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小学生の時にほんの少しだけ頭に詰め込むような勉強で手に入れた知識なんて、三年も経てば忘れている。だから4℃の水の意味を私はもう覚えていなかった。そのことが悔しかったというよりは、木下由利香が自慢げに話してきたことに腹を立てたのだ。
私が由利香に勉強を教えることになった初日のことだ。
教室は私と由利香しかいなかった。由利香はシャーペンを回しながら問題集を見つめていた。シャーペンを置き、ふっと力が抜けおちて椅子にもたれかかった。
「優子は本当に教えるのが上手いわ。先生みたいだね」
「そんなお世辞を言っている暇があるなら早く問題解いてくれない」
肩をすくめて由利香はいたずらっ子みたいに笑う。睨みつけるとようやく観念したのか右手を動かし始めた。
由利香とはクラスメイトなのに今までなんの接点もなかった。彼女には取り巻きがいて、その子らといつも大声でお喋りしている。
放課後、図書室で勉強をしていたら突然話しかけられた。勉強を教えてくれと頼まれ、断れない私は由利香と共に図書室を出て、空っぽな教室に戻ったのだ。
来週は三年生二学期の期末テストだ。だから頼んできたのだろう。このテストは内申点に関わってくる最後のテストだ。これで進路が決まるといっても過言ではない。
私は問題を一つ解き終えて由利香を見ると、真っ白なノートをよそに答えを見ていた。結局解くことを諦めたらしい。目元を指で軽くかく。
「もうやめる?」
「え、まだ時間あるじゃん」
やる気ないくせに、と言いたくなるが分かったと頷く。
それから少しずつ問題を解くようになったようで、一時間ほど続けて休憩に入った。由利香は鞄からポッキーを出し、半分くれた。
「やっと課題終わったあ」
「これからがテスト勉強よ」
由利香は分かりやすく、うへえと顔をしかめる。
「なんで勉強しなきゃいけないんだろうね」
そんな当たり前のことを聴かれても、私は当たり前の答えしか言えない。
「高学歴の方がいいからでしょ。将来役に立つもの」
最善の選択をしなさい、と母は口癖のように私に幼い頃から言ってきた。良い高校に行き、良い大学に行き、良い企業に就職するためには勉強は不可欠だ。
「それなら、高学歴にならなかったら意味ないね」
カリッといい音が鳴った。それを見てカスが飛ぶなと思い目を細めた。
「ねえ、そういえば4℃の水って知ってる?」
由利香は「昨日、テレビで見たんだけど」と付け加えた。
「何それ、知らないわ」
「あれ、知らないか。4℃っていうのはね、水が一番密度の大きくなる時の温度なんだよ」
自慢げに半分食べたかけのポッキーを私に向かって指してくる。歯が見えるくらい口を開いて笑う。やっぱり声が大きい。
しかし、聞き覚えがあった。昔、塾で勉強したはずだった。
「なんでそうなるのか分かるの?」
正答を思い出し、仕返しのつもりで聴く。
「ええと、確か水は水素結合だから、だったけな」
曖昧な回答に安心し、思い出したことを話すと由利香もそれだと首を振る。
「なんだ、やっぱり知ってたか。そうだよね、この問題、逢花女子学院中学校の入試だからさ。私達の年度の」
ドキリと心臓を掴まれる。久しぶりの感覚がざわざわと騒いで痛い。
「それがクイズ番組で出ててね。確か優子、それ受けたんでしょ?」
相変わらずな大きな声には混じりけのない純粋さがある。気付いたら由利香から目を逸らしていた。昔からよく母に言われて目を見て話す癖がついていたのに。すぐに由利香の方から勉強を再開した。私も机の方へ目を向けるが、目の前の文字の海はただの絵のようにしか見えなくなってしまった。
テストが終わった日から由利香と会話することはなくなった。勉強に付き合わされたタイミングでしか話す時がないから、その習慣が消えるのは当たり前だ。
目のクマをこすりながらテスト日に登校してきた由利香を見てこれは駄目かもしれないと思ったが、本人的には満足いきそうな手応えだと言っていたので、よかったね、と心にもないことを言った。その時点で私と由利香との交流は途絶え、いつも通り彼女は彼女の取り巻き達と教室の隅で盛り上がっていた。
私はというと、期末テストが終わった日から休み時間や放課後は全て高校入試の過去問などの入試対策に費やしていた。
今日は成績発表日だ。放課後前、ホームルームで配られた成績表をファイルにしまい、すぐ教室を出る。廊下の前の方で一人ぽつんと由利香が歩いていた。普段なら追いかけることはないが、追いかけてみる。
せっかく教えたのだから成績がどうなったか知りたい。
昇降口のところでようやく追いつく。由利香は私に気付き、口元だけ笑みを作る。
「テストの点なんだけど、どうだったのかしら?」
「ああ、テストね。前よりはよくなってたよ」
ありがとうと妙に深々とお辞儀をしてくる。今までの由利香とは違う細々とした声。
「で、結果ぐらい見してくれてもいいんじゃない?あなたも薄情ね」
