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奴隷契約

俺の知らない世界

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 「お世話になりました」


 荷物をまとめて会計を済ませ、駅前の激安床屋でナチュラル短髪に仕上げ髭剃り、リクルートスーツという出で立ちで電車に乗り一路五反田へ。
 歓楽街の雑居ビルを縫うようにして彷徨っていると、高級感漂う外観のホテルの前で足が止まった。階段からエントランスを覗けばマンションだとわかった。立地からして億ションな門構えにこの職種は看板を出して店を構えないのが普通?そんな疑問を勇気に変えて半月型カウンターに微笑む美女。
 案内を頼めば余所行きの声が返ってきた。
 こっちが恐縮してしまうような丁寧な言葉遣いに緊張の余り何度も頭を下げる俺は逃げるようにしてエレベーターに飛び乗った。
 気分はハイソサエティ。
 すべてに置いて優雅で凝ったディティールの数々は物珍しく、柔らかな風合いの絨毯じゅうたんに靴底を取られながらドアの前に到着。インターホンの代わりに取り付けられた冠のリングを何度かぶつけると重厚感のある禁断の扉が開く。
 
 もはや退けない。

 俺が今からしようとすることは、決して悪いことではない。
 ピカピカに磨かれた大理石の上をどうやって歩けばいいのか?
 靴を脱ぐのか、脱がないのか?
 処世の掟さえも頭から飛んで戻らなかった。
 されど時計の針は進むもの、ドアマンと思しき男が無言で動き出すと輝く向こう側から、昨日聞いた声がした。

 左側には横長の芸術的な絵画
 チェスの駒を模したオブジェに青い花柄の壺
 俺の顔が映る銀の崖は百合の文様
 そこらじゅうにあらゆる種類の鞭が掛けられてることから、ここが風俗店を名乗る異空間だと正気に戻り足早に先を急ぐ。が、しかし…

 俺の足がピタリと止まった理由はただひとつ。

 動かないから素通りしたけど、通路に一風変わった格好をした男達がいる。
 今、俺の横にいる男は黒いエナメルのビキニに筋肉をまとった裸体。
 まるで王を守護する神話の生物のように開眼、こっち見るな。
 恐怖。それだけじゃない。
 黒光りする股間を凝視。
 何を入れればこんなに膨らむんだ?男臭さを豪快に放つそこから、後方を振り返れば玄関のドアマンは遙か遠く、得も言われぬ孤独と不安を募らせた。
 何が「騙されたと思って来てごらん」だよ。
 これは何かの悪徳商法だ。
 今すぐにでも男のフレグランスが立ちこめる勇マッスル軍団をクーリングオフ
してやる。まずは息を止めて…いかん、軟弱の俺に勝ち目はない。

 「おはようございます」

 突如聞こえた救世主とおぼしき男に呼ばれる。

 物静かで柔らかな低音イケボに耳が誘惑され、肩を抱かれてエスコートされた事も気にならないほど優しく導かれた。大理石の廊下から開放感のある広大なフロアへ様変わり、筒状の吹き抜けには扇風機のような羽が回っていた。巨大な窓ガラスが4枚並ぶパノラマ展望台のバルコニーは都心を見渡せる、絶景かな絶景。
 ちょっとした観光気分を味わう最中にお茶を勧められ、家具というより調度品と呼ぶのに相応しいレトロなソファに腰を降ろすと、想像もしない弾力に尻が埋まり足が浮いた。

 「山田昌夫やまだまさお…ヤマダ君でいいかな」

 履歴書を見ながら話し始める男こと社長の名前は歌舞伎青嵐かぶきせいらん
 老舗SMクラブ(完全秘密会員制)アナスタシアの創業者であり世界的に有名な鬼才調教師の異名を持つピンク界の重鎮。見た目はアラサーされど齢65歳という驚異的な数字もさることながら日本の歴代ポールスターの中でも群を抜く実力派男優の経歴を持つ。わずか2年の契約でAV女優3000人斬り達成。
 現役の調教師として今も活躍だが、その姿を知る者は限られている。
 おそらく趣味と実益を兼ねて働く人間は存在自体がツチノコ現象、次元が違う。
 だからとは言わない、感覚がおかしいことに即効で気がついた。

 「時給1$?どういうことですか」

 これはアナスタシアで働く者ならば誰もが通る道で、SM関係者を含む一般の従業員も研修期間は時給1$規約により実務8時間労働が基本。こういった制度を設けるのはアングラ関係者がアナスタシアで修行を希望する際の断りだとか。店に多額の礼金を納めてまで希望する業界人は年間述数100名超という特殊産業が経済を回す老舗を支える理由だろう。
 俺の管轄は一般事務。
 主にインターネット上の情報管理と、顧客リストや一部の経理を担当。外回り雑用も幅広くこなす内勤なら問題ないと判断された。まさか自分がSMプレイをして金を稼ぐなんてあり得ない。ほっと胸を撫で下ろした俺はおこがましくも社宅や寮の制度、通勤手当や福利厚生の確認すると事務所に住み込みで働けることが即決。
 驚きの待遇…だが、俺はどこまで出来るのか?
 研修期間内で見定める様子。それをあえて言葉にしない辺り社長の都合で突然首を切られる可能性もあると睨んで頭を深く下げた。
 
 「先に行っておくけどね。
 うちの仕事はみんなが嫌がる、汚い・キツイ・給料が安いの三拍子。
 その中で何かひとつでも魅力を感じたら億万長者になれるから向こう3年頑張って
 みるといい。君には、期待してるよ」
 「どうしてですか?」
 「だって君はこの世界に夢や希望、憧れは無いだろう?」
 「それが長続きの秘訣だと」
 「君の澄んだ瞳が汚れていくのが楽しみなんだよ」

 なんだろう、この独特な有無を言わせない威圧感。

 何も知らない。
 どこにも行けない俺を利用する社長は悪い奴だ。
 用心しないと…そう思ってもお茶に一服盛られて意識不明。ここから始まる過度な波瀾万丈の人生なう。乞うご期待!


 最後に実家の母さんへ
 ひとり息子の先立つ不幸をお許し下さい。
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