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V 晩餐
III
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「旦那様、大声を出されるとお体に障ります。発作の兆候が出ておりますので、お薬を」
迷いの無い動作で銀のピッチャーを手に取り、ラルフの前に置かれているゴブレットに水を注ぐ。
よく見てみるとラルフは呼吸を荒くしていて、その息には喘鳴が混じっていた。そして苦しげに、左胸を押さえている。
ラルフはネルを睨みながらもそれ以上言葉を続ける事は無く、アイリーンに指示されるままにゴブレットに注がれた水を全て使って薬を飲み込む。
「――だいぶ遅くなってしまったな。では、食事にしよう」
怒りも発作も治まったのか、ラルフが咳払いをして私たちに笑いかけた。しかし、不可解な事が一つ。
席に着いているのは、私とレイ、そしてラルフだけだ。料理も揃っており、壁際に並ぶ使用人は役目を終えたと言わんばかりの顔をしている。だが先程、アイリーンは確かに、
『ラルフ・スタインフェルド様はお嬢様方の新しい御父君となられるお方です。それは奥様も同様となります』
と言った。その〝奥様〟と呼ばれた人物が、此処に居ない。
疑問を抱いたのは私だけでなく、向かいに座るレイも同じだったらしい。そわそわと落ち着かない様子で、レイがラルフに向かって「あの」と声を掛けた。
「奥様、は、いらっしゃらないんですか?」
レイのその言葉で、食堂に流れる空気が変わったのが分かった。殆どの使用人が我関せずといった顔をしているが、アイリーンが僅かに眉を顰める。そしてそれは、ラルフも同様だった。
「あ、えっと……」
異変に気付いたのか、ラルフを見つめるレイの顔から血の気が引いていく。
レイは人とコミュニケーションを取る事に長けているというのに、少々考え無しな所がある。言葉は多くの人の心に入りやすく、人の地雷を踏みやすいのだ。
ラルフは、レイを咎めるか、あるいはアイリーンを咎めるか。
「――あの」
考えるよりも先に、口が動いた。
「お母様、ですよね? そうよね、レイ?」
これが現在の私の、精一杯の助け舟だ。私は人とのコミュニケーションを得意としない為、これ以上の問題が起こった時にはもうレイを助けられない。
私を一瞥したレイが微かに顔を歪めるが、すぐさまぱっと顔に笑みを張り付け、「そう、そうですお母様」と取り繕った。
「あぁ、アイリーンから聞いていなかったんだね」
直ぐに訂正したのが功を成したか、ラルフが表情を緩める。
「二人のお母様は体調が優れないんだ。暫くの間、食事は三人でとろう。寂しいとは思うが、我慢してくれるね?」
ラルフの言葉に違和感を抱くが、とにかく大事にしたくないという思いが勝り、レイを顔を見合わせたのち頷いた。
「食事が冷めてしまうね。では」
ラルフが料理に手をつけたのを見て、自身も皿に視線を落とす。
料理の乗った皿を中心に、左側にフォークが5本、右側にナイフが3本、スプーンが1本、形状の違うナイフが1本。皿の奥にはサラダが盛られたクレセント皿が置かれ、水の注がれたゴブレットはクレセント皿の隣――ナイフの奥に置かれている。
細かなマナーは分からないが、少し前に読んだ小説に、貴族の晩餐シーンがあった。確か、セッティングされたカトラリーは外側から順番に使っていた筈だ。
恐る恐る手を出し、右手にナイフ、左手にフォークを――柄の部分を出さない様に握る。小説のシーンを反芻しながら料理を切り分け、口へ運んだ。ゆっくりと咀嚼しながら、周囲に視線を巡らせる。
私の食べ方を見て、誰も眉を顰めたりはしない。アイリーンも私を一瞥したものの、何も反応を示す事は無かった。
密かに安堵しながら、もう一口料理を口へ運ぶ。
「あっ……」
だがそんな安堵も束の間、レイの発した声と共に聞こえてきた金属音に、咀嚼していた口の動きが止まる。
「ご、ごめんなさい……」
どうやら、フォークを取り落としてしまったらしい。緊張故か、それとも慣れないテーブルマナーに戸惑ってしまったのかは分からない。だが、場の空気が一変した事だけははっきりと分かった。
透かさずアイリーンがレイに歩み寄り、落としたフォークを拾おうとする彼女を制す。そしてそっと床に落ちたフォークを拾い上げ、レイに何かを耳打ちした。此処からでは当然、何を言ったかは聞き取れなかったが、恐らく食事を続ける様にと促したのだろう。レイの視線が、再び皿に向く。
大事にならずに済みそうだと安堵の息を漏らすも、しかしラルフがそのミスを黙っている筈が無かった。
「これだから下民の娘は。あの男は娘にテーブルマナーすらも教えなかったのか」
溜息交じりに呟かれた言葉に、背筋が凍り付く。――あの男? 父の事だろうか。
まるで私たちを、最初からこの家の娘だったかの様に振る舞ったかと思えば、時折この様に〝下民〟という言葉を口にする。ラルフの精神状態や情緒に一抹の不安を抱きながらも、レイを庇う言葉は何一つ浮かばなかった。
「アイリーン」
ラルフが彼女の名前を呼ぶと、アイリーンが察し良くも「家庭教師を付け、レイお嬢様にはテーブルマナーの基礎を学んでいただきます」と言った。