わざとらしく大げさに言うと、由利香は困った笑みをそのまま浮かべ、頬の辺りを人差し指で掻く。
「早く先行きたいから歩きながらでもいいかな」
私は頷き、靴を履き替えて昇降口を出る。校門を抜けたところで由利香は学生鞄を背中から下ろし、中からクリアファイルを出す。一枚プリントを取り出すと私に渡す。丁寧に四つ折りされていた。中を見ると、私は思わず声を上げてしまった。
学年順位が三位だった。前回の順位が百位を下回っていると言っていたはずだ。
「木下さん。あなた、カンニングでもしたの?」
動揺で声が少し震えているのが自分で分かる。
「そんなことするわけないじゃん。これが私の実力よ」
胸を張って軽く左手でとんっと自分の胸を叩く。
「でも優子はもっと上なんでしょう。私、クラス順位二位だったからさ」
「まあ。そうだけれども」
「でも、優子のおかげでいたずら成功だよ」
「いたずら?」
「そう。私ね、進学するつもりないの。だから通知表なんて関係ないんだけどね、でも、関係のない私がいきなりいい点を取ったらさ、平均点上がるし順位落ちるし、皆んなさぞ困るだろうなって思って」
嬉しそうな屈託のない笑みといつもの大きな声であっけらかんと言った。
私は乱雑に成績表を返し、先を早足で歩く。
私の今回のテストの学年順位は五位だった。まさか負けるだなんて。しかもそれがいたずら目的の相手に。
頭はカンカンと唸るヤカンのように騒がしい。まただ。胸が縛られる。
由利香は追ってこないみたいだ。彼女の今の表情を思い浮かべる。頭を振りそれを消し去るために更に足を速めた。
母は昔から私に最善の選択をしなさいとたびたび口にした。これは母の信条らしく、常にこれを守ってきたのだろう。だから、私は常に母の言うことを聞いてきた。
小学校の頃、学校と塾の復習は欠かさず行ってきた。付き合う友達は選んだ。塾でだって真面目に受けていた。居眠りなんてしたことがない。
だけれど、受験に失敗した。母は努力が足りないと説教をした。私は最善の選択を選べていなかったのだと思った。
中学に入って更に勉強をするようになった。通知表のために生徒会に入り、ボランティア活動もして、英作文のコンクールにも出した。最善の選択を選んできたはずなのだ。
通知表は母の予想の通り、全て五をもらえた。いつもテストのみでしか点数を稼げず四を取ってしまう家庭科や体育が五なのは、私の受ける高校のレベルで調整してくれたからだろう。三年になるとそういうことをすると、以前、母が言っていた。嘘か本当かは知らないが、それよりも、なんとか志望の高校を受験できるようで安心した。両親も褒めてくれるだろうか。
由利香は石を蹴り転がしながら歩道を進んでいく。私はその横で、転がっている石を目で追っていた。
私と由利香は一緒に帰るようになった。これは成績表を見た日から続いている。どうやら、由利香のいつも連れ立っているグループは最近よく受験の話をするらしく、居づらいらしい。
「ねえ。そういえばどうしていつも一人で帰ってんの?優子、友達結構いるじゃん」
「あの子達は帰るのが遅いのよ。それに付き合っていたら時間がもったいないでしょう」
生き急いでるねえ、と笑ってくる。
「まあ、あなたはいいわよね。でも、私には時間がないのよ。絶対に受からなきゃいけないから」
グッと手さげ鞄の持ち手を握る左手に力が入る。手の中を伝う汗が気持ち悪くてゆっくりほどく。
由利香に対してだと思ったことをすぐに言ってしまう。我慢が効かない。彼女は受験しないのだ。だから張り合う必要などない。
「受験かあ。ねえ、前に4℃の水の話をしたの覚えてる?私も逢花受験してたんだ。うちはもともと転勤族でね。でも、中学入る前にここで落ち着けることになったから。実は私、昔は超優等生だったんだ。だけど、お母さんが事故に遭って死んじゃったから、それからのごたごたで行くのやめることになったんだ」
やめたということは、もしかして合格したのだろうか。
私の曖昧な相槌は空に浮かんでは雲の方に消えてしまった。だけれど由利香は止まらない。転がる石の方へ話し続ける。きっと、彼女も私を見ていないのだろう。
「お父さんが引きこもっちゃったんだよね。仕事も辞めてね。今まで貯めてきたお金と退職金、それとお母さんの保険金があるから、今はまだ生活できてるけど、酒とか煙草とかに消えてくからちょっと危ないんだよね、これからが。だから、私は働くことを選んだんだ」
彼女の独り語りがどうやら終わったみたいで、急いで何か言葉を考える。しかし、彼女の中学受験のことで頭いっぱいになってしまったので、話は半分程度しかきいていなかった。
「そんな迷惑な父なんて放っておいたらいいじゃない。最善の選択ではないわ」
由利香の行動は最善の選択ではない。親戚を頼るなりすれば、高校にだってきっと行くことができるはずだ。
由利香の方を見ると、寂しそうな笑顔をこちらに向けた。私を見る彼女の眼は真っ黒な黒板のようで、何も読み取ることができなかった。
