枕営業から逃げたら江戸にいました。陰間茶屋でナンバー1目指します。

カミヤルイ

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ちぎりきな かたみに袖を

暗転 参

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 繋がれたままの、じっとりと湿りを帯びた楓の手がぴくりと動いた。
  「条件……?」

  「そうだ。いや、条件と言うよりは目出度き話だ。楓、お前に加留をやろう」

 ────────!

 体を貫かれたと思った。
 全身の血が、貫かれた傷を修復しようと一気に心臓に向かってくる。

  「加留はお前を心底好いている。似合の夫婦になるだろう。で市山座を盛り立ててくれ。……旦那、女将、楓に取っても華屋にとってもこれ以上の話はないだろう。楓が市山屋の血筋に入ればますます華屋は名を上げ安泰となる。喜ばれよ」

 女将と旦那は頭を下げるしかない。当然だ。有り難く受け入れこそすれ、万が一反対の声でも上げようものなら楓も俺も……そして華屋の未来までもが絶たれることがわかっているのだから。

 体が冷えていく。
 血流が心臓に流れ込んだ分、手先は氷のように冷たくて、感覚がなくなっていく。

 楓は未だ俺の手を離さず、小刻みに震えていた。
 握られた手に力が籠る。感覚がない中で、そこだけが痛覚を感じた。

  「いたい……」

 なにも言葉が浮かばない俺が発したのはそれだった。
 楓がはっ、と気づいて手を離す。
 痛みは引いたのに、今まであった熱さが急に離れて、空虚感に襲われた。

  「市山様、それでも俺は百合と……」
  「楓」
 楓が言いかけた言葉を、強い語気で市山屋さんが制する。

  「加留を呼んである。そろそろ着く頃だろう。浅草寺界隈で二人、時間を過ごしてくると良い」

  「市山様……俺はっ……」
  「楓、行きなさい」
 次に楓の言葉を制したのは旦那だった。

 顔は青いままだが、言葉ははっきりとした指示を伝えていた。
  「市山屋様には盃を交わすほどの支払いを頂いている。行きなさい。……だ」
 隣で女将がうなだれる。

  楓はぐっ、と両拳を握って震えを止めると、すぐに立ち上がり「行って参ります」と声を絞り出した。



 楓がいなくなった部屋の中、重苦しい空気の中で市山屋さんだけが満足そうに頷いて言った。
  「話はついたな。目出度いことだ。さあ、皆、酒も飲んでくれ。これからの市山座と華屋の未来を共に祝おう」

 だけど俺は、水一滴、喉を通らなかった。




 帰りは市山屋さんが駕籠を用意してくれていたけれど、俺は乗らなかった。

  「ちょっとだけ外を歩きたいんだ。先に帰っててくれる?」
 俺がそう言うと、なにかを言いかけたけど、言葉が見つからなかったのだろう。女将が「気をつけて帰ってくるんだよ」と心配そうに言って、旦那と共に、先に華屋へと戻って行った。




 市山座がある浅草界隈はまだ正月の雰囲気が残っていて人で溢れていた。
 誰もが笑顔で仲見世を覗き、赤いぼんぼりが風にたゆたっているのに、そのどれもに色がないように感じる。

 どこに行っても景色は同じ。宛もなくしばらくぶらぶらとして、ふと、観光で人気の場所には楓と加留さんがいるかもしれないと思い、俺は人の波に逆らって歩いた。

 すれ違う人と肩がぶつかる。
  「……ってえなあ。なにぼんやりしてやがる! ……お? 偉いべっぴんさんじゃないか。その姿、陰間か。……なんだ、お前、華屋の菊じゃないか?」

 酒臭い男に腕を掴まれる。声が思ったより大きく、人混みの中でも「華屋の菊」が周囲の耳に届いたのだろう。誘われるように人が集まってきた。

  「本当だ。なぜ菊華が一人で歩いてんだ。営業か?」
  「百合だよ、ほら、華屋の菊だ」
  「百合、こっち向いてくれ」

 まずい、騒ぎになりだしている。
 急いでこの場を抜けようとするも、既にぐるりと人に囲まれ、逃げ場がなかった。

  「華屋の菊ってなんだ? 有名人か? へぇ、お綺麗な陰間じゃないか。おい、相手してやる、いくらだ」
 地方からの観光客だろうか。俺のことも、江戸の陰間の遊び方も知らないらしい男にぐい、と腰を引かれて体がよろける。

  「やめて下さ……! 」
  「すまない、この子はうちの界隈の売れっ子だ。手を下げてくれ」
 突如、男の腕を取って押しやり、俺を引き寄せた大きな手。
 顔がぶつかった広い胸からは懐かしい香り。

 ──なぜここにこの人が。まるで幻でも見ているみたいだ……俺はその端正な顔を見上げて呟いた。

  「……保科様……」



  ***


 湯島まで保科様と共に戻り、柳が揺れる大川の橋の欄干に二人並んで寄りかかった。
  「百合。前にも言ったが芸子が一人で歩くなんて危ないんだよ」

  「……はい。申しわけありません。助けて頂いてありがとうございます。でも、保科様はなぜ浅草に?」

  「あぁ……いや、市山屋様からお話があると……」

 ああ全部聞いたんだ、と思った。
 そうだよな。管轄の地域の祝い事になる話だ。地主である保科家には必ず伝わる。

 それがこんなすぐにということは、市山屋さんがどれだけ本気で楓を血筋に迎えようとしているかがわかる。
 ……どれだけ早く俺と楓を切り離したいのかも。

  「……百合、辛いな……」
 保科様が俺の顔を見ずに遠慮がちに言う。それはおそらく、俺と楓の関係をわかっていたことを指している。

  「……っつ……」
 大丈夫です、と言いたいのに涙が溢れて言葉を遮る。市山座を出てからなにも考えられなくて、涙も出ないくらい頭が真っ白だった。なのに、一度堰を切った涙は止まるとどまることなく溢れていく。

  「う……ぐっ……っ」
 声を出すまいと耐えると、上手く息ができなくて余計に苦しい。

  「百合……。おいで」
 保科様は俺の肩を抱き、胸を貸して下さった。なにも言わず、大きな手で俺の頭の後ろを撫でながら。

 もうこらえられない。

 俺は保科様の広い胸の中に辛さを吐き出した。
    
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