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見えない鎖がほどけるとき
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ダイニングスペースには、まぶしい光がカーテン越しに注いでいる。
朝食は成沢が冷蔵庫に準備しておいてくれたものらしいが、バターの香りが鼻をくすぐるデニッシュや、カリッとした胡桃がおいしい自然な甘さのロールパンに、レタスとパプリカ、ラディッシュにサーモンが入った目にもおいしいサラダが並べられた。
今日の何もかもが、いつもより生彩に目に映る。
「凄くおいしかった!」
昨夜の食事量が少なかったのもあり、千尋はあっという間にそれらを平らげた。
満足して腹をさすりながら言うと、唇に瑞々しい黄緑色のシャインマスカットが当てられ「これもおいしいよ」と光也が微笑む。
「んぐ。おいし……!」
マスカットなんて、小さい頃でも食べたことがなかったかも、と感動して千尋が言うと、光也は次々とマスカットを放り込もうとする。
もういいですから! と言っても、光也は「困ったな。さっき、千尋を純粋培養にしたいんじゃないと言ったのに、千尋のためなら何でもしてあげたくなっちゃうね」と、困ったような、でも嬉しそうな顔をして言った。
また、胸がきゅうぅと締まる。
「……ちょっと、洗面所に……」
「ん? うん。あっちだよ」
千尋はのろのろと立ち上がり、光也が指した方向に進んだ。
洗面所に入ってすぐに、尻をつけて床にへたり込む。心臓あたりがとても苦しくて、洗面所のドアにもたれながら胸を押さえた。
深呼吸がしたい。でもできない。鼻と喉がどんどん熱くなり、とうとう涙がひと粒、目尻からこぼれた。
(どうして涙が……)
指先で拭ったが、次々とこぼれてくる。
もう何年も、多分折檻が始まって二年目くらいからは、涙も出なくなっていた。
生理的に滲んだことはあっただろうが、ぽろぽろとこぼれるほどに泣くのは十年以上ぶりかもしれない。
拭う手を濡らす涙は暖かい。止まらない涙を何度も何度も拭うたび、凝り固まってこびりつき、そこにあるのさえわかっていなかった寂しい気持ちや辛い気持ちが涙と一緒に流れていくような、そんな気がした。
鎖のように絡みついていた祖父の顔や言葉に霞がかかる。
閉じた目に浮かんで来るのは、光也の笑顔ばかり。
「みっくんに会いたい……」
同じ建物の中にいるのにそう思って、思うと気持ちが急いてくる。
千尋は立ち上がって顔を洗うと、洗面所のドアを開けてリビングへ駆け出した。
「……やはり動きましたか」
千尋が洗面所にいる間に光也のスマートフォンが鳴っていたらしく、鋭さのある声で話しているのが聞こえた。
本当なら、ダイニングのドアを開けたらすぐにでも光也に飛びつき、気持ちを伝えたかった。だがそうしてはいけない雰囲気を察して、部屋の端のソファで通話が終わるのを待った。
「わかりました。今から戻ります」
通話が終わる。
予感はあったが、千尋のそばに来た光也はため息をつき「すみません。特大エビフライはお預けになりました」と電話で話していたときと同じ、「専務」の口調で言った。
「社で何かあったんですか?」
「ええ……抜けなく仕事は調整しておいたので、仕事用の電話は置いてきたのですが、私の仕事の管轄で常務が動いたらしくて。成沢さんから連絡がありました」
「常務が?」
「彼とは折り合いが悪いんです……ほんの少しだけね。私が休暇を取っていると知って、動いたんでしょうね」
光也の苦笑で「少し」折り合いが悪いのではないことが、千尋にも予想できた。
常務と専務では専務の方が立場が上だ。異母兄弟じゃなかったとしても、十歳も下の弟に序列を乱されたとあっては、プライドの高い常務の心中は穏やかではなかっただろう。
そのうえ手掛けていたブラジル案件も、目をかけていたコスニの課長も光也が独断で動かした。
常務は敵意の目をメラメラと燃やし、つけ入る隙を虎視眈々と狙っているに違いなかった。
「すぐに戻りましょう、専務」
千尋はすくっとソファから立ち上がった。
ずっと技術職であった千尋に何ができるかはわからない。けれど、光也のためなら何でもできる気がした。
──千尋のためなら何でもしてあげたいんだよ。
光也の言葉が頭にこだまする。
(ああ、同じだ)
千尋も光也を守りたい。強くそう思う。
魔法が解けたあとのシンデレラのように、王子様が巡回して見つけ出してくれるのを待つだけでなく、自分で動いて光也の隣に立っていたい。
(ああ、きっとこれを……)
「好きだ」というのだ。
相手に任せて守られるだけでなく、自分も相手を守りたい……好きだから。
依存との違いがはっきりわかった千尋は胸に強い意志を抱いた。自分が専務を支えるのだと。
「……ええ。サポートをよろしくお願いしますね。藤村秘書」
