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序章 生きるに値しない命

Rise of 2 敗戦Ⅱ

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 初めて自我を持ったのは深い闇の中だった。

 人は闇と聞くと光の届かない暗い場所を想像する。
 でも、実際は違う。

 闇は美しい。

 赤と黒の輪廻が交差する、混沌の渦。
 それが闇の世界だ。

 僕はその世界の中に浮いていた。
 静かに目を瞑り、産まれ出る瞬間を待っていた。

 これから生きていくことになる新しい世界への期待を膨らませて。


◇ ◇


―ヴラド帝国 帝都へと続く街道―


 戦争は終わった。ヴラド帝国の敗北という形で。
 各地で徹底抗戦を続けていた騎士たちは祖国の敗北の報を受けて連合軍に降伏し、帝都に向かっていた。というよりも、既に戦線は帝都の目前まで後退しており、首都が戦場になる日も間近というタイミングだった。

「負けたのか……俺たちは……」

 馬車の荷台に、死んだようなどす黒い瞳をした青年が座り込んでいた。
 金色の髪に、緑色の眼をした眉目秀麗の青年。しかし、その全身は濁った赤色に塗りたくられていた。人間の血だ。
 その合間から辛うじて胸甲に描かれた鷲(アドラー)の紋章を見ることができる。

「う……あぁ……いてぇ……いてぇよ……」
「だれ……か……助けて……」
「かあ……さん……」

 同じ荷馬車の中から死を目前に控える者たちの嘆きが耳に届いてきて、青年はそちらへと目を向ける。
 そこには四肢を欠損し、満足に手当ても受けられず、ただ死を待つだけの騎士たちが転がっていた。その傷口は青黒く変色しており、所々に銀色の小さな破片のようなものが付着していた。

(銀の毒か……)

 敵の砲弾に仕込まれていた銀の粉末によって、欠損した部位の再生ができない。銀の毒を取り除くための道具も治癒魔術が使える魔術師もいない。そんなものは戦争の中盤にとっくに枯渇していた。

故に、ヴラド帝国は連合軍の銀製の弾丸や、銀の粉末が仕込まれた砲弾や、毒ガスの餌食になり、次々と命を落としていった。荷馬車が進む街道の両脇にも、銀の毒によって命を落とした死体が溢れていた。

 満身創痍の帝国に、死にかけの騎士たちを救う力はない。力尽きた者から街道の脇に捨てられるのだ。青年の視線の先にいる騎士たちも死ねば荷馬車から捨てられ、街道の脇へと落とされる。助かる見込みが無い今、彼らを道に捨てるのも時間の問題だ。そしてその役目は自分が負うことになるだろう。

「くそ……こんな、こんなことがあっていいはずがない……」

 今度は青年の向かいから声が聞こえてきた。
 向かいに、魔導士の服装を纏っている青年が座っている。
 水色の髪に同色の瞳をした青年はとても知的で凛々しい顔立ちをしているが、同時にどこか傲慢そうにも映った。
 彼もまた全身を黒く変色した血に塗れさせているが、手に握りしめられている杖、その先端に取り付けられている水色のクリスタルだけはきれいな輝きを放っていた。理系に属する氷魔導の使い手である証だ。
 
 魔導士の青年は奥歯をかみ砕いてしまうのではないかと思うほど強く歯を食いしばり、祖国が敗れたという事実を何度も否定する。地獄の戦場で何年も戦い続けてきた結果が敗戦など、到底、受け入れられるものではなかった。

 と、その時だった。

「ハインツ、喉乾いてないかい?」

 そう言って青年の目の前に水筒が差し出されてくる。
 差し出してきたのは腰まで届く金色の長い髪に同色の瞳を持つ美しい女の子であった。
 だが、彼女の纏う甲冑も夥しい量の血に塗れ、それが乾いた今ではどす黒く変色している。
 彼女の胸元の大きさに合わせて盛り上げられている胸甲には獅子(レーヴェ)が描かれていた。

「グラハム……」

 しかし、ハインツと呼ばれた青年は水筒を呆然と見るだけで手を伸ばそうとしない。

「ハインツ、少し飲んだ方がいい。最近、ずっと飲まず食わずだったろ?だから、ほら」

 グラハムと呼ばれた美しい少女は水筒の蓋を開けて、ハインツの口元へと運ぶ。
 水筒がハインツの唇に触れる直前に、青年の鼻腔を鉄の匂いが擽ってきた。
 水筒の中身は人間の血液だ。

 小さな手がハインツの後ろ頭に添えられ、青年の口内に血が注ぎ込まれた。
 するとわずかだが喉が動き、ハインツが血を飲んでいることがわかる。

「そう……それでいいんだ……」

 ハインツに血を飲ませ終えると、グラハムも水筒に口をつけて血を飲む。
 そして彼の向かいに座る魔導士に

「リヒター。君も少し飲んだ方がいい」

 と言って水筒を差し出した。
 すると、今まで敗戦を否定する言葉ばかり呟いていた魔導士の青年は口を閉じ、金髪の少女を見上げる。そして、差し出された水筒を受け取り、飲み口を見た。少女が口をつけたばかりの水筒。魔導士はそっと飲み口に唇をつけ、血を飲んだ。

「いい子」

 リヒターがきちんと血を飲んでいることを確認すると、金髪の少女は騎士の青年の隣に腰を下ろし、膝を抱えた。そして

「終わったね……」

 と呟いた。
 長い、長い、戦いが終わった。敗北という形で。

「声が……」
「え?」
「声が……しなくなった……」

 ハインツが見据える先には、先ほどまで死の床に伏せり、悶えていた騎士たちがいた。だが、今では眉一つ動かすことなく、呆然と空を見上げている。幌のない荷馬車の荷台からはどす黒く曇った空が良く見えた。だが、その瞳は曇り空以上に深い闇に満ちている。
 
「死んでる……」

 魔導士の青年が横目で死んだ騎士たちを見て、目を伏せた。死などもう戦場で飽きるほど見てきてが、それ故に死というものは重く心にのしかかってくる。
 
 彼らは祖国のため、大儀のために戦って死んだ。死の間際まで苦しみもがきながら、誰にも救いの手を差し伸べてもらえることもなく。そして彼らが命をささげた祖国は戦いに負けた。彼が食料として、家畜として見下し続けてきた人間と亜人、彼らが築き上げた強力な軍隊の前に惨敗して。

 何一つとして報われなかった彼らの死。そして生きていない者を連れて進めるほどの力は軍に残っていない。死んだ者たちは街道の脇に捨てて行く。生者たちがわずかでも早く帝都にたどり着けるように。

 ハインツが騎士たちの死体を捨てるために立ち上がろうとした時だった。

「もういいよッ!」

 ハインツの腕にグラハムがしがみ付いてきた。しがみ付き、ハインツを立たせまいとする。そのグラハムの顔を振り向いたとき、今まで死人のように無反応だったハインツがわずかに動揺した。

 グラハムの金色の眼から涙が溢れていたのだ。血と泥に汚れた色白な頬を涙が伝い、甲冑を纏った少女は縋るようにハインツを見上げていた。

「もう……いいんだ、ハインツ……。故郷に……連れて帰ってあげようよ……。故郷に…」
「故郷……か……」

 ハインツは力が抜けたようにその場に沈み込み、馬車の周囲を見渡した。
 焦土と化した大地。焼け落ちた村。途方に暮れる民。その前を通り過ぎていく満身創痍の騎士の一団。

 彼らの進む街道の両脇は死体に溢れていた。
 そして、荷馬車に横たわる骸が街道に捨てられ、死体の山に加わった。

「あッ……」

 金髪の少女は涙にぬれた眼を見開き、死体を捨てた魔導士の青年を見る。
 いつしか魔導士の青年は立ち上がり、騎士の骸を足で荷馬車から蹴り落したのだ。そこに死者への敬意などない。
 ただの重荷を捨てるかのように、物を扱うような仕草だった。

「リヒター……」
「何が故郷だ……」

 魔導士の背中、夥しい量の血と泥に汚れたマントに隠された背が震えていた。

「もう……祖国(故郷)なんて無くなっちまうんだよ……グラハム……。
 何もかも……終わりだ……」

 その言葉に、金髪の少女は口元を手で押さえ、嗚咽を漏らす。
 しかし、か弱き少女の肩を抱き、慰めの言葉をかける気力すら二人の青年は持ち合わせていなかった。


 その時、3人の耳に死者を弔う従軍司祭の祈りが聞こえてきた。
 従軍司祭は無残にも捨てられた数多の死体の中に立ち、血と泥にまみれながら死者に弔いの祈りを捧げていた。

「大地の女神ガイアよ、貴方の子らが御身の下へ旅立ちました。
 彼らの魂が貴方の懐に抱かれ、長しえの安息に就けますよう慈しみ下さい。
 奈落の神タルタロスよ、貴方の子らが御身の下へ旅立ちました。
 戦いに命を落とした彼らが、その栄誉と誇りを胸に眠れますよう御讃え下さい。
 冥界の神ハデスよ、大地の女神ガイアと奈落の神タルタロスの子たる我らクドラクの民の魂が、御身の治める地を通ります。彼らが父母の下へ辿り着けますようお導き下さい」

 従軍司祭の祈りの声に、周囲の騎士たちが啜り泣きの声を上げる。
 中には自らも司祭と並び祈りを捧げる者や、死者たちに敬意を表すように深く頭を垂れる者もいた。

 グラハムは涙を零しながら死者たちに祈りを捧げ、ハインツは敬意を示すように頭を垂れる。
 リヒターは、司祭と積み上げられた亡骸を茫然と眺める。

 しかし、祖国の大地は死者を弔う暇すら与えようとはしなかった。
 帝都へ向けて退却する一団の先頭から大きな激突音のような物が聞こえてきた。

「レヴナントだッ!」

 と誰かが叫ぶ声が聞こえてきた。
 騎士たちの顔が一斉に青ざめる。

「レヴナントだとッ!」

 リヒターが馬車の荷台から身を乗り出して先頭の状況を確認する。
 すると、巨大な蜘蛛のような異形のクリチャーが退却する一団の先頭で暴れていた。
 厳密には、生身の人体が幾体にも融合した怪物であり、蜘蛛のように見えた足は全て人間の手足であり、胴体を構成しているのは全てが人の頭部だった。

 胴体に付いている無数の頭部が周囲を見渡し、標的となる得物を探している。

「くそッ!どうしてこんな所にレヴナントがッ!」

 満身創痍の部隊に、あの巨大なレヴナントと戦える戦力は残されていない。
ある、特殊な兵士を覗いて。

「リヒター、グラハム、お前たちはここにいろ」

 ハインツは動揺する素振りもなくゆっくりと立ち上がると、馬車の荷台を降りる。

「ハインツ、倒せるんだろうなッ!」

 リヒターが荷台から身を乗り出して、ハインツの背中に向かって声を上げる。
 それに対してハインツは僅かに振り返ると

「無論だ。そのための《クリフォト兵》だろ」
「ハインツッ!」

 再び歩き出そうとしたその背中にグラハムが声を上げ、馬車の荷台から飛び降る。
 しかし、後に続こうとはしなかった。彼にここにいろと言われたのだ。
 彼には誰かの助けなど必要ない。

「気を付けてね……」

 とグラハムが小さく呟くが、ハインツは聞こえていないかのように振り返らない。
 ただゆっくりと、巨大な怪物に近づいていく。

「故郷か……」

 騎士の青年、ハインツは眼前で暴れる怪物すら眼中に無いように、黒ずんだ空を見上げる。
 日の光に背を向けられた祖国の大地には太陽の光は降り注がない。

 そして、地獄を具現化したような、死体に溢れかえる周囲を見渡した。
 従軍司祭は巨大なクドラクが出現したというのに、弔いの祈りを捧げている。
 彼に並んで祈りを捧げる騎士たちも同様だ。

(これが、俺たちの故郷なのか……)

 どうしてクドラクの民はこんな死の大地に生きねばらないのか。
 聖典の狂信者たちの言う通り、クドラクの民は呪われた種族なのか。
 神がいるのであれば、なぜ我々に過酷な運命を与えたのか。

 疑問は尽きない。ただ、自分が疑問を抱いたところで何かが変わることもない。
 今はただ目の前の化け物を葬り去るだけ。

 ハインツは腰に差した剣の柄を握りしめる。
 その剣は、飾りも装飾も無い、みすぼらしくて素朴な鉄の剣だった。
 だが、ハインツが柄を握ると、柄と鞘の狭間から黒い霧があふれ出し、青年の姿を覆いつくした。

 そして、大いなる闇に抱かれながらハインツが言葉を紡ぎだす。
 それは、彼らの身に宿った祝福の力を解き放つための呪文。


―明けぬ夜、我ら地平線に登らぬ陽を夢見て―

―数多の戦場を駆け、数多の命を屠り―

―悪名をただ積み上げし者―

―しかし、我らの血を持ってしても陽は振り返ることをせず―

―陽の光が我らに微笑みかけることはない―

―ならば、我らは陽に背を向け、世界を覆う闇とならん―

Qliphaクリファー

アドラー・バチカル神の背を向けた大鷲


 何かが目覚めるような、大きな脈動が黒い霧の中から空気を震わせる。
 そして、黒い霧を突き破って現れたのは甲冑に身を包んだ巨大な騎士。
 その背にはアドラーの雄大な翼が生え、その手には自らの背丈と同じ長さのある鉄の剣が握られていた。

 黒騎士は剣を眼前に立てるように構えると、祈りの言葉を口にした。

『我らが母ガイアよ、我らが父タルタロスよ、戦場に散ったクドラクの英霊たちよ。
 我らクドラクの民を守り給え』
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