57 / 149
暁ばかり憂きものは
大華 楓 参
しおりを挟む
回り舞台・花道の拡大など、俺が提案した舞台装置の工事は着々と進んでいた。
また、工事のあいだは華屋の見世の使用が制限されていたものの、保科家大旦那様の力で、他の茶屋経営の見世で競合舞台をやったりもして、互いの見世の評判が上がるなどの副産物が得られている。
楓はその競合舞台でも、他の見世の芸子達に圧倒的な差をつけて人気を博していた。もうこの界隈で楓に叶う女形もいなければ、楓を知らない関係者もいない。
楓は十八になるはずで、あと二年のうちには年季が明ける。そうなれば江戸に三座ある、いずれかの本歌舞伎座で華々しくデビューをするのだろう。
実際最近は座敷や褥仕事を減らし、その時間を使って関係筋のお偉方達と今後を含む話をしているのだと聞いている。
「なんだか遠くなったなー」
少し前に楓のことで悩んだのが無駄だったと思うくらいに、俺達二人のあいだにはなにも起こらなくなった。
物理的に一緒にいる時間が減るとキスをすることもなくなったし、俺は俺で褥仕事を再開したから、一緒に布団に潜ることも自然になくなった。
あの時は事件のこともあって一時的に気持ちが昂っていたんだろう。陰間なんかやってると、やっぱり気持ちが乙女になるんだと、今や自分の中では過去の笑い話になっていた。
***
「百合、今夜は保科様が見えるからな」
「保科様が? 俺のところに!?」
旦那が陰間の調整帳簿を開き、俺の褥仕事の欄に筆で記入をしている。
「お前だけではないさ。若草から順に回られる。けど、お前には少し時間が欲しいとおっしやってたから、一番最後に入って頂くよ。お客が終わったら権に布団上げと片付けを手伝ってもらって粗相のないようにな」
心が騒めく。
保科様が俺に時間を割いて下さるなんて。
俺は「保科様」が大旦那様ではなく、忠彬様であることを確認し、夜を待った。
「ねぇ権さん。やっぱり風呂に入る時間はないかな?」
いつもならお客が一人終われば、孔内洗浄も兼ねて風呂場に行くのだけど、保科様の滞在時間は長くはないらしく、縮緬和紙で体液を拭き取っただけ。前のお客の残り香がしそうな体で保科様に会いたくなかった。
「ねぇよ。すぐにいらっしゃる。気にすんな。素人の娘じゃあるまいし」
「えー、どうにかしてよぉ」
「まったくおめぇは……」
言いつつ、権さんは湯の入ったたらいを用意してくれて、濡らした手拭いで身体を拭くよう言ってくれた。
緋襦袢を脱ぎ、上半身から順に拭いていく。なのに権さんたら、途中で出入口の襖を開けて換気をし出したのだ。
「ちょっと権さん、俺、裸……」
「百合? 入って良いか」
いっ……! ほ、保科様。
「……。……すまない。着替えが終わるまで待とう」
部屋に入りかけていた保科様はすぐに体の向きを変え、襖の向こうに身を隠した。
「~~~~!」
最悪だぁ。こんな恥ずかしいところを見られるなんて。久しぶりの再会を二流ドラマ展開にした権さんが恨めしい。
権さんは俺の殺気に気づいてか、片付けが終わると「ごゆっくり」と愛想笑いをして早々に下に降りていった。
「すいません、保科様。お見苦しいところを……」
「あぁ……私もすまない。状況を測るべきだったな」
恥ずかしさで身を縮める俺とは違い、余裕の表情の保科様は真っすぐに俺を見て微笑んだ。
胸がぎゅっとする。保科様は微笑み一つで俺の胸を乱す。どうしたって愛しい人。
「百合の活躍は耳に入っているよ。頑張りを嬉しく思っている……良く立ち直ってくれたな」
「いえ……自分だけの力では……楓にもたくさん助けてもらいました」
「……そう、か。それはなにより」
?
保科様、一瞬空気が変わった?
「今日はお前にこれを……」
いや、気のせいか。
保科様は懐を探り、綺麗な金糸の布の包みを取り出した。片手のひらに乗せ、包みを解いていく。
「あ……」
中には百合を型どった、刀の鍔。
事件の日に殺傷に使われてしまい、俺が自分の意思で手放した、保科様から頂いた刀の鍔。でも、刀に付いていた時とは違い、白や翠の色が入れられて、鮮やかな百合の細工飾りになっていた。
「見るのも辛いだろうが、これは百合に持っていて欲しいのだ。刀からは外し、こうして化粧も施した。だから新しいものとして受け取ってはくれないか」
保科様は無理に握らせようとはせず、俺が手を出すのを待っていた。
保科様の屋敷で過ごした最後の晩、刀をもらって部屋から出て行こうとした俺を抱きしめた時と同じ瞳で。
「はい……」
手を伸ばす。
震えそうな手で、重みのある鍔に触れ、持ち上げた。
────このまま保科様の手を引き寄せてしまえたら、どんなにいいだろう。
その時。
鍔を持った俺の両手を、保科様の大きな手が上下から包んだ。
「……っ」
二人とも声は出さなかった。けれど視線が絡み合い、互いの思いが同じだと伝え合うには充分だった。
一分……いや、もっと長かったのかもしれない。俺にはとても短く感じられたわずかな時間。
「百合、私が守ってやれないこと、本当に不甲斐なく思う……済まない……」
保科様が瞼を伏せ、俺にしか聞こえないであろう声で呟き、最後にぎゅ、と力を込めて、手が離れる。
次に瞼が開かれた時にはもう、いつもの保科様の顔に戻っていた。
「百合、皆には既に伝えたが、私はしばらく江戸を離れることになった。父に代わり上方で任された仕事がある。だが、遠く離れてもこの華屋の芸子達の活躍は必ず耳に入るだろう。百合の活躍も楽しみにしている。どうか息災で」
そんな……上方にだなんて……お姿さえも見れなくなるのか……?
「……いつまで、ですか……?」
「わからぬ。三月かも知れぬし一年、三年かも……期限は決められていない。合間に江戸に戻ることもあろう。その時はまた、こうして皆の顔を確かめに来よう」
言い終わると、保科様は静かに腰を上げた。
俺は鍔を胸に抱いて、体を固くしていたまま動けなかった。
保科様の手が、襖に伸びる。
「保科様っ……っ。俺……私が表までお見送りします」
保科様を引き留めたがる手を襖の引き手にかけ、もう片方の手で百合の鍔をしっかりと握り、言葉を絞り出した。
「ああ、ありがとう」
振り向いて俺の耳に触れ、そのまま髪を梳くように撫でて下さる。そして名残惜しそうに毛束を優しく摘み……やがて……ゆっくりと離れた。
また、工事のあいだは華屋の見世の使用が制限されていたものの、保科家大旦那様の力で、他の茶屋経営の見世で競合舞台をやったりもして、互いの見世の評判が上がるなどの副産物が得られている。
楓はその競合舞台でも、他の見世の芸子達に圧倒的な差をつけて人気を博していた。もうこの界隈で楓に叶う女形もいなければ、楓を知らない関係者もいない。
楓は十八になるはずで、あと二年のうちには年季が明ける。そうなれば江戸に三座ある、いずれかの本歌舞伎座で華々しくデビューをするのだろう。
実際最近は座敷や褥仕事を減らし、その時間を使って関係筋のお偉方達と今後を含む話をしているのだと聞いている。
「なんだか遠くなったなー」
少し前に楓のことで悩んだのが無駄だったと思うくらいに、俺達二人のあいだにはなにも起こらなくなった。
物理的に一緒にいる時間が減るとキスをすることもなくなったし、俺は俺で褥仕事を再開したから、一緒に布団に潜ることも自然になくなった。
あの時は事件のこともあって一時的に気持ちが昂っていたんだろう。陰間なんかやってると、やっぱり気持ちが乙女になるんだと、今や自分の中では過去の笑い話になっていた。
***
「百合、今夜は保科様が見えるからな」
「保科様が? 俺のところに!?」
旦那が陰間の調整帳簿を開き、俺の褥仕事の欄に筆で記入をしている。
「お前だけではないさ。若草から順に回られる。けど、お前には少し時間が欲しいとおっしやってたから、一番最後に入って頂くよ。お客が終わったら権に布団上げと片付けを手伝ってもらって粗相のないようにな」
心が騒めく。
保科様が俺に時間を割いて下さるなんて。
俺は「保科様」が大旦那様ではなく、忠彬様であることを確認し、夜を待った。
「ねぇ権さん。やっぱり風呂に入る時間はないかな?」
いつもならお客が一人終われば、孔内洗浄も兼ねて風呂場に行くのだけど、保科様の滞在時間は長くはないらしく、縮緬和紙で体液を拭き取っただけ。前のお客の残り香がしそうな体で保科様に会いたくなかった。
「ねぇよ。すぐにいらっしゃる。気にすんな。素人の娘じゃあるまいし」
「えー、どうにかしてよぉ」
「まったくおめぇは……」
言いつつ、権さんは湯の入ったたらいを用意してくれて、濡らした手拭いで身体を拭くよう言ってくれた。
緋襦袢を脱ぎ、上半身から順に拭いていく。なのに権さんたら、途中で出入口の襖を開けて換気をし出したのだ。
「ちょっと権さん、俺、裸……」
「百合? 入って良いか」
いっ……! ほ、保科様。
「……。……すまない。着替えが終わるまで待とう」
部屋に入りかけていた保科様はすぐに体の向きを変え、襖の向こうに身を隠した。
「~~~~!」
最悪だぁ。こんな恥ずかしいところを見られるなんて。久しぶりの再会を二流ドラマ展開にした権さんが恨めしい。
権さんは俺の殺気に気づいてか、片付けが終わると「ごゆっくり」と愛想笑いをして早々に下に降りていった。
「すいません、保科様。お見苦しいところを……」
「あぁ……私もすまない。状況を測るべきだったな」
恥ずかしさで身を縮める俺とは違い、余裕の表情の保科様は真っすぐに俺を見て微笑んだ。
胸がぎゅっとする。保科様は微笑み一つで俺の胸を乱す。どうしたって愛しい人。
「百合の活躍は耳に入っているよ。頑張りを嬉しく思っている……良く立ち直ってくれたな」
「いえ……自分だけの力では……楓にもたくさん助けてもらいました」
「……そう、か。それはなにより」
?
保科様、一瞬空気が変わった?
「今日はお前にこれを……」
いや、気のせいか。
保科様は懐を探り、綺麗な金糸の布の包みを取り出した。片手のひらに乗せ、包みを解いていく。
「あ……」
中には百合を型どった、刀の鍔。
事件の日に殺傷に使われてしまい、俺が自分の意思で手放した、保科様から頂いた刀の鍔。でも、刀に付いていた時とは違い、白や翠の色が入れられて、鮮やかな百合の細工飾りになっていた。
「見るのも辛いだろうが、これは百合に持っていて欲しいのだ。刀からは外し、こうして化粧も施した。だから新しいものとして受け取ってはくれないか」
保科様は無理に握らせようとはせず、俺が手を出すのを待っていた。
保科様の屋敷で過ごした最後の晩、刀をもらって部屋から出て行こうとした俺を抱きしめた時と同じ瞳で。
「はい……」
手を伸ばす。
震えそうな手で、重みのある鍔に触れ、持ち上げた。
────このまま保科様の手を引き寄せてしまえたら、どんなにいいだろう。
その時。
鍔を持った俺の両手を、保科様の大きな手が上下から包んだ。
「……っ」
二人とも声は出さなかった。けれど視線が絡み合い、互いの思いが同じだと伝え合うには充分だった。
一分……いや、もっと長かったのかもしれない。俺にはとても短く感じられたわずかな時間。
「百合、私が守ってやれないこと、本当に不甲斐なく思う……済まない……」
保科様が瞼を伏せ、俺にしか聞こえないであろう声で呟き、最後にぎゅ、と力を込めて、手が離れる。
次に瞼が開かれた時にはもう、いつもの保科様の顔に戻っていた。
「百合、皆には既に伝えたが、私はしばらく江戸を離れることになった。父に代わり上方で任された仕事がある。だが、遠く離れてもこの華屋の芸子達の活躍は必ず耳に入るだろう。百合の活躍も楽しみにしている。どうか息災で」
そんな……上方にだなんて……お姿さえも見れなくなるのか……?
「……いつまで、ですか……?」
「わからぬ。三月かも知れぬし一年、三年かも……期限は決められていない。合間に江戸に戻ることもあろう。その時はまた、こうして皆の顔を確かめに来よう」
言い終わると、保科様は静かに腰を上げた。
俺は鍔を胸に抱いて、体を固くしていたまま動けなかった。
保科様の手が、襖に伸びる。
「保科様っ……っ。俺……私が表までお見送りします」
保科様を引き留めたがる手を襖の引き手にかけ、もう片方の手で百合の鍔をしっかりと握り、言葉を絞り出した。
「ああ、ありがとう」
振り向いて俺の耳に触れ、そのまま髪を梳くように撫でて下さる。そして名残惜しそうに毛束を優しく摘み……やがて……ゆっくりと離れた。
1
お気に入りに追加
677
あなたにおすすめの小説
学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語
紅林
BL
『桜田門学院高等学校』
日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する野球ドーム五個分の土地が学院としてなる巨大学園だ
しかし生徒数は300人程の少人数の学院だ
そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語である

元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
【完結】相談する相手を、間違えました
ryon*
BL
長い間片想いしていた幼なじみの結婚を知らされ、30歳の誕生日前日に失恋した大晴。
自棄になり訪れた結婚相談所で、高校時代の同級生にして学内のカースト最上位に君臨していた男、早乙女 遼河と再会して・・・
***
執着系美形攻めに、あっさりカラダから堕とされる自称平凡地味陰キャ受けを書きたかった。
ただ、それだけです。
***
他サイトにも、掲載しています。
てんぱる1様の、フリー素材を表紙にお借りしています。
***
エブリスタで2022/5/6~5/11、BLトレンドランキング1位を獲得しました。
ありがとうございました。
***
閲覧への感謝の気持ちをこめて、5/8 遼河視点のSSを追加しました。
ちょっと闇深い感じですが、楽しんで頂けたら幸いです(*´ω`*)
***
2022/5/14 エブリスタで保存したデータが飛ぶという不具合が出ているみたいで、ちょっとこわいのであちらに置いていたSSを念のためこちらにも転載しておきます。


王道学園の冷徹生徒会長、裏の顔がバレて総受けルート突入しちゃいました!え?逃げ場無しですか?
名無しのナナ氏
BL
王道学園に入学して1ヶ月でトップに君臨した冷徹生徒会長、有栖川 誠(ありすがわ まこと)。常に冷静で無表情、そして無言の誠を生徒達からは尊敬の眼差しで見られていた。
そんな彼のもう1つの姿は… どの企業にも属さないにも関わらず、VTuber界で人気を博した個人VTuber〈〈 アイリス 〉〉!? 本性は寂しがり屋の泣き虫。色々あって周りから誤解されまくってしまった結果アイリスとして素を出していた。そんなある日、生徒会の仕事を1人で黙々とやっている内に疲れてしまい__________
※
・非王道気味
・固定カプ予定は無い
・悲しい過去🐜のたまにシリアス
・話の流れが遅い

【完結】元騎士は相棒の元剣闘士となんでも屋さん営業中
きよひ
BL
ここはドラゴンや魔獣が住み、冒険者や魔術師が職業として存在する世界。
カズユキはある国のある領のある街で「なんでも屋」を営んでいた。
家庭教師に家業の手伝い、貴族の護衛に魔獣退治もなんでもござれ。
そんなある日、相棒のコウが気絶したオッドアイの少年、ミナトを連れて帰ってくる。
この話は、お互い想い合いながらも10年間硬直状態だったふたりが、純真な少年との関わりや事件によって動き出す物語。
※コウ(黒髪長髪/褐色肌/青目/超高身長/無口美形)×カズユキ(金髪短髪/色白/赤目/高身長/美形)←ミナト(赤髪ベリーショート/金と黒のオッドアイ/細身で元気な15歳)
※受けのカズユキは性に奔放な設定のため、攻めのコウ以外との体の関係を仄めかす表現があります。
※同性婚が認められている世界観です。
聖女召喚されて『お前なんか聖女じゃない』って断罪されているけど、そんなことよりこの国が私を召喚したせいで滅びそうなのがこわい
金田のん
恋愛
自室で普通にお茶をしていたら、聖女召喚されました。
私と一緒に聖女召喚されたのは、若くてかわいい女の子。
勝手に召喚しといて「平凡顔の年増」とかいう王族の暴言はこの際、置いておこう。
なぜなら、この国・・・・私を召喚したせいで・・・・いまにも滅びそうだから・・・・・。
※小説家になろうさんにも投稿しています。

淫愛家族
箕田 はる
BL
婿養子として篠山家で生活している睦紀は、結婚一年目にして妻との不仲を悩んでいた。
事あるごとに身の丈に合わない結婚かもしれないと考える睦紀だったが、以前から親交があった義父の俊政と義兄の春馬とは良好な関係を築いていた。
二人から向けられる優しさは心地よく、迷惑をかけたくないという思いから、睦紀は妻と向き合うことを決意する。
だが、同僚から渡された風俗店のカードを返し忘れてしまったことで、正しい三人の関係性が次第に壊れていく――
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる