全部、水のせい

藤崎 柚葉

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第一章

第四話 人魚姫は姿を変える

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 水野は片山の背中に腕を回そうとしたが、それは叶わなかった。彼女の両腕は、相変わらず片山の胸に挟まれている。手のひら越しに感じる片山の胸筋は、自分とは違った厚みがあってたくましい。肺活量だって、こんなに男女で違いがあるのに、片山は心臓の鼓動の速さも負けていなかった。片山は余裕がありそうで、実は切羽詰まっているように見えたが、主導権は常に彼が握っていた。片山は水野を一方的に翻弄する。
 水野は片山と粘膜が触れ、唾液が混ざり合うことを甘んじて受け入れた。相手に隙を与えないよう、激しい口付けを浴びせてくる彼は、間違いなく自分に興奮している。その事実と、年齢不相応な妙技に水野は酔いしれた。
「水野……。可愛いよ」
 腰を抜かした水野が腕の中で息を整えている合間、片山は甘い言葉を彼女の耳元で囁く。それに水野は大げさに肩を揺らして反応すると、勘弁してくれと言わんばかりに、力なく頭を片山の胸にくっつけた。
 我ながら流されやすいとは思ってる。だけど、離れたくない。やめたくない。止まらない。
 水野は片山が攻撃の手を緩めている間に、この場にはいない金井への言い訳をぼんやりと考える。
「水野。今、誰のこと考えてる?」
「えっ? ひゃあっ!?」
 声が裏返る。片山は水野の腰を抱いていた手で、彼女の横腹を一度だけ撫でた。片山の手は彼女の身体から離れず、そのままの手つきで水野の背中に愛しい人の熱がう。
「ずっと、俺だけ見てなよ」
 右手で背中を押されて首が後ろに反れたが、後頭部に添えられた左手で頭の角度を調整される。先ほどは片山が水野に覆い被さる形で口付けを交わしていたが、今度は促される形で水野から片山に唇が向かう。水野は片山との身長差があるせいで、かなり上を向かされていた。
「んっ……!」
 キスに不慣れな水野から上擦った声が漏れたが、片山が気にする様子は皆無だ。ちょっとした意地悪なのか、片山の大きくて温かい手が水野の背中をゆっくりと滑るように登っては降りて、擽るように何度も同じ場所を往復する。水野は身体が熱くて堪らない。けれど、恥ずかしさが混ざった、独特のもどかしさを手放す気にはなれなかった。
 人魚姫が王子の愛を得られずに泡となって消えたのとは逆で、自分はこのまま愛する人の熱で溶けて消えてしまうのではないだろうか。水野は片山から与えられる快楽で身体がどうにかなってしまいそうで怖くなり、力を入れて両目を瞑る。すると、片山が水野の後頭部に回していた手で、二、三度優しく頭頂部を撫でてきた。これだから、水野は片山が好きなのだ。片山は女子をドロドロに甘やかす。大半の女子が好きそうな、ちょっと意地悪で、優しくて、面白くて、格好いい、理想の王子様──。その彼が、こんなに情熱的なキスを、彼女でもない女子にいきなりするとは、誰が想像できただろうか。
「片山くん……。もっと……」
 水野は快楽の海に身を投げ、初心うぶな少女から妖艶な女の姿に変えた。いつしか消えていた海風が強烈な一風を部屋に運び、床に乱雑に並べられていた水墨画と、ふざけた書道の作品が宙を舞う。ふたりきりの空間に充満する墨の匂い。少年少女は、白色と墨色の花吹雪の中、背徳の恋情に溺れる。
 片山は理性が溶けた水野に対して、間髪入れずに噛みつくようなキスで応じた。
「何やってるのさ?」
 水野の理性を呼び醒ましたのは、強烈な潮の香りと、彼女の真後ろから聞こえてきた、男子生徒の静かな怒りの声だった。その声音は問い詰めるように厳しいものであり、さらには信じられないものを見たような驚きも混ざっていた。
 片山と唇まで密着していた水野は、突然現れた第三者の存在に一瞬で頭が冷えた。水野は弾かれたように片山の身体を引き剥がす。ここで振り返るのは気まずいが、浮気の現場を目撃してしまった彼を無視するわけにもいかない。何かうまい言い訳をしなければ、ふたりとも立場が悪くなる。
「……海野?」
 先に声を出したのは、水野だった。水野が生理的な涙によって濡れる瞳で捉えたのは、普段は大人しそうな雰囲気を醸し出している海野だ。
 心臓はバクバクと大きな音を立てているが、冷水を真正面から浴びせられたかのように、妙に頭だけは冷静だった。水野には、顎を伝っていた唾液を手で拭う余裕がある。一方、彼女と向かい合っている片山は、今の状況を理解できずにいた。片山は未だに水野の腰の位置で、咄嗟に緩めた手を空中に彷徨わせている。ふたりとも、廊下に立つ海野に釘付けだ。それもそのはず。ふたりには、廊下側の引き戸が開く音など、全く聞こえていなかったからだ。
「何で、ここに?」
「そっちこそ、ふたりきりで何やってるんだよ。そこが死角だからって、授業中に熱烈なキスなんかしてさ。上の窓から覗けば丸見えなんだけど? というか、その位置だと、近くにある扉のどっちかを開けられたら一発でアウトだよね」
 ハッとした水野は、開けっ放しの引き戸から廊下を見る。そこには手洗い場の蛇口から出ている水が、バケツの中の黒い水を溢れ出させていた。さらにその奥にある窓からは、砕石さいせきでできた防波堤の向こうに海が広がる。今日は一日中、晴れ模様とテレビの天気予報で聞いていたが、とんだ誤報だ。いつの間にか海も空も、色が美術準備室の部屋の暗さと、空気と同じくらい薄黒くなっていた。それこそまるで、水墨画のような……。
「片山くん。女の子を無理やり襲うなんて、君は最低だよ」
 ──やばい! キスしていたところを海野に見られてた!
 水野は短く悲鳴を上げそうになったが、寸でのところで堪えた。自分の恥ずかしさよりも、海野の怒りの矛先が片山に向かってしまった危機感の方が大事だったのだ。
 熱くて汗ばんでいた身体が一気に冷える。浴びせられる軽蔑の眼差しは自分にではなく、片山に向けられたものだった。
 潮の香りがした後に豹変したのは、片山だけではなかった。海野も同じ。海はとことん水野の味方をしないらしい。
「あれ、僕には何も言わないの? そこから動かないってことは、逃げるつもりもないってことか……。女の子を泣かせるなんて、君には幻滅したよ」
 海野の発言の直後、周囲に異変が起きた。
 廊下の窓越しに見える海が大きく渦を巻き、何本か竜巻のように立ち上がると、蛸足たこあしの如くぐにゃぐにゃと動き回りながら、こちらに向かってくるのだ。それも、たったの数秒でだ。廊下の窓は開いていなかった。だが、海水でできた蛸足は何の抵抗もなく硝子を突き破る。そして、硝子の破片が空中に散らばる中、海水でできた蛸足は、そのまま海野の背後で根元だけ一纏ひとまとめになった。
 どうやらあの足は、海野の意思で自由に動かせるようだ。海野が腕を真横に伸ばし、右手を上に向けて開いた状態で、指だけをくの字に曲げた。その間のみ、海水がこちらに集まってきていたのだ。そして、彼がその手で拳を作ると、あのような形に変化したのだった。
「反省するまで、懲らしめてやる」
 海野は拳のまま、右手の上下を反転させると、肩を九十度胸の前に動かした。じっと敵を睨みつける海野は、手の内から何かを弾き飛ばすように、ピンと張った指先を片山に向ける。
「覚悟しろ!」
 海が、最愛の人に襲いかかろうとしていた。
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