「できたらそうしてるんだろうけどね」
小さく口だけ動かすような弱々しい声調だった。すぐに彼女はいつも教室で見る笑顔をした。
「そういえば、優子ってよく言うよね、最善の選択って。口癖?」
「そんなに言っているかしら。まあでもよく母から言われてきたから。座右の銘みたいなものよ」
「そうなんだ。優子の言う最善って何に対しての最善なの?」
「最も良いことが何個もあるわけないでしょう」
そうかもね、と由利香はまた寂しそうに笑う。
「でもさ、誰かにとっての一番が誰かにとっての普通ってこともあると思うんだ。4℃っていうのは、水にとって最も密度が大きくなる温度なんだよね。でも、0度だって100℃だって、水にとっての一番を持ってるんだよ。色々な一番があって、そのどれも何かの善いに繋がると思うし、悪いにも繋がると思うんだ。だからさ、優子にとっての善いって何なのかなって気になって」
私にとっての善いだなんて当の昔に決まっているはずだ。しかし、上手く言葉にまとめることができなかった。そのせいで、由利香の質問に黙ってしまうという形になってしまった。
それからはお互い黙ったまま下校する。家に着き、由利香と別れた後、振り返って由利香の後姿を見つめる。
期末テストだけではなく、中学受験まで私は負けてしまっていたのか。どうしてこうも上手くいかないのだろう。こんなにも望んで、目指して、努力して。どうしても達成できなくて、私の先を行く人がいる。
向かい風が吹き、乱れそうになる髪の毛を抑える。由利香の後ろ姿はただひたすらに遠ざかっていく。
高校受験のための願書は配られた日に鉛筆で下書きした。クラスメイトは皆、どこにしようか、まだ決めてない、馬鹿だから行くとこなんてない、の三つだけを連呼している。それこそ馬鹿らしい。由利香はいつものグループと一緒に喋っている。よく見ると、彼女の口元は引きつっていた。
彼女に願書は必要ない。就職希望の人は他にももちろんいる。しかし、彼女は進学しないことに後ろめたさのようなものを感じているのだろう。
掃除中、私が一人で掃除をしていた女子トイレに由利香は来た。
「なんで一人で掃除しているの?」
「皆んなしたくないからじゃない。教室にいるでしょ」
「ふうん、はぶられてるわけではないんだ」
「当たり前でしょ。誰だと思っているのよ」
「真面目キャラも大変だねえ。皆んなみたいにサボれないなんて」
別に嫌々やっているわけでもない、とでも言ったらまた何か茶化されそうで口をつぐんだ。
「木下さんだって大変じゃない?わざとアホな子を演じるのは」
私がしたり顔で言うと、由利香はにやりと笑う。
「あなた、勉強得意なんでしょ?学校のテストなんて余裕で一桁に入れてしまう」
由利香は底抜けな明るい声で話す。
「実は前からやってたんだよ」
「嘘吐きね。私の前であなたは今まで勉強していなかったはずよ。最初に教えた時のあなたは基本が全くできていなかったのだから」
由利香はそれ以上答えようとしなかった。
「分からないわね。それなのになんで」
「さあね」と、小さい声で往なした。皮肉を含んだその声調は痛々しかった。
きっと、皆んなに対してのいたずらじゃなかったのだろう。今だからそう思える。成績表が配られた時も由利香は皆んなを避けていた。
「私も聞きたいんだけどさ、優子はどうして私に勉強を教えてくれたの?正直断られるんじゃないかなって思ってたんだよね」
「私が真面目キャラだからじゃない?」
由利香はクラスで一番の人気者だった。人をまとめる能力もあるし、人望もある。勉強以外は優秀だと、関わるまでは思っていた。だから教えようと思ったと言うのは、はばかられたため止めた。最善の行動ではないと、由利香に言われてしまいそうだ。
由利香はにやけた顔を浮かべ、私に向かって指をさしてくる。
「嘘吐き」
からっとした声調だ。
「お互い様よ」と言うと、由利香はトイレから去っていった。
家に帰ると、父親が毎日通勤に使っている車が車庫に入っていた。こんなに早くに帰ってくるのは珍しい。だが、願書のはんこを押してもらうにはちょうどいい。
リビングには父と母がいるのが分かる。何か話し合っている声が聞こえるからだ。靴をしまい、リビングへ向かう。
「帰ってきたらあなたが言ってよね。この家から出ていくって」
母の声は鋭く重い。吐き気でバッと口を両手で抑える。だが、体から力が抜けて倒れたせいで帰ってきたことを気付かれてしまった。
「あ、帰ってきたみたいね」
母は廊下の方に近づいてくる。体の震えが止まらない。
由利香の顔が頭の中でよぎった。なんでよぎったのかは分からない。
母は何故か笑っていた。昔からよく見た不敵な笑み。
「優子。ちょっと話があるの」
こくりと頷き、リビングに吸い寄せられていく。ただいまを言わなかったのは初めてかもしれない、とどうでもいいことを考えることしかできなかった。