光也は眩しいものでも見るように目を細め、その後大きく頷くと、車を回しに駐車場に向かった。
朝食は成沢が冷蔵庫に準備しておいてくれたものらしいが、バターの香りが鼻をくすぐるデニッシュや、カリッとした胡桃がおいしい自然な甘さのロールパンに、レタスとパプリカ、ラディッシュにサーモンが入った目にもおいしいサラダが並べられた。
今日の何もかもが、いつもより生彩に目に映る。
「凄くおいしかった!」
昨夜の食事量が少なかったのもあり、千尋はあっという間にそれらを平らげた。
満足して腹をさすりながら言うと、唇に瑞々しい黄緑色のシャインマスカットが当てられ「これもおいしいよ」と光也が微笑む。
「んぐ。おいし……!」
マスカットなんて、小さい頃でも食べたことがなかったかも、と感動して千尋が言うと、光也は次々とマスカットを放り込もうとする。
もういいですから! と言っても、光也は「困ったな。さっき、千尋を純粋培養にしたいんじゃないと言ったのに、千尋のためなら何でもしてあげたくなっちゃうね」と、困ったような、でも嬉しそうな顔をして言った。
また、胸がきゅうぅと締まる。
「……ちょっと、洗面所に……」
「ん? うん。あっちだよ」
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洗面所に入ってすぐに、尻をつけて床にへたり込む。心臓あたりがとても苦しくて、洗面所のドアにもたれながら胸を押さえた。
深呼吸がしたい。でもできない。鼻と喉がどんどん熱くなり、とうとう涙がひと粒、目尻からこぼれた。
(どうして涙が……)
指先で拭ったが、次々とこぼれてくる。
もう何年も、多分折檻が始まって二年目くらいからは、涙も出なくなっていた。
生理的に滲んだことはあっただろうが、ぽろぽろとこぼれるほどに泣くのは十年以上ぶりかもしれない。
拭う手を濡らす涙は暖かい。止まらない涙を何度も何度も拭うたび、凝り固まってこびりつき、そこにあるのさえわかっていなかった寂しい気持ちや辛い気持ちが涙と一緒に流れていくような、そんな気がした。
鎖のように絡みついていた祖父の顔や言葉に霞がかかる。
閉じた目に浮かんで来るのは、光也の笑顔ばかり。
「みっくんに会いたい……」
同じ建物の中にいるのにそう思って、思うと気持ちが急いてくる。
千尋は立ち上がって顔を洗うと、洗面所のドアを開けてリビングへ駆け出した。
「……やはり動きましたか」
千尋が洗面所にいる間に光也のスマートフォンが鳴っていたらしく、鋭さのある声で話しているのが聞こえた。
本当なら、ダイニングのドアを開けたらすぐにでも光也に飛びつき、気持ちを伝えたかった。だがそうしてはいけない雰囲気を察して、部屋の端のソファで通話が終わるのを待った。
「わかりました。今から戻ります」
通話が終わる。
予感はあったが、千尋のそばに来た光也はため息をつき「すみません。特大エビフライはお預けになりました」と電話で話していたときと同じ、「専務」の口調で言った。
「社で何かあったんですか?」
「ええ……抜けなく仕事は調整しておいたので、仕事用の電話は置いてきたのですが、私の仕事の管轄で常務が動いたらしくて。成沢さんから連絡がありました」
「常務が?」
「彼とは折り合いが悪いんです……ほんの少しだけね。私が休暇を取っていると知って、動いたんでしょうね」
光也の苦笑で「少し」折り合いが悪いのではないことが、千尋にも予想できた。
常務と専務では専務の方が立場が上だ。異母兄弟じゃなかったとしても、十歳も下の弟に序列を乱されたとあっては、プライドの高い常務の心中は穏やかではなかっただろう。
そのうえ手掛けていたブラジル案件も、目をかけていたコスニの課長も光也が独断で動かした。
常務は敵意の目をメラメラと燃やし、つけ入る隙を虎視眈々と狙っているに違いなかった。
「すぐに戻りましょう、専務」
千尋はすくっとソファから立ち上がった。
ずっと技術職であった千尋に何ができるかはわからない。けれど、光也のためなら何でもできる気がした。
──千尋のためなら何でもしてあげたいんだよ。
光也の言葉が頭にこだまする。
(ああ、同じだ)
千尋も光也を守りたい。強くそう思う。
魔法が解けたあとのシンデレラのように、王子様が巡回して見つけ出してくれるのを待つだけでなく、自分で動いて光也の隣に立っていたい。
(ああ、きっとこれを……)
「好きだ」というのだ。
相手に任せて守られるだけでなく、自分も相手を守りたい……好きだから。
依存との違いがはっきりわかった千尋は胸に強い意志を抱いた。自分が専務を支えるのだと。
「……ええ。サポートをよろしくお願いしますね。藤村秘書」
光也は眩しいものでも見るように目を細め、その後大きく頷くと、車を回しに駐車場に向かった。
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