだぬいぐるみの頭を撫でた。
廉斗はここでふと思い出す。確か、このぬいぐるみの担当は成海だったような気がする。そんなことを考えていると、成海は廉斗の部屋のおもちゃ箱の中にあった剥き出しの野球グローブを発見した。
「あっ! グローブはここにあったんだ! ……懐かしいなあ。みんなすっかりサイズが合わなくなっちゃったね。とういうか、さすがにもう家の中でキャッチボールはできないか」
成海は残念だと言わんばかりに眉を下げながら、手元のぬいぐるみを好き勝手に弄っていた。
この家の二階には、一メートルにも満たない幅の長い廊下がある。廊下は両親の寝室と、子ども部屋を繋ぐものであり、成海と美香の共同部屋の前は幅が一・三メートルもあった。その空間にはピッチャーマウンドのような盛り土こそないが、小学生が野球ボールを投げるには十分な広さがある。
小学校低学年だった廉斗は幼い頃から活発だった姉に誘われ、自宅の長い廊下と両親の寝室を利用して、遊びでピッチング練習と打撃練習を繰り返していた。彼らが使っていたのは、おもちゃのバットとグローブだったので、バットが野球ボールにジャストミートしても飛距離が出ない。だからこそ、両親も家の中で野球の真似事をすることを許可していた。そんな中、廉斗は当時は自分より身長があって運動神経が秀でていた成海から、全く遠慮がない剛速球を身体に受けて泣かされていた。
元々野球は狭い場所でするような運動ではない。怪我をするのは必然であったと言えよう。廉斗は「痛い経験をしたその後、よくもまあ野球を本格的に始めようと決意したな」と自分でも不思議に思っていた。
そんな理由で、廉斗は姉の物騒な発言に情けない思い出が頭によぎり、やんわりとだが成海に物申した。
「やめとけって。今の成海が投げたら家が吹き飛ぶだろ」
「何だって?」
「冗談だってば。睨むなよ」
成海が部屋に来た当初とは別の意味で心臓が縮み上がった廉斗は、これ以上姉を刺激しないようにしようと心に誓った。
「なんてね。本気で怒ってないよ。廉斗ってば、そんなに怯えなくてもいいのに」
「ちょっと、何なのそれ。その動きやめてよ。ぬいぐるみの手が千切れたら可哀想だろ」
成海は自分がボロボロにしたであろうぬいぐるみの片手を掴んで上下に激しく動かし、廉斗に向かって変な動きを見せ始めた。この状況、ぬいぐるみの損傷が著しい原因を成海が把握していなさそうなのが余計に面白い。廉斗は込み上げてくる笑いを堪らえるのに必死だった。
「……良かった。お互いにリラックスして話せそうだね」
「えっ?」
その時、成海は弟を見守るしっかり者の姉の表情をしていた。廉斗は今の今まで自分が緊張していたことと、姉がそんな自分を気遣ってくれていたことを知る。
成海は思い出話を切り上げ、ようやく本題について話を始めた。
「昨日の話し合いの場で、廉斗に話しそびれたことだけど……」
成海はそう言って愛着があるぬいぐるみを勉強机に置き、すぐそばにあるベッドに座ると、廉斗と真剣な表情で向き合った。
「先に言っておくね。私は廉斗を傷付けたくて、こんな話をするんじゃないから。お母さんの事故の後で、私たち家族に何が起こったのか……真実を全て知ってほしいだけ。それだけは分かってほしい」
「ああ。もちろん分かっているよ」
驚いたことに、廉斗はこれまで家族の誰とも叔母の話をしたことがなかった。母親の通夜で叔母から罵声を浴びせられたというのに、彼ら三人姉弟が話題で出したのは、なんと昨日が初めてだったのだ。三人とも話題にするのを避けていたというよりも、三人の仲に溝があったのが最大の理由だった。しかし、それ以前の問題として、廉斗だけが頭の中から叔母の存在がすっかり抜け落ちていたのだ。
どうしてそうなったのか、いつから忘れていたのか、廉斗にもさっぱり分からない。まるで自分だけが嫌な記憶を箱の中いっぱいに閉じ込めていたようだ。