離婚はもうずっと前から話し合っていたらしい。もうこの結果は揺るがないらしい。出ていくのは父の方で、母はこの家に残るらしい。世間の目があるから、離婚は私の卒業の後に行うらしい。らしい、らしい、らしい。
全部私の知らないうちに決まってしまった。選ぶことも、反対することも、何もできずに終わってしまった。
父はどちらについていきたいか選びなさいと私に言った。それも母と父が話し合って決めたことらしい。
思うように動かない体で無理矢理頷くと、母は「よく考えて選びなさい」と耳打ちした。リビングを出て、自分の部屋へと繋がっている階段を見つめる。口を押さえて走って外へ出る。
ここは駄目だ。この家は気持ち悪い空気が充満している。
外に出てようやく呼吸をする。深く、深呼吸をすると体の中から冬の冷たい空気が毒素を押し出してくれる気がした。
どちらか選べと言われても、どちらを選んだっていい風に事が運ぶことはないだろう。母も父も、互いにマウンティングしたいだけなのだ。きっと、私はその材料でしかない。
母の言葉を思い出す。「よく考えて選びなさい」この言葉の意味なんてすぐに分かる。私の頭は母でできている。
父は他県に引っ越すらしい。だから、父のほうについていくということは志望していた高校の受験を諦めなければならないことを意味する。私が今まで勉強していた対策も無意味になってしまう。
「最善の選択をしなさい」は私の座右の銘だった言葉。由利香は、何に対して最善なのかと問うてきた。いったい何に対してなのだろう。母は私に今まで教えてくれなかった。だけれど、母の言う最善の意味がやっと今、分かった気がする。
私は本当に何も知らないんだ。由利香の言葉の意味も、4℃の水も、その冷たさも、何も知らずに生きてきたんだ。勉強ばっかりしていただけで、結局その知識が役に立ったことはない。言いつけを守って、言われた通りにやって、良かった試しがない。
胸の奥がずきずきと痛む。痛みは痺れに変わって、私の体中を拘束してくる。逃げられない。どれだけ歩いても、どれだけ走っても、縛りつけてくる痛みは私を放してはくれない。いい加減慣れてくれればいいのに。
空の高くに浮かぶ、ちぎれて残ったような雲を見つめる。
あれよりも高くへ行けたなら私の痛みも消えてくれるだろうか。
卒業式は思ったよりも泣く人が多くて驚いた。卒業生の席からだけでなく、保護者席の方からも聞こえてくる。
晴れ晴れとした祝いの席なのに今日の空は曇っていて、髪にまとわりついてくるような湿気に満ちた天気だった。
卒業式は滞りなく淡々と進んでいき、拍手を後に体育館を出ていく段取りに移った。赤いカーペットの上を歩き、扉の方へ向かう途中、保護者席を一瞥すると、母と目が合った。固まりそうになった体を強引に動かし、母の視線を背中で感じながら外へと足を運ぶ。
これから、中学校を抜けて、近くの公園まで卒業生が歩くことになっていた。校門までは花のアーチを在校生が作ってくれていた。素直に綺麗だと感動した。昨年までは自分達がアーチを作っていたが、今日が一番綺麗に見えた。
見る位置や立場で景色は変わる。当たり前のことなのに、それに気づくのに随分と時間をかけてしまった。
ぬかるんだ運動場に一歩一歩足跡が残る。卒業生代表だから、私が一番に足跡をつけることができる。なんだか最後に役得をした気分になった。中学校を出て、全員が公園に着くと先生の一言で解散となった。一斉に散り散りになって、思い思いに皆んな動いているのに、笑い声や泣いている声が一つの集合体のようになっていて不思議な感じがした。
しかし、すぐに公園から帰ろうとする者もいる。由利香もその中の一人だった。
次第に公園にいる生徒の数も減り、最後ということで、友達のゆっくりした歩きに合わせて下校する。皆んなと別れ、自分の家を通り越して、由利香の家にたどり着く。ドアをノックすると、ちょっと待ってください、と家の奥の方で由利香の声が聞こえた。由利香は勢いよくドアを開ける。香水の匂いが鼻をくすぐってくる。
「悪いわね、忙しいところ。会うのも最後だし、挨拶ぐらいしておこうと思って」
「時間ならまだ余裕あるから大丈夫だよ。私も最後に会いたいと思っていたんだ。家上がる?」
私はゆっくり首を横に振る。
「綺麗ね、とても中学生には見えないわ」
「見えてちゃあ困るんだけどね」と由里香は忍び笑いをする。
彼女は今日から働きに行く。隣町の風俗街にある店らしい。働く条件として年齢を詐称せねばならないらしく、化粧でどうにか誤魔化すみたいだ。実際、卒業式時点では予想つかないほど様変わりしていた。白くきめ細かい頬は紅潮したみたいに赤い。元々大きかった目は盛られていて更に大きく見えた。上手に化粧されている。おそらく以前から練習していたのだろう。これが彼女の目指していた道なのだから。
「木下さん、これはあなたにとって最善の選択だった?最後にそれだけ聞きたかったの」
由利香は微笑む。学校で見た、取ってつけたような笑顔ではなく、今の姿に合うような大人びた笑顔でもなかった。ただ、少女然としたあどけない笑顔だった。
きっと私もそんな風に笑っているのだろう。
私が由利香に勉強を教えることになった初日のことだ。
教室は私と由利香しかいなかった。由利香はシャーペンを回しながら問題集を見つめていた。シャーペンを置き、ふっと力が抜けおちて椅子にもたれかかった。
「優子は本当に教えるのが上手いわ。先生みたいだね」
「そんなお世辞を言っている暇があるなら早く問題解いてくれない」
肩をすくめて由利香はいたずらっ子みたいに笑う。睨みつけるとようやく観念したのか右手を動かし始めた。
由利香とはクラスメイトなのに今までなんの接点もなかった。彼女には取り巻きがいて、その子らといつも大声でお喋りしている。
放課後、図書室で勉強をしていたら突然話しかけられた。勉強を教えてくれと頼まれ、断れない私は由利香と共に図書室を出て、空っぽな教室に戻ったのだ。
来週は三年生二学期の期末テストだ。だから頼んできたのだろう。このテストは内申点に関わってくる最後のテストだ。これで進路が決まるといっても過言ではない。
私は問題を一つ解き終えて由利香を見ると、真っ白なノートをよそに答えを見ていた。結局解くことを諦めたらしい。目元を指で軽くかく。
「もうやめる?」
「え、まだ時間あるじゃん」
やる気ないくせに、と言いたくなるが分かったと頷く。
それから少しずつ問題を解くようになったようで、一時間ほど続けて休憩に入った。由利香は鞄からポッキーを出し、半分くれた。
「やっと課題終わったあ」
「これからがテスト勉強よ」
由利香は分かりやすく、うへえと顔をしかめる。
「なんで勉強しなきゃいけないんだろうね」
そんな当たり前のことを聴かれても、私は当たり前の答えしか言えない。
「高学歴の方がいいからでしょ。将来役に立つもの」
最善の選択をしなさい、と母は口癖のように私に幼い頃から言ってきた。良い高校に行き、良い大学に行き、良い企業に就職するためには勉強は不可欠だ。
「それなら、高学歴にならなかったら意味ないね」
カリッといい音が鳴った。それを見てカスが飛ぶなと思い目を細めた。
「ねえ、そういえば4℃の水って知ってる?」
由利香は「昨日、テレビで見たんだけど」と付け加えた。
「何それ、知らないわ」
「あれ、知らないか。4℃っていうのはね、水が一番密度の大きくなる時の温度なんだよ」
自慢げに半分食べたかけのポッキーを私に向かって指してくる。歯が見えるくらい口を開いて笑う。やっぱり声が大きい。
しかし、聞き覚えがあった。昔、塾で勉強したはずだった。
「なんでそうなるのか分かるの?」
正答を思い出し、仕返しのつもりで聴く。
「ええと、確か水は水素結合だから、だったけな」
曖昧な回答に安心し、思い出したことを話すと由利香もそれだと首を振る。
「なんだ、やっぱり知ってたか。そうだよね、この問題、逢花女子学院中学校の入試だからさ。私達の年度の」
ドキリと心臓を掴まれる。久しぶりの感覚がざわざわと騒いで痛い。
「それがクイズ番組で出ててね。確か優子、それ受けたんでしょ?」
相変わらずな大きな声には混じりけのない純粋さがある。気付いたら由利香から目を逸らしていた。昔からよく母に言われて目を見て話す癖がついていたのに。すぐに由利香の方から勉強を再開した。私も机の方へ目を向けるが、目の前の文字の海はただの絵のようにしか見えなくなってしまった。
テストが終わった日から由利香と会話することはなくなった。勉強に付き合わされたタイミングでしか話す時がないから、その習慣が消えるのは当たり前だ。
目のクマをこすりながらテスト日に登校してきた由利香を見てこれは駄目かもしれないと思ったが、本人的には満足いきそうな手応えだと言っていたので、よかったね、と心にもないことを言った。その時点で私と由利香との交流は途絶え、いつも通り彼女は彼女の取り巻き達と教室の隅で盛り上がっていた。
私はというと、期末テストが終わった日から休み時間や放課後は全て高校入試の過去問などの入試対策に費やしていた。
今日は成績発表日だ。放課後前、ホームルームで配られた成績表をファイルにしまい、すぐ教室を出る。廊下の前の方で一人ぽつんと由利香が歩いていた。普段なら追いかけることはないが、追いかけてみる。
せっかく教えたのだから成績がどうなったか知りたい。
昇降口のところでようやく追いつく。由利香は私に気付き、口元だけ笑みを作る。
「テストの点なんだけど、どうだったのかしら?」
「ああ、テストね。前よりはよくなってたよ」
ありがとうと妙に深々とお辞儀をしてくる。今までの由利香とは違う細々とした声。
「で、結果ぐらい見してくれてもいいんじゃない?あなたも薄情ね」
わざとらしく大げさに言うと、由利香は困った笑みをそのまま浮かべ、頬の辺りを人差し指で掻く。
「早く先行きたいから歩きながらでもいいかな」
私は頷き、靴を履き替えて昇降口を出る。校門を抜けたところで由利香は学生鞄を背中から下ろし、中からクリアファイルを出す。一枚プリントを取り出すと私に渡す。丁寧に四つ折りされていた。中を見ると、私は思わず声を上げてしまった。
学年順位が三位だった。前回の順位が百位を下回っていると言っていたはずだ。
「木下さん。あなた、カンニングでもしたの?」
動揺で声が少し震えているのが自分で分かる。
「そんなことするわけないじゃん。これが私の実力よ」
胸を張って軽く左手でとんっと自分の胸を叩く。
「でも優子はもっと上なんでしょう。私、クラス順位二位だったからさ」
「まあ。そうだけれども」
「でも、優子のおかげでいたずら成功だよ」
「いたずら?」
「そう。私ね、進学するつもりないの。だから通知表なんて関係ないんだけどね、でも、関係のない私がいきなりいい点を取ったらさ、平均点上がるし順位落ちるし、皆んなさぞ困るだろうなって思って」
嬉しそうな屈託のない笑みといつもの大きな声であっけらかんと言った。
私は乱雑に成績表を返し、先を早足で歩く。
私の今回のテストの学年順位は五位だった。まさか負けるだなんて。しかもそれがいたずら目的の相手に。
頭はカンカンと唸るヤカンのように騒がしい。まただ。胸が縛られる。
由利香は追ってこないみたいだ。彼女の今の表情を思い浮かべる。頭を振りそれを消し去るために更に足を速めた。
母は昔から私に最善の選択をしなさいとたびたび口にした。これは母の信条らしく、常にこれを守ってきたのだろう。だから、私は常に母の言うことを聞いてきた。
小学校の頃、学校と塾の復習は欠かさず行ってきた。付き合う友達は選んだ。塾でだって真面目に受けていた。居眠りなんてしたことがない。
だけれど、受験に失敗した。母は努力が足りないと説教をした。私は最善の選択を選べていなかったのだと思った。
中学に入って更に勉強をするようになった。通知表のために生徒会に入り、ボランティア活動もして、英作文のコンクールにも出した。最善の選択を選んできたはずなのだ。
通知表は母の予想の通り、全て五をもらえた。いつもテストのみでしか点数を稼げず四を取ってしまう家庭科や体育が五なのは、私の受ける高校のレベルで調整してくれたからだろう。三年になるとそういうことをすると、以前、母が言っていた。嘘か本当かは知らないが、それよりも、なんとか志望の高校を受験できるようで安心した。両親も褒めてくれるだろうか。
由利香は石を蹴り転がしながら歩道を進んでいく。私はその横で、転がっている石を目で追っていた。
私と由利香は一緒に帰るようになった。これは成績表を見た日から続いている。どうやら、由利香のいつも連れ立っているグループは最近よく受験の話をするらしく、居づらいらしい。
「ねえ。そういえばどうしていつも一人で帰ってんの?優子、友達結構いるじゃん」
「あの子達は帰るのが遅いのよ。それに付き合っていたら時間がもったいないでしょう」
生き急いでるねえ、と笑ってくる。
「まあ、あなたはいいわよね。でも、私には時間がないのよ。絶対に受からなきゃいけないから」
グッと手さげ鞄の持ち手を握る左手に力が入る。手の中を伝う汗が気持ち悪くてゆっくりほどく。
由利香に対してだと思ったことをすぐに言ってしまう。我慢が効かない。彼女は受験しないのだ。だから張り合う必要などない。
「受験かあ。ねえ、前に4℃の水の話をしたの覚えてる?私も逢花受験してたんだ。うちはもともと転勤族でね。でも、中学入る前にここで落ち着けることになったから。実は私、昔は超優等生だったんだ。だけど、お母さんが事故に遭って死んじゃったから、それからのごたごたで行くのやめることになったんだ」
やめたということは、もしかして合格したのだろうか。
私の曖昧な相槌は空に浮かんでは雲の方に消えてしまった。だけれど由利香は止まらない。転がる石の方へ話し続ける。きっと、彼女も私を見ていないのだろう。
「お父さんが引きこもっちゃったんだよね。仕事も辞めてね。今まで貯めてきたお金と退職金、それとお母さんの保険金があるから、今はまだ生活できてるけど、酒とか煙草とかに消えてくからちょっと危ないんだよね、これからが。だから、私は働くことを選んだんだ」
彼女の独り語りがどうやら終わったみたいで、急いで何か言葉を考える。しかし、彼女の中学受験のことで頭いっぱいになってしまったので、話は半分程度しかきいていなかった。
「そんな迷惑な父なんて放っておいたらいいじゃない。最善の選択ではないわ」
由利香の行動は最善の選択ではない。親戚を頼るなりすれば、高校にだってきっと行くことができるはずだ。
由利香の方を見ると、寂しそうな笑顔をこちらに向けた。私を見る彼女の眼は真っ黒な黒板のようで、何も読み取ることができなかった。
「できたらそうしてるんだろうけどね」
小さく口だけ動かすような弱々しい声調だった。すぐに彼女はいつも教室で見る笑顔をした。
「そういえば、優子ってよく言うよね、最善の選択って。口癖?」
「そんなに言っているかしら。まあでもよく母から言われてきたから。座右の銘みたいなものよ」
「そうなんだ。優子の言う最善って何に対しての最善なの?」
「最も良いことが何個もあるわけないでしょう」
そうかもね、と由利香はまた寂しそうに笑う。
「でもさ、誰かにとっての一番が誰かにとっての普通ってこともあると思うんだ。4℃っていうのは、水にとって最も密度が大きくなる温度なんだよね。でも、0度だって100℃だって、水にとっての一番を持ってるんだよ。色々な一番があって、そのどれも何かの善いに繋がると思うし、悪いにも繋がると思うんだ。だからさ、優子にとっての善いって何なのかなって気になって」
私にとっての善いだなんて当の昔に決まっているはずだ。しかし、上手く言葉にまとめることができなかった。そのせいで、由利香の質問に黙ってしまうという形になってしまった。
それからはお互い黙ったまま下校する。家に着き、由利香と別れた後、振り返って由利香の後姿を見つめる。
期末テストだけではなく、中学受験まで私は負けてしまっていたのか。どうしてこうも上手くいかないのだろう。こんなにも望んで、目指して、努力して。どうしても達成できなくて、私の先を行く人がいる。
向かい風が吹き、乱れそうになる髪の毛を抑える。由利香の後ろ姿はただひたすらに遠ざかっていく。
高校受験のための願書は配られた日に鉛筆で下書きした。クラスメイトは皆、どこにしようか、まだ決めてない、馬鹿だから行くとこなんてない、の三つだけを連呼している。それこそ馬鹿らしい。由利香はいつものグループと一緒に喋っている。よく見ると、彼女の口元は引きつっていた。
彼女に願書は必要ない。就職希望の人は他にももちろんいる。しかし、彼女は進学しないことに後ろめたさのようなものを感じているのだろう。
掃除中、私が一人で掃除をしていた女子トイレに由利香は来た。
「なんで一人で掃除しているの?」
「皆んなしたくないからじゃない。教室にいるでしょ」
「ふうん、はぶられてるわけではないんだ」
「当たり前でしょ。誰だと思っているのよ」
「真面目キャラも大変だねえ。皆んなみたいにサボれないなんて」
別に嫌々やっているわけでもない、とでも言ったらまた何か茶化されそうで口をつぐんだ。
「木下さんだって大変じゃない?わざとアホな子を演じるのは」
私がしたり顔で言うと、由利香はにやりと笑う。
「あなた、勉強得意なんでしょ?学校のテストなんて余裕で一桁に入れてしまう」
由利香は底抜けな明るい声で話す。
「実は前からやってたんだよ」
「嘘吐きね。私の前であなたは今まで勉強していなかったはずよ。最初に教えた時のあなたは基本が全くできていなかったのだから」
由利香はそれ以上答えようとしなかった。
「分からないわね。それなのになんで」
「さあね」と、小さい声で往なした。皮肉を含んだその声調は痛々しかった。
きっと、皆んなに対してのいたずらじゃなかったのだろう。今だからそう思える。成績表が配られた時も由利香は皆んなを避けていた。
「私も聞きたいんだけどさ、優子はどうして私に勉強を教えてくれたの?正直断られるんじゃないかなって思ってたんだよね」
「私が真面目キャラだからじゃない?」
由利香はクラスで一番の人気者だった。人をまとめる能力もあるし、人望もある。勉強以外は優秀だと、関わるまでは思っていた。だから教えようと思ったと言うのは、はばかられたため止めた。最善の行動ではないと、由利香に言われてしまいそうだ。
由利香はにやけた顔を浮かべ、私に向かって指をさしてくる。
「嘘吐き」
からっとした声調だ。
「お互い様よ」と言うと、由利香はトイレから去っていった。
家に帰ると、父親が毎日通勤に使っている車が車庫に入っていた。こんなに早くに帰ってくるのは珍しい。だが、願書のはんこを押してもらうにはちょうどいい。
リビングには父と母がいるのが分かる。何か話し合っている声が聞こえるからだ。靴をしまい、リビングへ向かう。
「帰ってきたらあなたが言ってよね。この家から出ていくって」
母の声は鋭く重い。吐き気でバッと口を両手で抑える。だが、体から力が抜けて倒れたせいで帰ってきたことを気付かれてしまった。
「あ、帰ってきたみたいね」
母は廊下の方に近づいてくる。体の震えが止まらない。
由利香の顔が頭の中でよぎった。なんでよぎったのかは分からない。
母は何故か笑っていた。昔からよく見た不敵な笑み。
「優子。ちょっと話があるの」
こくりと頷き、リビングに吸い寄せられていく。ただいまを言わなかったのは初めてかもしれない、とどうでもいいことを考えることしかできなかった。
離婚はもうずっと前から話し合っていたらしい。もうこの結果は揺るがないらしい。出ていくのは父の方で、母はこの家に残るらしい。世間の目があるから、離婚は私の卒業の後に行うらしい。らしい、らしい、らしい。
全部私の知らないうちに決まってしまった。選ぶことも、反対することも、何もできずに終わってしまった。