食堂に、気まずい空気が流れる。レイは俯きがちに皿を見つめたままで食事を再開する事は無く、私は食事を続行するも、砂を食んでいる様でその味を感じる事は無かった。
迷いの無い動作で銀のピッチャーを手に取り、ラルフの前に置かれているゴブレットに水を注ぐ。
よく見てみるとラルフは呼吸を荒くしていて、その息には喘鳴が混じっていた。そして苦しげに、左胸を押さえている。
ラルフはネルを睨みながらもそれ以上言葉を続ける事は無く、アイリーンに指示されるままにゴブレットに注がれた水を全て使って薬を飲み込む。
「――だいぶ遅くなってしまったな。では、食事にしよう」
怒りも発作も治まったのか、ラルフが咳払いをして私たちに笑いかけた。しかし、不可解な事が一つ。
席に着いているのは、私とレイ、そしてラルフだけだ。料理も揃っており、壁際に並ぶ使用人は役目を終えたと言わんばかりの顔をしている。だが先程、アイリーンは確かに、
『ラルフ・スタインフェルド様はお嬢様方の新しい御父君となられるお方です。それは奥様も同様となります』
と言った。その〝奥様〟と呼ばれた人物が、此処に居ない。
疑問を抱いたのは私だけでなく、向かいに座るレイも同じだったらしい。そわそわと落ち着かない様子で、レイがラルフに向かって「あの」と声を掛けた。
「奥様、は、いらっしゃらないんですか?」
レイのその言葉で、食堂に流れる空気が変わったのが分かった。殆どの使用人が我関せずといった顔をしているが、アイリーンが僅かに眉を顰める。そしてそれは、ラルフも同様だった。
「あ、えっと……」
異変に気付いたのか、ラルフを見つめるレイの顔から血の気が引いていく。
レイは人とコミュニケーションを取る事に長けているというのに、少々考え無しな所がある。言葉は多くの人の心に入りやすく、人の地雷を踏みやすいのだ。
ラルフは、レイを咎めるか、あるいはアイリーンを咎めるか。
「――あの」
考えるよりも先に、口が動いた。
「お母様、ですよね? そうよね、レイ?」
これが現在の私の、精一杯の助け舟だ。私は人とのコミュニケーションを得意としない為、これ以上の問題が起こった時にはもうレイを助けられない。
私を一瞥したレイが微かに顔を歪めるが、すぐさまぱっと顔に笑みを張り付け、「そう、そうですお母様」と取り繕った。
「あぁ、アイリーンから聞いていなかったんだね」
直ぐに訂正したのが功を成したか、ラルフが表情を緩める。
「二人のお母様は体調が優れないんだ。暫くの間、食事は三人でとろう。寂しいとは思うが、我慢してくれるね?」
ラルフの言葉に違和感を抱くが、とにかく大事にしたくないという思いが勝り、レイを顔を見合わせたのち頷いた。
「食事が冷めてしまうね。では」
ラルフが料理に手をつけたのを見て、自身も皿に視線を落とす。
料理の乗った皿を中心に、左側にフォークが5本、右側にナイフが3本、スプーンが1本、形状の違うナイフが1本。皿の奥にはサラダが盛られたクレセント皿が置かれ、水の注がれたゴブレットはクレセント皿の隣――ナイフの奥に置かれている。
細かなマナーは分からないが、少し前に読んだ小説に、貴族の晩餐シーンがあった。確か、セッティングされたカトラリーは外側から順番に使っていた筈だ。
恐る恐る手を出し、右手にナイフ、左手にフォークを――柄の部分を出さない様に握る。小説のシーンを反芻しながら料理を切り分け、口へ運んだ。ゆっくりと咀嚼しながら、周囲に視線を巡らせる。
私の食べ方を見て、誰も眉を顰めたりはしない。アイリーンも私を一瞥したものの、何も反応を示す事は無かった。
密かに安堵しながら、もう一口料理を口へ運ぶ。
「あっ……」
だがそんな安堵も束の間、レイの発した声と共に聞こえてきた金属音に、咀嚼していた口の動きが止まる。
「ご、ごめんなさい……」
どうやら、フォークを取り落としてしまったらしい。緊張故か、それとも慣れないテーブルマナーに戸惑ってしまったのかは分からない。だが、場の空気が一変した事だけははっきりと分かった。
透かさずアイリーンがレイに歩み寄り、落としたフォークを拾おうとする彼女を制す。そしてそっと床に落ちたフォークを拾い上げ、レイに何かを耳打ちした。此処からでは当然、何を言ったかは聞き取れなかったが、恐らく食事を続ける様にと促したのだろう。レイの視線が、再び皿に向く。
大事にならずに済みそうだと安堵の息を漏らすも、しかしラルフがそのミスを黙っている筈が無かった。
「これだから下民の娘は。あの男は娘にテーブルマナーすらも教えなかったのか」
溜息交じりに呟かれた言葉に、背筋が凍り付く。――あの男? 父の事だろうか。
まるで私たちを、最初からこの家の娘だったかの様に振る舞ったかと思えば、時折この様に〝下民〟という言葉を口にする。ラルフの精神状態や情緒に一抹の不安を抱きながらも、レイを庇う言葉は何一つ浮かばなかった。
「アイリーン」
ラルフが彼女の名前を呼ぶと、アイリーンが察し良くも「家庭教師を付け、レイお嬢様にはテーブルマナーの基礎を学んでいただきます」と言った。
食堂に、気まずい空気が流れる。レイは俯きがちに皿を見つめたままで食事を再開する事は無く、私は食事を続行するも、砂を食んでいる様でその味を感じる事は無かった。
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