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ここは天国じゃないらしい

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 ──甘い、匂いがする。

 ラム酒のような、嗅ぐと胸がいっぱいになる芳醇でまろやかな香り。幼い頃、母さんがラム酒漬けのドライフルーツをたっぷりと入れたパウンドケーキを焼いてくれたときみたいだ。

 おれ、死んだのかな。フォークのおれに食べ物の匂いがするわけないもの。
 ああ、だけど本当に甘いなぁ。喉が乾いて水が欲しいはずなのに、ケーキを両手に持って頬張りたい衝動に駆られる。

 ……天国なら、欲しいものを欲しいだけ食べられるって聞いた。ここが天国なら、食べてもいい?

 おれは瞼をゆっくりと開けながら手を伸ばした。天国なら、伸ばした先に欲しいものがあるはずだ。

「目が覚めたか。ああ、タンザナイトのような瞳だな」
「!?」

 横たわったまま手を伸ばした先には上等そうなスラックスをはいた膝。目線を上げていくと、同じく上等そうな服の襟元が目に入って、さらにその上には、見たこともないような端正な男の人の顔がある。
 白い肌に、瞳は薄い翠のマスカット色。髪は緩く癖のある、アカシアの蜂蜜のような輝きを持つ金色だ。

 そして……。

「ぅっ……」

 彼の香りなのか、脳を麻痺させるような甘い甘い香りが、鼻と口の粘膜に絡み付いてくる。

 この人はおれを迎えに来てくれた大天使様なのかもしれない。身体を起こして跪いて拝まなくては。
 そう思うのに、香りに酔ったようになっているおれは、再び瞼を閉じた。
 甘い香りに反応したのか、胃と腸がぐるぐる言い始めて、唾液が口の中に溜まってくる。

「ぐ、ぅぅ、あ、あ、ぁ……」

 おかしい。異様にお腹が空いている。食べたくて、食べたくて、気が狂いそう。

 ──でもなにを?
 おれはなにを食べたいと思っているの?

「やはり君はフォークなんだな。ほら、お舐め」
「……!?」

 身体を丸めて飢えに似た感覚に耐えていると、彼はおれの肩を押して顔を上に向かせた。

 どうやらおれはベッドかソファに寝かされているようだ。スプリングの効いた上で少し身体が揺れた。けれどここがそのどちらかなんて、考える余裕はすぐに奪われる。

 彼が「お舐め」と言ったかと思うと、芳醇で甘美な香りが強くなり、その香りがおれの唇に当てられたからだ。

 途端に、頭の奥でなにかがはじけた。
 おれは目を見開いて唇を開き、それを口に入れた。

 指。おれが咥えたのは彼の指だった。彼の指からは、トロリとした蜜が滴っている。
 血。蜜かと思ったこれは、彼の血だ。

 ──血なんて欲しくないっ……!

 それなのに、理性を欲望が凌駕する。おれの食欲は彼の滴る血を飲みつくそうと、異様に高ぶっている。

「あ、ふ、ぅん、おいしい、おいし……」

 犬が甘えるような声を出してしまう。

 彼はそれを聞くと、くすりと笑った。血を飲まれているというのに。

「ふふ。本当にフォークなんだな。一生懸命で愛らしい」

 愛らしい? 動物みたいに四つん這いになって男の指を咥え、指先から滴る血を吸っているおれが?

 けれど、彼がおれの頭を撫でるととても幸福な気持ちになり、くわえるのはやめて、本当に犬みたいに指先をペロペロと舐めた。

「いい子だ。かぶりつくのを我慢できるんだね。じゃあもう少し我慢ができたら、もっとご褒美をあげよう。よしよし」

 彼はおれの隣に腰掛けた。ぎし、とスプリングがはずむ。

「……ぁ……や、ぁ……もっと、もっとほしいよ」

 指を下げられて、涙目になって頭を振った。
 伸びっぱなしになった自分のブルーグレイの髪が、サラサラと揺れるのがわかる。少し意識がはっきりしてきた。

 居る場所は天蓋のある大きなベッド。紅い絨毯が敷かれ、曲線のある猫脚の家具が置かれた部屋は物語で見る貴族様の部屋という感じ。

 実物を見たことがないから知らないけれど。

「お願い、お願い。もっとちょうだい……」

 おれの肩を支えてくれる彼のシャツの胸元を、両手でギュッと握って懇願する。

「ああ。ちゃんとあげるから、先に質問に答えるんだ。君、名前は?」
「おれ、ユアル。ユアル・ヘディソン」
「年齢は? 一五・六くらいか」

 マスカット色の瞳でじっと見つめられて、おれは瞳を見たままううん、と小さく首を振った。

 綺麗な瞳。舌で触れたら爽やかな甘さが口に広がりそう。

「この間、十八になったばかり」
「おや、随分生育が悪いな。味覚を失って満足に食べていなかったせいか。家族は?」
「うっ……ころ、殺された。おれたち、フォ、フォーク、だから」

 少しはっきりした頭に惨状が浮かんで、息が詰まり呼吸が乱れる。

 彼はおれを抱きしめ、安心させるように頭を撫でてくれた。

「そう。それでひとりでこのウィンザー領まで逃げてきたのか」

 ウィンザー……ウィンザー伯爵領のこと? 住んでいた土地から二十五マイルほど離れたところだ。

「じゃあ、ここは、天国じゃない? ……どうしたらいいの。おれ、ひとりじゃ、生きていけない……!」

 触り心地のいい彼のシャツを涙で濡らしてしまう。

 彼はおれの顎に触れて顔を上げさせた。

「心配ない。今日から私が君を守るよ。私はリュクソールだ。リュークでいい」

 守ってくれる? 見ず知らずのフォークのおれを、彼が?

 戸惑ってしまう。けれど彼の甘い香りと美貌は思考力を鈍らせる。

「……リューク様」

 おれは躾けられた犬のように、長い指の彼の手に頬ずりをした。

「そうだ。いい子だ。今日から私は君の主人だ」  
  
 主人……そうか、この人のもとで働かせてもらえるということか。

 貧民だったおれは、子どもの頃からいろいろな場所で働いてきた。その場その場のご主人様に従うことが、身体に染み付いている。
 素直に返事をして言われたまま黙々と働けば、食べ物かコインでも、最低限の報酬はもらえる。

「はい……リューク様。なんでも従います」
「なんでも従うのかい? それではユアル、けっして我が家の敷地外へは出てはいけないよ?」
「はい、リューク様」

 ここがウィンザー領のどこかは知らないけれど、他に身を寄せる場所なんてない。ここにいていいというのなら、自分から危険がたくさんの外へ出ることもない。 
   
「私が屋敷にいるときは、必ず私のそばにいるんだ」

 側仕えということだろうか。この方がどんな仕事をくれるのかはわからないけれど、一生懸命やろう。

 頷くと、また自然と頬ずりのようになった。

「うん。素直ないい子だ。ではご褒美をあげよう」
「あ……」

 リューク様はそう言うと、おれの唇に唇を当てた。

 これ、キスだ。どうしてリューク様はおれにキスを。リューク様はご主人様で、おれが犬のようだから?

 わからない。リューク様の香りと味が甘くて、また頭がぼんやりしてくる。なにも考えられない。
 自然に唇が開いた。

「んん……」

 リューク様の温かい舌が入ってくる。一緒に甘い蜜が流れてきて、おれは無心で舌を動かし、蜜をすすった。

 甘い、おいしい。

 つらくて哀しさに満ちていた胸の中に幸福感が流れ込んでくる。

 しだいに飢えていた感覚も薄れ、おれは舌を動かすのを止めた。

 もう、お腹いっぱい。

「……蕩けた顔をして。そんなに私の味はおいしいかい?」
「ん、リューク様、おいしいです」

 唇の端に雫になっていた蜜も、舌を出して舐めとる。

「ふふ、本当に愛らしいな」

 リューク様は麗しい顔で柔らかく微笑むと、おれの身体も柔らかく抱きしめてくれた。

 美しいだけでなく、なんて優しい方なのだろう。おれがフォークだとわかっているのに、動じることもないばかりか血や唾液を与えてくれた。

 リューク……リュクソール様。この方はいったい何者なのだろう。
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