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I プロローグ
しおりを挟む眠っている様でいて、眠っていない。夢を見ている様でいて、何も見ていない。心地よくも不快でもある微睡みの中、薄っすらと残る意識が現時刻を問う。
最後に時計を見たのは、テーブルに突っ伏し瞳を閉じる直前の事。その時は確か、16時頃だった筈だ。それから経過していたとしても、精々15分、20分程度だろう。瞳を開くのが億劫で、少し前の記憶を蘇えらせては現時刻の憶測を立てる。
だがそこで、ふととある事に気付いた。先程から眩しく感じていた筈の陽の光が、今は全く感じない。たったの20分そこらで、あれ程眩しかった陽が落ちるだろうか。
沸き上がる嫌な予感に、ゆっくりと瞳を開いた。
「――今、何時だ」
誰に問う訳でも無く呟き、辺りを見渡し壁時計を探す。そんな中視界に捉えたのは、自分から少し離れた先の1人掛けアームソファで、紅茶を片手に寛ぐマーシャの姿。
「もう、18時だけど」
此方を一瞥した彼女が、俺の独言に冷やかに返答する。それと同時に見つけた、意匠の凝られた壁時計。未だぼんやりとする頭で、その壁時計を見つめる。
壁時計が指すのは、マーシャの返答通り18時。もっと正確に言うと、あと数秒で18時5分になる。
自分が寝過ごしてしまった事に気付いたのは、それから10秒も後の事。慌ててソファから立ち上がり、足が縺れそうになりながらも洗面所へと駆け込んだ。
「今日用事あるって言っただろ! 時間分かってたなら起こせよ!」
髪を低い位置で一つに束ねながら、扉の外のホールに向かって怒鳴る。
マーシャは普段からお節介な程人を気に掛けるタイプで、俺の仕事も俺以上に把握している。普段であればきっと、予定の1時間前には俺を叩き起こしていた事だろう。
しかし数日前から、彼女はやけに今晩の予定に対して否定的な態度を見せていた。それもその筈、今日は依頼者同士で子供の受け渡しがされる日だ。
基本子供の受け渡しには、依頼者当人とブローカーが立ち会う事が必須とされている。だがそんな大切な日に、あろう事か今回の依頼者――ラルフ・スタインフェルドに、今晩開催されるパーティーへの同行を命じられてしまった。
勿論、子供の受け渡し日の変更は何度も提案した。しかし彼はどうしても今晩引き取りたいと言って聞かず、今回の取引のみ特例で当人不在の中受け渡しがされる事になったのだ。
“決まりを破る事は、トラブルを招く原因となる”と、今回の特例を一番反対していたのはマーシャだった。パーティーへの同行は断るべきだと、この数日間で何度言われた事か。
だが、彼女が今回の特例を反対する理由はそれだけじゃない。今回の依頼者の女性、マリア・ウィルソンは、マーシャの古くからの大切な友人なのだ。きっと、大切な友人だからこそ慎重に取引を行って欲しかったのだろう。
髪を結い終え、壁に埋め込まれた大きな鏡に視線を向けた。シャツのボタンを首元まで全て留め、緩めていたネクタイもきつく締め直す。
自分が纏ったスーツは決して安価な物では無いが、それでも貴族と比べれば遥かに劣る物だ。好奇の目に晒され、蔑まれる事は想定の範囲内だが、やはり考えるだけで気が滅入ってしまう。
鏡の中の自分から視線を逸らし、溜息を吐きつつ脱衣所を出た。ソファの背凭れに掛けていたジャケットを羽織り、ウェストコートの裾を軽く引っ張って着衣を整える。
「――セディが行けないなら、私がマリアちゃんに付き添いたかったな……」
支度をしていた自分を見て、マーシャがぽつりと呟いた。
「お前は今回の取引に関与してないだろ。それに、担当も違う」
「そう、だけどさ」
彼女が不安気な表情を隠す様に、紅茶の入ったカップに口を付ける。
マーシャの膝の上に乗せられているのは、俺が転寝(うたたね)をする前から読んでいた本だ。だがそれから2時間も経過しているというのに、ページは全く進んでいない。
余程今回の取引が不安なのか、彼女の視線は先程から何度も時計に向けられていた。
「そんなに不安なら、取引なんてしなければ良かっただろ。抑々、俺達の仕事は――」
「知人や友人の依頼は受けない、でしょ?」
俺の言葉を遮り、彼女が溜息交じりにその先を答える。
マーシャの言う通り、友人であるマリアの依頼を引き受けた時点で既に特例だ。子供の引き渡しに当人が立ち会わない事以前の問題である。
そして自身も、彼女と同じ様にその特例を反対した筈だ。
だが、緊急を要するマリアの現状とマーシャの切願により、その特例を認めざるを得なかった。
それなのに、マーシャは未だそれに不満を漏らす。
最早、子供の我儘だ。幾ら幼馴染といえど、これ以上の我儘には付き合って居られない。
何か言いたげな顔をしているマーシャを尻目に、玄関扉を開いた。そして彼女に何も告げぬまま、職場と称した屋敷を出る。
パーティー会場であるエインズワース家は、隣町という事もあり此処から少々距離がある。馬車を使えば短時間で楽に向かえるが、約束の時間を過ぎている今、その辻馬車を拾う時間すらも惜しく感じた。
歩く速度を上げ、角を曲がったタイミングで石畳を強く蹴る。
1ヵ月前に新調したばかりの革靴を、此処で潰してしまうには惜しい。だがそれも、全ては寝過ごしてしまった自分の責任だと、周囲の視線を痛い程に感じながら夜の街を駆けた。
――時は19世紀末、大英帝国ロンドン。
これは、自身の長い人生を綴った、絶対的且つ盲目的な“愛”の話。
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