父はどちらについていきたいか選びなさいと私に言った。それも母と父が話し合って決めたことらしい。
思うように動かない体で無理矢理頷くと、母は「よく考えて選びなさい」と耳打ちした。リビングを出て、自分の部屋へと繋がっている階段を見つめる。口を押さえて走って外へ出る。
ここは駄目だ。この家は気持ち悪い空気が充満している。
外に出てようやく呼吸をする。深く、深呼吸をすると体の中から冬の冷たい空気が毒素を押し出してくれる気がした。
どちらか選べと言われても、どちらを選んだっていい風に事が運ぶことはないだろう。母も父も、互いにマウンティングしたいだけなのだ。きっと、私はその材料でしかない。
母の言葉を思い出す。「よく考えて選びなさい」この言葉の意味なんてすぐに分かる。私の頭は母でできている。
父は他県に引っ越すらしい。だから、父のほうについていくということは志望していた高校の受験を諦めなければならないことを意味する。私が今まで勉強していた対策も無意味になってしまう。
「最善の選択をしなさい」は私の座右の銘だった言葉。由利香は、何に対して最善なのかと問うてきた。いったい何に対してなのだろう。母は私に今まで教えてくれなかった。だけれど、母の言う最善の意味がやっと今、分かった気がする。
私は本当に何も知らないんだ。由利香の言葉の意味も、4℃の水も、その冷たさも、何も知らずに生きてきたんだ。勉強ばっかりしていただけで、結局その知識が役に立ったことはない。言いつけを守って、言われた通りにやって、良かった試しがない。
胸の奥がずきずきと痛む。痛みは痺れに変わって、私の体中を拘束してくる。逃げられない。どれだけ歩いても、どれだけ走っても、縛りつけてくる痛みは私を放してはくれない。いい加減慣れてくれればいいのに。
空の高くに浮かぶ、ちぎれて残ったような雲を見つめる。
あれよりも高くへ行けたなら私の痛みも消えてくれるだろうか。
卒業式は思ったよりも泣く人が多くて驚いた。卒業生の席からだけでなく、保護者席の方からも聞こえてくる。
晴れ晴れとした祝いの席なのに今日の空は曇っていて、髪にまとわりついてくるような湿気に満ちた天気だった。
卒業式は滞りなく淡々と進んでいき、拍手を後に体育館を出ていく段取りに移った。赤いカーペットの上を歩き、扉の方へ向かう途中、保護者席を一瞥すると、母と目が合った。固まりそうになった体を強引に動かし、母の視線を背中で感じながら外へと足を運ぶ。
これから、中学校を抜けて、近くの公園まで卒業生が歩くことになっていた。校門までは花のアーチを在校生が作ってくれていた。素直に綺麗だと感動した。昨年までは自分達がアーチを作っていたが、今日が一番綺麗に見えた。
見る位置や立場で景色は変わる。当たり前のことなのに、それに気づくのに随分と時間をかけてしまった。
ぬかるんだ運動場に一歩一歩足跡が残る。卒業生代表だから、私が一番に足跡をつけることができる。なんだか最後に役得をした気分になった。中学校を出て、全員が公園に着くと先生の一言で解散となった。一斉に散り散りになって、思い思いに皆んな動いているのに、笑い声や泣いている声が一つの集合体のようになっていて不思議な感じがした。
しかし、すぐに公園から帰ろうとする者もいる。由利香もその中の一人だった。
次第に公園にいる生徒の数も減り、最後ということで、友達のゆっくりした歩きに合わせて下校する。皆んなと別れ、自分の家を通り越して、由利香の家にたどり着く。ドアをノックすると、ちょっと待ってください、と家の奥の方で由利香の声が聞こえた。由利香は勢いよくドアを開ける。香水の匂いが鼻をくすぐってくる。
「悪いわね、忙しいところ。会うのも最後だし、挨拶ぐらいしておこうと思って」
「時間ならまだ余裕あるから大丈夫だよ。私も最後に会いたいと思っていたんだ。家上がる?」
私はゆっくり首を横に振る。
「綺麗ね、とても中学生には見えないわ」
「見えてちゃあ困るんだけどね」と由里香は忍び笑いをする。
彼女は今日から働きに行く。隣町の風俗街にある店らしい。働く条件として年齢を詐称せねばならないらしく、化粧でどうにか誤魔化すみたいだ。実際、卒業式時点では予想つかないほど様変わりしていた。白くきめ細かい頬は紅潮したみたいに赤い。元々大きかった目は盛られていて更に大きく見えた。上手に化粧されている。おそらく以前から練習していたのだろう。これが彼女の目指していた道なのだから。
「木下さん、これはあなたにとって最善の選択だった?最後にそれだけ聞きたかったの」
由利香は微笑む。学校で見た、取ってつけたような笑顔ではなく、今の姿に合うような大人びた笑顔でもなかった。ただ、少女然としたあどけない笑顔だった。
きっと私もそんな風に笑っているのだろう。
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