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XVII 歪な歌姫-II
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――開演時間まで残り3分。
ジャケットの内ポケットに手を入れ、指先に触れた小さな4つ折りの紙を取り出した。手元に視線を落とし、そっとその紙を開く。
“I look forward to seeing you in good shape tomorrow.《明日、貴方の格好良い姿が見れる事を楽しみにしています。》”
そう一言だけ書き示されたその紙は、昨晩テーブルに残されていた最愛の妻からの置手紙だ。
たったの数日だが、エルと殆ど会話が出来ておらず、恋しさからこの一言が書かれた手紙を今日1日肌身離さず持ち歩いていた。
その紙を丁寧にジャケットの内ポケットに戻し、席を立つ。
僅かに胃の痛みを感じながら、カーテンを捲り客席を覗いた。
人が入る前は広く感じられたホールが、圧迫感を感じる程に人で埋め尽くされている。その光景に、胃の痛みが主張する様に強くなった。
「――!」
ふと、ホールの出入り口付近に視線を遣った時、黒のローブに身を包んだ女性が立っているのが目に入った。普段と雰囲気が違うが、紛れも無くその女性は自身の妻である。
フードで顔を隠しながら辺りを見渡す怪しげなエルの姿に、心配を抱きつつも口元が緩む。
「――御友人でも見つけたんですか?」
突如聞こえた声に、びくりと大きく肩を揺らした。
自身に声を掛けたのは、本日の主役であるアリスだ。知らぬ間に隣に来ていた様で、彼女が俺と同じ様に客席を覗く。
その瞬間彼女の髪が顔に近づき、ふわりと百合の香りが鼻腔を抜けた。本来“良い香り”に分類されるであろう女性特有の香水の香りは、自身が最も苦手とするものである。エルから香る甘い匂いはまるで薬物の様に心を落ち着かせてくれるというのに、他人の、況しては女性の匂いは吐き気を催す程に苦手だった。
その香りから逃れる様に、1歩、2歩と後退り息を吐く。
「……別に」
「あら、そう? ……嬉しそうに客席を見ていたから気になっちゃって」
アリスの顔に、柔らかな笑みが浮かんだ。
真っ直ぐに俺を見つめているのに、俺では無い別の何かを見ている様な奇妙な彼女の視線。
アリスから顔を背け、客席のエルを一瞥した。
そわそわと落ち着かない様子の、挙動不審な彼女を見られる事など日常生活では殆ど無い。もう少しその姿を堪能したかったが、酷く居心地の悪いアリスの傍を離れるべく、名残惜しくもピアノの前に戻った。
開演まで残り1分。
照明が全て落とされ、何も見えない真っ暗な空間が広がる。
照明が落ちた後の、緊張感漂うこの静かな空気は今も昔も変わる事は無い。
フォーマルグローブを外し、深く息を吐いた。長い練習の所為で凝った指をゆっくりと揉み解しながら、開演を待つ。
――19時丁度、開演のブザーが鳴り響き、カーテンが上がった。
強い光が、ステージの中心を照らす。
アリスのみを照らすスポットライトは、元々ステージ全体を照らす予定だった。
しかし今回、ピアニストが急病で倒れた事で急遽演出が変更になったそうだ。スポットライトも、その変更になった演出の1つ。
スポットライトが当たる場所は、どうしても温度が上がる。その日の気温にもよるが、あまりの暑さに公演終了後倒れてしまう演奏家も居る位だ。
ステージの暑さが少しでも和らぐなら、ライトが当たらない方が断然良い。しかし、座席を取らずホールの後ろで立って公演を観ているエルからは、きっと俺の姿は見えないのだろう。
エルにピアノを演奏する自身の姿を見せるのは抵抗があったが、だからと言って全く見えないのは少々寂しく感じてしまう。
鍵盤に指を乗せ、初めの曲を奏でる。
ミスの無い完璧な演奏に、舞台袖で見ていたジャックが表情を緩ませた。この6日間、嫌という程何度も奏でた曲だ。間違える方が難しい。
――肩の力も抜け、指先も温まり充分余裕が出てきた頃合い。鍵盤から視線を外し、横目で客席を見遣った。
アリスに憧れの視線を向ける少女や、退屈そうにしている子供、険しい顔をしてアリスを見つめる老人など、上流階級の人間から労働者階級迄、客層は様々だ。
そして、ホールの後ろにぼんやりと浮かぶ人影。彼女が俺に気付き、控えめに手を振って見せた。
その姿に、自然と頬が緩む。
その後、一種の作業感覚で進めていた演奏も半分以上が過ぎ、1時間半のコンサートも残り30分となった。
1度のミスも許されない、気の張った演奏を1時間も休みなしで続けていると、疲労から演奏に荒さが出て指も段々と動かなくなってくる。
ステージの中心に立ち、1度も休まずに歌い続けるアリスには感心する。
プロ精神から疲労を表に出さない様にしているのか、それとも長時間のコンサートに慣れているのか。どちらにせよ、アリスは世界で認められるだけある歌手だという事が見ていてわかった。
今回エルが座席を取らなかったのは他の客との接触を極力控える為であったが、1時間以上も立ってみていると流石に疲れてくるだろう。彼女の事が気になり、ホールの後ろに目を遣った。指先に集中しながら、彼女の姿を探す。
ジャケットの内ポケットに手を入れ、指先に触れた小さな4つ折りの紙を取り出した。手元に視線を落とし、そっとその紙を開く。
“I look forward to seeing you in good shape tomorrow.《明日、貴方の格好良い姿が見れる事を楽しみにしています。》”
そう一言だけ書き示されたその紙は、昨晩テーブルに残されていた最愛の妻からの置手紙だ。
たったの数日だが、エルと殆ど会話が出来ておらず、恋しさからこの一言が書かれた手紙を今日1日肌身離さず持ち歩いていた。
その紙を丁寧にジャケットの内ポケットに戻し、席を立つ。
僅かに胃の痛みを感じながら、カーテンを捲り客席を覗いた。
人が入る前は広く感じられたホールが、圧迫感を感じる程に人で埋め尽くされている。その光景に、胃の痛みが主張する様に強くなった。
「――!」
ふと、ホールの出入り口付近に視線を遣った時、黒のローブに身を包んだ女性が立っているのが目に入った。普段と雰囲気が違うが、紛れも無くその女性は自身の妻である。
フードで顔を隠しながら辺りを見渡す怪しげなエルの姿に、心配を抱きつつも口元が緩む。
「――御友人でも見つけたんですか?」
突如聞こえた声に、びくりと大きく肩を揺らした。
自身に声を掛けたのは、本日の主役であるアリスだ。知らぬ間に隣に来ていた様で、彼女が俺と同じ様に客席を覗く。
その瞬間彼女の髪が顔に近づき、ふわりと百合の香りが鼻腔を抜けた。本来“良い香り”に分類されるであろう女性特有の香水の香りは、自身が最も苦手とするものである。エルから香る甘い匂いはまるで薬物の様に心を落ち着かせてくれるというのに、他人の、況しては女性の匂いは吐き気を催す程に苦手だった。
その香りから逃れる様に、1歩、2歩と後退り息を吐く。
「……別に」
「あら、そう? ……嬉しそうに客席を見ていたから気になっちゃって」
アリスの顔に、柔らかな笑みが浮かんだ。
真っ直ぐに俺を見つめているのに、俺では無い別の何かを見ている様な奇妙な彼女の視線。
アリスから顔を背け、客席のエルを一瞥した。
そわそわと落ち着かない様子の、挙動不審な彼女を見られる事など日常生活では殆ど無い。もう少しその姿を堪能したかったが、酷く居心地の悪いアリスの傍を離れるべく、名残惜しくもピアノの前に戻った。
開演まで残り1分。
照明が全て落とされ、何も見えない真っ暗な空間が広がる。
照明が落ちた後の、緊張感漂うこの静かな空気は今も昔も変わる事は無い。
フォーマルグローブを外し、深く息を吐いた。長い練習の所為で凝った指をゆっくりと揉み解しながら、開演を待つ。
――19時丁度、開演のブザーが鳴り響き、カーテンが上がった。
強い光が、ステージの中心を照らす。
アリスのみを照らすスポットライトは、元々ステージ全体を照らす予定だった。
しかし今回、ピアニストが急病で倒れた事で急遽演出が変更になったそうだ。スポットライトも、その変更になった演出の1つ。
スポットライトが当たる場所は、どうしても温度が上がる。その日の気温にもよるが、あまりの暑さに公演終了後倒れてしまう演奏家も居る位だ。
ステージの暑さが少しでも和らぐなら、ライトが当たらない方が断然良い。しかし、座席を取らずホールの後ろで立って公演を観ているエルからは、きっと俺の姿は見えないのだろう。
エルにピアノを演奏する自身の姿を見せるのは抵抗があったが、だからと言って全く見えないのは少々寂しく感じてしまう。
鍵盤に指を乗せ、初めの曲を奏でる。
ミスの無い完璧な演奏に、舞台袖で見ていたジャックが表情を緩ませた。この6日間、嫌という程何度も奏でた曲だ。間違える方が難しい。
――肩の力も抜け、指先も温まり充分余裕が出てきた頃合い。鍵盤から視線を外し、横目で客席を見遣った。
アリスに憧れの視線を向ける少女や、退屈そうにしている子供、険しい顔をしてアリスを見つめる老人など、上流階級の人間から労働者階級迄、客層は様々だ。
そして、ホールの後ろにぼんやりと浮かぶ人影。彼女が俺に気付き、控えめに手を振って見せた。
その姿に、自然と頬が緩む。
その後、一種の作業感覚で進めていた演奏も半分以上が過ぎ、1時間半のコンサートも残り30分となった。
1度のミスも許されない、気の張った演奏を1時間も休みなしで続けていると、疲労から演奏に荒さが出て指も段々と動かなくなってくる。
ステージの中心に立ち、1度も休まずに歌い続けるアリスには感心する。
プロ精神から疲労を表に出さない様にしているのか、それとも長時間のコンサートに慣れているのか。どちらにせよ、アリスは世界で認められるだけある歌手だという事が見ていてわかった。
今回エルが座席を取らなかったのは他の客との接触を極力控える為であったが、1時間以上も立ってみていると流石に疲れてくるだろう。彼女の事が気になり、ホールの後ろに目を遣った。指先に集中しながら、彼女の姿を探す。
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