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調教師

一杯のかけそば物語

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 夜が来る度、不安に追い立てられ落ち着かない。
 俺は錠剤を口に含んでから背を向け水を飲み込む。いけないとわかっていても、舌の裏に錠剤を隠して眠らないようにする仕業に気がついた青嵐は、押し開けられた穴の数を指でなぞりながら言った。

 「よし、君が良い子になるように私が蕎麦を打って進ぜよう」
 「社長には鞭の方がお似合いです。お気遣い無く」
 「今夜は大晦日おおみそかだよ。もしかして…うどん派かな?」

 褐色かちいろ三枡格子みますこうしの着流しは遊び心のある襦袢じゅばんを見せ、和装も良く似合う社長は紐をくわえて襷掛たすきがけ、調子のいい笑みを浮かべていた。はっきり言って…
 暮れの多忙時に俺の見舞いなんぞ来なくて宜しい。

 「病室で蕎麦を打つ人、初めて見ました」
 「いつもは店に卸すけど…今年は特別だよ。待っていなさい」

 坊主頭を撫でようとする手を嫌な顔して避けた後は決まって
 「大事な御手がけがれます」だから、はやく帰れと念仏を唱える。
 個人病院のキッチン付き個室で一年の締め括りである大晦日を過ごせるのは大変有り難いことだが、このまま居座られては堪らないので戻るよう再三促す。
 すると「こんな年寄りに行く宛など無いよ」湯切りをする後ろ姿は年寄り臭くないものの、鈍い寂しさをまとっているように見えた。

 「私はね。仕事が好きで家業を継いだけど、設えた檻の中では私自身、ぐつとなり狂喜に埋もれて死ぬまで働かされる。不当に扱われることは耐え難いがその理由を皆、口にしないのがここのやり方だ」

 差し出される器には青嵐のお手製麺が、いい香りのだしつゆに浸かっていた。
 「だから、君と居ると気が紛れていい」
 よく出来た抜けの口実だ。本来なら船上パーティで親しい友人と新年を迎える宴に暮れているのに、俺とふたりきりで年越し蕎麦だなんて、呆れて物も言えない。
 まぁ虚言癖があるので騙されてはいけないと青輝丸に釘を刺されているので老い先短い年寄りの戯言ざれごとだと思えば、蕎麦をすすりながら黙って話を聞いてやる。

 ずず…っ…

 「うわ、マジでうまい!」

 魚系の出汁に甘辛い風合いの優しい味。
 関東じゃ真っ黒の辛いつゆが定番なので、郷土料理のような味が懐かしかった。
 昔、父親の休暇で連れられた先で食べたことがあるけど、思い出せないでいると
 「ああ、私は上越出身なのでね」
 そうだ。新潟のインターで食べた蕎麦つゆの味が復元されたような一杯だった。
 ゆっくりと頬を緩める社長は袂に整った爪先が印象的な指を宛がい、また蕎麦を茹でてくれた。餌付けされ喜ぶ安上がりな俺だけど身体の痛みが和らぐような優しさに触れて自然と顔がほころぶ。
 あれ…もしかして俺、かわいそうだと思われてる?
 鬼より怖い歌舞伎青嵐に情なんざ…
 そう思い直したが器をくれる手がいつもと違って優しく感じられ、心に染みた。

 ここじゃない処でも俺は、ずっと我慢してきた。
 褒められたいのに
 「出来て当たり前」いつも反対の言葉が返ってくる。
 だから優しくされたら疑い裏を掻き、素直に喜べない否定的な自分と恥ずかしくて泣きそうなもうひとりの自分が背中合わせで真実を争う。
 やることなすこと、悪いのは俺なのに。
 初めて俺のことを好きだと言ってくれた。
 嘘でも、優しくしてくれた玲音の言葉も本当に嬉しかったんだと思い起こす。
 限りある時間だと知っていたら…
 あれが最後だったのに、他に伝えることあったんじゃないかと今までいろんな言葉を探したけど、未練ったらしく「あの頃」に戻りたいと思うより…

 たった一言でいいから謝りたい。
 許して欲しいと願っている自分と別れることがどうしてもできなかった。

 そんな想いを巡らせながら涙ぐんで蕎麦をすする
 今年、最後の夜「良いお年を」といっても、あと数時間。
 思い残しが殊の外あって
 これはけじめだと膝を折って背筋を伸ばす。
 「あの、ご主人様…」俺の言葉に顔を上げて
 「何ですか。急に改まって」
 「もうすぐ今年も終わりますので挨拶を。
 短い間に何度もご迷惑ばかりお掛けしたことお詫び申し上げます。厄災と呼ばれる俺ですが、ご主人様のお力添えのお陰で無事に年を越せる運びとなったことを感謝すると共に来年はより精進致しますので宜しくお願いします」
 坊主頭を下げて、目を閉じる。

 「嘘も方便とは、正しくこの事だね」

 見抜かれ承知で言ったのは嘘じゃない
 これが俺の理屈だ。
 強がることでしか自分の存在を示すことのできない弱さを隠し通せる気はしないけど、ここで泣いたら俺の負け。情けない自分はもうたくさんだ。
 誰にも愛は乞わない。
 ただ独りで生きていくことを鐘の音に決意した。最後の夜に。
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