DachuRa 2nd story -呪われた身体は、許されぬ永遠の夢を見る-

白城 由紀菜

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XXXVI 心労

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 雨が降った後の路面は凍り、きつい寒さが苦痛に変わり始める真冬の夕方。自宅の扉の前で立ち止まり、小さな溜息を漏らした。
 外にまで響き渡るのは我が子の泣き声。最初は泣き声すらも愛しいと思えたのに、3ヵ月も経てばいい加減うんざりしてしまい、ここ数日自宅の扉を開ける事を躊躇う日々を送っていた。
 意を決し、玄関を解錠し扉を開く。

「――ただいま」

 揺籠の前で子供を抱き、憔悴しきった顔のエルに声を掛ける。しかし、その声すらも掻き消す耳を劈く泣き声。

「……おかえりなさい」

 エルの目は何処か虚ろで、眼窩の下には濃いくまがくっきりと浮かんでいる。綺麗に結っていた髪は乱れ、育児疲れを感じさせる佇まいだ。だがきっと、今の自分も同じ顔をしているのだろう。
 コートを脱ぎ、急いでエルの腕の中からレイを抱き上げる。
 こんな小さな赤子でも、誰に抱かれているのかはしっかりと認識しているらしい。レイの身体を揺らし、背を優しく摩ってやると、その泣き声は次第に小さくなっていく。

「――遅い」

 うっかり聞き逃してしまいそうな程に小さな、彼女の呟く声。時間差でそれに気付き、彼女の方へ視線を向けた。

「……今日は、16時には帰ってきてくれるって言ったじゃない」

 彼女の背後に置かれていた時計が示すのは16時半。確かに今日は、想像していた以上に依頼者との面談が長引いてしまった。しかし遅れたと言ってもたったの30分だ。

「悪い……、ちょっと仕事が長引いて」

 彼女の様子を見るに、もう限界が近いのだろう。自分は仕事に逃げる事が出来るが、彼女は子供と接する事から一瞬でも逃れる事は出来ない。このままでは、その計り知れない心労に精神を壊してしまいそうだ。

「レイは、夕方になると貴方が居ない事で泣くのよ……。私1人では、どうにも出来なくて……」

 彼女がふらりと距離を詰め、俺の肩に凭れ掛かった。今にも眠ってしまいそうなエルの腰に腕を回し、倒れない様にその身体を支える。少し休むべきだとベッドに連れて行ってやりたいが、幾らエルが軽いとはいえ片腕にレイを抱いたままだと身体を支えるので精一杯だ。

「数十分だけでも寝たらどうだ。2人の事は、俺が見てるから」

 そう声を掛け、エルの身体を揺する。だが、彼女は一切の反応を示さず顔を上げようともしない。

「エル」

 何度声を掛けてみても同じだ。小さく唸りを上げたものの、やはり俺の肩に凭れたまま動こうとはしなかった。仕方なく、彼女の背を押して背後の椅子に座る様促す。
 倒れ込む様にその椅子に深く腰を掛け、テーブルの上に突っ伏した彼女はまるで糸を切られた人形の様だ。まだ座って数秒しか経過していないのに、彼女はもう寝息を立てている。余程疲れていたのだろう。
 手近な場所に畳まれていたブランケットを彼女の肩に掛け、なるべく音を立てない様に立ったままレイの身体を揺らす。

 普通なら、2人の子供の面倒を見ながら家事をするのは困難だろう。最初の内は1人で熟せたとしても、毎日その生活を繰り返しているうちに心身共に疲れ果て、家事にまで手が回らなくなってくるのではないか。
 しかしそんな事を一切感じさせない程、部屋の中は見渡す限り綺麗に掃除が行き届いている。

 レイを抱いたまま、僅かに料理の香りが漂う台所を覗き込んだ。先程迄エルが立っていた事を感じさせる台所には、一切手の抜かれていない料理が並べられている。それも、俺の好きな料理ばかり。

 これは全て、当たり前に熟せる事では決してない。1人の子供を相手にしているだけでも、精神を壊してしまう母親は多いというのに。況してや子供を持つには早すぎる年齢のエルが、これだけの事をたった1人で熟しているのかと思うと、胸が痛む思いだった。毎日家に帰る度にレイの泣き声を聞く事を、苦痛に感じている自分が情けなく感じてしまう程だ。

 テーブルに突っ伏し、寝息を立てているエルの髪を指先で梳く。
 今の彼女に、してやれる事とはなんだろうか。子供の世話や、家事を代わってやる事は前提として、特別な事は出来なくともせめて疲れた心を少しでも癒してやりたい。
 そう思いを巡らせながら、エルの愛らしい寝顔に口元を緩めた。
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