25 / 92
おとぎ話の時間
①
しおりを挟む
千尋が使わせてもらっている部屋の南向きの窓からは、この屋敷の庭が見下ろせる。
一階のリビングルームから繋がる白いタイルテラスの先に手入れが行き届いた緑鮮やかな芝生が広がり、隣家との境の壁際には色とりどりの花が地植えされている。今はちょうど遅咲きの紫陽花であるノリウツギのライムライトが見頃だ。
「よかった。いい天気だ」
ライムグリーンの花弁から空へと目を移す。
二日前に梅雨明け宣言があった東京の空は、小さなまとまりのうろこ雲はあるが透き通るような青色だ。心なしかいつもよりも澄んだように感じる早朝の空気を胸いっぱいに吸い込んで、千尋は窓を閉めて一階に降りた。
真っすぐキッチンに向かい、光也の朝食を作ってみようと考えて小鍋に湯を沸かす。
光也は普段朝食をとらない。食に欲がないため、軽いジョギングを終えてシャワーを浴びたあとは、各社の新聞に目を通しつつコーヒー杯で胃を満たして出社する。
成沢からも「光也様はご自身のスタイルが確立しておられますから、生活面にもお気遣いは不要です」と言われていたため、光也の朝食に関わったことはない。
でも、今日は用意してみたくなったのだ。デートかどうかは別として、光也が外に連れ出してくれる日だし、この屋敷で朝を迎えるのは今日が最後になるだろう。出かけようと言われて浮足立って一瞬忘れてしまったが、ここでの生活が終わることは確実で、外出から戻れば千尋は一人暮らしの家へ戻るのだ。
だから最後の日くらい、面倒をみてもらった感謝として朝食を準備したい。といっても家庭料理の記憶は薄く、教えてもらったこともないから簡単な味噌汁と卵焼きくらいしかできないのだが。
(専務、食べてくれるかな。朝食をとらない人には迷惑だったりしないかな……)
砂糖と醤油で味付けしただけの、甘目の卵焼きを菜箸で巻きながら、ふと思った。
(それもこんな庶民すぎる食べ物……専務のお父さんなら、ちゃんと出汁を使って作るよね)
やっぱりやめておこうと、残りの卵液は雑に流し、適当にくるくると巻く。同時進行で作っていた大根と油揚げの味噌汁も、大根が柔らかくなったかの確認をせず、火を止めて味噌をぶっ混んだ。
自分で食べる用にしよう。千尋はうなずいて皿に移し、ラップをかける。
「とてもいい匂いですね」
「!」
タイミング悪く、ジョギングから戻った光也がリビングに入ってきた。
「専務、お戻りでしたか。おはようございます」
いたずらを隠す子供のように、皿を背の裏に隠す。だが光也は汗を拭きながらそばまで来て、長身の頭をひょいと動かしてそれらを見つけた。
「へえ。藤村君も料理をするんですね。おいしそう。これ、量が多いですが、もしかして私の分もありますか?」
にこっ、と期待の笑顔を向けられる。
「いえ、あの、専務は朝食を召し上がらないし、庶民の食べ物など……しかも途中から適当にしてしまったので」
「違うと言わないということは、私の朝食を用意してくれたということですね?」
焦る千尋に対し、光也はマイペースに結論づけた。
察しがいいのも結論が早いのも、できる男だからだろうか。でも、適当になってしまった食事など出したくない。こんなことならちゃんと作ればよかった。
「あ、あの、でも、これはやっぱり違うというか、とても専務には」
「ありがとう。シャワーを済ませたらすぐにいただきますね」
断ろうと思ったところで礼を言われ、千尋は顔を赤くして床に視線を落とした。もう否定するには遅い。
「ふふ。千尋、かわいい」
敬語抜きでつぶやいた光也は千尋の髪に指を入れ、とくように撫でた。
千尋が視線を上に戻すと、優しく目尻が下がった顔が近くにある。
(あ……)
少しの汗が額や首を濡らしているからだろうか、光也の香りが鼻をくすぐり、息苦しくなった。
でも、ここに来た日のような不快さはもう感じない。感じないのだが、無性に胸が痛くなり、苦しくなる。
どちらにせよ、やはり苦手だ。
「……また漏らしてる。駄目だよ」
「え?」
無意識にうなじに伸びかけていた手を光也に止められる。代わりにうなじには光也の唇が触れて、舌でぺろりと舐め上げられた。
「ぁっ……!」
どうしたことか、一瞬で力が抜けて、膝が崩れてしまう。
「千尋……!」
光也は千尋の手首を掴んでいる手に力を入れ、腰にも手を添えて、身体を支えてくれた。
そして、もうひと舐め、ふた舐め。暖かいぬめりがうなじを這う。
「んっ……やっ……」
「フェロモンが滲んでいるから、拭っておいたよ。俺は先にシャワーをしてくるから、朝食、待っていて」
唇と身体が離れた。触れられていた箇所がすべてじんじんと熱い。
(フェロモン? 出してるつもりないのに……専務の体も熱かった。走ってきたからで、僕のフェロモンに反応したわけじゃないよね……?)
光也に支えてもらってせっかく立てたのに、また力が抜けていく。
千尋はキッチン収納の扉にずるずると背を滑らせながら、床にしゃがみ込んだ。
一階のリビングルームから繋がる白いタイルテラスの先に手入れが行き届いた緑鮮やかな芝生が広がり、隣家との境の壁際には色とりどりの花が地植えされている。今はちょうど遅咲きの紫陽花であるノリウツギのライムライトが見頃だ。
「よかった。いい天気だ」
ライムグリーンの花弁から空へと目を移す。
二日前に梅雨明け宣言があった東京の空は、小さなまとまりのうろこ雲はあるが透き通るような青色だ。心なしかいつもよりも澄んだように感じる早朝の空気を胸いっぱいに吸い込んで、千尋は窓を閉めて一階に降りた。
真っすぐキッチンに向かい、光也の朝食を作ってみようと考えて小鍋に湯を沸かす。
光也は普段朝食をとらない。食に欲がないため、軽いジョギングを終えてシャワーを浴びたあとは、各社の新聞に目を通しつつコーヒー杯で胃を満たして出社する。
成沢からも「光也様はご自身のスタイルが確立しておられますから、生活面にもお気遣いは不要です」と言われていたため、光也の朝食に関わったことはない。
でも、今日は用意してみたくなったのだ。デートかどうかは別として、光也が外に連れ出してくれる日だし、この屋敷で朝を迎えるのは今日が最後になるだろう。出かけようと言われて浮足立って一瞬忘れてしまったが、ここでの生活が終わることは確実で、外出から戻れば千尋は一人暮らしの家へ戻るのだ。
だから最後の日くらい、面倒をみてもらった感謝として朝食を準備したい。といっても家庭料理の記憶は薄く、教えてもらったこともないから簡単な味噌汁と卵焼きくらいしかできないのだが。
(専務、食べてくれるかな。朝食をとらない人には迷惑だったりしないかな……)
砂糖と醤油で味付けしただけの、甘目の卵焼きを菜箸で巻きながら、ふと思った。
(それもこんな庶民すぎる食べ物……専務のお父さんなら、ちゃんと出汁を使って作るよね)
やっぱりやめておこうと、残りの卵液は雑に流し、適当にくるくると巻く。同時進行で作っていた大根と油揚げの味噌汁も、大根が柔らかくなったかの確認をせず、火を止めて味噌をぶっ混んだ。
自分で食べる用にしよう。千尋はうなずいて皿に移し、ラップをかける。
「とてもいい匂いですね」
「!」
タイミング悪く、ジョギングから戻った光也がリビングに入ってきた。
「専務、お戻りでしたか。おはようございます」
いたずらを隠す子供のように、皿を背の裏に隠す。だが光也は汗を拭きながらそばまで来て、長身の頭をひょいと動かしてそれらを見つけた。
「へえ。藤村君も料理をするんですね。おいしそう。これ、量が多いですが、もしかして私の分もありますか?」
にこっ、と期待の笑顔を向けられる。
「いえ、あの、専務は朝食を召し上がらないし、庶民の食べ物など……しかも途中から適当にしてしまったので」
「違うと言わないということは、私の朝食を用意してくれたということですね?」
焦る千尋に対し、光也はマイペースに結論づけた。
察しがいいのも結論が早いのも、できる男だからだろうか。でも、適当になってしまった食事など出したくない。こんなことならちゃんと作ればよかった。
「あ、あの、でも、これはやっぱり違うというか、とても専務には」
「ありがとう。シャワーを済ませたらすぐにいただきますね」
断ろうと思ったところで礼を言われ、千尋は顔を赤くして床に視線を落とした。もう否定するには遅い。
「ふふ。千尋、かわいい」
敬語抜きでつぶやいた光也は千尋の髪に指を入れ、とくように撫でた。
千尋が視線を上に戻すと、優しく目尻が下がった顔が近くにある。
(あ……)
少しの汗が額や首を濡らしているからだろうか、光也の香りが鼻をくすぐり、息苦しくなった。
でも、ここに来た日のような不快さはもう感じない。感じないのだが、無性に胸が痛くなり、苦しくなる。
どちらにせよ、やはり苦手だ。
「……また漏らしてる。駄目だよ」
「え?」
無意識にうなじに伸びかけていた手を光也に止められる。代わりにうなじには光也の唇が触れて、舌でぺろりと舐め上げられた。
「ぁっ……!」
どうしたことか、一瞬で力が抜けて、膝が崩れてしまう。
「千尋……!」
光也は千尋の手首を掴んでいる手に力を入れ、腰にも手を添えて、身体を支えてくれた。
そして、もうひと舐め、ふた舐め。暖かいぬめりがうなじを這う。
「んっ……やっ……」
「フェロモンが滲んでいるから、拭っておいたよ。俺は先にシャワーをしてくるから、朝食、待っていて」
唇と身体が離れた。触れられていた箇所がすべてじんじんと熱い。
(フェロモン? 出してるつもりないのに……専務の体も熱かった。走ってきたからで、僕のフェロモンに反応したわけじゃないよね……?)
光也に支えてもらってせっかく立てたのに、また力が抜けていく。
千尋はキッチン収納の扉にずるずると背を滑らせながら、床にしゃがみ込んだ。
51
お気に入りに追加
1,161
あなたにおすすめの小説

【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

初心者オメガは執着アルファの腕のなか
深嶋
BL
自分がベータであることを信じて疑わずに生きてきた圭人は、見知らぬアルファに声をかけられたことがきっかけとなり、二次性の再検査をすることに。その結果、自身が本当はオメガであったと知り、愕然とする。
オメガだと判明したことで否応なく変化していく日常に圭人は戸惑い、悩み、葛藤する日々。そんな圭人の前に、「運命の番」を自称するアルファの男が再び現れて……。
オメガとして未成熟な大学生の圭人と、圭人を番にしたい社会人アルファの男が、ゆっくりと愛を深めていきます。
穏やかさに滲む執着愛。望まぬ幸運に恵まれた主人公が、悩みながらも運命の出会いに向き合っていくお話です。本編、攻め編ともに完結済。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。

【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】
彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』
高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。
その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。
そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?
【完結】悪役令息の従者に転職しました
*
BL
暗殺者なのに無様な失敗で死にそうになった俺をたすけてくれたのは、BLゲームで、どのルートでも殺されて悲惨な最期を迎える悪役令息でした。
依頼人には死んだことにして、悪役令息の従者に転職しました。
皆でしあわせになるために、あるじと一緒にがんばるよ!
本編完結しました!
『もふもふ獣人転生』に遊びにゆく、舞踏会編、はじめましたー!

鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。
【完結】愛執 ~愛されたい子供を拾って溺愛したのは邪神でした~
綾雅(ヤンデレ攻略対象、電子書籍化)
BL
「なんだ、お前。鎖で繋がれてるのかよ! ひでぇな」
洞窟の神殿に鎖で繋がれた子供は、愛情も温もりも知らずに育った。
子供が欲しかったのは、自分を抱き締めてくれる腕――誰も与えてくれない温もりをくれたのは、人間ではなくて邪神。人間に害をなすとされた破壊神は、純粋な子供に絆され、子供に名をつけて溺愛し始める。
人のフリを長く続けたが愛情を理解できなかった破壊神と、初めての愛情を貪欲に欲しがる物知らぬ子供。愛を知らぬ者同士が徐々に惹かれ合う、ひたすら甘くて切ない恋物語。
「僕ね、セティのこと大好きだよ」
【注意事項】BL、R15、性的描写あり(※印)
【重複投稿】アルファポリス、カクヨム、小説家になろう、エブリスタ
【完結】2021/9/13
※2020/11/01 エブリスタ BLカテゴリー6位
※2021/09/09 エブリスタ、BLカテゴリー2位

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる