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IV 元舞台女優の依頼者-III
しおりを挟む「――お待たせしてしまった様で、すみません」
開いた扉の先、目に入ったのは此方に背を向けソファに腰掛ける1人の女性の姿。緩やかにカールした長い髪は、昨晩と変わって丁寧に束ねられている。
気まずさを感じながらもその背に声を掛け、後ろ手で客室の扉を閉めた。
向かう合う様にソファに腰掛け、紅茶の乗ったトレーをテーブルに置く。
「こちらこそ、朝早くからすみません。こういうのは、早い方が良いと思って」
薄っすらと腫れの残るローズピンクの瞳に自身の姿を捉えた彼女が、疲労の混じった微笑を浮かべた。
その顔にくっきりと付くのは、継続的な暴力を思わせる痛々しい痣や切り傷。それを見るのは今回で3度目になるが、やはりいつ見ても慣れる事は無い。
彼女の顔を直視する事が出来ず、テーブルの上の紅茶に視線を落とす。
「これ、例の書類です」
此方に差し出す様にテーブルに置かれたのは、中心に十字の折り目が付いた1枚の紙。下方に記入された2人分の署名に、問題無く取引を終える事が出来たのだと悟る。
一見なんの変哲もないただの書類だが、これは取引において最も重要な物である。
取引をするのにあたって、必要な書類は全部で3つ。
まず初めに、依頼者各自が用意する、子供の年齢や性別等の要望や予算、条件等を書き示した依頼書。そして次に、適合した依頼者同士を面談させ、その人物と取引を開始する為の同意書。最後に、取引を終了させる為の取引完了確認書。
今回マリアが持参した書類というのが、最後の項目である、取引完了確認書だ。
その書類に、取引に立ち会った当事者3人の署名が集まった時点で、どんな問題が起ころうと取引は終了となる。
「……態々どうも、御足労お掛けしました」
素っ気なく返答しながらも、目立った問題が起こらなかった事に安堵の胸を撫で下ろす。
しかしその安堵も束の間、スタインフェルドの署名に大きな問題がある事に気付いた。
購買者の欄に書かれた、ローズ・スタインフェルドの文字。確かその人物は、スタインフェルド家の当主――ラルフ・スタインフェルドの令室だった筈だ。
契約者は当主であり、書類に必要なのは契約者の署名。当然、家族は対象者に含まれない。
「何か、問題でも……?」
「――いえ」
不安気に問うマリアに短い言葉で返答し、テーブルの上に出された書類を手に取った。
抑々、取引上で交わす書類は全て法的拘束力の無い物ばかりだ。取引内容が内容だけに、公正証書を作成する事も書類を公証役場に預ける事も出来ない。
それに、表上では当然取引なんてものは存在せず、貴族の寛大な心で貧困者を支援し、更には育てる事の出来なかった子供を養子として引き取る、という話が事実として扱われているのだ。この様な書類を世に出すという事は、その都合よく作り上げられた話の崩壊をも意味する。
それならいっその事、書類自体を失くしてしまえば良いのではないか。それは、過去に依頼者である貧困層の女性に言われた事だ。
確かに、法的拘束力の無い書類など、あっても無くてもどちらでも良いのかもしれない。しかし、それでも子供1人の命と大金が動く取引の為、書類を作成した後当事者3人の署名を集める事を義務付けていた。
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