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第一章
第五話 それぞれが飲み込んだ水
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「待って!! 海野!」
一体何が起きたのか。全ては一瞬の出来事だった。
「溺れてしまえ!!」
水野は自分が悪夢の中にいる気がした。バラバラにくねくねと動いていた足が、海野の声に反応して、馬のように空中を駆けていく。廊下から美術準備室へと侵入し、目の前に迫る海水の足。だが、それは水野の横を駆け抜けた。
海野は片山の顔面を目掛けて、海水でできたいくつもの三叉の矛戟を放つ。その光景はまるで、ギリシア神話に登場する海と地震を司る神「ポセイドン」の怒りのようだった。
「あがっ!?」
片山の口に大量の海水が一気に突っ込まれる。次々と押し寄せる海水が気道を塞ぎ、呼吸ができない。片山はどうにか海水の足を引き剥がそうと藻掻くが、水圧も凄まじいものだった。すると、唐突に片山の喉の奥に密集していた足が派生し、一部が彼の首を押さえつけて、逞しい背中を部屋の壁に衝突させた。
片山は大粒の水飛沫が顔にかかり、目が開けられない。かろうじて海水のカーテンの隙間から見えたのは、ひどく怯えている水野の顔だった。
「み……ずの……!」
片山は助けを求めて水野に手を伸ばす。
この部屋は今だけ外界と遮断されているのか、廊下の窓が割れても、渦を巻く轟音の海水が室内にいる生徒の口に注ぎ込まれても、学校にいる者は誰も駆けつけてこなかった。
「や……やめて!! やめてよ! 海野!!」
片山の痛みを感じ取った水野が叫ぶ。しかし、海野はそれが気に食わない。
「やめてだって? やめるわけないだろう? 彼は君を傷付けた男だよ。性根を叩き直してやる!」
海野には、泣いていた水野が片山を庇う理由が分からなかった。普段から物静かな海野は、自分のように大人しい水野のために行動しているのだ。
感情が荒ぶる海野は隠していた強大な力を存分に発揮し、海洋を思いのままに制する。その勇ましく、冷酷無慈悲な姿は覇者の風格だった。
「うみ……の……」
遠くの波音と混ざった渦潮の轟音の中で聞こえた、片山の消え入りそうなか細い声。縋るように向けられる手のひらと、許しを懇願する濡れた瞳。
この時、海野の全身を駆け巡った感情は、教室の強者が屈服したことの優越感よりも、女子に乱暴を働いた片山への義憤が勝っていた。
「あんなことしておいて、よくも僕に助けを……!」
海野の怒りが倍増する。その激流は、海野の理性を狂わせた。
「僕の……海の子の怒りを飲み干せ!!」
怒りの感情のままに情け容赦なく浴びせる海水。片山はついに喉だけでなく、その端正な顔面を海水に没し、酸素を完全に奪われる。彼は沸騰する水のようなどこか汚い音を口から出す。片山は呼吸しようと必死だった。
「もうやめて!! やめてよ! 海野!!」
水野は汗で肌に貼り付いたスカートを強く握り締め、肺がはち切れそうになるほど大きな声を出す。彼女の感情も、海野とは違った意味で荒れていた。
「片山くんが死んじゃうよ!」
「殺さないよ。だけど、解放するのはまだだ」
廊下にいた海野が、水野の奥にいる片山へにじり寄ろうとする。海野はまだ背後に激しく回転する竜巻のような螺旋をいくつも連れ立っていた。窓の向こうの外に海がある限り、彼は無敵だった。
「……何してるんだい?」
海野の足の動きが止まる。彼の邪魔ができたのは、水野しかいない。
「お願いだから、もうやめて……」
彼女が震える両手で掴んだものは、海野が胸の前にかざした右手だった。
「君はどういうつもりで……」
片山から意識が逸れた海野は、ピンと伸ばしていた指先を閉じかけた。すると、その指先は意図しない結果を生む。
「うわっ!?」
「水野さん!!」
海水の足の一部が突然向きを変え、水野の身体に大きな水の塊をぶつけたのだ。慌てた海野から怒りの感情が完全に消え失せると、先ほどまでの水責めの拷問が嘘だったかのように、海水の足は引いていた。残ったのは、制服が水浸しになって床にへたり込んだまま目をパチクリさせている水野と、彼女よりも全身がビッショリ濡れてぐったりしている片山と、どこも全く水が浸っておらず無傷の海野だけだった。それ以外は、海野がここにやって来る前と何も変わらない。強いて言えば、床に置いて乾かしていた水墨画と書道の作品が、強風で舞い上がった後のように室内に散らばっていたことだけだ。
「水野さん! 大丈夫!?」
「うん。私は何とか……」
床に片膝をつき、水野の肩を抱いた海野はほっと胸を撫で下ろす。が、安心したのも束の間。海野はここで彼女の異変に気付く。一方、水野は頬を染めてどうしようかと狼狽えている海野に気付いていない。彼女は真っ先に片山に目を向けた。
「片山くん! 大丈夫!?」
仰向けのまま床に横たわり、瞼を閉じている片山は水野の呼びかけにも反応せず、ピクリとも動かない。血の気が引き、最悪の結果を想像した水野は、何度も片山の肩を揺すり、その冷たい頬を叩いた。
「彼なら大丈夫。気を失っているだけだよ。じきに目を覚ますと思う」
海野は多少は落ち着きを取り戻していた。
「本当?」
「う、うん。今までもそうだったから、安心していいよ」
水野はぱあっと表情を明るくさせ、片山から海野へと視線を移す。なぜか海野は極端に首を横に回し、彼女と目を合わせようとはしなかった。
「とりあえず、どうしよっか?」
水野はキョロキョロと周囲を見渡して、今の状況を整理する。今のところは人が来る気配はないが、美術室にはまだ何人か真面目に水墨画を描いている生徒がいた。彼らがじきにこの部屋にやって来てしまう。廊下の引き戸も開けっぱなしで、水飲み場の水も出したままだ。もしかすると、誰かが廊下を通って、水飲み場近くのこの部屋の異常に気付くかもしれない。なぜか廊下の窓硝子は割れていないのでそちらは問題ないのだが、全身ずぶ濡れの生徒がふたりもいれば不自然極まりない。
「水飲み場の水が溢れそうだ。廊下まで水浸しにさせるわけにはいかないな。ひとまず止めてくるよ」
「私、保健室でタオルを貰いたいな。海野、水を止めたらすぐここに戻って来て。私ひとりじゃ、寝ている片山くんを保健室まで運べないよ」
「分かった。ふたりがずぶ濡れになった理由は、後で考えよう」
海野はなるべく水野を見ないようにして立ち上がると、駆け足で廊下へ出て行った。
あれだけ片山に敵意をむき出しにしていた海野の怒りは収まった。それに水野がほうっと息をつく──暇もなかった。
「水野さん! どうしよう!? もうすぐ授業が終わっちゃう!」
海野は血相を変えて美術準備室に駆け込んだ。
「えっ! もうそんな時間なの!?」
「ああ。あと五分しかないよ!」
あいにく、この美術準備室には時計がない。海野は自分の左手にある腕時計で時刻を確認したようだ。ところで、ついさっきまで赤らめていた彼の顔が、今度は真っ青になっている。普段の水野であれば、海野の様変わりした表情を見て「忙しいな」と思うものだが、もはやそんな余裕は毛ほどもない。
「僕が言うのもなんだけど、この惨状をみんなにどう説明したらいいか……」
海野は頭を抱える。
ひとりがパニック状態に陥ると、案外もうひとりは冷静になるものだ。水野は頭を高速で回転させ、一つの答えを弾き出した。
「ねえ、海野! 海野って、蛇口の水も操れるの!?」
「えっ? いや、できないけど……」
「じゃあ、私が何とかする!」
この状況をどうやって誤魔化すべきか。水野は廊下に出ると、突拍子もない行動に出た。
「海野も濡れちゃうけど、我慢してね!」
水道管と蛇口をつなぐ金属製のホースは、むき出しだ。
水野はそこにデコピンをする。そして、その軽い力で簡単に穴を開けたのだった。
「ええっ!?」
海野の驚愕した声は、水飛沫の音によってすぐに掻き消された。勢いよく噴き出した水が、海野たちの制服を濡らす。
水野は海野に、悪戯っ子のようなニヤリとした笑みを向けた。それは、海野が初めて目にした彼女の表情だった。
タイルでできた流し台に跳ねた水も、金属管から噴き出る水も、全ての水が太陽の光に反射してキラキラと輝く。海野はこの騒動で、彼女の本当の魅力に気が付いたのだ。
実は自分と同じように本性を隠していた水野。その彼女が、美術準備室のずぶ濡れ事件を解決させるために思いついた策は、なんとも大胆な方法だった。
一体何が起きたのか。全ては一瞬の出来事だった。
「溺れてしまえ!!」
水野は自分が悪夢の中にいる気がした。バラバラにくねくねと動いていた足が、海野の声に反応して、馬のように空中を駆けていく。廊下から美術準備室へと侵入し、目の前に迫る海水の足。だが、それは水野の横を駆け抜けた。
海野は片山の顔面を目掛けて、海水でできたいくつもの三叉の矛戟を放つ。その光景はまるで、ギリシア神話に登場する海と地震を司る神「ポセイドン」の怒りのようだった。
「あがっ!?」
片山の口に大量の海水が一気に突っ込まれる。次々と押し寄せる海水が気道を塞ぎ、呼吸ができない。片山はどうにか海水の足を引き剥がそうと藻掻くが、水圧も凄まじいものだった。すると、唐突に片山の喉の奥に密集していた足が派生し、一部が彼の首を押さえつけて、逞しい背中を部屋の壁に衝突させた。
片山は大粒の水飛沫が顔にかかり、目が開けられない。かろうじて海水のカーテンの隙間から見えたのは、ひどく怯えている水野の顔だった。
「み……ずの……!」
片山は助けを求めて水野に手を伸ばす。
この部屋は今だけ外界と遮断されているのか、廊下の窓が割れても、渦を巻く轟音の海水が室内にいる生徒の口に注ぎ込まれても、学校にいる者は誰も駆けつけてこなかった。
「や……やめて!! やめてよ! 海野!!」
片山の痛みを感じ取った水野が叫ぶ。しかし、海野はそれが気に食わない。
「やめてだって? やめるわけないだろう? 彼は君を傷付けた男だよ。性根を叩き直してやる!」
海野には、泣いていた水野が片山を庇う理由が分からなかった。普段から物静かな海野は、自分のように大人しい水野のために行動しているのだ。
感情が荒ぶる海野は隠していた強大な力を存分に発揮し、海洋を思いのままに制する。その勇ましく、冷酷無慈悲な姿は覇者の風格だった。
「うみ……の……」
遠くの波音と混ざった渦潮の轟音の中で聞こえた、片山の消え入りそうなか細い声。縋るように向けられる手のひらと、許しを懇願する濡れた瞳。
この時、海野の全身を駆け巡った感情は、教室の強者が屈服したことの優越感よりも、女子に乱暴を働いた片山への義憤が勝っていた。
「あんなことしておいて、よくも僕に助けを……!」
海野の怒りが倍増する。その激流は、海野の理性を狂わせた。
「僕の……海の子の怒りを飲み干せ!!」
怒りの感情のままに情け容赦なく浴びせる海水。片山はついに喉だけでなく、その端正な顔面を海水に没し、酸素を完全に奪われる。彼は沸騰する水のようなどこか汚い音を口から出す。片山は呼吸しようと必死だった。
「もうやめて!! やめてよ! 海野!!」
水野は汗で肌に貼り付いたスカートを強く握り締め、肺がはち切れそうになるほど大きな声を出す。彼女の感情も、海野とは違った意味で荒れていた。
「片山くんが死んじゃうよ!」
「殺さないよ。だけど、解放するのはまだだ」
廊下にいた海野が、水野の奥にいる片山へにじり寄ろうとする。海野はまだ背後に激しく回転する竜巻のような螺旋をいくつも連れ立っていた。窓の向こうの外に海がある限り、彼は無敵だった。
「……何してるんだい?」
海野の足の動きが止まる。彼の邪魔ができたのは、水野しかいない。
「お願いだから、もうやめて……」
彼女が震える両手で掴んだものは、海野が胸の前にかざした右手だった。
「君はどういうつもりで……」
片山から意識が逸れた海野は、ピンと伸ばしていた指先を閉じかけた。すると、その指先は意図しない結果を生む。
「うわっ!?」
「水野さん!!」
海水の足の一部が突然向きを変え、水野の身体に大きな水の塊をぶつけたのだ。慌てた海野から怒りの感情が完全に消え失せると、先ほどまでの水責めの拷問が嘘だったかのように、海水の足は引いていた。残ったのは、制服が水浸しになって床にへたり込んだまま目をパチクリさせている水野と、彼女よりも全身がビッショリ濡れてぐったりしている片山と、どこも全く水が浸っておらず無傷の海野だけだった。それ以外は、海野がここにやって来る前と何も変わらない。強いて言えば、床に置いて乾かしていた水墨画と書道の作品が、強風で舞い上がった後のように室内に散らばっていたことだけだ。
「水野さん! 大丈夫!?」
「うん。私は何とか……」
床に片膝をつき、水野の肩を抱いた海野はほっと胸を撫で下ろす。が、安心したのも束の間。海野はここで彼女の異変に気付く。一方、水野は頬を染めてどうしようかと狼狽えている海野に気付いていない。彼女は真っ先に片山に目を向けた。
「片山くん! 大丈夫!?」
仰向けのまま床に横たわり、瞼を閉じている片山は水野の呼びかけにも反応せず、ピクリとも動かない。血の気が引き、最悪の結果を想像した水野は、何度も片山の肩を揺すり、その冷たい頬を叩いた。
「彼なら大丈夫。気を失っているだけだよ。じきに目を覚ますと思う」
海野は多少は落ち着きを取り戻していた。
「本当?」
「う、うん。今までもそうだったから、安心していいよ」
水野はぱあっと表情を明るくさせ、片山から海野へと視線を移す。なぜか海野は極端に首を横に回し、彼女と目を合わせようとはしなかった。
「とりあえず、どうしよっか?」
水野はキョロキョロと周囲を見渡して、今の状況を整理する。今のところは人が来る気配はないが、美術室にはまだ何人か真面目に水墨画を描いている生徒がいた。彼らがじきにこの部屋にやって来てしまう。廊下の引き戸も開けっぱなしで、水飲み場の水も出したままだ。もしかすると、誰かが廊下を通って、水飲み場近くのこの部屋の異常に気付くかもしれない。なぜか廊下の窓硝子は割れていないのでそちらは問題ないのだが、全身ずぶ濡れの生徒がふたりもいれば不自然極まりない。
「水飲み場の水が溢れそうだ。廊下まで水浸しにさせるわけにはいかないな。ひとまず止めてくるよ」
「私、保健室でタオルを貰いたいな。海野、水を止めたらすぐここに戻って来て。私ひとりじゃ、寝ている片山くんを保健室まで運べないよ」
「分かった。ふたりがずぶ濡れになった理由は、後で考えよう」
海野はなるべく水野を見ないようにして立ち上がると、駆け足で廊下へ出て行った。
あれだけ片山に敵意をむき出しにしていた海野の怒りは収まった。それに水野がほうっと息をつく──暇もなかった。
「水野さん! どうしよう!? もうすぐ授業が終わっちゃう!」
海野は血相を変えて美術準備室に駆け込んだ。
「えっ! もうそんな時間なの!?」
「ああ。あと五分しかないよ!」
あいにく、この美術準備室には時計がない。海野は自分の左手にある腕時計で時刻を確認したようだ。ところで、ついさっきまで赤らめていた彼の顔が、今度は真っ青になっている。普段の水野であれば、海野の様変わりした表情を見て「忙しいな」と思うものだが、もはやそんな余裕は毛ほどもない。
「僕が言うのもなんだけど、この惨状をみんなにどう説明したらいいか……」
海野は頭を抱える。
ひとりがパニック状態に陥ると、案外もうひとりは冷静になるものだ。水野は頭を高速で回転させ、一つの答えを弾き出した。
「ねえ、海野! 海野って、蛇口の水も操れるの!?」
「えっ? いや、できないけど……」
「じゃあ、私が何とかする!」
この状況をどうやって誤魔化すべきか。水野は廊下に出ると、突拍子もない行動に出た。
「海野も濡れちゃうけど、我慢してね!」
水道管と蛇口をつなぐ金属製のホースは、むき出しだ。
水野はそこにデコピンをする。そして、その軽い力で簡単に穴を開けたのだった。
「ええっ!?」
海野の驚愕した声は、水飛沫の音によってすぐに掻き消された。勢いよく噴き出した水が、海野たちの制服を濡らす。
水野は海野に、悪戯っ子のようなニヤリとした笑みを向けた。それは、海野が初めて目にした彼女の表情だった。
タイルでできた流し台に跳ねた水も、金属管から噴き出る水も、全ての水が太陽の光に反射してキラキラと輝く。海野はこの騒動で、彼女の本当の魅力に気が付いたのだ。
実は自分と同じように本性を隠していた水野。その彼女が、美術準備室のずぶ濡れ事件を解決させるために思いついた策は、なんとも大胆な方法だった。
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