心に深い傷を負った人間は、二種類のタイプに分かれる。一方は自分がさらに傷付かないよう、心を頑丈な檻に閉じ込めて感情を麻痺させ、外部との接触を断つ。もう一方は復讐の鬼となり、自分に攻撃してきた者や周りの者になりふり構わず当たり散らす。その怒りと悲しみの発散方法は粘着質だ。他人から見れば、過去に囚われている人間の復讐劇は自分をさらに追い詰めるだけのように思えるが、彼女は至って真剣に過去の自分を慰めているのだ。他人には理解できずとも、叔母には新たな傷を、自分の身体と心に刻むことでしか得られない癒やしがあった。
廉斗は圧倒的に前者のタイプの人間だ。彼の心は罪悪感という重い鎖できつく縛られ、粉々になるまで強く締め上げられた。砕けた心の欠片を真っ先に拾い集めたのは、他でもない最愛の恋人だ。彼女の慰めの言葉がなければ、廉斗は立ち上がる力すら持ち得なかっただろう。
──そういえば、悦子叔母さんの記憶が戻ったのは、成海の発言が発端だったな。
廉斗は自分が記憶を失ったのは、当時は一種のショック状態だったからだろうと仮定していた。けれども、もしかするとそれは見当違いだったかもしれないと思い直す。
心とはブラックボックスだ。その人が何に対してどう感じているのか、外側にいる他人が動作や表情を読み取り、完璧に相手の心を把握するのは極めて難しい。さらに心そのものが、内部での動作原理などの解明が未だにされていない、謎に包まれた生きる装置である。つまり、廉斗が不快な記憶を収めた堅牢な箱を、心の内側で自ら作り出してもおかしくはないのだ。
不思議な仕組みでできたその箱の蓋を開けてみれば、叔母が存在していた記憶だけはあっさりと取り戻すことができた。今まで何かで施錠されていた箱が急に解錠できたのは、間違いなく成海の発言が引き金である。
これからまた辛い記憶が呼び起こされるかもしれない。けれど、もしも自分に呪いをかけたのが叔母であるならば、呪いから解放されるヒントが見つかるかもしれない。廉斗は佐奈のために全てを受け入れる覚悟を決めると、パンドラの箱を開けた姉の言葉を待った。
「私、悦子叔母さんのことで、ずっと引っかかっていることがあるの。お母さんの火葬でみんなが控室で待機している時、トイレでたまたま悦子叔母さんに会って……その時に言われたんだ。『姉さんが死んだのは、あんたの弟のせいだ』って」
成海の肩に早速力が入る。成海は底しれぬ理不尽な怒りを自分たちにぶつけてきた叔母への恐れと鬱憤を晴らすように、ベッドの端のシーツをぎゅっと掴んでいた。
恨みの標的は自分だけではなかったのだ。廉斗は全く把握していなかった話に驚くと同時に、叔母の自分に対する執念深さを改めて認識した。
「私はお父さんから話を聞いて、あの日の廉斗とお母さんの約束を知っていたからね。だから悔しくてさ、私は悦子叔母さんにふたりの約束の内容を教えて、『そんなわけない』って言い返したんだ。そしたら……」
──何よ。姉さんに落ち度があったって言いたいの? 冗談じゃない! あんたもとんでもない嘘つきね!
「すごい剣幕だったよ。『そんなひどい事、私の前で二度と言わせない!!』って……」
成海は自分の反論がきっかけで、磨き抜かれたナイフのような鋭い目つきに変えた叔母を思い出す。手洗い台に拳を振り下ろした叔母のあの雰囲気は、まるで腹を空かせた獰猛な獣が獲物に目をつけたようだった。
顔を真っ赤にさせて激昂していた叔母だが、普段の彼女は物静かな性格だった。成海が叔母と会ったのは片手で数えられるくらい少ないが、覚えている叔母は見た目も、所作もかなり落ち着いていたはずだ。
叔母は女性にしては背が高く、髪は透明のある艷やかな黒い長髪で、色白の肌が実年齢より若く見せていた。何より成海が綺麗だと思ったのは、神秘的な光を宿している猫のような目だ。その美しい容姿が悪い方向に作用して、迫力がある幻覚を生み出したのだろうか。あの瞬間、成海は毒牙を持つ巨大な蛇に威嚇されているような感覚があった。
「まさかその後、本当に誰にも言えなくなるなんて……」
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